その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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残酷な描写があります。
苦手な方はご注意ください。


第二十五話:妖怪山の四天王

 

 

 時は数百年前、場所は妖怪の山にある天狗の集落。

 すでに支配者たる『鬼』の姿なく、天狗が山の頂に立ち他の種族を見下ろして久しい時代のことだった。その中央にある長老の屋敷にて、幼い鴉天狗が上座にいる大天狗たちを睨み付けている。空色の瞳は激しい雨風を秘めたように波立ちて淀んだ黒を正面から射抜く。

 

 

「何度おっしゃられてもお受けすることはできません。『死を遠ざける程度の能力』をこれ以上使用するならば、あなた方は輪廻から逸脱した存在になる。天狗ですら無くなるのです」

「構わぬ、と言っているのが聞こえぬか? 」

「出来ない、と申し上げているのが聞こえませんか?」

 

 

 口を閉じさせろと、しわがれた声が響く。

 途端に少女は床に押さえつけられ手足を荒縄で縛られる。精一杯の抵抗をしてみせる幼い鴉天狗だったが、その身体を上から押さえつけているのは屈強な男天狗たちである。いくら暴れたところで拘束から逃れることなどできるはずがない、動きを完全に封じられるまで時間はかからなかった。

 

 

「っ…………は、放しなさいっ。私はもう『能力』をお前たちに喰い潰させるつもりはない、こんなことをしても無駄よ!」

「この期に及びて未だに考えは改まらぬか。あいにく今のワシらには貴様の戯れ言にかかずらっている時間がない。いつまでも『能力』の使用を躊躇うなら、致し方ない」

 

 

 振り下ろされたのは木製の警棒。

 重々しい打撃音と共に苦痛の声が上がる。今から行われるのは組織への確かな『従属』を少女に誓わせるための儀式である。鼻高天狗を模した面を付けた男たちは、翼を除く少女の全身を打ち据える。その身体に青あざが丹念に叩き込まれていく少女を憐れに思ったのか、紫色の羽織を着た老天狗が問いかける。

 

 

「我らの決定に従う気になったか、(しおき)?」

「ぐっ、それはもう私の名じゃない…………あの方から貰った私の名前は、がぁ!?」

「…………鬼に(かどわ)かさせれたか、勝手なことをするあの御仁にも困ったものだ。おかげでもう一度、こやつの心を折らねばならなくなった」

「っ、あぁぁぁっ!!?」

 

 

 悲鳴と共に白い羽が散る。

 もう何百年も昔、それは人の子にとっては歴史とすら言える年月を遡った先に起こったこと。こんなものは世界のどこにでもよくある、別に珍しくもない悲劇の一つでしかない。しかし、得てして悲劇というものは実際に経験した者にとっては地獄そのものである。

 

 

「っ…………っぅえ………げほっ、げほっ!!?」

 

 

 やがて白い少女が吐血し始めると一方的な暴力は止む。仮面の男天狗たちは指示を仰ぐように『その翁』へと向かい姿勢を正した。ここで死なせてしまっては意味がない。

 

 

「その小娘は『能力』ゆえに死にはせぬ、考えを改めるまで構わず続けよ。八雲や他勢力が不穏な動きを見せている今、たとえ一羽とて上役を欠くわけにはいかぬのだ」

「や、やめ…………」

 

 

 どこまでも冷徹な命令が下され、一方的な蹂躙は再開された。抵抗する少女を力ずくで押さえつけ、天狗たちは無言でその華奢な身体に苦痛と恐怖を深く深く埋め込んでいく。ここにいるのはそういったことを専門に扱う者たちである。

 

 白い少女が苦痛を訴えていた声は、もうすでに絹を裂くような悲鳴に変わっている。天井に木霊するのは少女が助けを求める声、そして身体を壊す音がそんな叫びすらも掻き消して空気を震わせる。それでも鴉天狗の少女は決して考えを改めることはなかった、強がりな性格はこの頃から変わっていなかったわけだ。

 

 

 刑香は、苦笑しながらその光景を見つめていた。

 

 

『ずいぶんと手加減がないものね。たかが小娘の意思を変えるためだけにこの仕打ちとは恐れ入るわ。長老にとっては、そんなにも組織の安定が大事だったわけなのね』

 

 

 これは単なる夢である。

 刑香は目の前で繰り広げられている映像をため息まじりに眺めていた。痛みに泣き叫ぶ声も、歯を喰い縛って耐える姿も、間違いなく自分のものであり他の誰のものでもない。

 どこまでいっても苦い記憶、そもそも組織の上役たちに逆らうなんて馬鹿なことをしたと呆れるべきだろう。だがあの時の決断に後悔はない、それまでは人形のように彼らに従っていた刑香が初めて大天狗たちへと叩きつけた自分の意思だった。『あの鬼』に名前と勇気を貰ったからこそ実行できた小さな抵抗だったのだ。

 

 

 ―――けい………ねて……、だいじょうぶ……!?

 

 

 まったくもって嫌な夢を観たものだ。痛めつけられる自分の姿など見たいわけもない、乗り越えたとはいえツラい記憶もまっぴら御免だ。どうにも運命とやらは少しばかり自分には厳しかったらしい。地上に戻ったらレミリアに文句を言ってみようと思う。

 

 

 ―――け、いか………起きて…………くださ…………!

 

 

 今度は先程とは別の声が鼓膜を揺らす。

 なので、このあたりで目を覚まそうと刑香は思った。意識を覚醒させようと抑えていた妖力を解放して身体を強制的に起こしにかかる。ぼんやりと風景が薄れて、夢の中から脱出しようとした時だった、大天狗たちの中心に座る男が苦しげに言葉を絞り出す。

 

 

(しおき)よ、無駄だというのが何故わからぬ。貴様が能力を使うまで懲罰は止まぬし、そもそも里にいる限り貴様の身柄は我らのモノだ。どうせ逃げられぬならば、これ以上の手傷を負う前に平伏せよ」

「――――あ、ぁぁぐぅ…………っ!」

「もうよかろう、もう十分であろう、もう理解したはずだ。だから許しを請うならば明瞭に申せ」

「ぜっ、たい…………いや」

「っ、今しばらく続けよ!」

 

 

 何故いまさらこんな夢を観たのかはわからない。されど全ての物事には意味がある、少なくとも自分はそう考えている。なので最後にもう一度だけ、その老天狗を視界に収めてから刑香は夢の世界を後にした。

 

 

 それは幻想郷が陸続きだった頃の記録。

 それは刑が刑香となった頃の記憶。

 それは白桃橋刑香がまだ、ただの刑香だった頃のお話。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「…………けほっ」

 

 

 冷たい夜風が仄かに熱い頬を撫でつけ、凍るような空気が肺を満たしていくのを感じた。少し咳き込んでから刑香は重たいまぶたを押し開ける。

 

 

「気がつきましたか、刑香?」

「うなされてたけど大丈夫なの? …………その、さっきはごめんね」

 

 

 やはり目の前にあったのは親友たちの顔、すっかり正気を取り戻したはたてと急いで駆けつけただろう文の二人がそこにいた。はたてを縛っていた霊符はどうやら文の妖刀によって斬り落とされたらしく、二羽の鴉天狗たちは岩を背にして眠っていた刑香を心配そうに見つめている。ぼんやりとした頭は未だに夢見心地で、そっと刑香は口元を動かした。

 

 

「んぅ…………くすぐったいよ、あや、ねぇ」

「「え?」」

 

 

 親友の手のひらが自分の頬に当てられていた、そこから伝わってくる温かな感情が冷えきった心に熱を灯す。先の悪夢を払拭してくれる温度が妙に心地よかったので刑香は頬っぺたを文の手へと擦りよせた。

 

 目が覚めたのはたっぷりと数秒後。「どう料理してやろうか」とニヤニヤ笑っている親友たちに気づいて、刑香は顔を真っ赤に染め上げたがもう遅い。

 

 

「ち、違うっ。私は寝惚けてたから…………っ、微笑ましい目で見るのは止めなさい!」

「あややや、ずいぶんと懐かしい姿を見せてもらいましたよ。昔はもっと素直に甘えてきたのに、最近は少しばかりひねくれてるので貴重なシーンでした」

「へー、ちっちゃな頃の刑香は甘えん坊だったんだ。私と仲良くなった時はすでに今と変わらなかったから意外だわ…………さっきはくすぐったかったのよね、刑香ちゃん?」

 

「ほ、本当に勘弁してよ…………」

「軽い冗談よ、冗談。ほら、手を貸すわ」

 

 

 はたてが差し伸べてくれた腕に掴まって起き上がる。その際に二人の顔を見ることはしなかった、さすがに子供扱いされるのは不服だったし、恥ずかしさで染まった頬を見られたくなかったからだ。

 

 ちなみに直接からかって来ない文、彼女の方が笑みは深い。きっと聡明な彼女は気づいていたのだろう、刑香は頭を抱える。昔の夢を見て心が弱っていたとはいえ、いまさら幼なじみを「あや姉」などと呼んでしまうとは不覚以外の何物でもない。失敗したと反省しながら刑香は痛みの引いた脚に力を入れて立ち上がった。その様子を心配そうに見つめながら、はたてが遠慮がちに言葉を紡ぐ。

 

 

「それで、その、私が斬った脚は大丈夫なの?」

「ええ、この通りに傷は塞がっているから心配ないわ」

「刑香にしては早い治癒力ですねぇ…………」

 

 

 血溜まりを作るほどに傷ついていた脚からの出血は止まっていた。それどころか身体には妖力が満ちている、これならまだ戦闘が控えていたとしても何とかなるだろう。それは白い少女にしては早すぎる回復力だった、それ故に親友たちは逆に心配した様子でこちらを観察していた。

 

 

「ああ、これを飲んだの。吸血鬼異変の後の宴会でも美鈴にご馳走したりしたんだけど、その濃縮版とでも言うべきなのかな」

 

 

 特に隠す理由もなかったので、刑香は酒の入った瓢箪(ひょうたん)を取り出した。「あんた達もいる?」と渡された文が試しに一口飲んでみたところ、みるみる表情の色が変わっていく。かつて一口分だけ飲む機会があったので気づけた、驚いた様子で黒い鴉天狗は口を開いた。

 

 

「これはまさか『茨木童子』様の薬酒、ですか?」

「正解よ。ちょっとお節介でお人好しな仙人様がいてね、その方のツテで手に入ったの。なかなか重宝してるわよ、物騒な目に会う最近は特に」

 

 

 山の四天王が一角、茨木童子。

 平安の旧き世において、文字通りの百鬼夜行を引き連れ京の都を荒らし回った鬼族の(かしら)の一人である。人間からは恐怖の権化として、妖怪からは敬畏の対象として称えられていた伝説の大妖怪。またの名を『羅城門の鬼』。

 文としては直接の面識がないものの、茨木童子は種族をまとめるカリスマ性に長け、思いやり深く理知的で、まさに理想的な大将であったと伝え聞かされている。

 

 

「ですが四天王の中でも彼女は誰よりも早く人間に失望し、もう千年以上前に幻想郷から姿を消したはずです。この酒もそこいらの仙人の手に入る逸品ではないはず、一体どうやって…………?」

「さあ、そこまでは教え…………まったく知らないわ」

 

 

 やはり隠し事や嘘は不得手らしい。少し焦った様子で誤魔化した刑香、しかし幸運にも二人が瓢箪に気を取られていたおかげで気づかれずに済んでいた。バレていたら事だったと、安心して刑香は胸を撫で下ろす。

 

 

「へーえ、これが茨木の百薬酒なのね?」

「こらこら、はたて。貴重なものですからむやみに飲むべきではありません」

 

 

 鬼の秘宝の一つである『茨木の百薬枡』。その枡に酒を注いで飲み干せば、あらゆる傷と病を癒すという伝承は天狗たちには余りにも有名であった。それ故に文やはたても、この酒についてだけは知っている。

 

 

「まあ、その話は帰ってからでいいじゃない。それより帯の代わりになるものを持ってない? 流石にこのままじゃ恥ずかしい…………あれ?」

 

 

 ふと見下ろすと深紫のマフラーが帯の代わりとして刑香の腰に巻かれていた。どうやら眠っている間に装束を整えられていたらしい。あの老天狗が羽織っていた色とは違って、マフラーからは心地よい温かさが感じられる。

 

 

「ありがと、文」

「どういたしまして、そのマフラーも刑香の役に立てたなら本望でしょう。実はある方からの貰い物ですから」

 

 

 首に巻いていたマフラーが無くなっていた文へと刑香はお礼を言った。フランドールとの戦いでもそうであったが、いつも先回りして助けてくれる文には感謝してもしきれない。いつの日にか恩を返さなければ、と思う。

 

 

「最初ははたてが『自分の帯を使って』と言い張っていたんですがねぇ。半裸で地底を行くのも可哀想かと思いまして私のマフラーを貸し出すことにしたんです」

「へー、はたては前を開けて歩きたかったんだ?」

「いや違うわよ!? 私が刑香の帯を斬ったんだから責任は取らないとダメだと思ったの。っていうか、私が肌を晒して歩きたいわけないでしょ!」

 

 

 上気させた顔を振って否定するはたて。

 もちろんこれは「刑香ちゃん」と言われた分の仕返しである。小さな復讐は成功したようで白い鴉天狗は「してやったり」と心のなかで笑う。

 見慣れぬ話し声が聞こえて来たのは、その時だった。

 

 

「妬ましいわ、あいつらの友情が本気で妬ましい。ふ、ふふっ、こんなに自分の意思で呪いを掛けたいと思ったのは久しぶりよ」

「相変わらずパルスィは絶好調だねぇ………くわばらくわばら」

 

「あー、あの二人のことを忘れてました」

 

 

 岩影にいたのは黒い感情を隠しもせずに放っている金髪少女と、桶の中に身を潜めている緑髪の少女。簡単に説明を始めた文によると、どうやら自分たちを望まぬ決闘に追い込んだ張本人らしい。しかし想像したより親しみやすそうだ。

 

 

「二人には人質兼道案内をお願いしました。なのでここからはスムーズに事が運ぶと思いますよ。無論、パルスィとキスメに対して油断は禁物ですが」

「アンタ達と戦う気はもう残ってないんだけどね、地底の連中がどうなろうと知ったことじゃないし。まあ、さとりの奴に危害を加えるなら別かもしれないけど」

 

 

 やれやれといった態度のパルスィ。

 翡翠の瞳が鴉天狗たちを覗いている、そこに敵意は欠片も感じられない。ひとまず刑香とはたては警戒を解いた、二人の様子を確認した文は葉団扇を旧都の方角へと向けて宣言する。

 

 

「ここから先はまさしく『鬼ヶ島』。されど私たちは一寸の小人ではなく、あしがら山の大男でもない、単なる天狗に過ぎません。ならば、『あの方々』との戦闘は絶対に避け、それでも衝突の危険性があるのなら即座に撤退することも胸に刻んでください」

「「了解」」

 

 

 目を凝らすと見えるのは橋姫の護っていた大橋、そこを越えた先に広がる旧都、そしてその中心にそびえる地霊殿。碁盤の目のように整理された都市区画は、おそらく建設主たちの趣味だろう。彼ら彼女らは自らが荒らし回った京の都を自らの手で復元してしまったのだ。

 震え出す身体を抱きしめて、刑香はぐっと都を直視する。

 

 

「はっ、鬼が何だってのよ。私と文、そして刑香がいるなら恐れるに足りないわ。まとめてぶっ飛ばしてやるんだから!」

「じゃあ鬼退治は、はたてに任せますね?」

「え、いや流石に一人は無理かも…………四道将軍だって犬とかキジを連れて戦ったわけだから私たちも三人でさ」

「えー、意外と自信ないんですね」

「うっさいわね!」

 

 

 緊張が漂ってきた場を和ませようと、わざと他愛もない会話を広げる親友たち。思わず込み上げてきた笑いを押し留めて刑香は肩を恐怖とは別の感情で震わせた。

 

 

 この二人となら大丈夫、そんな思いを抱いて進むことができそうだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 地底の一角に広がる『旧都』。

 この地底都市は古明地さとりの住居である『地霊殿』を中心に建築されている。正確には旧地獄の中心にあった灼熱地獄に蓋をするため、その真上に地霊殿が建てられたのだ。そこから上がる熱気と成仏できなかった怨霊の管理こそが、さとりが閻魔から課せられた使命であった。

 

 

 しゅんしゅん、と旧都の所々から漏れ出す湯気。ほのかに薫るのは硫黄の匂いと火山ガス、まるで人間たちが築く温泉街に似た雰囲気がここにはあった。この熱を効率的に伝えることで、太陽の光が届かない地下世界は繁栄を保っている。絶妙なバランスの上に成り立つそれを管理している覚妖怪の手腕は見事という他ないだろう。

 

 

 そして地底を語る上で外せないのがもう一つの種族。無限に広がる荒野に都市そのものを築き上げた化生たちである。街並みは無秩序のように見えて一定の法則を持ち、住み慣れた平安の都に似せて旧都を造り出した者こそが『鬼』。かつて幻想郷で最強と謳われた最高位の妖怪たちであった。

 

 

 

 

「うへぇ…………も、もう無理ですってば、オレはもうこれ以上は一滴だって呑めやしません!」

「何言ってんだい、まだまだこれからじゃあないか!」

 

 

 朱塗りの屋根が軒を連ねる歓楽街。

 その一郭に酒の匂いが軒先にまで染み出している宴会場があった。高価そうな酒器が散乱し、つまみに合いそうな料理がぶちまけられた店内。そこでは二本の青い角を生やした男が一本角の女性に絡まれて悲鳴をあげていた。「もう限界」だと言わんばかりに逃げ出そうとしているが、不満そうな女性がそれを許さない。

 

 

「お前、私が酌をしてやった酒が呑めないって言うのかい?」

「もう三日間ぶっ続けなんですよ。いい加減に勘弁してください、勇儀の姐さん!!」

 

 

 青年が懇願している相手は星熊勇儀。

 彼女は周囲から一段高く作られた上座に腰かけていた。そこは二人の鬼のみが座ることを許された特別な席である。青鬼の嘆きに勇儀は面倒くさそうに口を開く。

 

 

「期待していた地上からの使者は一向に姿を現さない、萃香や華扇の奴はもう数百年も音沙汰なしときたもんだ。いい加減に暇を通り越して苦痛なのさ、これはもう呑むしかないだろう?」

「…………へい、お付き合いします。ムシャクシャすることは呑んで忘れましょうや、星熊の大将」

 

 

 勇儀の向けた瞳は地獄の炎のごとき激しい赤。

 ジロリと睨まれたなら青年や他の鬼たちは従うしかない。妖怪の上下関係は絶対であるし、彼女に叶う妖怪など現在の地底には一人足りとも存在しないのだから仕方ない。やれやれと思いつつも部下の鬼たちは盃を交わしあった、宴会の再開である。それに満足した様子で大将と呼ばれた勇儀もまた顔を綻びさせて盃を傾ける。

 

 

「いいかお前ら、酒ってのはこう呑むんだよ!」

 

「おおっ、さすがは大将!」

「あいつが潰れたら次はアタイが勝負してやるよ!!」

「大将に挑む命知らずが出たぞっ、賭ける奴は今のウチだぁ!」

 

 

 やんややんやと思い思いの歓声を送る鬼たち。

 その中心で豪快な呑みっぷりをみせる彼女こそが鬼の四天王の星熊勇儀、またの名を『星熊童子』。

 

 その額の見事な一本角に刻まれているのは『妙見』の星、すなわち神格化された北極星を表す紋様である。夜空を支配する星々の王を自らの象徴たる一本角に煌めかせる大鬼、ならば彼女はまさしく鬼の頂点に君臨する一人に違いない。その事実として純粋な剛力においては鬼族の中にすら並ぶ者は存在しないとされる一番星、勇儀は絶大な力を持つ大妖怪であった。

 

 

「ぷはぁっ、これで七百五八杯目!! おい、次はお前の番だよ?」

「………………うぷっ、やっぱり無理っす。許してください、お願いしやす」

 

 

「やっぱり勇儀さんの呑みっぷりに勝てるのは伊吹の大将ぐらいだな、俺たちじゃあ何人束になろうと潰されちまうぜ」

「確かになぁ。だが、それでこそアタイたちの頭(かしら)ってもんさ!」

「がははっ、ちげえねぇ!」

 

 

 一升はありそうな盃を軽々と飲み干していく勇儀、その姿に送られる羨望の眼差しは絶えることはない。ちなみに彼女に酔い潰された鬼たちは男女問わずに幸せそうな顔でイビキをかいていた。酒の席で大将に挑んで敗北したことは彼らにとって名誉である。

 

 

「うおぉ、頭が痛ぇ…………それにしても伊吹の大将は何処に行ったんでしょうねぇ。最後に会ったのは『白い鴉天狗』がどうのって嬉しそうに話していた時でしたっけ?」

「そういえばそうだったねぇ。その鴉天狗に片目を潰されたとか、その褒美として名をくれてやったとか話していたねぇ。いやはや若いヤツと愉快な喧嘩をしたらしい、羨ましい限りだよ」

「あの萃香さんに手傷を負わせて生き残るなんて、大した天狗じゃないすか。俺だったら死神もびっくりのバラバラ遺体にされてますぜ…………でもまあ、四天王の手で彼岸に送られるなら本望ですけどね」

 

 

 青年は勇儀の隣にある空席を焦がれるように見つめる。

 そこに座す権利を持つ者こそ、もう一人の四天王『伊吹童子』。この島国において最も高名な妖怪の一体にして、またの名を『酒呑(しゅてん)童子』と呼ばれた鬼神である。

 

 実際の姿は幼く可愛らしい少女だったりするのだが、ともかく彼女が鬼の大将の一人であることには違いない。懐かしい仲間の名前を思いだした鬼たちの間に、しんみりとした空気が漂い出した。勇儀が盃をゆらゆらと揺らしながら、夜の闇に溶け込むような口調を溢す。

 

 

「どこに行ったのかねぇ、あいつは。もう何百年会ってないんだか、連絡くらい寄越せばいいのにさ」

「地上で面倒事が起こったとは聞きませんし、いったい全体どこに霧となって消えたのやら…………残念ながら予想もできやしませんね」

 

 

 底抜けに明るく天真爛漫で誰よりも残酷な、あの小さな鬼は地底を去った。「外に遊びに行く」と言ったきりその勇姿を見せなくなって幾星霜、だんだんと彼女の声を思い出せなくなってきた。青年は寂しそうに言葉を紡ぐ。

 

 

「ああ、萃香さんの酒が呑みてえなぁ。せめて『伊吹瓢』は地底に置いていってくれりゃあ良かったのに、そうすれば寂しさも紛れるってもんですよ」

「おいおい、ひょっとしてお前はアイツの酒が呑みたいだけじゃないのかい?」

「ありゃ、バレましたか…………って、いてぇ!!?」

 

「がはははっ、何だそりゃあ!!」

「伊吹の大将に言いつけてやるぜ!」

「いや、もう勇儀さんの手で埋められたから手打ちにしようや」

「まさに手打ちだな」

 

 

 どっと鬼たちが盃を片手に陽気な笑い声を放つ。特に大笑いした勇儀の肩叩きで青年は腰まで床に埋まってしまったが、そんな自分の姿を見て彼も笑いだす。分厚い床板を生身で貫くなど、並の妖怪であれば背骨を折られても不思議ではない。しかし無傷である。これが『鬼』、他のどんな妖怪よりも頑丈で容赦がなく最強の種族である伝説は幾年経ようとも揺るぎはしない。

 

 暖まる空気、笑い声の絶えない宴会場で鬼たちは今夜も語り明かし飲み明かす。それがこの数百年もの間、地底で続いてきた伝統であるのだから。

 

 

 

「相変わらず、鬼ってのは呑気でいいね」

「あん?」

 

 

 だが、どうやら今夜だけは違ったらしい。

 誰一人として気配を悟らせず、息を殺して天井に張り付いていたのは鬼ではない妖怪の少女。ふっくらした焦げ茶色のジャンパースカートはまるで蜘蛛の腹に似て、金色のポニーテールは糸のような繊細さが感じられた。

 

 

「何だ、ヤマメじゃないか」

「やっほー、しばらくだね」

 

 

 鬼たちを頭上から見下ろしていた土蜘蛛はヒラリと入り口の前に降り立った。そしてギシギシと傷んだ畳を踏み鳴らし、大胆にも酔いつぶれた鬼たちを踏みつけながら近づいてくる。足蹴にされた者は不機嫌そうに目覚めては「何だ、ヤマメちゃんか」と再び眠りについていく。彼ら相手にこんなことが出来るのは地底では極めて少ない。

 

 

「まさか白い鴉天狗があの萃香と関わりを持っていたなんて知らなかったよ。いや私には知る由がないけどさ」

「おやおや盗み聞きとは感心しないねぇ。だがよく来てくれた、歓迎するよ。とりあえず座ってくれ酒を出そう」

 

 

 親しげに言葉を交わす勇儀とヤマメ。

 人の世で幾重にも刻んできた罪、同じ源氏の武将から討伐された伝承、そして元人間であるという逸話まで通じる似た者同士。彼女たち土蜘蛛と鬼には切っても切れない絆が存在する、それ故に鬼の頭は土蜘蛛の少女を上機嫌に迎えたのだ。

 

 勇儀の前にちょこんと座り、並々と注がれた盃を受け取ったヤマメは少し口に含んでから鴉天狗について問いかける。

 

 

「で、そいつの名前はわかるの?」

「刑香だよ、刑香。ただし家名はなかったはずだから、そのままで姓名のはずだ。しきたりに煩いはずの鴉天狗のくせして名字がないとは珍しい話ではあるがね」

「ありゃりゃ、それは残念。もしかしたらアイツの関係者かと勘ぐってたのに家名無しか。まあ、いいや面白そうな火種には変わりない」

 

 

 獲物を狙う蜘蛛の牙がチロリと覗く。

 老天狗からは「手を出すな」と脅されたが、そんなモノはヤマメにとって逆効果である。藪をつついて出てきた蛇を丸呑みにする、それが旧き妖怪たちの気質そのものだ。だからこそ彼女たちは人間から徹底的に排斥されたのだ。

 土蜘蛛の少女は楽しげに口許を歪ませる。

 

 

「耳寄りの情報があるんだけど聞いてみるかい、鬼の大将さま?」

「そりゃあ、暇だからね。退屈な時間を潰せるのなら是非とも聞かせてもらおうじゃないか、勿体振らずに教えてくれよ」

 

 

 乗り気な鬼に対して、まるで巣に潜む主のごとく土蜘蛛の少女は不敵な笑みを見せる。その瞳に映るのは獲物を狙う光だ。それを訝しげに思いながらも勇儀はヤマメの話に耳を傾けることにした。

 

 

「そいつ今、地底に来てるよ」

 

 

 果たして、その時に鬼の大将が浮かべた表情はどんなものであったのか。盃を放り出し、がたりと立ち上がる様子を見れば一目瞭然であった。

 

 


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