その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第二十三話:真実のカケラは彼岸の先に

 

 

 しんしんと降り積もる雪景色に染まる妖怪の山。

 中腹の木々はすっかり冬めいて、その身を雪まじりの風に震えさせる。レティ・ホワイトロックが吹雪を吹かせる森の中に、ぽっかりと空いていたのは鬼の都へと通じる縦穴であった。まさに今、その淵に立って奈落を見下ろしていたのは一羽の老天狗。天魔は黒と白の少女たちが無事に地の底へ辿り着いたことを確認すると安心したように溜め息をついた。

 

 

「犬走よ。射命丸および姫海棠への支援、ご苦労であった。土蜘蛛の巣を切り裂くとは白狼にしては上々の働きぶりである、誉めてつかわそう」

「勿体ないお言葉でございます、長老様」

 

 

 深紫の羽織を纏った老天狗、天魔は犬走椛へと満足そうに告げる。白狼の少女は長老の前で膝をつき、その賛辞を受け取った。生真面目な椛は決して顔を上げない、自らと天魔の間にある身分差は絶対的ものなのだ。許しもなく長老の尊顔を拝することはありえない。厳格な主従関係がそこにはあった。しかし、それは天狗同士であるからこそ初めて当てはまる掟である。ここにいるのは天魔と椛だけではない。

 

 

「で、あんたが刑香を山から追い出した天狗なの?」

「人間のくせに、長老様へ向かって何という口の利き方をするんですか!」

「関係ないわよ、そんなの」

 

 

 そう、ここにいるのは天狗達だけではない。刑香たちを見送った八雲藍と博麗霊夢がいるのだ。特に幼い巫女は刺々しい口調で二人へと近づいてくる。子供ゆえの無謀さなのか自然体のままで一歩、また一歩と天魔の元へと歩みを進めていた。

 

 その行く手を遮るために椛は立ち上がる。そのまま腰に差した刀へと手を当てて、距離を詰めてくる巫女を警戒する体勢へと移っていた。それを見た八雲藍が霊夢を守らんと術札を取り出したのを、白狼の少女は視界の隅で把握する。だがその程度で臆するつもりはない、万に一つでも天魔の身に何かあってはならないのだ。小さく唸り声を上げて霊夢たちを威嚇する椛、そんな彼女に苦笑した天魔は「案ずるでない」と部下の隣へと並び立った。

 

 

「そう警戒するでない、犬走。…………そこな小童が今代の巫女か。どうして貴様が我らの領域に立ち入っておるのかは知らんが、名乗りも挙げずに話を進めるとは無礼であろう」

「どうせ私の素性なんて調べ終えてるくせに白々しいわね。あんたこそ、刑香たちが飛び去ってから突然やって来たくせして偉そうに」

「くかか、相手に知られておったとしても名乗りを上げるのは当然の礼儀であるぞ。まあ良い、今さら人間から礼を尽くされるなど期待してはおらん。………して、何用かな?」

 

 

 幼い子供と老いた妖怪の邂逅とは思えぬほどに、ピリピリとした緊張感が辺りを包み込んでいく。

 それは無理もない話だ。幻想郷を支える(かなめ)たる博麗の巫女と、勢力的には最大を誇る妖怪の長老とが対峙しているのだ。ここで何かが起これば、幻想郷のバランスが大なり小なり崩壊する事態に繋がりかねない。そんな場所に立っているにも関わらず、霊夢は不機嫌そうな表情を隠しもせずに天魔へ告げる。

 

 

「もう一度だけ尋ねるわ、刑香を追放したのはあんたなのね?」

「さてはて、刑香とは誰であったかの。………ああ、あの白い翼を持った娘のことか。歳を取ると物忘れが多くなってイカンな、すっかり失念していたわい」

「っ、何ですって!?」

「待て、霊夢。ここで揉め事を起こすのは不味い」

「離しなさいよっ、藍!」

「………巫女ともあろう人間があんな出来損ない一羽にずいぶんと執心しておるのか。アレもまだ使い道があったとはな、八雲にくれてやるとは惜しいことをした」

 

 

 その答えを聞いた霊夢は顔を怒りに染めていく。これ以上は聞くに堪えない、どうせこの老天狗は何を尋ねても同じような反応しか返さないに決まっている。巫女としての直感がそう言っている。だから踵を返して帰ろうとしたのだが、何故か藍が霊夢の腕を掴んでいた。その耳元で「あとは私に任せろ」と藍が呟く。

 

 

「天魔殿、今代の巫女が失礼をしました。見ての通り霊夢は未熟な身ゆえに、私が代わって謝罪いたしましょう」

「よかろう、ワシも遊びが過ぎたようだったのでな。式殿が申されるのなら先ほどの蛮行は全て不問としようではないか」

 

 

 どこまでも天魔自身を上においた言動、それに霊夢は不快感を覚える。これが刑香やはたて達、天狗の頂点に立つ妖怪なのかと疑問すら感じていた。ジロリとこちらを睨んでくる白狼天狗もそうだが、霊夢が今まで出会ってきた天狗たちとの差がありすぎた。

 

 

「しかし私も疑問に思っていることがあります」

「何ですかな、式殿?」

「簡単なことです。何故、貴方は白桃橋を助けたのですか?」

 

 

 藍が指摘したのは先の一撃、土蜘蛛の糸に捕らえられた白い少女を救うためにこの男が自ら葉団扇を使ったことだ。今や刑香は『八雲』側の妖怪であり、天魔が直々に手を貸す理由はない。ましてさっきの瞬間、藍もまた刑香を救おうと妖術を構えていたのだ。そんな自分を半ば押しのけるような形で助けに動いたのは、この男らしくない。

 

 

「加えて貴方がここに到着したのは彼女たちが飛び去った直後だった。ひょっとしたら貴方は彼女たちの出発を近くで見守っていたのではないですか?」

「くかかっ。これでまた一つ、八雲に貸しを作れると思ったまでよ。そうでなければ追放された小娘なぞにワシが手を貸す道理はない。あの白い娘の危機に駆けつけたように見えたのは、それこそ偶然であろうよ」

「それは違う。あの時の貴方はどこか焦るような表情でした。今まで私が見たこともないほどに激しく狼狽しておられた、まるで親が子を心配するように」

「…………何が言いたい、八雲の式よ」

 

 

 二人の会話を聞きながら、ごくりと霊夢は唾を飲み込む。

 初めからそうであったが、特に今の天魔からは好意的な色がまるで感じられない。ここに流れる夜風たちが彼へと味方するように渦を巻き、自分達を窒息させてしまいそうな拒絶感が大気に満ちている。紛れもなくこの老天狗は八雲紫と同格に近しい大妖怪、そして宿敵なのだと霊夢は認識を改めた。

 そんな幼い巫女を背中に庇いながら、藍は話を進めていく。

 

 

「ずいぶん前から仮説はありました。その全ては吸血鬼異変が終結した後、つまり我が主と貴方が盃を交わしてからです。その時の貴方の様子は不審であったと、紫さまは仰っておられました」

「あの夜は良い月が出ておったからな。月で散った息子たちを思い出し、懐かしき記憶に浸っておったのだ。そこに八雲が訪れて来たゆえに、不覚にも弱った姿を見せてしまった。それだけのことよ」

「『月面戦争』、貴方がその戦いでご子息を亡くされたことは私も存じております」

 

 

 八雲紫の主導で地上の妖怪たちが『月の都』に攻め入った『月面戦争』。それは輝ける月の財宝を手に入れようと画策した、当時の幻想郷最強を自負する化生たちが仕掛けた戦いだ。

 

 しかしその結果は無惨なものであったと聞く。

 月の民たちの持つ戦闘兵器は地上の比ではなく、また月のフィールドにて地上の妖怪が本来の力を出すことが出来るわけもなく。彼らは散々に打ち破られて、地上へと逃げ帰ることになったらしい。

 

 何一つ得るものはなく、数えきれない犠牲者を出しただけの戦争だった。八雲紫と共に意気揚々と攻め込んだ天魔も多くの部下を失い、跡継ぎである子息を失うことになった。

 

 

「ならば知っておろうが、ワシの血縁者は最早残っておらん。息子は名誉の討ち死にを遂げ、その直後に産まれた『孫娘』も生を受けてすぐに病で彼岸へ旅立った。そして、それが原因で息子の嫁までもが気を病んでこの世を去ったのだ」

 

 

 後悔に染まった瞳が八雲藍を射抜いていた。

 老天狗の胸中に渦巻いているのは八雲への恨みではなく、息子を救えなかった自分への怨恨だけであろう。その一瞬だけで藍は理解した、天魔がどうしようもなく孤独なことを。そしてその瞳は自分が初めて会った時の彼女に似ていた、まだ霊夢や自分たちとの親交がなかった頃の白い鴉天狗に。

 

 

「そうですね、確かに貴方に血縁者は残っていない。私も紫さまもそう考えていました。あの娘と貴方との関係を疑うまでは」

「ねえ、結局のところ藍は何が言いたいの?」

 

 

 話について来れない霊夢が藍の尻尾を引っ張る。黄金の毛並みは相変わらず美しく、毛の一本一本が柔らかい手触りで霊夢の冷えた手を温めてくれる。しかし、一人だけ会話に置いてきぼりにされるのは我慢ならないらしい。一瞬だけ戸惑った藍だったが、ぐっと霊夢を見据えて口を開いた。

 

 

「おそらく、白桃橋刑香は天魔殿の血縁者だ」

 

「………………え?」

 

 

 ぽかんとした表情の霊夢。

 文やはたて以外の天狗とは疎遠であったはずの刑香が、天狗の長老と縁のある者であったなど想像の外であった。まして自分が姉のごとく慕っている刑香と、ついさっき最低の評価を下してやった目の前の老天狗が家族などと予想外にも程がある。見ると白狼の少女も驚いた顔で天魔を見つめていた。

 

 

「て、天魔様、それは真なのでしょうか!?」

「うろたえるでないわ、犬走。全ては式殿の言った推測に過ぎん。…………しかし、あの出来損ないがワシの縁者とは大きく出たものよな」

「確たる証拠は何一つありませんが、外れてはいないと思っています」

「くかかっ、面白い作り話ではある。しかしな、仮にあの娘がワシの縁者であったのならば、その事実を八雲が把握しておらぬわけがない。あやつは幻想郷の全てを見通しておる、それはお主が一番よく理解しているはずであろう?」

「確かにそれは否定できません、ね…………」

 

 

 宿敵たる天魔唯一の血縁者。そんな存在がいるならば、他でもない八雲紫が知らないはずもない。もし知っていたならば、そもそも霊夢との交流を許していなかっただろう。主への絶対の信頼ゆえに、その事実が藍の言葉を詰まらせる。

 

 そして過去を語りたがらない刑香が他の天狗たちから良い扱いを受けていなかったことは想像に容易い。大天狗たちへの『能力』の強要についてもそうだ。

 仮に刑香が自らの血縁者であるのなら、天魔が黙って見過ごすだろうか。『家族』への執着が決して薄いとは思えない老天狗が果たして、刑香への仕打ちを放置するのであろうか。

 

 いずれの可能性に対しても、式としての頭脳は否定を繰り返す。ならば、刑香と天魔との関連性は八雲紫の勘違いであったのだろうか。いや、主を信じるのならば、それこそありえない。

 

 

「それならば、今回の協力に関して天狗側からあの二人を寄越したことについて説明を…………む、何だ?」

「藍っ、何か来るわよ!?」

 

 

 言葉を中断して、夜空を見上げた二人の目に映ったのは大きな黒雲。それを認識した瞬間には大量の羽ばたき音が鼓膜を揺らし、真っ黒な弾丸が空から落ちてきた。自分たちに向かってくるような何かの塊に、思わず霊夢が神符を取り出したのを藍が静かに制する。これに手を出す必要はない。

 

 

 

 ―――カァカァカァァァ!!!

 

 

 

 それはカラスの大群だった。

 一糸乱れぬ軍隊のような動きで、次々とカラス達は奈落の底へと飛び込んていく。霊夢は驚いていた、刑香が何羽かの白いカラスを使って情報収集をしている姿は記憶しているがこれは数が違いすぎる。そんな霊夢の姿を小馬鹿にしたように眺めていた天魔は愉快そうに笑みを浮かべる。

 

 

「射命丸め。確かに許可は与えたが、山に住んでいるカラス全てを動員するとは何とも豪快な娘よな。さては、さっそく地底で何かあったか」

「まさか、これが全て使い魔だっていうの?」

「如何にも我ら鴉天狗の眼と成り、耳と成る下僕たちよ。普段はここまでの数を同時に使役することはないが、なかなか壮観であろう?」

 

 

 何百羽というカラス達が暗闇へと吸い込まれていくのを四人は見送った。先ほどの天魔の話を信じるならば、どうやら地底で問題が発生したらしい。霊夢が心配そうに大穴を覗き込んでいる。一方の老天狗はもう用が済んだといわんばかりに翼を広げていた。

 

 

「さて、式殿。今宵の寒さは少しばかり老骨には堪えるのでな、これにてお暇させてもらおう」

「お待ちくださいっ、まだ射命丸と姫海棠を選んだ理由を伺っておりません!」

 

 

 深い紫色の羽織に積もった雪を払い落としながら、天魔は空へと舞い上がる。これ以上、藍や霊夢と話を続けるつもりはないらしい。しかし藍としては非常に困る、まだ問い掛けが終わっていないのだから。尚も食い下がろうとする藍、すると老天狗は「仕方ない」とばかりに言葉を置き土産とすることを決めた。

 

 

「あの『三羽鴉』を纏めて地底へ送り込んだのは、あの三人にしか導けぬ結末があったからだ。…………まあ、つまらん企てには違いない。あまりの他愛なさに、八雲が聞けば鼻で笑うであろうよ」

「あの三人でなければ辿り着けない結果ですか、それは何とも難解な………」

「ではな、式殿と巫女殿。せいぜい月へ迷い込まぬように気をつけて帰るが良い」

 

 

 『月に迷い込まないように』、それは天魔にとっての因縁の渦巻く言葉であった。老天狗は月を背景に飛び去っていく。そして護衛である椛もまた、長老に遅れまいと大地を蹴って空へと舞い上がり闇夜へと消えていった。

 

 

 

 

 

「結局、あしらわれてしまったか。やはり紫様でなければ天魔殿には勝てないか、舌戦とはいえ私も精進が足りないな」

 

 

 さて、と八雲藍は考えを巡らせる。

 射命丸文は天狗組織の中でも精鋭に属する少女であるが、別段彼女が最強というわけではない。単純な実力であるなら彼女と並ぶ者は極少数ながら存在するし、それに劣る姫海棠はたては言うまでもない。つまり刑香の親友である二人が今回の使者として選ばれるなど、こちらにとって都合が良すぎたのだ。

 

 だからこそ天魔が刑香を気遣ったのではないかと疑ったのだが、その答えは釈然としなかった。

 

 

「ねえねえ、本当にあの天狗が刑香のお爺ちゃんなの?」

「いや、あくまでも血縁者かもしれないという可能性だけだ。天魔殿に孫娘がいたことは分かっているが、亡くなったのも事実だろう。ならば白桃橋が直系でないのは確実だろうが…………しかし何かを見落としている気がする」

 

 

 藍の中で歯車が噛み合わない。

 何らかの決定的なピースが足りていないのだろう、ざりざりとしたノイズが思考回路を狂わせている。「むう」と首をひねる藍、その視界の隅で真っ赤な何かが揺れたのに気がついて目を止める。

 

 

 そこには真っ赤な一輪の花が咲いていた。

 

 

 岩壁のすぐ近くの草むらに季節外れの曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲いていた。それを見た瞬間、脳裏に浮かんだ『彼女ら』の姿と重なったのを藍は見逃さなかった。

 

 

「そうだった、奴らのことを失念していたな」

「えっ、何かわかったの?」

「いや少し違う、足りないピースを持っていそうな相手を見つけただけだ。…………確かに連中なら知っているかもしれない、『死を遠ざける程度の能力』を持つ白桃橋を放置している奴等なら」

 

 

 本来ならあまり深追いするつもりはなかったのだが、「ここまで来たら仕方ない」と八雲藍は決意した。主からの宿題もある、ここで動いてみるのも一興だろう。

 

 

「話を聞きに行ってみようか、彼女らのところへ」

 

 

 それは八雲紫がわざと開けなかった玉手箱。あの世界に隠されているのは刑香の過去に繋がる真実のカケラ。その果てにどんな事実が明らかになるのか、まだ八雲藍は知る由もない。

 

 

 

 彼岸花、それが曼珠沙華という花の別名である。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 人の子寝静まる丑三つ時。

 地上で降り始めた雪は白く白く、寒々とした冬空を染め上げていた。そして、まるで地上に呼応するかのように地底でも真っ白な雪が舞い散る。何故、空から最も離れた地の世界に雪が降るのかは誰にも分からない。

 

 そんなことは粉雪を邪魔だとばかりに払いのけて、空を駆け抜ける鴉天狗の少女達にとってはどうでもいい話だ。

 

 

 

 

「流石ね、私より速いじゃない。妬ましいわよ、刑香!」

「それはどうもっ。でも降下速度は私よりあんたの方が上でしょ。妬ましいかもね、はたて!」

 

 

 まるで白刃を突き立てるように、二羽の鴉天狗は複雑な軌道を描いて暗闇を切り裂いていく。刑香の手にあるのは使い慣れた錫杖、はたての握り締めるのは鋭く研ぎ澄まされた妖刀であった。

 

 

「お願いだから、この程度で墜ちないでよ」

「まだ体力に余裕はあるから、その心配は余計なお世話かもね」

 

 

 たまに言葉を交わしながら、白と黒の翼はお互いへと絡み合うように何度も何度もぶつかり合う。それは並みの妖怪ごときでは到底追えず、影を捉えることすら難しい超速度。彼女らこそ鴉天狗、雲の通い路を切り裂く流星にして幻想郷最速の妖怪である。

 

 

「まだまだ行くわよ、刑香!」

「くぅっ、もう少し手加減しなさいよ!!」

「できればやってるわ、よっ!」

 

 

 上へ上へと螺旋を紡ぎ出す白と黒、火花を散らして少女たちは旧地獄の空に舞う。

 そして、その衝突のたびに押されていくのは刑香の方だった。はたてからの一閃で弾き飛ばされては体勢を立て直すの繰り返し。それは別段はたてが天狗の中で怪力というわけではない。やれやれと茶髪の少女は首を振る。

 

 

「何ていうか、刑香は相変わらずの非力よね。木の葉を払ってんじゃないかってくらい軽いわ、そこいらの人間よりはマシだけど」

「っ…………うるさいわよ、黙りなさい」

「あーあ、あんたにしては飛ばしすぎよ。少しだけバテてんでしょ、そろそろ終わりにして…………なにいってんだろ、わたし」

 

 

 付き合いが長いゆえに、わずかな息切れを見抜かれていた。容赦ない友人の一撃で痺れた腕に、刑香は思わず舌打ちをする。やはり単純な身体能力では自分に勝ち目などない、どうにかして別の切り口を見つける必要がある。しかし、

 

 

『できるだけ時間を稼いでください、その間に私が術者を見つけ出して叩きます』

 

 

 もう一人の親友はそう言って飛び去った。どのような方法で文が元凶の妖怪を見つけるのかは知らないが、ここは彼女に頼るしかない。かろうじて自我を取り戻しつつ刑香に対して、はたては相変わらず『嫉妬』に囚われたままなのだ。このままお互いに傷つけあっては、敵の思う壺でしかない。

 そうしている間にもはたてが頭を押さえながら、苦しそうに言葉を絞り出す。

 

 

「…………っ、ごめん。もう手加減できないかも…………だから上手く避けてよ、刑香」

 

 

 震える手で葉団扇が掲げられる。

 はたてが刑香を圧倒すればするほど、それに比例して刑香の心には冷静さが戻ってきていた。恐らく『能力』の主は、より勝ち目のありそうな方に集中して呪詛を掛け直しているのだろう。はたてが刑香を墜とした後に、さらに文と潰し合わせるための布石を打っているのだ。

 

 

「はぁ、鬼がいるって聞いたから、もっと正々堂々と勝負してくる連中ばっかりだと思ってたんだけどね。地底の妖怪も色々みたいね、そりゃまあ当然だけど」

 

 

 しかし、夏空の碧眼に映るのは恐怖ではなく単なる呆れだった。そもそも刑香への影響を薄めたのが間違いなのだ。あまり長時間でないならば、刑香にとって時間稼ぎは不得手な策ではない。腕力もなく、脚力もない、体力すら貧弱な自分に許された戦い方が一つだけある。

 

 

「悪いけど、はたてには少しばかり痛い目に合ってもらうわよ。…………さて、今の状態のあんたは私について来られるかしら?」

 

 

 白い少女は挑発的に笑う。

 これまで手加減をしていたのは、何も姫海棠はたてだけではない。ばさりと刑香は真っ白な翼を誇らしげに広げ切った。その華奢な細身を包み込むのは冷たく澄んだ大気の流れ、増幅された風の勢いが白い髪を泳がせる。

 

 ここからが刑香が持つ妖怪としての本気。体力の消耗を度外視して紅美鈴を破った戦い、つまり決闘になるということだ。重々しい妖気が周囲をざわめかせ、二人の鴉天狗はお互いの得物を構えて相手の出方を伺っている。

 

 

 そして決闘の始まりだと言わんばかりに、はたてが葉団扇を振り降ろした瞬間に刑香もまた飛んだ。

 

 

 

「なーんてね」

「えっ、あ、刑香ぁ!?」

 

 

 前方ではなく、刑香はくるりと地面へ向けて降下した。頭を低く、一切の躊躇もなく身体を低空へと叩きつけ加速する。そのままほぼ全ての高度をスピードへと変換させ、地面スレスレに達するところで身体を無理やりに引き起こす。

 

 あまりにも鋭い気流をぶつけられた地面は砂煙を上げて、鴉天狗の少女を歓迎する。普通の人間ならば骨の一本や二本を折ってしまいそうな軌道を描いていく刑香だったが、そこは鴉天狗の末端に属する者として耐えきった。身体の芯から伝えられる警告代わりの痛み、それを思考の外へと追いやった刑香は更に葉団扇を使って地面と水平に加速していく。

 

 

「待ちなさいよっ、刑香!!」

「私がはたてや文を傷つけるわけないでしょうが…………そんなことをするくらいなら、鬼に喰われた方がマシよ」

 

 

 遥かな距離へ置き去りにされた友人は怒号を上げながら追ってくる、やはり完全に逃げ切るのは難しいらしい。おまけに葉団扇を使い続けるのは体力的にも厳しいので、すでにその補助はない。大きく突き放されていた漆黒の追跡者は少しずつ距離を詰めてきている。地面スレスレを飛んでいる自分はこのままでは上空を押さえられるだろう。

 

 

「けほっ、頭上の優位なんてくれてやるわ。元よりこの戦いの結末は相手を倒すことじゃなくて、時間稼ぎなんだから。私の役目なんて、ただ逃げ回っていればそれで良い」

 

 

 鴉天狗としての速度と、そして『死を遠ざける程度の能力』を十全に活かした回避力こそが白桃橋刑香にとっての最大の武器である。

 

 フランドールのように絶対的な突破力があるわけでも、八雲紫のように極めて広範囲に効果の及ぶ能力というわけでもない。しかし応用力はそれなりにある。致命的なダメージを退け、感染症や決められた死の運命さえ塗り替えてしまう、それは何者にも穢されることのない純白の力。

 

 これがある限り、刑香は決して墜とされることはない。分身を駆使したフランドールという例外はいたものの、体力さえ残っているならば二度とあんな無様は晒さない。

 

 

「とはいえ、あまり長くは持たないかもね」

 

 

 土蜘蛛たちとの戦いで消費してしまった分のスタミナは戻ってきていないし、はたてと刃を合わせるたびに刑香だけが体力を消耗する。親友たちのためなら何時間でも堪え忍んでやる心意気ではあるが、残念ながら気概だけで支えられるほど自分の身体は強くない。

 

 チリチリと胸を焼く痛みをはね除けて、刑香は速度を上げていく。

 

 首筋には糸で締め付けられた細く赤い傷跡が痛々しく残り、そして左腕の袖口からは血が滲んでいた。土蜘蛛たちとの戦いで負った傷は何一つ治癒していない。

 

 

「ちっ、もう追いついて来たのね。やっぱり葉団扇を使うか使わないかの速度は違い過ぎる…………!」

 

 

 いよいよ親友の影が地面に映り、悪意ある感情にまみれた妖刀が構えられる。空での戦いにおいて上を取られるということは致命的だ、その不利を背負ってまで距離を離したというのに時間稼ぎは失敗したらしい。これは血を見る戦いになるかもしれない、と刑香は覚悟した。

 

 

 

 カラスの大群が空を覆ったのは、そんな瞬間であった。

 

 

 


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