その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第十七話:人間と妖怪と

 

 

 先代巫女が亡くなった日から一ヶ月後。

 透明に冷えきった冬空の下、裸になった木々が身を震わせ枝を鳴らす。そんな凍える幻想郷、博麗神社の境内で一本歯下駄が凍りついた水溜まりを踏み締めた。

 

 パキパキとした心地よい音が鳴り響き、白い鴉天狗の少女は何気ない様子で砕けた水溜まりを見下ろしていた。蜘蛛の巣に似た模様を刻んだソレは本格的な冬の訪れを告げている。もう、こんなに寒い時期になったのかと刑香は少し憂鬱になる。自分の住居であるボロ屋はスキマ風が酷いのだ。毎年のことなのだが、もう少しマシな物件はないのかと思う。

 

 

「そろそろ今年も暖を用意しておかないと不味いかもね、天狗が風邪をひくなんて笑い者だし。…………いや、ひいたことあるけど」

 

 

 子供の頃、親友たち(主犯は文)の悪ふざけで真冬の川に落とされた記憶を思い出す。あの時は脚と翼が同時に痙攣して川底まで沈んだはずだ。懐かしい感覚も甦り、身体が震えてくる。

 いくら天狗とはいえ寒いものは寒いし、風邪をひく時はひく。しかし幼少時の思い出はともかく、ひとまずは現在の住居を何とかしなくては寝ている間に凍りつきそうだ。

 

 

「まあ、それは後でどうにかするとして今は…………よっと」

 

 

 ばさり、と翼を広げて神社の屋根へと飛び乗った。すると深く積もった雪に一本葉下駄が沈み込む、思わず脚を取られてしまうほどに雪が積もっていた。このままだと神社は重みに耐えかねて倒壊してしまうかもしれない。それでは困るのだ、ちなみに困るのは刑香ではなく持ち主の霊夢だったりする。

 

 

「こんな状態になるまで放置した上で私に押し付けるなんて…………仕方ないわね、別に私はいいんだけど」

 

 

 慎重に目標を定めて葉団扇を一閃させる。それに合わせて渦巻く大気が巻き起こり、屋根から雪を掬い上げるように吹き飛ばした。空中に投げ出された雪はサラサラと霧吹きを放ったように境内の空気を白く染めていく。結晶が日の光を受けて輝きを放つ光景が美しい。

 

 

「よし、かなり微調整ができるようになってきたわ。ムカデの時はやり過ぎたけど、これなら今後はもっと手加減もできそうね。紫や霊夢に頼まれなかったら妖怪退治なんて絶対にしないけど」

 

 

 肩に付いた雪を払い落として葉団扇を腰に下げ直す。

 先代巫女が亡くなり、霊夢が『博麗の巫女』となってから早いもので一ヵ月。それから刑香は週に二度だけ訪れて、霊夢の様子を見に来ている。回数的には少ないが、妖怪退治の巫女と退治される側の妖怪という関係である以上はこれくらいが丁度良いはずだと考えている。

 

 もう、彼女は単なる幼い子供ではないのだから。

 

 そのことを少しだけ寂しく感じながら神社の中へ入ると、建物の主が炬燵で丸くなっていた。大きなリボンで黒髪を纏めた紅白の巫女、『博麗霊夢』は刑香に気がつくと眠そうな眼を擦りながら頭だけをそちらに向ける。ふわふわした雰囲気から察するに、半分寝ぼけているようだ。

 

 

「ちょうどよかった刑香ぁ、私ね羽毛の枕が欲しいの。ふわふわで真っ白で、落ち着く匂いがするやつ。だって紫は持ってるのに私が持ってないのは不公平じゃない?」

「何で紫がそんなものを持ってるのよ!? …………まあ、それは春になったら問いただすとして霊夢は狐毛のマフラーで我慢しなさいよ。私の翼と違って、藍の尻尾は九本もあるんだから一本くらい剥げても問題ないわ。きっと最高の逸品ができるわよ?」

 

 

 今頃はぐっすりと冬眠しているであろう八雲紫。その使用している枕には刑香の羽が使われているらしい。その事実は白い鴉天狗にとっては寝耳に水であり、霊夢にとっては周知のことであったらしい。恐らく吸血鬼異変で落ちた羽を回収したのだろうが、じっくりと話をする必要がありそうだ。

 

 とりあえず今は沸き上がる感情を胸にしまい込み、刑香も炬燵へと両脚を突っ込んだ。中に炉が置かれた掘り炬燵、優しい熱を放つ炭火はじわじわと冷えきった脚を温めてくれる。ふぅ、と刑香は気持ち良さそうにため息をついた。ぼんやりとしていると、ゆらゆらと霊夢が隣へと移動して来た。

 

 

「マフラーは頼んでみたわ。でもそしたら藍が『私の尻尾は紫様の所有物だから、紫様に許可を取らないと駄目だ』って言ったのよ。だから春になったら紫に話してみる。きっと春になったら最高のマフラーが出来るわ、とっても楽しみ…………ふあぁっ、眠い」

「春になったらなんて言うあたりが、流石は藍かもね」

「何が?」

「こっちの話よ、こっちの話」

 

 

 藍の主人である紫が冬眠から目覚めるのは春、つまり梅や桜の花が美しい暖かな季節である。その頃には冬の防寒具を持つ必要はなくなる、そうなれば霊夢も狐毛のマフラーへの興味を無くして約束を忘れているだろう。故に、流石は藍だと刑香は感心していた。文字通りの子供騙しではあるが、こういった些事にも国を傾けた大妖怪の頭脳は伊達でないらしい。

 

 

「それにしても弛み過ぎなんじゃないの、霊夢。もう少ししっかりしなさいよ、あんたは博麗の巫女になったんでしょ?」

 

 

 初めて『四季桃月報』の取材へ一緒に出掛けた時は、あんなにも博麗の巫女になることを不安がっていたはずだ。あの頃と比べるなら今の霊夢は気を抜きすぎているように感じられた。これは巫女としてどうなのだろうかと刑香としては思わなくもない。

 

 

「えー、私は正式に『博麗』になったわけじゃないよ。春になったら継承式をするから、それまでは半人前の扱い。妖怪退治もしなくていいって藍から言われてるし、ぐーたら過ごしてもいいじゃない。そもそもやることないんだし」

「う、そう反論されると何も言えないわね。異変が解決してからは妖怪も大人しくなったから人里も平和だし。…………冬眠している紫はともかく、藍はどうしてるの?」

「忙しそうに飛び回ってるみたい、天狗や吸血鬼と話し合いをしなきゃいけないんだって。みんなで『とある勢力』を私の継承式に参列させるためとか、何とか」

「『八雲』に『天狗』、おまけに『紅魔館』が連名で呼び出そうとしている勢力? そんな大層な連中はこの地上には存在しないはずだけど」

 

 

 最も高きより幻想郷を見渡す鴉天狗たち。

 彼らの目と鼻が届かぬ場所はこの地上には存在しない。神出鬼没が代名詞である八雲紫の住居すらも、おおよその場所が天狗組織には特定されているというのが現状だ。つまりは天狗たちほど幻想郷の事情に通じている者はいないのだ。

 なので刑香も鴉天狗の端くれとして、幻想郷の勢力図は頭に入っている。一年ほど前、初対面の紫に対して名前と能力の断片だけで即座に『妖怪の賢者』と判断できたのも天狗としての知識ゆえだ。それ故に、刑香の知らない勢力があるというのはおかしい。

 

 

「それが何なのか藍も教えてくれなかったわ。刑香が聞けばいいんじゃない?」

「何だか嫌な予感がするから尋ねたくないのよ。…………私に面倒事を持ってくる紫は寝てるし大丈夫だと思うけど」

 

 

 炬燵に頬杖をつきながら思いを巡らせる。果たして藍たちが交渉を持ちかけようとしている相手はどこなのか。自分が知らない以上は少なくとも地上の勢力ではないはずだ、ならば『天界』か『彼岸』であろうか、しかしこの二つは地上とは遠すぎる。わざわざ霊夢の継承式に呼び寄せる相手だとは考えにくい。ならばと様々な候補を頭の中で検討しては消していく。

 

 

「うーん、藍たちが呼び寄せようとしているのは一体…………」

「ねぇ、刑香。難しい話は置いとこうよ。悩むくらいなら藍に尋ねた方が早いし、それに多分だけど今日明日に何かが起こることはないと思う」

「…………霊夢の直感がそう言っているなら、この件はここまでにしましょうか。なら次は、どうやって今年の冬を私が乗り切るかについてでも話してみる?」

「ぷっ、何よそれ」

 

 

 不意に掛けられた霊夢の声によって刑香は現実に戻された。どうやら思考に沈んでいたらしい。退屈そうに頬を膨らませていた幼い巫女を見て、とりあえず刑香は話題を変えようと試みた。

 

 

「だったらあんなボロ屋は捨ててさ、刑香もここに住もうよ。二人くらいなら暮らせるだけのスペースもあるし。…………ねえ、そうしよう?」

「それは、つまり家事当番を分担したいってこと? いくらなんでも、巫女が妖怪に洗濯や料理を押しつけるのはどうかと思うわよ。さっきの雪かきだって、本当は霊夢がしないといけないことなんだからね?」

「ちーがーうー! 刑香は私を何だと思っているの。雪かきは押し付けたけど、私はそれ以上の怠け者じゃないんだからっ。…………もう、誤魔化さないで答えてよ。私とここで一緒に暮らさない?」

「…………ありがと、その気持ちだけ受け取っておくわ。でも神社みたいな神域には妖怪を払う力が満ちている、だから私がここに住むのは無理なのよ。私の住居みたいに信仰が落ち込んだ場所なら平気なんだけどね」

「…………そう、なんだ」

 

 

 しゅん、と霊夢は落ち込んでしまった。

 ひとりぼっちで人里離れた神社に住まうことに、まだ心細さを感じているのだろう。炊事や掃除は一人でできるし、力のある巫女である霊夢は妖怪に襲われたとしても簡単に追い払える。巫女として霊夢は一人前だ。

 しかし、まだ幼さの残る彼女は「寂しさ」を訴える自分の心を御しきれていない。

 

 

「ねえ、霊夢」

「…………」

「ねえってば」

 

 

 さっきの提案は霊夢なりに精一杯の勇気を出したものだったのだろう。それを断られた巫女は、落ち込んで無口になってしまった。何度呼び掛けても反応をしてくれない。ならば、と刑香は霊夢が喜ぶであろう提案をすることにした。

 

 

「これから人里へ遊びに行かない?」

「…………………えっ、本当に!?」

 

 

 途端に霊夢は表情を明るくする。そんな様子を眺めながら、ずいぶんと人間に対して甘くなったものだと刑香は自分自身へ大いに呆れていた。

 

 妖怪と人間は同じ時間を生きられない、それなのに自分は霊夢に近づきすぎた。たった一年で正しい『距離感』を見失う程に心を許してしまった。いつの日にか別れの瞬間が来た時に、果たして自分はどういった顔をしているのだろう。ふと、親友を思い出す。

 

 

「ああ、そうか。あの時の文もこんな気持ちだったのか。私と別れることを恐れてくれていたから、残りの時間を地底で過ごそうなんて…………本当にこういうのは難儀な感情よね」

「えっと、何の話?」

「何でもないわ、早く行きましょうか」

 

 

 答えの出ないであろう問いを振り払い、白い鴉天狗は人里へと飛んだ。今日は空を漂う雲が厚そうだ。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 人里からも雄大な姿を見せる『妖怪の山』。そこは天狗、河童を始めとした様々な妖怪たちの住まう霊峰である。その山頂には天狗たちが居を構える集落があると人里には伝えられている。

 しかし天狗の集落に辿り着いた人間など、過去に一人も存在しない。それなのに話だけは存在するという不気味な矛盾を指摘する者は人里には誰もいない。全ては天狗たちの思惑なのだと他の妖怪たちは噂する。

 

 

 霊夢と刑香が人里巡りをしているのと同時刻。

 妖怪の山に存在する天狗の集落、その中心に建つ大きな屋敷の周りを天狗たちが緊張した面持ちで警護に当たっていた。そこは平安の屋敷をモデルにした建築だった。外郭である塀と堀を抱えて、幾重もの門を通り抜けると至る本殿という広大な造り。その威風は幻想郷屈指の勢力を誇る天狗たちの総本山に相応しい。

 

 

 嗅覚に優れた白狼天狗は地上を、風を聴く鴉天狗たちは上空を固める。天狗達からは妖精の一匹すら通さないという張りつめた雰囲気が漂っていた。それもそのはずで現在、彼らが護る屋敷では天狗の長老が会談を行っているのだ。もしその顔に泥を塗ってしまえば、自分たちの首が飛んでしまうかもしれない。それは御免であると、彼らはいつも以上に気合いを入れて領域を守護しているのだ。

 

 そんな厳戒体制の中で、最も重要であるはずの本殿の門を護っているのは三人の天狗少女たちだった。黒い翼を持つ鴉天狗が二羽と、白い犬耳を持つ白狼天狗が一匹、手持ちぶさたそうな様子で壁を背にして突っ立っていた。

 

 

「退屈な任務ですねぇ、はたて」

「文句言わないでよ、文」

「お二人とも私語は慎むべきかと」

「「うるさい、椛」」

「ぐっ、申し訳ありません」

 

 

 しゅん、と項垂れたのは白狼天狗の少女、犬走椛。彼女は天狗組織の中ではしたっぱで「任務に集中するべき」などと至極まっとうな意見を封殺されるあたりに椛の立場の弱さが如実に表れている。

 

 

「何で私たちまでこんなことをしてるのよ、ばっかばかしい。したっぱ天狗に全部やらせたらいいじゃない」

「吸血鬼と戦ったことがあるのは私たちしかいないんです。もしレミリアが何か妙なことをすれば対応しやすいように、という天魔様の判断なんでしょう。そこにいる椛はおまけですけど」

「…………そんな言い方しなくても良いでしょうに」

 

 

 悔しさに唇を噛み締める椛、その隣で呑気に会話を繰り広げているのは鴉天狗の二人組、射命丸文と姫海棠はたてである。そして刑香や霊夢といる時はそうでもないが、基本的に天狗である彼女たちは目下の者には辛辣である。まして椛は白狼天狗、明確な格下である彼女に二人からの言葉に遠慮は乗らない。

 

 

「ていうより、白狼天狗が吸血鬼に勝てるの?」

「まあ、無理でしょうね。空中戦に持ち込まれたなら蹴散らされるのがオチですし、地上でも吸血鬼の怪力に勝てるとは思えません」

「あー、やっぱり白狼天狗じゃそんなもんか」

「………………」

 

 

 白狼天狗を軽視するような彼女たちの言葉が頭に血を上らせるが、椛は何一つ言い返せない。鴉天狗に逆らうことは許されないのだ、妖怪の上下関係は人間のそれよりも厳しいのだから。

 おまけに文とはたては冷静に戦力を分析しているだけであって、そこに嘲りや嘘は含まれていない。彼女たちが言うのなら白狼天狗では吸血鬼に勝てないのだろう、本当に悔しい限りだ。どうにもならない現実に対して椛はため息をついた。

 

 

「早く終わらないかな、この任務…………」

 

 

 やっぱり鴉天狗は苦手だ。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ツンとした寒さが鼻を刺す外とは違い、本殿の中は暖かい空気に満たされていた。暗闇の中で火鉢がパチパチと燃える。

 

 かつて大天狗たちが座していた上座には現在、強大な気配を持つ妖怪たちが腰を据えて会談に臨んでいた。チロチロと火を灯す行灯が、光の入らぬ室内を薄明かるく照らしている。

 その灯りに照らされて、背後の壁に浮かび上がる影は三つ。九本の尻尾を揺らす者、鳥の翼を持つ者、皮膜の羽を生やした者。それぞれが堂々とした様子でお互いに向かい合っている。

 

 

「さて、お二方。これで我が主から仰せつかったことは全てお伝えいたしました。何か疑問点などは御座いますか?」

 

 

 一人目はスキマ妖怪の式、八雲藍。彼女は冬眠中の主に代わり天狗の集落を訪れた。この会談を行うことを求めたのは彼女である。九本の尻尾が怪しく揺れる。

 

 

「腑に落ちぬ、という意味でなら腐るほどある。もちろん『スペルカードルール』などというモノにも、巫女の継承式を大がかりにする提案にも良い感情はない」

 

 

 二人目は天狗たちの長、天魔。八雲紫に拵えた借りを返すために今回の会談への参加を了承した老天狗である。元より八雲とは不仲な間柄ゆえに今も渋々といった様子で藍へと答えを返していた。艶のある黒翼が誇らしげに広げられる。

 

 

「ふぁぁ、そもそも私たち吸血鬼は夜行性なんだから話し合いがしたいなら夜に呼びなさい。その辺りから礼儀がなってないわよ、藍」

 

 

 そして三人目は紅魔館の主、レミリア・スカーレット。こちらも八雲への借りがあるために参加を強制された者である。昼夜逆転が基本である吸血鬼の少女は眠そうに欠伸に藍の質問に答える。皮膜の悪魔羽が可愛らしく揺れている。

 

 

「来るべき春に行われる霊夢の継承式において、有力な妖怪たちを一同に集めて新たなルールの始まりを宣言するのです。そうすることで『スペルカードルール』を幻想郷に根づかせる第一歩を踏み出すことができる。そうすれば、妖怪と人間の関係も変わるはずです」

「下らんよ、式殿。所詮は妖怪と人間だ、対等に渡り合うなど土台無理な話だとワシは思う。思想も、力も、寿命さえ、奴らと我ら妖怪とは何もかもが違いすぎる。八雲はそんなことも忘れたか」

 

 

 たった三人だけの会談ということもあり、天魔の声色には遠慮の文字が感じられない。しかし天魔の言うことは天狗の立場としては当然だった。この島国で最も人間という生物を認めていた『鬼』すらも人を見切り、去っていった時代が今この時だ。そしてその配下である彼らは、人間に何かを期待すること自体が鬼への不義理とさえ感じている。

 

 

「あら、刑香は人間の小娘たちと仲良くしているじゃない。それとも天狗は幼子の血肉が好きだから、あの娘は人間の子供をたぶらかしているのかしら?」

「…………レミリア嬢、白桃橋刑香は最早我らの同志ではない。いや元よりアヤツは異端者である故に天狗の範疇には馴染まぬよ。天狗は人間に恐れられ、祀られる存在でなければならん」

「私も人間と仲良しこよしなんて基本的には不可能だと思うわ。支配し支配される、それが妖怪と人間の関係でも構わない」

 

 

 レミリアとて人間に愛想を尽かして、この幻想郷へと足を踏み入れたのだ。人間はせいぜい血を提供する家畜、とまでは流石に思わないが連中との交流にまで興味はない。

 

 幻想郷縁起にて、レミリアは人間友好度『極低』、天魔は『最悪』と評されている。人間に駆逐され、おとぎ話の悪役にまで存在を貶められた吸血鬼。人間に縄張りたる山を踏み荒らされ、挙げ句に神性すら否定された天狗。種族としてなら両者とも人間への良い感情などは欠片も持っていないだろう。

 

 この会議の主催者である藍としては非常に頭の痛いメンバーであった。同時にこの面倒な会議を自分に丸投げした主人へと心の中で恨み言を呟いた。たかが三人なのに癖が強すぎる上に、人間に対して辛辣過ぎる。その現状へ本格的に頭を抱えつつある藍だったが、ここで援護の手が思わぬ所から上がった。レミリアが「でも」と話を続ける。

 

 

「…………でも何事にも例外は付き物よ。咲夜のように、その『能力』ゆえに人間から爪弾きにされて私たちの側に立つ者だっている。ならば私たちと人間を取り持つ、中立の存在だって生まれるかもしれない」

「ほう、レミリア嬢は八雲の提案に理解を示されるのか?」

 

 

 レミリアを突き動かしたのは新たな従者の存在だった。十六夜咲夜は人間たちの中に居場所を見出だせずレミリアの元へ転がり込んできた。その逆に、妖怪から追い立てられて人間に近づいたのが刑香だ。

 人間と妖怪、どちらの立場も理解できる者がいる。ならば両者の間に立つ者がいても不思議ではないはずだ。

 

 

「それに、妖怪の危機に駆けつける人間もいたじゃない。愚かにも単身で吸血鬼の館に乗り込んだ巫女がね。…………そうでしょう、藍?」

「ああ、その通りだ」

 

 

 レミリアは見ていた。翼を折られた鴉天狗と、破壊の力を受けて血塗れにされた妖狐を助けるために館へと乗り込んできた巫女の姿を見ていたのだ。

 従者と巫女、そして口には出さないが妖怪の宴に何の気負いもなく参加した魔法使いの少女。西方世界では決して見ることのできなかった人間、三人の存在がレミリアの心を動かしていた。

 

 藍の側へ味方したレミリア。人間を巡る議論の状況は二対一、ここで通常ならば流れは変わるはずだった。そうはさせじと老天狗の口許がつり上がる。

 

 

「だから私は全面的に八雲の案に賛成してあげる。幻想郷の未来に賭けてみたくなったから、だから天狗も賛同しなさいよ」

「くかかっ、残念だが、ワシはこの通りに老天狗でな。八雲の言う『新しい時代』とやらは信頼できん。まして新参者であるお主の考えなどは論外だ。まあ、西方出身の木っ端妖怪の思考などは元より理解する必要すらないがな」

 

「…………我ら吸血鬼を愚弄するのか、天狗?」

「むっ?」

 

 

 幼き吸血鬼から放たれたのは強大な魔力。それはチリチリと老天狗の肌を焼き、壁をひび割れさせる。その中にあるのは種族の誇りを踏みにじった者へのあまりにも鋭い殺気だった。風もなく蝋燭の火が消え去った後、暗闇に浮かぶのは魔性を込めた真っ赤な瞳。西方に君臨した最大の怪物が天狗の長老へと牙を向いていた。

 

 ここが天狗の本拠であることも、目の前にいるのがそのトップであることもレミリアを怯ませる十字架にはなり得ない。その堂々とした態度に、それまで氷のような無表情でレミリアを見つめていた天魔はようやく満足そうに頷いた。

 

 

「…………若いなレミリア嬢、しかし見込みはある。よかろう、今回はお主に免じて形ばかりの賛同をくれてやろう。お主らの好きに致すが良い」

「ふんっ、天狗ってのはもう少し愉快な妖怪だと思っていたのにとんだ性悪じゃないの。不愉快だわ」

 

 

 途端に殺気を霧散させるレミリア。自分の実力を試した天魔へ「べーっ」と舌を突き出す姿は子供っぽく可愛らしい。もし天魔が命令を下せばレミリアは二度と紅魔館へ帰れぬ身体になっていただろう。それを易々と為すだけの戦力がこの屋敷の周囲に配置されているのだ。その事実を理解しながら一歩も退かなかった覚悟をもって、天魔はレミリアを自らに意見する資格を持つ相手であると認めた。

 

 

「一度だけ許すわ。次に私を試すような真似をしたらその首を紅魔館の門に吊り下げる、そのことを魂の奥底に刻みなさい」

「くかかっ、ゆるりと肝に銘じておこう。血気盛んというのは若さの特権よな、実に羨ましいわい」

 

 

 古参と新参、東方と西方、老いた者と若き者。まったくの正反対に位置する二人は息の詰まるような攻防を繰り返す。そこへ、たまらずに藍が横槍を入れる。

 

 

「お二方、もう宜しいか。得心をしていただけたのならば、最後の議題へと移りたいのですが」

「あいわかった、続けられい」

「私も構わないわ」

 

 

 二人からの色好い返事に藍は胸を撫で下ろす。一時は戦闘すら覚悟しなければならない程の殺伐した空気だったのだ、まさに肝が冷えるとはこのことだ。しかし、今の衝突のおかげで天魔とレミリアはお互いを『ある程度の相手』だと認め合ったらしい。ならば、この進展は今後の会談にはプラスとして働くはずだ。

 

 

「最後の話とは他でもありません、此度の不参加者である『もう一人』についてです。彼女を我ら三人が連名にて呼び寄せるということでよろしいか?」

「異義無し、というよりソイツに興味がないわ」

「八雲が責任を取るのなら天狗としても異存はない」

「それでは、この書状に署名をお願い致します」

 

 

 レミリアと天魔の前に差し出されたのは一枚の書状、そこには既に『八雲紫』の名前が記されている。その隣に幼い吸血鬼は羽ペンで軽やかに『Remilia Scarlet』と署名する。それを眺めながら天魔は訝しげに口を開く。

 

 

「しかしな、奴等を地上に呼び寄せるなど容易ではなかろう。この数百年に渡ってまともな交流一つなかったのだぞ?」

「既に一ヶ月ほど前に八雲の名にて書状を送りましたが、音沙汰はありませんでした。『見事なまでに黙殺された』と眠りにつく前の紫様が嘆いておられました」

「書状を送った、ねぇ。どうせスキマの能力で一方的に押しつけただけなんでしょう? 私だったらそんな手紙は焼き捨てるわよ、せめて直接渡しに来いってね」

「はい、紫様の読みもその通りでした。ですから今回は書状を使者に持参させようと予定しています」

 

 

 前回、先代巫女が亡くなってすぐに八雲紫は『もう一人』に接触を試みた。されど結果は音沙汰なし、完全な黙殺であった。それはレミリアの読み通りにスキマを使って、こちらの顔も見せずに送りつけた書状なので仕方ないかもしれない。ともかく今度は真正面から挑む必要がある。ニヤリと天魔が意地悪く笑った。

 

 

「待たれい、それなら我ら天狗も一枚噛ませてもらおう。腕利きの者をお主らに同行させる。なにせ『あの場所』へと繋がる道は我が領域にあるのでな、異存はあるまい?」

「…………いいでしょう」

 

 

 その精鋭は八雲に対する監視役か、それとも『あの場所』で何らかの利を漁ることを狙っているのか。いずれにせよ、妖怪の山を一度通らなけれは辿り着けない場所である以上は条件を飲むしかない。せめて獅子心中の虫とならないことを藍は願った。そしてレミリアは、この段階に及んで野心を見え隠れさせる天魔へと呆れた表情をしている。

 

 

「まあ、何かあれば協力してあげるから元気出しなさいな、藍。それで肝心の使者は誰にするの?」

 

 

 宴会での交流もあり、今の紅魔館は八雲に対して悪い感情をあまり抱いていない。これも主人の戦術なのだとしたら抜け目のないことだ、と藍は思う。もっともレミリアはそれを看破した上で協力を申し出ている可能性があるが。

 

 

「私は雑務で地上を離れられないし、橙は未熟が過ぎ、紫様はお休みになられている。となれば八雲で動かせる駒は一人しかいないだろう?」

「あー、なるほどね」

 

 

 今の藍が頼れる妖怪は彼女しかいない。天魔が押しつけてきた監視役の天狗は気になるが、ここは白い鴉天狗に任せるしかないだろう。きっと紫も同じ選択をするはずであるし妥当な判断だ。

 しかしこの時、レミリアに向き合っていた藍は「やはりか」と漏らされた老天狗の呟きに気づけなかった。その口元が歪んでいたことにも。

 

 

「とはいえ、まだ刑香には何も話していない。おそらく、このことを伝えるのは前日になるだろうな」

「それはずいぶんと急な話になりそうね」

 

 

 申し訳ない話ではあるが、『あの妖怪』と接触するに当たっては余計な情報は持たない方がいい。故に刑香には事情を説明した後、出来るだけ早く書状を届けに向かってもらうことになるだろう。

 

 

「何をしているのよ、天狗。早く名を記しなさい、会議が終わらないじゃないの」

「おお、すまんすまん。少し考えを巡らせていてな」

 

 

 レミリアに急かされて天魔は筆を力強く走られる。見事な達筆で天狗の棟梁に受け継がれる名である『天魔』が誇らしげに書状に刻まれる。

 

 

「これで良いか、八雲の式よ」

「ありがとうございます」

 

 

 これで主から申し付けられた命令の第一段階はクリアしたと藍は内心で安堵する。あとはこれを『あの場所』へと刑香に運んで貰うだけだ、もちろん簡単にはいかないだろうが。

 

 ぐにゃりと空間が歪み、そこに二人がギリギリ通れる大きさのスキマが現れる。自身に付けられた式を通し、主の力の一端を借り受けて使用する移動専用のスキマ。感心した様子の天魔に背を向けて、藍とレミリアはそれに足を踏み入れた。

 

 

「それでは天魔殿、またお会いしましょう」

 

 

 二人を飲み込んで、目玉の浮かび上がる紫色の空間が閉じていく。やがて溶けるように消えたスキマを見送った天魔には何処か虚しさを感じさせる雰囲気があった。

 

 

「まさかスキマを使えるようになるとは式神めも成長したものよ。…………しかし組織にも属さず、勝手気ままな妖怪でありながら有能な後継者に恵まれるとは八雲はやはり疎ましい者よ。天狗の長であるワシの手元には、もはや対等な友も愛する妻も、大切だったはずの孫娘さえおらぬというのにな」

 

 

 自虐的な笑みは不思議と明るく、不気味なほどに穏やかだった。静まりかえった大部屋には天魔以外は誰もいない。大天狗たちが旅立ってから天狗の上層部は一人になった。将来を期待する天狗は何人かいるのだが、まだまだ若い。「そろそろ楽隠居を」と考えていたというのに、つくづく組織の長というのは楽な身分ではないらしい。

 

 

「さて、彼の地に向かうというのなら話は早い。天狗としても奴らとの関係は再生しておきたいところ、更に使者として白桃橋刑香を遣わすというのだから好都合よ。此度は貴様の計略を少しばかり利用させてもらうぞ、八雲の式よ」

 

 

 全ては己の野望、ではなく天狗組織のために。猛禽類のごとき鋭い瞳を研ぎ澄ます天魔、天狗の長老は静かに動き出す。

 

 

 


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