そこをどけ、曇らせ特化スキルが通る。 作:Gallagher
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ぴかっとひかってまおうがきた
ぷくぷくとかわにしたいがうかんで
やがてからすがまいおりて
みんなみんなかげになった
百二十年前、高度600メートルから現れた『魔王』が聖エクリス王国を蹂躙した。一瞬にして14万人が物言わぬ骸と化し、国土の四分の一が瘴気の漂う生物が住めぬ『禁足地』と成り果てた。
だが『魔王』の姿について知る者は殆どいない。彼を直視した人間はすべてその場で即死した。そして王立図書館にも、『魔王』の容貌についての記述がある文献は残されていなかった。
しかし当たり前の日常が崩れ去った時、容赦なく飛び交うのは根拠のない流言飛語だ。事件の収拾に当たった聖女騎士団の誰かが言い出した「魔王は白髪の老人であった」ーーがいつの間にかこの世界の常識となった。
そんな世界で、ソフィア・ヌヴーは生まれた。この世の絶望と恐怖の象徴たる『魔王』と同じ、真っ白な髪と一緒に。
ソフィアの呪われた記憶は、ある夜の出来事から始まる。
その日の夜は新月で、宵闇が世界を支配していた。寝静まった家の中に突如として響いた物音に、ソフィアは目を覚ました。
泥棒が入ってきたのかもしれない。眠い目を擦りながら、ソフィアはベッドから起き上がった。
母親を呼びに行こう。
しかし寝室を出ると、扉のすぐ隣に母親が立っていたものだから、驚いた。
「どうして起きてるのよ……ソフィア」
「がたんって音がしたから、泥棒かと思ってーー」
言い終わるより先に、幼い少女では到底抗いようのない力で、ソフィアは押し倒された。咄嗟に付いた手があらぬ方向に曲がる。経験したこともない激痛がソフィアを襲った。悲鳴が喉を駆け上がり、目に熱い何かが込み上げてくる。
弟を亡くしたソフィアにとって、母親が世界のすべてだった。服を泥まみれにして帰って来ても、村の子どもたちと喧嘩しても、決して声は荒げずに諭し、最後は優しくハグをしてくれた母親が大好きだった。
だから信じられなかった。信じたく、なかった。
ソフィアは愛する母親に、首を締められていた。
「ママ……くるし、い」
「死ねっ!死ねっ!この悪魔!」
臨界に達した憤怒に血走った瞳は、今にも眼窩から飛び出しそうであった。母親がソフィアへと向ける視線は、もはや我が子に対するそれでは無かった。人間が持ち合わせる最も救いようのない感情ーー殺意に染まる、どす黒い眼光にソフィアは恐怖した。
「悪魔が人間のフリして楽しいのか!えぇ!?老婆みたいな……気持ちの悪い髪しやがって。お前さえ生まれて来なければっ!私はこんな狭い村を出て、いい暮らしが出来るはずだった!」
「や……めて、ママ」
「おお神よ……貴方は順番を間違えた!イスカではなくーー貴方は先にこの魔女を連れていくべきだった!」
酸素を失い、薄れゆく意識の中でソフィアは思った。
ーーああ、ママがくれた愛はぜんぶニセモノだったんだ。
少し考えれば分かるはずだった。弟を見殺しにした醜い白髪の私のことなんて、誰も愛してくれるわけないのに。
ソフィアは弟のことが好きだった。
弟は何をするにも雛鳥みたいにちょこちょこと後ろについて来て、簡単な炎魔法を見せてやると手を叩いて喜んだ。
「お姉ちゃんって魔法使いなの?」そう言って目をキラキラと輝かせる弟が、何よりも愛おしかった。
しかしそんな弟は森でキノコを採っていた時に、ソフィアの目の前で魔獣に噛み殺された。
ソフィアは
弟が褒めてくれた魔法を撃つことも、大人たちに助けを呼ぶことも叶わなかった。咀嚼される度に、絶叫と共によくわからないピンク色の肉塊へと変貌を遂げていく弟を見て、ソフィアの胸中をよぎったのは一つの思いだった。
ーー死ななくて、よかった。
「お前が……お前がイスカを殺したんだろ!?そうだ……きっとそうだ!お前のその呪われた髪の色が、森の中に魔獣を呼び寄せたんだ!」
「ごぇ……ん……ぁぃ」
朦朧とする意識の中で、ソフィアはせめて贖罪の言葉を呟いた。
それは母に対してではなく、あの日見殺しにした弟に対しての懺悔だった。一人生き残ったことに、腐臭が漂うほど醜悪極まりない喜びを感じた、呪われた自分への断罪であった。
しかしソフィアの内に宿る魔力は、宿主に訪れるであろう死を拒絶していた。ああ、なんと私は生に執着しているのだろうか。この後に及んで、まだ死にたくないと思っている。
唯一の肉親である母親に殺されかけていると言うのに、まだこの世界に存在したいと願っている。
『ーーお姉ちゃん、魔法使いなの?』
酸欠で霞む視界の隅で、何かが光った。漆黒の空を切り裂くように、白く尾を引きながら青白い光が落ちてくる。それは、生を渇望するソフィアの魔力が呼び寄せた『星』だった。
衝撃と共に、宵闇を閃光が貫く。
最期に、母親が遺した底知れぬ悪意を、ソフィアは生涯忘れることはないであろう。
「ーー地獄に堕ちろ、この魔女め」
黒焦げの肉片となった母親の骸を見下ろして、ソフィア・ヌヴーは『煌星の魔女』となった。
〇
ソフィアは
あの日の罪を償うため、守り抜くと決めた少年ーーイスカの目の前で、ソフィアは自らが垂れ流した血液と糞尿の海に沈んでいた。
【スキル】によって破壊された心臓に治癒魔法をかけようとするが、腹部に負った刺傷から魔力が刻々と失われていく。考えるまでもない。致命傷だった。
ソフィアは瞑目した。
不意打ちを許した時点で、この戦いは決着していたのだ。
「クソ……血を止めねえとッ」
この世の何よりも愛しい我が子の声がすぐ近くで聞こえ、ソフィアは目蓋を開ける。その身が薄汚い魔女の血に汚れることも厭わず、イスカは必死の形相で止血を試みていた。
ああ、ワタシが逝けばこの子はまた一人になってしまう。ソフィアの背中を焦燥が駆り立てた。しかし、どれだけ思考を巡らせても、この状況を打開する手段は無かった。
(どうして、動いてくれないの?ワタシまだ死んじゃ……いけないのに)
「ご……ぇん……さ、い」
喉の奥にこびり付いた血のせいで、もう掠れた呻き声しか出せない。魂が肉体を手放しかけているのだろうか。深淵に引きずり込もうと、眠気が絶え間なく襲いかかって来る。
けれど、ソフィアは震える手を伸ばした。
強がっているけれど、本当はとても寂しがり屋な彼へと。
柔らかな黒髪を撫でると、彼が好んで使う石鹸の香りがふわりと漂った。沢山の古傷と無駄のない筋肉に覆われた肉体を思い出して、ソフィアは弱々しく頬を緩める。
ああ、ワタシは救いようのない変態だ。我が子として育てたイスカに、母性とは違う愛情を抱いてしまった。
なんて罪深くて、呪われた女なのだろう。
あの子への罪滅ぼしとして拾った少年に、ソフィア・ヌヴーは恋をした。無邪気な笑顔の裏に秘められた気高い正義感と勇気が、大罪を背負う魔女には眩しかった。彼の子種を宿せば、この身に巣食う穢れが消えてくれる気がした。
(でも……よかった。今度は……ワタシで)
「に……ぇて……」
最期の瞬間、ソフィアを支配したのは安堵だった。
もう、愛する人の死を傍観し、一人生き残るという罪を犯さずに済む。そして、決して許されぬイスカへの『女』としての愛を言葉にすることなく、この世を去ることが出来る。
そのことに、ソフィアは心の底から安堵した。イスカが血を流す姿を見て、正気を保っていられる自身など無かった。だからこれで、いいのだ。これでいい。親殺しという大罪を背負った魔女が死ぬ。それでいい。
しかし、ソフィアは忘れていた。
『少年』が『男』へと変わる瞬間は、大切な人を守る時であると。
「
気が付けば、ソフィアの全身を苛んでいた苦痛は消え去っていた。
奇跡でも起こったのだろうか。信じられない気持ちでソフィアは起き上がり、腹部を抑えた。魔力の流れが、戻っている。致命傷であった心臓も、何事もなかったように拍動を再開していた。
「イスカ……いったい、これは」
不適な笑みを浮かべていたイスカの口から、つうっと、一筋の血が垂れた。それは予兆だった。あの日、ソフィアに訪れた厄災が再臨する合図だった。
「ソフィアの痛みは……俺の痛みだ。君の死は、俺が背負う」
「ちょっと……待って。どうして、イスカ?血がいっぱい出て、るよ……?」
「
「そんなっ……!?イ、イスカ……ワタシはいいんだっ……おねがいだ。スキルを解いてくれ。解かないと死んじゃうっ!!」
イスカの腹部から、勢いよく鮮血が飛び散る。同時に、イスカは左胸を押さえて苦悶の表情を浮かべ、バケツの中身をぶち撒けたような量の血を吐き出した。
どうしてどうしてどうしてどうして?
世界から音が消える。このままではイスカが、死ぬ。死んだら、二度と会えない。話すこともできない。抱き締めて愛を囁くことも、温もりを分かち合いながら眠りに落ちることも叶わない。
「芍薬の息吹よ、冥府への旅人をも癒してみせよ」
半ば無意識に、ソフィアはありったけの魔力を結集さえてイスカへと治癒魔法を放った。
切断された四肢すら完璧に再生させる、最高位の治癒魔法だ。この国で【第I種】に相当する治癒魔法を行使できる者はソフィアの他に『聖女』しかいない。
しかしその魔法を持ってしても、
「どうして、どうして傷が塞がらないの!?ねえイスカ……やめてよ。なんで目を閉じるの?ワタシを見てよっ!ねえ……ねえってば!」
ーーお姉ちゃん、またそうやって生き残るんだ
ーーどうせ心では、代わりに死んでくれて安心してるんでしょ?
ーーママを殺した咎人の分際で、誰かに愛して貰う権利があると思ってるの?
災厄が、ソフィアの背中に追い付いた。
「うぶっ……」
堪え切れず、ソフィアは嘔吐した。魔獣の口から滴る真っ赤な血、犬歯に引っかかった髪の毛、形容し難い悪臭を放つピンク色の臓物ーーあの日の記憶が鮮明に蘇る。
ああ……本当に……。
『ーー地獄に堕ちろ、この魔女め』
ワタシが、死ねばよかったのに。