書類に必要事項を記入し、積まれた山の最上段に重ねる。
軽く瞬き。 目の疲れはまだ耐えられる範疇だ。
次の書類を取るために右手を伸ばす。
「……あれ」
空を切る右手。 脳が急速に思考速度を早める。
机の上を改めて俯瞰すると、右側に積まれていた書類の山は、ひとつの取りこぼしもなく左側に移動していた。
「お疲れ様。 ありがとう、ユウカ」
「お疲れ様です、先生」
「随分と集中しているみたいだったね?」
机の向かい側で同じく書類の山と格闘していた先生が、へにゃりと笑みを向けてくる。
終えたのは殆ど同じタイミングだったようだ。
何処か幼さを感じさせる素振りで、先生は大きく伸びをして、立ち上がる。
「コーヒーでも淹れるよ」
すっかり日の暮れたオフィスに、1人分の足音が響く。
手馴れた様子でコーヒーを淹れる先生の背中は、年齢の割にくたびれているように見える。
しばらくの間先生の後ろ姿を見ていると、コーヒーを淹れ終わった先生が、2つのマグカップを持ってこちらを振り向いた。
ぶつかる視線。
待っている間中ずっと先生を見ていたことを自覚し、思わず顔が熱くなった。
視線をずらしながら、暖かいコーヒーの入った私のマグカップを受け取る。
「おまたせ。 砂糖とミルクも持ってくるね」
「ありがとう、ございます」
人に好かれるような、純粋さを感じさせる笑顔。
街中で度々小さい子に囲まれているのを見かけるが、納得だ。 先生の柔らかい雰囲気には、周りにいる人を和ませる力がある。
顔の熱を冷ますため、そんな事を考えながら苦いコーヒーを啜る。
「大丈夫だよ」
「……え?」
微かに聞こえた先生の声に顔を上げる。 だけど、肝心の先生は、そんな私を見て首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ……。 今、何か仰いましたか?」
「ぉ、私が? 何も言ってないけれど」
「そう、ですか……」
机に置かれる砂糖の容器とコーヒー用のミルク。
私にとっての適量をコーヒーに入れると、苦かったコーヒーは格段に飲みやすくなった。
私に続いて砂糖とミルクをコーヒーに混ぜながら、先生が私の隣の椅子に腰を下ろす。
そして、湯気の立つコーヒーを1口飲み、顔を顰めた。
思わず吹き出しそうになる。
口元を隠しながら砂糖とミルクを差し出すと、先生は照れたように笑った。
かわいい。
「これ、思ったより苦かった。 コーヒーは好きだけど、苦いと飲めないんだ」
「知ってますよ。 出会ってから何ヶ月経ったと思っているんですか」
「……そ、っか。 ここに来て、もうだいぶ時間が経ったな……」
窓の外に視線を向ける先生。 つられて窓の外を見るが、オフィスの高さからだと、夜の闇と僅かな建物の明かりしか見えない。
それでも外を見つめる先生は、どこか、もっと遠くを見ているようだった。
「今日は手伝ってくれてありがとう。 助かったよ、ユウカ」
「いえ。 今日は当番でしたし、この程度は慣れたものですから」
繁忙期のミレニアムに比べ、シャーレの仕事は、キツくない訳では無いがまだまだ耐えられる範疇だ。
それに加えて先生が居るという事実があれば、積み重なった書類を片付けるくらいは問題無い。
まぁ、それはそれとして、先生は仕事を溜め込みすぎだとは思う。
「次はこんなに仕事を溜め込まないようにしてくださいね? 忙しいのは分かりますが……」
「善処します。 あんまりユウカに迷惑をかける訳にもいかないからね」
「別に迷惑ではないですけど……」
けど、の後に続く言葉が見つからず、誤魔化すようにマグカップに口をつける。
淹れてもらったコーヒーは既に半分を切っていた。
「これ以上遅くなるのもあれだし、飲み終わったら終わりにしようか」
同じくらい減っていたのだろう。 先生が、マグカップを両手で持ちながらそう言った。
時計を見ると、いつの間にか時刻は10時に近くなっていた。
「夜は危ないし、送っていこうか?」
「大丈夫です。 それに、危ないのは先生の方でしょう」
私を送った帰りはどうするんですか、と問いかければ、曖昧な苦笑いが返ってくる。 考えていなかったらしい。
だけど、先生の言うことも尤もだ。 あまり遅くなるのも良くないだろう。
名残惜しくはあるが、当番はまた回ってくる。
私の中のめんどくさい部分を纏めて、残ったコーヒーと一緒に飲み干した。
「ご馳走様でした。 私はそろそろお暇します」
「うん。 カップはぉ……私が洗っておくから」
「お願いします」
自分のマグカップを机に置き、先生が私へと手を伸ばす。
そこへ私が使っていたマグカップを差し出すと、先生がそれを掴んで……。
「あっ」
噛み合わせが悪い、と言うべきか。 互いの呼吸が僅かに合わず、マグカップがポロリと私と先生の手の間から落ちる。
咄嗟のことに反応が間に合わず、急いで手を伸ばす。
私より早く反応した先生も手を伸ばすが、ギリギリで間に合わずに──
「っと、危なかった……」
「……え?」
先生が、両手でマグカップを握っていた。
絶対に間に合わないと思ったはずだったのだけど……。 私の勘違いだったらしい。 思ったよりも疲れているのだろう。
「すみません、気が抜けていました」
謝罪をすると、先生は軽く手を振って応える。
「ううん、こっちこそ。 ユウカのマグカップが割れなくて良かった」
大事そうにマグカップを撫でる先生に、とても羞恥心が湧いた。 特段変な行為をしている訳でもないのに、何故か私が大事にされているみたいな……。
「わ、私もかえって休むので、先生も休んでくださいね!」
再び熱くなった頬を片手で抑えながら、要点だけ伝える。 そして、シャーレをでようと歩き始めたところで、先生から声がかかる。
「お疲れ様、ユウカ」
慈しむような優しい声。 それを聞いて、溢れていた羞恥心がちょっとだけ引いた。
落ち着くために深呼吸をして、くるりと体を半回転。 先生に向けて、軽くお辞儀をする。
「お疲れ様です、藤丸先生」
「…………あ」
街灯で照らされた道を帰っていると、ペンケースを持っていない事に気がついた。
幸い気づくのが早かったから、シャーレともまだ離れていない。
「……先生、まだ鍵閉めてないわよね?」
まだシャーレを出て数分だ。 既に閉まっていたなら、明日の朝にでも取りに来ればいい。
自分の集中力が落ちていることを実感しながら、来た道を戻る。
「失礼します。 先生、いらっしゃいますか?」
シャーレの中は施錠されておらず、出た時と同じままの様子。
先生の姿が見当たらないが、他の部屋にいるのだろうか。
ペンケースを取りについさっきまで座っていた席に近づく。 そこにはまだ、私のマグカップと、先生の飲みかけのコーヒーが残っていた。
「先生?」
離席中だとは思うけれど、念の為に先生を探す。 私のカップはともかく、コーヒーを飲みかけで外に行くとは思えない。
「せんせ……あっ」
呼び掛けの声を止める。 先生はソファーに寝そべり、ぐっすりと眠っていた。
丁寧にもクッションを頭の下に敷き、ブランケットまで着ている。
こっそり先生の寝顔の写真を撮る。 待ち受けにする勇気は無いが、時々見返すとしよう。
寝てしまった先生の代わりに机の上を片付けようと思い、ソファーを離れようとした時。
「……あれ」
一瞬、パンケーキの様な甘い匂いがした気がした。
今後
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メインストーリーも見たい
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今の短編集のままがいい