その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第二十話:如法暗夜に煌めく

 

 

 それは冷たい月明かりが零れ落ちる、透明な空気の漂う夜だった。広大な湖に立ち込めるのは音一つない暗闇、その湖畔には怪しい存在感を放つ吸血鬼の屋敷が存在している。

 

 明るいランプの光が灯った紅い館。わざわざ人里からこの土地を訪れる者はいない、いくら幻想郷といえども強大な力を持つ化生たちの住居に土足で立ち入る命知らずはいないのだ。

 

 

 

「ふんふーん、今夜はここにお邪魔しよっと。フランは元気にしてるかなぁ?」

 

 

 そんな屋敷の門を、無邪気な声とともに小さな影が飛び越えた。オシャレな鴉羽色の帽子を被った幼き妖怪、彼女に気づいた住民はいなかった。館の主を除くのならば。

 

 

 

 

 

 そして内部から続く階段を下った先、紅魔館には地下室がある。つい最近まで封じられていた少女のための軟禁場。そこではとある少女が退屈そうに過ごしていた。

 金砂の髪は可愛らしいサイドテールで纏められ、フリル付きの真っ赤な洋服とナイトキャップ。姉に似たビスクドールのごとき繊細な外見は、仕草こそ幼いながらも見る者を惹き付ける魔性があった。

 

 

 ――――♪

 

 

 年代物のオルゴールが優しく曲を刻む。古い童話集に収められた西方民謡を金属の音色が歌い上げていく。そのメロディーに耳を傾ける少女の背中には、七色の宝石をぶら下げた美しい羽。この少女の名前はフランドール・スカーレット、先の異変にて鴉天狗たちと一戦を交えた吸血鬼の少女である。

 

 

「うーん、退屈よ。…………お姉様は相変わらず忙しいみたいだし、パチェは図書館から出てこない。慢性的に暇だわ」

「私がいるじゃないですか、フラン様」

「だって美鈴はチェス弱すぎるんだもん、私だけクイーン抜きで時間制限つけても圧勝しちゃう。そんなのつまんない」

「うぅ、象棋(シャンチー)ならそこそこ打てるんですけど、西洋チェスは苦手なんですよ。そうだ、間を取って将棋なら…………駄目ですか」

 

 

 ぷいっと不機嫌そうに顔を背けたフランを見て、美鈴は苦笑した。異変を通して心の安定を取り戻したフラン、彼女の従者として美鈴はたびたび地下室に足を運んでいるのが現状だ。咲夜がメイドになって楽ができると思ったのだが、世の中上手くはいかないらしい。

 

 

「ふぁぁ、眠いですねぇ」

「吸血鬼は夜が昼間みたいなものだから、私は何ともないけどね。美鈴、やっぱり疲れてる?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。昼寝をしながら門番してますから」

「それって大丈夫なの?」

「平気ですよ、私たちの力を幻想郷に広めた今となっては攻め込んでくる者なんていませんから」

 

 

 それに美鈴は寝ていようと無意識に『気』を察知できるのだ、問題はない。ちなみに地下からでも侵入者の感知はできる。なので美鈴はフランの相手をのんびりとしているわけだ。毎晩毎晩、チェスの練習相手にされては叩きのめられる日々であるのだが。

 

 元々、この紅魔館でフランドールはレミリアに唯一、チェスで対抗できる存在だった。そして狂気の収まったフランはレミリアそっくりの冷静で明晰な頭脳を遺憾なく発揮できるようになっている。

 

 

「………パチュリー様も悔しがってましたよ、油断していたところをフラン様がボロボロに負かすから」

「本気でやったら互角なのよ? 最初に私が完封勝利しちゃったのは慢心していたパチェが悪いわ」

「あははー、フラン様は容赦ないからなぁ」

 

 

 たまに手心を加えるレミリアと違って、まだまだ子供だ。そんなフランの私室は地下とは思えないほどにファンシーな内装に溢れていた。淡いピンク色の絨毯、レースを施された天蓋ベッド、その周りに並べられた沢山のぬいぐるみが本当に『純真な少女』を感じさせる。まるで昔話の妖精が住んでいそうな気配、不思議な暖かさに満ちた部屋だった。口には出さないが、美鈴もここにいるのが好きだったりする。

 

 

「うーん、お姉様の布陣へ切り込むにはコレのほうがいいかな。できればダブルチェックを仕掛けたいけど」

「ナイトを使えばどうですか?」

「それだと見え見えなの、お姉様は鋭いから見破られるわ。本物の預言者ばりに先読みがスゴいし………もしかして『能力』を使ってるのかなぁ?」

「いやいや、お嬢様はそんなことしませんよ。使ってるならパチュリー様が見抜いてるはずですし」

「それもそうね」

 

 

 カリカリと紙に戦術を纏めていくフランの姿には気品があった。その何気ない動作から感じさせるのは貴族令嬢としての雰囲気、やはり彼女はレミリア・スカーレットの妹なのだと美鈴は思う。

 

 そしてフランの手元にあるのは真っ白な羽と真っ黒な羽を上手く加工した羽ペン。あの異変の中で散らばっていた彼女たちの羽を一枚ずつ寄せ集めたモノ、それをフランは愛用していた。何かを思い出したかのように吸血鬼の少女はピタリと羽ペンを止めた。

 

 

「ねぇ、美鈴。白い鳥さんは元気だったんだよね?」

「はい、宴会で会った時には快方に向かっている様子でしたよ。あれから一ヶ月経ってますから、もう異変で受けた傷はすべて癒えているでしょうね」

「そうなんだ」

 

 

 フランは興味がなさそうに作業を再開する。

 果たしてどんな顔をすればいいのか、わからなかったからだ。いくら怪我が治ったからといって、それを負わせたフランの行いが消えるわけではない。モヤモヤする気持ちは変わらない。ならば今の問いに何の意味があったのだろう、自分がしたことながら釈然としないものをフランは感じていた。

 

 

「刑香さんは恨んだりしませんよ、他の二人だって話せばわかってくれます。彼女たちはそういう妖怪なんです。…………今度、私と一緒に会いに行きませんか?」

「ううん、遠慮する」

 

 

 三枚の羽はお互いに寄り添うように束ねられていた、まるであの三人のように。それを見つめる自分は彼女たちの関係が羨ましいのだと心の奥底では理解している。彼女たちの持つ『壊れないもの』が羨ましい。

 

 

「お姉様みたいな家族じゃなくて、美鈴みたいな仲間でもなくて『友達』。そんな繋がりもあるんだって教えられたの。………気を失った白い鳥さんを運び出した時、私を睨んでいた二人の顔はとっても怖かった。でも同時に羨ましかったの、本当にお互いを大事にしているって気持ちが伝わってきたから」

「フラン様………よく言えましたね、よしよし」

「ちょ、ちょっと頭を撫でないでよ!」

「いたぃ!?」

 

 

 ぺちんっ、と美鈴の手を払いのける。

 そして天井を見上げてみると、小さめのシャンデリアからお月様みたいな光が降り注いでいた。それに手を伸ばすが自分の掌には何もない、何でも破壊できるはずの能力はちっぽけな『悩み』すら壊せない。どうやら世界は思ったより壊せないモノに溢れていたらしい、かつて自分が抱いていた浅慮に溜め息が出そうになる。

 

 

「迷路ぐるぐる、答えは出ない。どうして私は悩むんだろう、どうして…………ああ、そっか」

 

 

 とある考えに至って納得する。

 自分は彼女たちに謝りたい、そして友達になりたいのだ。それは正しく子供っぽく純真な願いだった。あまりにも単純な答えを得て、フランは顔に熱が集まるのを止められない。可愛らしく頬を染める吸血鬼に門番はニヤニヤと優しい笑みを浮かべていた。

 

 その時、ガチャリとドアが開いた音にフランと美鈴は気がつかない。何者かの足音が響き、小さな影がフランへと近づいてくる。

 

 

「それならフラン様、私に任せてください。ちゃちゃっと仲直りのための機会を作って差し上げますよ!」

「だ、ダメよ! これは私の問題なんだもん、私が解決しなくちゃいけないの!」

「うーん、そういうところはフラン様もお嬢様に似て頑固ですねぇ。私としては、そういう子供っぽい姿も微笑ましくて好印象なわけですけど」

「むー、子供扱いは止めてよ。それにお姉様が頑固なわけないでしょっ、フランのお姉様は完璧なんだから!」

「そ、そうですね。レミリア様は完璧な方です、イタズラ好きで負けず嫌いなんてことは…………げふんげふん、それよりお友達が欲しいなら自分から一歩踏み出さないとダメですよ」

「言っとくけど、あれから私だってお友達を一人作ったんだからね。えーと…………あれ、誰だっけ?」

 

 

 フランは首を傾げる。

 そもそも百年単位で閉じ籠っていたのに、自分に知り合いなんていただろうか。しかし何だろう『誰か』いたような記憶がある。つい最近できた友達がいたような気がする頑張って「お友達になって」と申し込んだ相手がいたはずだ。確か名前は―――。

 

 

 

 

「やっほー、遊びに来たよ!」

 

 

 

 突然、抱きつかれた。

 背中から両腕で包み込むように『誰か』が自分に垂れかかっているのをフランは認識する。

 

 

「わひゃぁぁぁああっ!?」

「ふ、フラン様!?」

 

 

 そしてその瞬間に記憶が甦る。「ああ、そういう能力だったね」と幼いながらも聡明な頭脳は答えを弾き出していく。『無意識を操る程度の能力』は他人の認識を無効にする厄介極まりない力だったことを『所有者』と共にフランは思い出した。

 

 

「もー、こいしっ。びっくりしたじゃない!」

「あははっ、だとしたら大成功だよ!」

「ああ、こいしさんでしたか」

 

 

 背中からフランに抱きついてきた少女は、古明地こいし。フランドール・スカーレットにとって初めての『友人』であった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 妖怪の山。

 立ち込める闇夜に人の姿なく、幻想郷が不気味に静まり返る丑三つ時。雲の隙間を渡る星々の輝きが純白の翼と九本の尾を神秘的に彩り照らしていた。

 

 

「ねぇ、藍」

「なんだ、白桃橋」

「今更だけど、安請け合いしたことを凄く後悔してるわ。これは流石に酷いでしょ」

「………すまん、先の手紙のせいで随分と警戒されているらしい」

 

 

 空中に静止している二人の足元に広がるのは巨大な穴。宇宙の彼方から隕石が落ちて出来た、と言われたなら信じてしまうほどに巨大な空洞であった。油断でもしようものなら引きずりこまれてしまいそうな漆黒の縦穴、ここが地底への入り口である。その奥に何かが見える。

 

 

「あれって『土蜘蛛』の糸でしょ?」

「そうだな、おそらく奴らの巣だろう」

 

 

 怪しく光る二人の瞳。夏空の碧眼と金色の眼は人間では到底見通すことの叶わない漆黒の中身を把握していた。彼女たちの視界に映るのは、無数に張り巡らされて入り口を塞ぐ白い糸。ここまで巨大な空洞を封鎖しているのだから大したものだ。おかげで飛び越える隙間もない。

 

 

「………ともかくこれでは視界が悪くていかんな。少し離れていてくれ、白桃橋」

「明かりでも出してくれるの?」

「そんなところだ」

 

 

 刑香が距離を取ったのを確認し、藍は短い呪詛を唱える。

 そして出現したのは鎖状に連結された青白い狐火だった。それがまるで竜のように空洞をかけ下り、暗闇を掻き散らす。その光景は例えるなら天の川を間近で見ているような美しさと、心胆を冷やす怪しさが宿っていた。吹き上がる熱風を感じ、刑香は思わず息を飲む。

 

 

「改めて思い知らされたけど、あんたは格が違う妖怪ね。私なんかとは比較にならないわ」

「それにしては悔しそうな口調でもないな?」

「別に嫉妬したわけじゃないからね。ここ最近はあんたや紫、レミリアやフランドールみたいな格上ばっかりと出会ってたから慣れたわよ」

「それは良かった、これからも宜しく頼む」

「お手柔らかに頼むわ。…………あんたの馬鹿げた妖術でも底まで見えないのね、どんだけ深いのよコレ」

 

 

 藍の妖術でも旧地獄の底までは届かない。来る者を飲み込む奈落に光は満ちず、その代わりとして奥深くに『蜘蛛の巣』が照らされた。まずはアレを突破しないことには地底の責任者に会うなど永遠にできはしない。「さて、どうしたものか」と考えていると風を切り裂く音が刑香の鼓膜を揺らした。程なくして、闇夜に溶け込む二対の黒い翼が刑香と藍の前に現れた。

 

 

「八雲の式殿、そして刑香。お二方ともお集まりのようで何よりです」

「やっほー、刑香」

 

 

 少し形式ばった様子で射命丸文が、手を振って軽い挨拶とともに姫海棠はたてが飛来する。その身に纏うのはやはり真っ白な天狗装束、腰の部分には妖刀に葉団扇。前の異変時と同じ完全武装だった。ただし文の腰には二本の刀が差してある。

 

 その内の一本を鞘ごと引き抜いて、文はそれを刑香へと投げ渡す。

 

 

「それを念のために渡しておきます。さすがに錫杖で地底の妖怪を相手にするのは危ない、それに刑香は棒術より剣術の方が得意でしょう?」

「まあね、それならありがたく頂戴するわ」

「…………葉団扇と違って今回は貸すだけです、あなたに刀を持たせると不吉な予感がするので。特に『鬼』関連では」

「わかってるわよ、でも刀を持つなんて萃香様と戦った時以来だから上手く使えるかな」

 

 

 試しに妖刀を鞘から引き抜いた。

 よく研がれた刀身に曇りはなく、月の光を宿して仄かに灯る妖力はとても鋭い。それだけ確認した刑香は、再び妖刀を鞘へと戻してそのまま腰紐で固定する。その一連の動作は流れるようだった。少なくとも昨日今日、剣術を修めた程度のものではない。

 

 

「慣れているな、白桃橋」

「まあね、これでもそこそこ強かったんだから」

「天狗は源氏の武将に剣術を授けた妖怪だったな、それなら剣に長けているのも納得か」

 

 

 それでも少し意外そうな顔をした後、藍は鴉天狗たちへと口を開く。

 

 

「さて、これからお前たちには地底に赴いてもらうわけだ。しかし見ての通り、入り口は土蜘蛛たちの糸が張られて通れそうもない。まずは私の妖術で焼き払ってから突入してもらおうと思うわけだが、どうだ?」

 

 

 藍にとっては大した労力ではない。さっき放った狐火をそのまま土蜘蛛の巣にぶつけてしまえばいい。一撃で不足だというなら二撃、三撃と放てばいい。それ引き換え、鴉天狗の得意とする『風』や『斬撃』は蜘蛛の糸には相性が良くないだろう。

 まして妖怪である土蜘蛛の糸ともなれば、鋼鉄を越える頑丈さなのは確実だった。そのため藍は自分が焼き払うと申し出たのだ。

 しかし、黒い鴉天狗は頷かなかった。

 

 

「いえ、ここは私たち天狗の領域です。余所者にあまり大規模な術を使われるのは困るんですよ。代わりに強力な助っ人を用意しているので、お気遣いなく。…………椛、出てきなさい」

「初めから此方にいますよ、文さま」

 

 

 文たちを見上げる構図で、大洞窟の淵ギリギリに立っていたのは一匹の白狼天狗。フサフサした尻尾と白い狼耳が特徴的な彼女の名は犬走椛、文の部下である。

 

 

「久しぶり、椛」

「はい、お久しぶりです。刑香さま」

「あんたたちは相変わらず硬いわねぇ……」

 

 

 鴉天狗の短い挨拶に白狼の少女は言葉少なく一礼する。

 鴉天狗と白狼天狗という関係上、刑香と椛は特に親しい間柄というわけではなかった。せいぜいすれ違えば挨拶をする程度の仲、悪い感情はないが良い感情も特にはない。それゆえの事務的なやり取りに、はたては呆れた顔をした。

 

 

「そこの白狼、本当にお前一人で大丈夫なのか。土蜘蛛の巣はかなり頑強で複雑な構造だぞ?」

「…………問題ありません、たった今把握しましたから。この『眼』なら穴の底まで見透せます、あとは斬るだけですのでご安心を」

「なるほど『千里眼』持ちか。人手不足の八雲と違って、天魔殿は良い部下に恵まれているな」

 

 

 如何に深き闇の底であろうとも、『千里先を見通す程度の能力』を持つ椛には無意味だ。どれだけ広大な空間であろうとも、千里眼の前においてソレは小さな箱庭と変わらない。

 

 椛は頷いた。

 構造は把握した、あとは宣言の通りに斬るだけである。「果たして切り裂くことができるのか」などという不安は椛を見下ろす鴉天狗たちの胸には存在しない。射命丸文が鴉天狗の精鋭ならば、犬走椛は白狼天狗の精鋭だと信頼しているからだ。この程度、難なくこなさずに如何とする。

 

 

「では参ります」

「おいっ、正気なのか!?」

「まあまあ、椛は強いのでご心配なく」

 

 

 崖から足を踏み外した、その表現が正しいだろう。

 白狼の少女は頭から真っ逆さまに奈落の底へと身を投げた。藍が焦った様子で彼女を救おうと術を構成し始めたのを鴉天狗が押し止める。

 

 

 

「…………いつも見張っていた穴に自分が落ちるなんて思いませんでしたよ。まったく、文さまはいつもいつも面倒なことを私に押し付けるんだから」

 

 

 ぶつぶつと不満を口にしながら、白狼の少女は下へ下へと落ちていく。耳を鳴らす風の音がうるさい、ぐんぐんと速度が上がる。そして先には土蜘蛛の巣が待ち構えている、カチャリと鞘に手をかけた。この落下スピードならばかなりの威力が得られるに違いない。

 

 

「でも、これでは鋼鉄すら凌駕するという土蜘蛛の糸を斬るには不足。ただ落下するだけの速度と威力では足りないはず…………ならば!」

 

 

 ならばどうするのか、その難問に対して椛は『壁』を蹴ることで克服した。わずかな出っ張りに一本葉下駄を引っ掛け、真下へと岩壁を走って加速する。地を駆ける速度なら白狼天狗は鴉天狗よりも遥かに速い。地面へ両脚が付いているのなら、狼の牙が鴉の爪を大きく上回る。そしてそれは大地との関係が『縦』であろうと変わらない。椛は妖刀を引き抜いた。

 

 

「………でりゃぁぁああああ!!!」

 

 

 すれ違いざまに五閃。

 白狼の牙は見事に、自らの前に立ち塞がる邪魔者を切り裂いていた。ギシリと腕の筋肉が軋む音に舌打ちをする。されどそのまま複雑に入り組んだ蜘蛛の巣を一刀両断しながら落ちていく。そして僅かに数秒後、突如として巣が途切れたのを確認すると身体を無理やり反転させる。

 

 

「っ、ぐぅぅううう!!」

 

 

 硬い岩肌へと片腕を叩きつけ、そこへ爪を食い込ませながら強制的に落下速度を減速させる。ぶちぶちっ、と勢いよく筋繊維の千切れる音が伝わってくる。おまけに自慢の爪がひび割れたことを感じながらも、どうにか椛は暗い空間で静止した。

 

 決して軽いダメージではなかった。目一杯の加速を付けた負担、その速度で土蜘蛛の糸を切り裂いた際の反動、極めつけである無茶な減速による筋肉の断裂。しかしこの程度なら翌朝には治る、痛みはあるものの問題はない。

 

 自らの身を案じるよりも先に自分にはやるべきことがある。この成果を彼女たちに知らせなければならない。

 

 

「お三方っ、道は開きましたよ! ここより奥に土蜘蛛の姿あり、頭数は十二です! 決して油断なされぬよう、そして十分にお気をつけて!!」

 

 

 

 

 バサリ、と尖兵からの報告を受けた三羽の鴉天狗たちの翼が広げられる。それぞれが風を纏い、妖刀に手をかけて突入体制に入っていた。はたてと刑香は待っている、自分たちのリーダーが下す指示を。

 

 そして彼女たちの準備が整ったのを見計らった射命丸文は妖刀を抜き放つ。ゆっくりと、しかし堂々とした面持ちで輝く刃を奈落へと向けて文は高らかに宣言する。

 

 

「―――現在の時刻は丑三つ、これより任務を開始する。達成条件は書状の到達及び我々三名の生存、失敗条件は言うまでもない、か。…………さあ、続いてください。刑香、はたて!!」

「了解よ、文!」

「私も了解……………っ?」

 

 

 黒い翼が大空ではなく、地底を目指して飛び立つ。しかし、そこで刑香だけは立ち止まってしまった。足下から立ち昇る風に紛れて何だか懐かしい気配がしたのだ。むせかえるように甘い酒の匂いが一瞬だけ鼻をくすぐった。

 

 

「何してんの、大丈夫?」

「え、あ、ごめん!?」

「先に行くわ、刑香も後から追ってきてよ!」

 

 

 はたての声が刑香を我に返す。

 既に洞窟へと飛び込んだ文は椛のところまで進んでいる。早くも土蜘蛛たちとの戦闘が始まる可能性があった。あの文ならば心配はいらないはすだが、人数は多いに越したことはないだろう。「嫌な予感がする」と、どこか不安な気持ちを引きずりながらも刑香は再び飛び立とうと翼を広げる。

 

 その時だった。

 

 

 

「ちょっと待ってよ、刑香ぁぁあーーー!」

「この声って、まさか」

 

 

 

 こちらへと大急ぎで飛んでくる小さな紅白。その姿を目にした刑香は驚いた。今夜の出発は彼女には告げていない、それにも関わらずどうやって辿り着いたというのか。ぽふん、と胸に飛び込んできた霊夢を受け止めながら刑香は藍へと言葉をかける。

 

 

「まさか藍、あんたが?」

「さて、今夜の話を橙には話したが霊夢に話した覚えはないな」

「そんな話を橙が聞いたら、霊夢に知らせるに決まってるでしょうよ。あんたは本当に遠回りなことを……」

 

 

 しかし藍の気遣いはありがたかった。おかげで胸につかえていた何かが取れた気がしたのだ。こっそりと翼へ手を伸ばしていた霊夢を引き剥がしながら、刑香は藍へと心の中で礼を述べた。

 

 

「帰ってきたら触らしてあげるから、今は止めなさい」

「うん、約束だからね。いってらっしゃい、刑香」

「…………うん、いってきます」

 

 

 足下から聞こえてきた戦闘音、もう時間はない。だから出発の言葉は短く簡潔に、それでも気持ちだけは目一杯込めておく。最後に藍へと目配せした後、白い鴉天狗は空中を蹴った。

 

 

 今なら蛇でも鬼でも相手に出来そうだと思うのは、我ながら単純なのだろうか。刑香はそう自笑しながら地底の大穴へと脚を踏み入れた。

 

 


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