夜の闇に包まれた部屋の中、断続的に続く呻き声。
ベッドに寝ている男の額には汗が浮かび、黒いTシャツは肌に張り付いている。
Tシャツに短パンという普段は見ることの無いラフな姿。 そのシャツから伸びる腕には、無数の傷跡と注射痕が刻まれている。
苦悶の表情で胸元のシャツを掴む男は、まるで何かから逃げるように何度も寝返りをうつ。
「…………先生」
今日も、魘される先生を起こさなければ。
肩にそっと触れると、途端に、横たわっていた体が弾かれたように跳ねた。
「────ッ!」
ガバリと体を起こす先生。
きつく閉じられていた瞼は大きく見開かれていて、荒い呼吸を繰り返している。
そして、ゆっくりと周囲を見回して状況を呑み込むと、脱力したように大きく息を吐き出した。
「……ワカモ」
「はい。 あなた様のワカモです」
水差しからコップに水を注いで先生に手渡す。
先生は受け取った水を一息に飲み干し、シャツの裾で額の汗を拭った。
一瞬だけ見えた腹部にも傷跡。
「今何時?」
「深夜の3時です。 まだ眠られますか?」
「その前に、1度シャワーを浴びようかな」
ありがとうと言って、先生は私の頭を軽く撫でる。
先生のお役に立てるのならば、それが私の本望。
寝起きなのが原因か、それとも悪夢か。 どこか覚束無い足取りで部屋を出る先生の後に続いて、月光が僅かに照らす廊下を進む。
「今日はチナツが当番だから、あんまり心配かけないようにしないとね」
誰が見ても分かるくらいに無理をして笑う先生。
普段の明るく優しい雰囲気とは比べ物にならないくらい、今の先生は酷く弱々しい。
先生の言葉に何かを返そうとして、されど言葉が何も出てこなくて、ただ口を閉ざしてしまう。
そんな私を見て、先生は困ったように苦笑い。
「……ごめん。 いつも心配させちゃって」
「いいえ! あなた様が謝るような事は……!」
出来ることならば、先生を苦しめる全てを消し去りたい。
だけど、先生にとっては私も庇護対象の1人。 先生が抱えているものを打ち明けられる事は無い。
キヴォトスで先生を理解していると言えるのは、小鳥遊ホシノただ1人なのだから。
互いに口を閉ざしたまま廊下を進んで、目的地である脱衣場へとたどり着く。
「ワカモ、着替えをお願いしてもいい?」
「分かりました」
1人脱衣場へと入っていく先生へ背を向け、頼まれた着替えを取りに来た道を辿る。
偶然窓から見えた月は綺麗な満月。 月が綺麗なんて言葉を伝えるには、私は藤丸立香という人間を知らなさすぎた。
戻ってきた先生の自室は相変わらず簡素なもの。
シンプルなタンスの中から替えの洋服や下着を取り出す。
この作業も、今では何度目か分からない。
「……っ」
不意に、涙が1粒頬を伝う。 流れた涙がそのまま洋服に落ちそうになって、慌てて袖で拭う。
毎日のように悪夢に魘されているのに、それを隠して明るく振る舞う先生。 その姿を見れば見るほど、何も出来ない自分が恨めしい。
先生を助けたいという想いがどれだけ強くても、私が守れるのは先生の身体だけ。
丁寧に畳まれた衣類を重ねて、言われた通り脱衣場へと運ぶ。
浴室からはシャワー音が聞こえ、磨りガラス越しに人影が動いているのもぼんやりと分かる。
透けているようでボヤけている。 見えているのに見通せない。
その向こうには確かに、素顔の先生が居るのに。
この磨りガラスはまるで私と先生を隔てる壁だ。
「先生、お持ちしました」
「ありがとう。 その辺に置いておいて」
くぐもった声の返答。
ランドリーワゴンに着替えとバスタオルを用意し、脱衣場を出る。
「難儀なものだね」
「……また貴方ですか」
月明かりの差し込む廊下に佇む、花を纏った胡乱な男。
先生に私の存在がバレて以降、度々どこからともなく私の前に現れる不審な人物だ。
「そう警戒しないでくれたまえ。 ほら、僕たちは同じ覗き仲間だろう?」
「少なくとも私は、貴方を同類だと思ったことはありません」
「これは手厳しい」
暖簾に腕押しというか、この男には何を言っても通じないのは分かっている。
それに、先生を見守っていることを覗きと言われるのも心外だ。
「今の彼を見ていると、ちょっとだけ知り合いの王様を思い出してね。 自分の役目をこうも貫く姿を見せられると、少しばかり思うところがないでも無いのさ」
飄々とそんな事を宣う男。 本当にそう思っているのか、崩れない微笑みからは窺うことは出来ない。
「それで、今日は私に何か?」
「いや、なに。 定期的に君の様子を見ようと思っているだけだよ。 君には彼をしっかりと守って欲しいからね」
「そのような事、言われるまでもありません」
先生をお守りするのはわたしにとって当然のこと。
そしてそれは、一切が謎のこの男も例外では無い。
生憎、銃は持ち合わせていないが、ヘイローの無い人間程度なら問題は無いはずだ。
「うん、君のその反応、さては僕を全く信用していないね? 今日で会うのは4度目だというのに!」
「当然でしょう? 素性も分からない上、毎回無断で侵入するような人物を信用出来るとでも?」
「ははははは」
分かりやすく笑って誤魔化そうとする。 この男は、そういうところが信用出来ないと分からないのだろうか。
「おっといけない、興が乗って無駄話をしすぎた。 悪いが、今日はこれで失礼させてもらおう」
唐突に男が浴室の方を見て、通路の奥へと踵を返す。
まだ男の素性も、此処に侵入した方法も問いただせていない。
「はい? ちょ、ちょっと待ちなさい!」
「すまないね。 私も、余計な事をしすぎて炎に灼かれるのは避けたいのさ」
不愉快に感じるほど綺麗なウィンク。
今日こそは逃がすまいと手を伸ばし──
「っ!?」
意識が覚醒する。
元からそうであったかのように、通路には私以外に誰の姿も無い。
後ろを振り返る。
先生は脱衣場で髪を乾かしているらしい。 さっきまで聞こえていたシャワーの音に代わり、ドライヤーの音が聞こえる。
「先生」
「どうしたの?」
「以前からお伝えしていた不審な男が、ついさっきそこまで。 何か変わりありませんか?」
「あー、うん。 大丈夫だよ」
お風呂上がりで艶の戻った肌と、乾かす途中でぐしゃぐしゃの髪。 優しい顔立ちも相まって、今の先生はまるで同年代のよう。
謎の男が入り込んでいたことを伝えると、何とも言いづらそうに曖昧に頷いた。
「その男の人は……まぁ。 怪しいし、ろくでもない人だけど、でも悪い人じゃないから」
「先生がそう仰るのでしたら」
私にとって先生の言葉は何よりも重く、先生の考えを疑うなど以ての外。
先生があの男を危険では無いと明言した以上、次からはあからさまに警戒をする必要は無いだろう。
「着替えありがとうね」
壊れ物を扱う様にそっと頭を撫でられる。
初めて出会った日から、これは私の喜びのひとつ。
先生に撫でられるためなら、どんな事でも頑張れる。
「あなた様のお役に立つことが、私の喜びです」
軽く一礼をすると、先生は懐かしそうにフッと微笑む。
ドライヤーでしっかりと髪を乾かし終えた後。 自室へと戻りながら、先生は大きな欠伸をした。
「さて。 さっぱりしたし、もう一眠りしないと。 明日も忙しくなるだろうからね」
目覚めてすぐとは見違える程に元気を取り戻した先生。
伸びをしながら、確かな足取りで廊下を進んで行く。
「それに、次は魘されないだろうから」
「それなら良いのですが……」
ポツリと漏れる不安。
毎日殆ど眠れていないのを知っているから、先生の言葉に安心することが出来ない。
だけど、肝心の先生は朗らかな顔を崩さない。
「大丈夫。 今度はきっと、魔術師が何とかしてくれるよ」
「魔術師ですか?」
魔術師と聞いてさっきの胡散臭い男が脳裏に浮かんだ。 首を振ってかき消す。
「俺は信じてるからね、そういうの」
「でしたら私も信じてみます」
「2人で信じれば、きっと魔術師に届くよ」
月を眺める先生がなにを思っているのか、私には分からない。
ただ、居るか分からない魔術師よりも、私を信じてくれれば良いのにと思った。
数分も経たないうちに自室へと辿り着き、先生がベッドの中へと潜り込む。
ゆっくりと寝入る先生を見守っていると、先生が小さな声で呟いた。
「毎日ごめんね。 助かってる」
その言葉に思わず胸元を抑える。
ずっと溜め込んできたものが溢れそうになった。
「いいえ。 私は……っ」
私はあなた様の全てを助けたいのです。 だから、あなた様の抱えるものを、私にも背負わせてはくれませんか。
必死に本音を飲み込み、『普段のワカモ』の仮面を被る。
私は先生を困らせたい訳では無い。 嫌われたい訳では無い。
ただ、辛そうなお顔を見たくないだけ。
先生が望まないのなら深入りはしない。 私の身勝手な気持ちなど、捨ておくべき事柄なのだから。
「……おやすみなさいませ。 先生」
「おやすみ、ワカモ」
あなた様の優しさに、私の心は抉られていく。
「悪夢を見るのが怖いとか?」
「みんなが一緒にいるなら悪夢は見ないよ」
たとえ隣に居たとしても、姿は見えない。