その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第十三話:いつか儚き時に消ゆれども

 

 

 紅葉の季節が去った妖怪の山。

 あれほどに山一面を染め上げた紅蓮と黄金色は色褪せ、葉を落とした木々が肌寒そうに次なる季節を待っている。近づく冬の気配は人と妖怪たちを憂鬱にさせ一部の者―――冬の妖怪や妖精たち―――を活発化させていた。

 

 まさに晩秋、毎年繰り返されるとはいえ実りの時期を通りすぎた幻想郷はやはり物寂しい。肌寒い風の吹く中、妖怪の山の頂上にて一羽の老天狗が屋敷の縁側に座って酒を傾けていた。深い色合いの紫羽織がハタハタと秋風になびく。

 

 

「今宵は良い月よ。まことに独りで酒盛りをするのが惜しくなるほどに美しい月だわい」

 

 

 老天狗、天魔はなみなみと酒を注いだ酒器を口に運ぶ。月見酒とはまた風流なものだ、天狗の頂点に君臨する翁は深いシワの刻まれた顔を柔和に緩ませて澄みきった酒を飲み干していった。彼の手元には酒器が二組、用意してある。天魔は庭先で揺れるススキを見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

 

「独り酒はこの年の爺には寂しくてな。よければ積もる話をしながら共にどうだ、お主からも話があるのだろう?」

 

 

 ズルリ、と天魔の呼び掛けに応えるように空間が歪んだ。平然とした老天狗を見下ろすように現れたのはスキマ妖怪。八雲紫は表面上だけは薄い笑みを貼り付けて、あくまでも優雅に庭園へと舞い降りた。縁側に直接現れなかったのは靴を履いていたことに気をつかったからだ。当然の礼儀として作法は弁えている。

 

 

「夜分遅くに失礼いたします、天魔殿。数日ぶりですわね、おかわりないようで安心しましたわ」

「………周りに部下はおらぬよ。その気に障る敬語は無用だ、八雲」

「あら、それなら話は早い。さっさと本題を話し合って陰気な屋敷から退散するとするわ、天魔」

 

 

 前回の会談で被っていた偽りの仮面を脱ぎ捨てた両者。

 二人の大妖怪は滲み出る敵意を隠しもせずに酒器を手渡し受け取った。今更、酒が入ったところで話が円滑に進むような関係ではないのだが、何もないよりはマシだろう。天狗製の強い酒を紫は一息に飲み干した。毒味はしない、そんな稚拙な策を八雲紫に対して弄する阿呆だったのならば、とっくに天魔は墓の下だ。

 

 喉を焼くような熱さに古い友の瓢箪から出る酒を思い出す。チラリと紫は酒瓶に目をやると『小鬼殺し』と書かれているのを発見した。

 

 

「何が『小鬼殺し』よ、萃香に言いつけてあげましょうか?」

「まさか、我らの大将の一人を『小鬼』などと無礼な名でお呼びするはずがなかろうに。それは別の下等な鬼のことよ」

「さて、どうでしょうね。天狗ほど信用ならない妖怪はいないでしょう。表面上はへりくだっているようでいて、蛇のごとくに狡猾で獅子のごとくに勇猛な妖怪があなたたち。…………最近はそんな考えも変わってきたのだけれど」

「なんだ、お主が訪れた理由はやはりあの『忌み子』か。ならまずはワシから尋ねよう。わざわざアヤツを異変に巻き込んだ理由は何だ。西洋妖怪を成敗するだけならばお主と式神だけでも充分に足りることであろう、何故あの忌み子を巻き込んだ?」

 

 

 問いを発しておきながら、天魔は視線を合わせることなく月を眺めている。その瞳に八雲紫は映っていない、ここではない何処かを見つめるような空虚さがあった。相変わらず何を考えているのか読み取ることが難しい。しかし特にその様子を気に留めることもなく、紫もまた盃に揺れる月を眺めながら口を開く。

 

「此度の異変であの娘は『八雲』のために戦った。その褒賞としてあの娘は『八雲』の保護下に入りました。故にこれから先、天狗から彼女への必要以上の干渉を拒否しますわ」

「くかかっ、何とも酷い女よ。『八雲』に属したということは、あの娘は永遠に『山』に戻る機会を失うということ。それを本人の了承なしに決定するとはな。我ら天狗を狡猾と言うが、なかなかどうしてお主も同じ輩であろうに」

「どのみち、あの娘が山に戻ることは不可能なのでしょう? あなたを除いた大天狗たちの惨状、それを招いた者を内部で処分しなかったのが不思議なくらい。………このままはぐれ天狗でいるよりは私の下にいた方が刑香には安全な選択よ」

「確かにそれもそうよな。…………それにしても刑香か。白桃橋刑(しおき)の奴は今、そう名乗っておるのだったな。まあ、その方がいい。彼岸の連中に与えられたままの名よりは『鬼』の加護がある方がよっぽど、良い」

 

 

 そう口にしながら、天魔は空に浮かぶ月へと腕を伸ばす。どこか諦めたような表情で、届くはずのない夜空を照らす月へとシワだらけの手をかざした。まるで隠居間近の老人のようだった、その様子を見た紫は酒の進みを止める。千年前より、百年前よりもあまりに覇気の衰えた宿敵の姿に思うところがあったのかもしれない。

 

 友も宿敵も皆が自分一人を残して老いてゆく、それはとても虚しいものだ。そんなことにはもう慣れたはずなのに、八雲紫の胸の奥を流れるスキマ風は決して止むことはない。しばらく沈黙を貫いていた天魔がしわがれた声を紡ぐ。

 

 

「良かろう、ひとまずはお主にアレを任せよう。如何様にも致せ、あと百年か二百年程度しかアレには時間が残されてはおらぬだろうがな。せいぜい利用すれば良い」

「そう、ありがたく頂戴するわ」

 

 

 思ったより、刑香に残された寿命は長くないらしい。その事実を紫とて予想していなかったわけではない。しかし思いの外、今の知らせは紫の心を打ち鐘のごとく鳴らしていた。『八雲紫に刑香程度の妖怪は必要ない』、それは賢者としての紫にとっての話。しかし単なる八雲紫にとってなら刑香は弄りがいのある小鳥であって、霊夢を任せるほどに信頼している娘だ。

 

 その刑香に残されたのはわずかに二百年、それは霊夢にとっては充分な時間であっても八雲紫にとって瞬きのほどに短い時間。やはり自分は寂しいと感じているのだろう。何だか久しぶりに白玉楼に行きたい、唯一の死なぬ友に会いたくなった。

 

 

「さて、そちらの議題が済んだところで今度はこちらの本題と参ろうか。此度の我ら天狗よりの助力、よもや善意などとは思っておるまいな。その対価をいただこうか?」

 

 

 ニヤリと、しんみりした空気を一刀両断した意地の悪い笑みの老天狗。

 前言撤回だ、コイツはあまり変わっていない。見慣れた憎たらしい笑みに、思わず酒器を握り潰しそうになったのをギリギリで耐える。心を落ち着かせるために紫は三日前と同じようにもう一度、頭の中で天魔の顔面を蹴り飛ばした。

 

 

「先立って手を貸さぬ、と宣言しておきながら何とも押し付けがましい話ですこと。それに射命丸と姫海棠の両名は命令ではなく自らの意思で刑香の元へ駆けつけたのでしょう。それを天狗そのものの手柄にするのかしら?」

「部下の上げた手柄は組織の成果でもある。個々で動くお主のような妖怪には理解し難いであろうな。ともかく『恩』は返して貰おう」

「本当に欲深いわね、そんなに人里への干渉を強めたいのかしら。現代の幻想郷で『神隠し』を認める土壌はないわ、諦めなさいな」

「違うっ、ワシが頼みたいのはそんなことではない!」

 

 

 それは強い否定を込めた声色、天魔の感情に応じるかのように夜風が鳴いた。

 カサカサと落ち葉を巻き上げた旋風に紛れて、柑橘系の甘美な匂いがすることに紫は気づく。それは縁側の隅に植えられていた金木犀(キンモクセイ)の香りだった。そういえば、この老天狗の妻が好きだったと聞いたことがある。最愛の伴侶を亡くして幾千年、未だに天魔は妻の面影を求め続けているのだろう。何とも寂しい余生だ。

 

 そんな老天狗は渋い顔をして、吐き出すように次の言葉を紡ぐ。それは八雲紫にすら予想できなかった内容であった。

 

 

「西行寺の娘と渡りをつけて欲しい。あやつの『死を操る程度の能力』で大天狗たちを避死の呪縛から解放してもらいたいのだ」

「…………あなた、自分が何を言っているのか理解しているのかしら。それではまるで」

「そうだ、ワシはこう言っているのだ。『我が盟友たちを彼岸に送って欲しい』とな。このまま生ける屍と化していたところで、アレらに望むべき未来はないのだ。故にこれを機に妖怪としての最期を迎えさせる、アレらに『死』を与える」

 

 

 それは身の毛のよだつ決断だった。幻想郷のあらゆる妖怪の中で、仲間意識が飛び抜けて強い鴉天狗の親玉から発せられた『同胞殺し』の依頼。その結論に至るまでに一体どれほどの葛藤があったのだろうか、天魔は爪が食い込むほどに握り拳を固めている。

 刑香のせいではなく大天狗たちの自業自得にしろ、その能力が天狗組織に残していった爪痕は想像よりも大きいらしい。信じられない言葉を聞いたと、紫がわずかに硬直する。

 

 

「天魔、あなたはそれでいいのかしら? そんなことをすれば、あなたは…………」

「そうよな、ワシは千年来の盟友たちを一度に全て失うこととなる。しかし、それが盟友たちにとっての最善ならばワシは決断せねばなるまいよ。何より死神も匙を投げたのだ、もはや西行寺に頼る以外に道もない」

「………ならば私が述べることは何もない。白玉楼へと赴き当主に話をつけてあげるわ。但し条件を付けましょう。天魔、あなたが私の創る『新たな幻想郷』に協力することよ」

「何だ、こちらがお主にしか頼れないと見るや否や条件を足してきたか。やはりお主も油断ならぬ狡猾者ではないか。…………だが承知した、ワシもその案には賛同しよう」

 

 

 八雲紫の追加した要求をあっさりと飲んだ天魔は、精神的に参っているのだろう。間もなく盟友たちが去り、天魔以外に天狗組織のトップはいなくなる。そこから生み出されるであろう面倒事は老骨には少々堪えるに違いない。

 

 しかしながら、ここで同情するような生易しい感情は賢者同士においては不要だ。慰めの言葉の一つもなく、紫は酒器を置いて縁側から立ち上がる。カコンと、ししおどしが来客を見送るように静寂とした空間を揺らした。

 

 

「これにて今夜は御暇(おいとま)しますわ。また後日、今度は白玉楼の当主を交えて話しましょう」

「ああ、せいぜい月に迷い込まぬように気をつけて帰るがいい」

 

 

 視線を合わせることもなく、天魔はただただ酒を傾ける。そしてスキマが開き、紫はその中へと足を踏み入れた。お互いに必要な言葉は尽くした、もう話すことは残っていない。

 幾千年を越えた付き合いであろうとも政敵同士に余計な世間話は不要なのだ。紫のスキマが閉じようとする瞬間、紫へ聞こえるか聞こえないかのタイミングで天魔は口を開いた。

 

 

「あの忌み子を手駒にするのなら、彼岸の連中に気を付けろ。特に四季映姫はあの能力を快く思ってはおらん」

 

 

 既にスキマは閉じられており、紫からの返答はなかった。まあ、耳に届かなかったのなら、それはそれでいい。所詮は気まぐれなのだから、そのぐらいがちょうど良い。

 それにしても小腹が空いた、団子でも酒の肴にしようかと天魔は縁側から立ち上がる。そして戸棚を漁りに行く前にもう一杯と、酒瓶へと手を伸ばすと違和感を感じた。首をかしげて見てみると縁側に置かれていたのは酒器が一つだけ、これは八雲紫が使っていたものである。肝心の酒瓶が、ない。

 

 

「くかかっ、やられたわい。誠に油断も隙もない奴よな!」

 

 

 天魔は可笑しげに腹を抱えて笑う。

 ここまで見事にやられたのは久しぶりだ。月の戦いに舌先三寸で巻き込まれた時も酷い目に会ったものだったが、やはり八雲紫と関わるとロクなことがない。しかし、同時に自分をここまでコケにするのは八雲紫をおいて他にはいない。それが可笑くて堪らないから天魔は笑う。

 

 そんな彼の傍らでは金木犀(キンモクセイ)が、枝をサワサワと揺らしていた。懐かしい香りが月夜の闇に広がったような気がした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 冬が近いこともあり、寝坊した太陽がようやく地平線から顔を出しオレンジ色の光を地表に届ける朝焼けの時間。人里から離れた森、鴉天狗が住み着いてからは一時的に人の足が遠ざかっていた場所。しかし白い鴉天狗がほぼ無害で医者兼新聞記者を生業としていることが判明してからは、再び人里の人間がわりと頻繁に訪れる地となっている。

 

 そんな森にある廃れた神社の中で、刑香は小さな寝息を立てていた。左足には包帯が巻かれて、折れた翼には添え木があてがわれている。あれから三日、未だに白い鴉天狗の少女は眠り続けていた。傷よりも『能力』の使いすぎによる強制的な休眠状態、妖怪としての防衛本能が刑香の意識を奪っている。しかしそれも終わりのようだ。ようやく『能力』の余剰が回復したらしい。

 

 

「う、ん?」

「…………お、おはようございます」

 

 

 刑香が重たい瞼を開ける。

 すると目の前に射命丸文の顔があった。何というか近い、息が掛かりそうなくらいに近い。ちょうど刑香の顔を覗き込んでいたのか、おでこを合わせて熱を測っていたのかはわからないが近い。何故か固まっている親友に刑香は焦ることなく、言葉を投げ掛けることにした。

 

 

「…………夜這いの趣味があるなら、はたての方に行ってくれない?」

「生憎、そんな奇特な趣味は持ち合わせていません。三日三晩、寝ずに看病してくれた友人に対する第一声がソレというのは些か薄情ではありませんかね?」

「はいはい、ありがとうございました。感謝してるわ、射命丸さま」

「ならよろしい。………ふう、妙なタイミングで目を覚ますから柄にもなく焦ってしまいました。けれど、とりあえず熱は引いたみたいで安心しました」

 

 

 やはり熱を測っていたらしい。冗談はほどほどに文との軽いやり取りを済ませると、刑香は布団から起き上がる。まだ頭にはモヤが掛かったようにスッキリしないが、身体の方は問題なさそうだ。翼と左足以外の痛みは引いている。

 

 

「ていうか、あれから三日も経ったの?」

「だいたい三日です、お粥は食べられそうですか?」

 

 

 フランドールとの戦いの後、随分と長い時間を寝ていたらしい。だが、こうして無事に帰って来られたということは異変が紫の勝利に終わったことは間違いない。とりあえずは安心だ、ならば自分は傷を癒すことに専念すればいいだろう。そして食事を作ってくれるらしい文へと「ありがと」とお礼を言った。

 

 

「…………はたては帰ったの?」

「はたては巫女と一緒に川へ魚を取りに行きましたよ。今頃は葉団扇で竜巻よろしく川魚を巻き上げて、河童と一悶着起こしているかもしれませんね」

「また余計なことを吹き込んだんでしょ、アンタのせいで私やはたてが何度酷い目に会ったことか。………あれ、この服って?」

 

 

 気絶した時に身につけていた天狗装束ではなく、自分の衣服は寝間着になっていた。気を失っている間に着替えさせてくれたらしい、それに気づいたとたんに刑香は顔が熱くなるのを感じた。今さら照れるような関係ではないが、素肌やらを色々と見られたのは少しばかり恥ずかしい。

 チラリと伺ってみたところ、親友は背を向けてお粥を作っていたので助かった。こんな反応を見られたら絶対にからかって来るに決まっている、一時的な対処法として刑香は顔を隠そうと布団に潜り込んだ。

 

 

「それにしても、相変わらず細い身体ですねぇ。成長すべきところが全く成長してません。肌は相変わらず綺麗ですけど、ぺったんこ過ぎるのは色々と心配です」

「…………いつも思うんだけど、アンタは背中に目玉でも付いてるの?」

 

 

 どうやったのかは不明だが、文は刑香の反応をしっかりと察知していたらしい。そうでないなら、このタイミングで身体の話を切り出すはずがない。ひょこり、と布団から頭を出した刑香が勘が鋭すぎる親友へと呆れたような表情をした。

 

 

「ふふ、すみません。そろそろ刑香が寝間着に気づくだろうなぁ、と思っていたので」

「それって全てはアンタの予想通りだった、ってことよね。いつも通りとはいえ何だか釈然としないわ」

「まあまあ、千年前から私たちの関係はこんな感じだったじゃないですか。刑香もはたても弄ると楽しいので退屈しません、いやはや私は良い友を持ちました。おかげさまで楽しい思い出ばかりです」

「私の方は、はたてと一緒にアンタを追いかけ回す記憶ばっかりだけどね。ピクニックに行った時は特に」

「ふふ、そんなこともありましたね」

 

 

 他愛ない会話に興じながらもテキパキとネギを刻んでいく文。かまどにはパチパチと火が灯されていた。薪を糧に燃え上がる真っ赤な炎は料理にちょうど良い大きさだ。『風を操る程度の能力』で調整しているのだろう、便利な力だと刑香は思う。

 片手間に刑香をからかいながら手際よく準備を進める文。しかしお米を鍋に投入したところで、ここまで快活だったその声が少しだけ曇る。

 

 

「話を戻しますが、相変わらず刑香の身体が華奢過ぎるのは事実です。………吸血鬼の屋敷から運び出した時だって、あんまりに軽かったから驚きましたよ。ちゃんとご飯は食べてますか?」

「アンタは私の保護者か………心配しなくても一日二食きちんと食べてるわよ」

「今時、だいたいの人間は三食食べてますよ。江戸の世だってそうだったでしょうに、何でまたそんなに清貧な生活を送ってるんですか」

 

 

 半分心配、半分呆れといった様子の文。

 そんな彼女は徐々に沸いてきた鍋へ茶袋を投入する。木綿の袋に入れたお茶の葉と共に炊き上げる茶粥、お茶の香りと米の味がとても良い一品である。何でも平安の世から伝わるものらしい、あとは梅干しを加えたら完成だ。

 

 

「ん、いい匂い。………一日二食については仕方ないわ、それ以上は身体が受け付けないんだから。以前はそうでもなかったけど、ここ数十年は大体そんな感じだって文も知ってるでしょ」

「そう、でしたね。私としたことが忘却していました」

 

 

 文は別にそのことを忘れていた訳ではない。ただ心の片隅に追いやっていて、気がつかなかっただけだ。きっと刑香は自分より長く生きられない、その酷く冷たい事実が疎ましかったから忘れたふりをしていたのだ。

 人間から見るのなら自分たちは千年を生きた妖怪だ、もう充分な時を過ごしたように思われるかもしれない。然れど鴉天狗にとってはたった千年、まだまだ自分たちは若鳥でありこれからなのだ。ぐっ、と文の視線が鋭くなる。

 

 

「一つ提案があるのですが、聞いてもらえますか?」

「改まってどうしたのよ。もちろんいいけど?」

 

 

 何かを決意したような文の声色に、怪訝な表情を浮かべた刑香が向き直る。相変わらず背中を見せている文の表情は伺えない。しかし何か言いにくいことを話す時に文は、顔を見せない癖があるのを刑香は知っている。

 

 

「山や人里から離れて、昔みたいに三人でのんびりと過ごしませんか?」

「またその話? 文だけならともかく、はたてや私は元々戦闘部隊じゃないのよ。確実に精鋭どもから逃げ切れる保証があるのはアンタだけ、しかも幻想郷の何処に天狗の目の届かない場所があるっていうのよ。だから無理でしょう」

 

 

 それは三人での逃避行の提案だった。

 通常ならば驚愕するはずの内容にも刑香は顔色一つ変えずに応答した。何となく文の話し出す内容は読めていた、この話は別にこれが初めてという訳ではないからだ。刑香が山から追放されることが決まった時も似たような会話を二人はしている。

 そして当然、その時も刑香は文の申し出を断っている。裏切りを許さない天狗組織を許しもなく抜けるなど、悲惨な未来しかありえない。むしろ追放されて未だに安穏とした暮らしをしている刑香が特例なのだ。しかし文とて何の考えもなくこんな話をしているわけではない。

 

 

「地上との不可侵の取り決めがされた『地底』ならば追っ手も来ないでしょう。そこに逃げ込むことができれば、きっと何とかなります。私が何とかします」

「…………『旧地獄』に行くっていうの? それこそダメよ、危険すぎる。あそこは妖怪の天敵や怪物がいるって噂なのよ。だいたい文とはたては組織にいた方がいいに決まってるでしょうが。ありがたく気持ちだけ貰っとくわ」

 

 

 刑香はひらひらと手を振って文の提案を否決する。しがらみは多いが、組織というのは逆らわなければ居心地は悪くないものだ。特に安定した生活を続けるためには属していた方がいいに決まっている。

 それが文とはたてにとっての最善の選択だ、故に刑香は親友の申し出を受け入れることはない。そんな刑香へと文の声に素の感情が入り交じる。

 

 

「いいじゃないですか、百年や二百年くらいワガママを通しても。どうせ私やはたては千年も二千年も時間が有り余っているんです。刑香に残された時間を過ごすくらいは問題ありません」

「地底世界には『鬼』もいるらしいじゃないの、そんなところに飛んで行ったら三人揃って鳥鍋にされるわ。…………だいたい、私は二百年そこらで彼岸に渡るつもりはないから安心しなさいよ」

 

 

 ぎゅっと布団を握りしめる刑香。

 人間と同じように天狗は群れで生きている妖怪だ。本当は独りだと不安で仕方ないくせに強がりばかり、とそんな友の強情さに文は呆れる。でも刑香らしい答えだった、本当に彼女らしい。

 そんな変わらない親友に心のどこかで安心を覚えながら、文は出来上がったお粥を持って行く。布団の横にお盆を置き、白黒の鴉天狗たちは向かい合う。

 

 

「確かに私は心配しすぎたかもしれませんね。いやはや姉として可愛い妹分のことはいつまでも気になってしまうのですよ」

「誰がアンタの妹よ、本当に文は調子がいいんだから………でも心配してくれてありがとう、文」

「どういたしまして」

 

 

 この話はここで終わりにしよう、刑香と文は声に出さずに合意した。文としては、今朝にスキマ妖怪から聞かされた事実を刑香へ確かめたいと思っている。しかしそれを尋ねられることを刑香は望まない。ならもういいのだ。残り時間は百年以上ある、焦る必要はどこにもない。

 すると外から羽ばたき音と賑やかな話声が聞こえて来た。どうやら二人が帰って来たらしい。ガラリと扉が開き、茶髪のツインテールの鴉天狗と幼い巫女が飛び込んできた。怒号と共に。

 

 

「文ぁぁあ!! アンタ、『河童に許可は取ったから、葉団扇を使っても大丈夫です』って言ったでしょうがっ。その言葉を信じて竜巻を起こしたら河童が攻撃してきたじゃないのっ。天狗が河童に襲われるなんて前代未聞よ、このバカ鴉!」

「そうよっ。私まで川に沈められそうになったんだからね! ………あっ刑香、目が覚めたの!?」

 

 

 刑香が起き上がっていることに気づき、元気よく駆けてくる霊夢。びしょびしょに濡れた巫女服のままで刑香の胸へと飛び込んだ。体温の低い刑香の身体へと温かさと湿っぽさが伝わってくる。くすぐったい感情を誤魔化すために刑香が霊夢の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

 

「おはようっ、刑香!」

「ん、おはよう霊夢。翼に触れるのはやめなさいよ?」

「おやおや、仲が良いですねぇ」

「ほんとにね」

 

 

 刑香が見上げると、文とはたてがニヤニヤ笑っていた。喧嘩はどうしたと、はたてを睨んでみるが微笑ましい顔をされたので視線を反らす。

 その頬はやはり赤かった。

 

 

 

 


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