その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第3章『天狗映山抄』
第三十八話:八雲立つ


 

 

 目の前にある巨大な水槽に少女は心奪われていた。

 空を泳ぐように、キラキラ光る魚の群れが頭上を通過していく。本来なら海でしか生きられないはずの彼らは、人間の御技によって設けられた『世界』の中で命を繋いでいる。ここは海から遠く離れた陸地なのに、神様の決めた掟に逆らって人々は容易く禁忌を犯すのだ。

 

 

 ーーでもやっぱり落ち着くかも、やっぱり『境界(スキマ)』だからかな?

 

 

 個人的にこういう場所は好きだ。

 『俗世』と『神域』を分ける神社の鳥居も、『空』と『陸』を分ける高い山の上も同じくらい好きだ。そこには『世界』を分断する小さな小さな境界があるから。黒と紫色が混ざったような亀裂がそこかしこに広がっている。

 自分の顔が薄く映ったガラス板に、金色の髪の少女は手をついた。ふわふわしたナイトキャップと紫色のワンピースが空調の風に吹かれる。とても落ち着いた雰囲気のある少女だった。

 

 

「聞いてるのっ、ねえったら…………メリーッ!!」

「ひゃわっ!?」

 

 

 急に肩を揺らされて少女は飛び上がる。

 その瞬間、視界に浮かんでいたスキマは消えて精神が現実へと引き戻された。あれほど見えていた境界の溝が消え失せる。そのまま鼓動がうるさい胸を押さえて振り向くと、不機嫌そうな顔をした友人が立っていた。深呼吸をしてから、メリーと呼ばれた少女は口を開く。

 

 

「……どうしたの、蓮子?」

「どうしたもこうしたもないわよっ、私がちょっと目を離した隙にあんたがいなくなったんでしょ!」

 

 

 気がつくと周りの景色が変わっていた。

 最初にいた入り口から随分と離れている。友人と一緒にいたつもりが、どうやら自分だけふらふらと歩いていたらしい。隣の水槽ではメジロザメがこちらを鼻で笑うように通り過ぎて行った。

 とりあえず謝ってみようとするが友人、宇佐見蓮子は許してくれそうもない。白いリボンの付いた中折れ帽子に、同じく白いブラウスと黒いスカート。出で立ちは可愛らしいのに、活発な印象からどこかボーイッシュな雰囲気を持つ黒髪少女。そんな蓮子は少しだけ口を尖らせる。

 

 

「私たちは『秘封倶楽部(くらぶ)』の活動でここに来てるのよ。私たちは二人で一つなのにメリーだけで先に行くなんて酷いじゃない」

「ご、ごめん。こういう所に来るとつい……」

「悪いと思っているならよろしい、今回は許してあげるわ。で、何か見つけたの?」

 

 

 蓮子がコツンと水槽を叩いてみるとハリセンボンが膨らんだ。空気や水を取り込むことで身体を風船のように肥大させる珍しい習性を持つ魚である。そのユーモラスな姿を眺めることで、黒髪の少女は少し機嫌を良くしたらしい。メリーに対する口調が和らいでいる。

 

 自分たちは大学の霊能力者サークルである『秘封倶楽部』の活動としてここに来た。部員は二人だけの小規模サークルで、普段は授業の合間にお茶をして長々と役に立ちそうもない話をする集まりである。今日の水族館への遠出だって、蓮子の思い付きでしかない。メリーは首を横に振る。

 

 

「ううん、ここは違うみたい。確かに『切れ目』はあるけれど、他の場所と変わらない大きさだわ。これじゃ二人が通るのは無理ね」

 

 

 人間であるはずのメリーには『境界を見る程度の能力』が備わっている。その紫水晶のように綺麗な光を宿した瞳には、世界の境界(スキマ)が見えている。微かな切れ目であったり、大きな断絶であったり、それは多種多様な形で瞳に映る。

 

 

「そっかー、やっぱり普通の水族館じゃダメよね。ううむ、我ながら時間の無駄だったかなぁ?」

「そうでもないよ、私は蓮子とここに来られて楽しいもの」

 

 

 なら良かったと蓮子が顔を赤くした。

 ガラスを一枚隔てて、その背後には泡沫の世界が広がっている。海の一部を切り取ってきたように青い水底で泳ぎ回る魚たち、敷き詰められた白砂の上で休んでいる者もいる。生存競争から離脱した彼らは外敵に襲われる危険がない代わりに、ここでは歯車の壊れた時間が流れている。黒髪の少女は帽子を押さえながらガラスを覗き込んだ。

 

 

「ここには絶滅危惧種も沢山いるわけだけど、彼らは望んだわけでもなく、ただ生かされているだけなんだから残酷なもんだよね」

「そうかな、私は綺麗だと思うよ。自然の生態系から切り離されたからこそ、彼らには別の自由が示されている。確かに狭い水槽だけど、そこには小さな世界があるもの」

「見解の相違ね、そういうのは嫌いじゃないわ。でも私的には不自然な営みは間違っている気がするのよねぇ。現代人が言っていいセリフでもないけど……」

 

 

 それはきっと正しい。自分たちの目の前に広がるのは作られた世界、美しくも残酷な檻なのだ。だが、それを理解しながらもメリーは『美しい』と感じている。一切の妥協なく組み上げられた計算式に支えられたモノは心に響いてくる。もし自分も『同じモノ』を作れたなら、どんなに良いだろうか。

 ひたりと水槽のガラスに触れてみた掌に温度はなく、ただひたすらに伝わる感覚は空虚だった。そんなメリーから蓮子は「やれやれ……」と視線を反らした。

 

 

「いつになったら『幻想郷』への手掛かりが掴めることやら。大学で見つけた文献とメリーの夢はドンピシャだと思ったんだけどなぁ」

「ほとんど手掛かりがないんだから仕方ないわ。私たちは私たちらしく、のんびり行きましょう?」

 

 

 ここではない何処かには『霊能力者』や『人ならざる者』が住む世界がある。大学の資料室から見つけた古びた文献にはそう書かれていた。それは誰にも読まれずに埃を被っていた名前すらないメモ帳だった。なにせ自称超能力者だの、眠っている間は結界を越えられるだの、妖怪と戦って勝利したなどと書かれた何者かの自伝である。妄想の類いだと判断されて本棚の一番奥に押し込まれていたのだ。

 

 しかし普通の人間には何てこともない資料も、理解できる者が見れば価値は劇的に変わる。何せメリーと蓮子は両者ともが、世間一般で言うところの『霊能力者』なのである。二人は即座に書かれていることが本物だと見切った。

 そして境界の向こうには『幻想郷』が存在するという仮定を元に、あらゆる角度からの考察を二人はもう数ヶ月も続けている。

 

 

「それにしても、メリーと違って私の『能力』はあんまり役に立ちそうもないわ。迷子になった時は便利なんだけどさ」

「あはは、蓮子のチカラは現在地が分かるってヤツだもんね。そのくせ待ち合わせには絶対遅れて来るけど…………今日は二時間くらい待たされたし」

「ごめんごめん、何か奢るから許してよ。えーと、手始めにあそこの自販機でジュースはどうかしら?」

「しょうがないから勘弁してあげるわ。今回が最後だからね」

 

 

 これで通算四十七回目の『最後』になる。それを考えるにメリーはこの友人に甘いらしい。「さあさあ」と背中を押し始めた蓮子は本当に調子のよい少女だと思う。

 左右を水とガラスに挟まれた薄暗い廊下を歩いていく。平日ということもあり、自分たち以外に来館者はいない。余分な人影はなくコツコツと響くブーツ以外に音もない、今だけは二人の貸し切りだ。少しだけ贅沢な気分になった。

 

 

「そうだ、ちょうどお昼になったことだし蓮子の奢りでランチにしましょうよ。ほら、近くの大学に有名な所があるじゃない?」

「げっ、あそこの店に行くつもりでしょ。止めてっ、フレンチなんて高くて私の財布が死んじゃう!」

「あー、聞こえませーん」

「ちょっとメリー!?」

 

 

 半分冗談、半分本気。そんな灰色の笑い話を繰り返しながら、二人は自販機にたどり着いた。もちろんコレも蓮子の奢りである。何てことのないドリンク類でも、タダだと考えると嬉しく思えてしまうのは何故だろう。

 

 上機嫌で飲み物を吟味するメリーに対して、蓮子はさっきの話を本気にしたらしく財布の中身を確認していた。「さすがにフランス料理は冗談なのに」と金髪の少女は心の中で笑うが、訂正はしない。しばらくは悩んでいた方が良い薬になる。

 端から飲料を視線でなぞっていると、不意にメリーの動きが止まった。

 

 

「まだ寒いのにこんなのも売ってるのね」

 

 

 冷たいコーヒー缶のディスプレイを指先でなぞる。ほんの数日前まで自販機は温かい飲み物しか売ってなかったはずなのに、少し商品が入れ替えられていた 。赤いボタンが青いボタンへと、たったそれだけの変化だった。

 なのに胸のうちへ冷たいスキマ風が流れて来るような気がした。ぼんやりと何かを思い出すように、少女はここではない何処かへと心を移す。何故こんな気分になるのだろう、しばらく悩んでからメリーは答えに辿り着く。

 

 

「そうか、もう冬が終わるのね」

「……どうしたの、メリー?」

 

 

 季節は変わり、春が来る。

 たったそれだけの話なのに、ひどく寂しい気持ちがするのは何故だろうか。何でもないわ、そう友人に伝えようとしても唇は動かなかった。ぼやけた視界は、短い『夢』の終わりを告げている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございます、紫様」

 

 

 控えていた式神が目覚めた主へと頭を下げた。

 それにチラリとだけ視線をやったスキマ妖怪、八雲紫はゆっくりと布団から起き上がる。ここは外の世界で忘れられた者たちが集う場所、妖怪たちの楽園ともされる『幻想郷』。その何処かに存在する八雲邸にて、主たる大妖怪は暗闇を見つめていた。

 

 まだ意識がはっきりしない。妖力は安定せずに波紋を広げ、思考は泥沼に沈んだ車輪のように動かなかった。冬眠から覚めた時はいつもこうだ。重々しい眠気が残っていて身動きが取れない、もう暫く結界の管理は藍に任せた方が良さそうである。

 

 

「…………眠っている間に悲しい夢でも見られましたか、我が主」

 

 

 藍に問いかけられて初めて気づく。涙の細い筋が自分の頬を流れ落ちていた。

 

 遠い過去のような、

 近い未来のような、

 己のことのような、

 他人のことのような

 そんな不思議な夢を見ていた気がする。

 

 

「もう覚えてないわ」

「そうですか」

 

 

 あれは一体、誰だったのだろうか。思い出そうにも思い出せず紫水晶のように美しい瞳は天井を見上げる。心ここにあらず、そんな主人へと狐耳の従者は優しく微笑んだ。

 

 

「もうお昼です。食事の準備は出来ておりますから、眠気覚ましと思って居間へお越しください」

「ありがとう。冬の間は大丈夫だったかしら、あなたにはいつも負担を掛けるわね」

「私は貴女の式ですから、お気になさらず。私の身体も心も、未来と過去さえも御身と共に」

 

 

 藍の力強い言葉に涙を拭う。

 どうして泣いていたのか、どうして悲しかったのか。まるで思い出せないので、その感情を雑念と見なして切り捨てる。胸には虚しさが残ったが不足はない。こんなにも愛しい式が側にいてくれるのだから、それ以外のことなど大したことではない。

 

 

「藍、少し後ろを向きなさい」

「はい、如何なるご命令でもお受け致しま…………ちょっと紫様?」

「うーん、もふもふぅぅ」

 

 

 式神の尻尾に頭を埋める、九本の尾はどれもフカフカで極上の毛並みだ。藍は困った子供を見るような視線を送ってくるが、知ったことではない。

 このままだと二度寝してしまいそうな気持ちよさだ。片手には白い羽の詰まった枕を持っているのだからすぐにでも可能だ。よし寝ようと思った紫へと、そうはさせじと藍が話しかける。

 

 

「起きてください、実は紫様にご報告しなければならないことがあるんです」

「地底のことかしら、それともあの娘のこと?」

「恐らく両方かと思います。そちらについては、お昼を召し上がりつつお聞きくださればと…………だから離してください!」

「やーよ、もうちょっと」

 

 

 駄々っ子のような抗議の声が響く。

 まだ寝ぼけているのだろう、これでは賢者の称号が形無しである。完全復活にはまだ時間がかかりそうだと溜め息をつきながら藍は大人しくしていることを決めた。主のわがままに付き合うのも式の務めなのだから。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 梅の匂いが香る空の下。

 刑香たちが地底から帰ってきて一週間が経ち、幻想郷には春の欠片が漂っていた。まだまだ弱々しい日射しだが、それは地面の雪を溶かして命を芽吹かせるには十分だった。青々とした草花が茂り、冬の妖怪は姿を消し始めている。天狗の山から始まった景色の変化は、その麓にある『玄武の沢』にまで広がっていた。

 

 多角に削り取られたような柱が、スキマなく立ち並ぶ岩壁に守られた場所。ここには大きな川が流れている。妖怪の山から這い出した深緑の木々が水に恵みを与え、大きな滝を上流に持つために川は豊かな水量を保ち続ける。谷底に広がる清流は、まさに水を好む妖怪たちの楽園であった。

 そしてそんな玄武の沢を支配している妖怪こそが『河童』なのである。

 

 

「おいおい、これは妖気を纏ってるじゃないか。いったい何をしたのさ、打ち出してから数年しか経っていない錫杖が妖力を持つなんて…………鬼か竜の目玉でも突っついたのかい?」

「まあ、外れてはいないわね」

 

 

 河童の少女、河城にとりは首を傾げていた。甲羅代わりの大きなリュックサックを岩場の上に置いて、ポケットから取り出した工具で錫杖をコツンと叩いてみる。反発するように立ち昇る気配は間違いなく、妖刀や妖槍の持つ『妖気』に他ならなかった。

 自分が作ったモノなので、材料や構造は全て把握している。だからこそ錫杖の変化は予想外であった、いくら天狗の手にあるからといって数年で妖刀と互角の力を持つなど不可能だ。しかしそれ以上に有り得ない話へと、にとりは首を振る。

 

 

「いやいやいや、滅多なことを言うもんじゃないよ。鬼がそこらをウロウロしていて堪るもんか、連中は地面の底に封じられたんだよ。恐ろしい恐ろしい、くわばらくわばら……」

「実際会ってみたら愉快な連中だったわよ。萃香様よりは話ができる鬼も多かったし、速攻で喧嘩売ってきた勇儀様はともかくとしてね」

「……ひょっとしてマジで鬼の目玉を抉ったの、刑香?」

 

 

 にとりは白い鴉天狗、白桃橋刑香へと恐る恐る事の真相を尋ねていた。

 この天狗とはそれなりに長い付き合いだ、犬走椛には負けるがそれでも百年くらいは経つだろう。友人というわけではないが、それなりに信頼できる商売相手として細く長く付き合っている相手である。

 

 また錫杖がひび割れたから直して欲しい、今回の刑香はそんなことを言って訪ねて来た。だから実物を見せてもらったのだが、同時に聞いてはいけない情報を知ってしまった気がする。鬼と戦った経緯など危ない香りしかしない。出来れば聞きたくないのだが、白い鴉天狗は少し得意気に話を続けてくる。

 

 

「ちょっと地底に出向いてたのよ、そこで鬼の四天王に喧嘩を売られてね。最初は死ぬかと思ったんけど色々あって四人がかりで倒したの、あれはここ千年あまりで一番の白星かもしれないわ」

「た、倒した? …………へ、へぇ、それは凄まじいね。とても信じられないや」

「うん、本当に信じられないわ」

 

 

 珍しく楽しげな白い鴉天狗。

 基本的にこの少女が僅かなりとも笑顔を見せる相手は、にとりの知る限り二人しかいない。なのに自分に対して、こんな表情をしてくるということは本当に嬉しいのだろう。鬼、それも四天王を倒したのは本当のことなのかもしれない。

 夏空を映した碧眼はそんな少女の心を表すかのように明るい光を宿していた。しかし、河童の少女の心は穏やかではない。

 

 

「待って待って、それは私が聞いても大丈夫な話なんだよね!? 何だかスゴく危ない気がするよ!」

「問題ないわ、大事なところはボヤかして言葉にしてるから。それに大した機密じゃないわよ?」

「私は八雲の内部事情には関わりたくないんだ。ただでさえ天狗からの締め付けが最近は強くなってきてるし、この上で八雲にまで巻き込まれるのは御免だよ」

「私のせいで巻き込まれたなら護ってあげるわよ、勝手に巻き込まれたなら知らないけど…………それより天狗がどうかしたの?」

 

 

 神妙な顔つきに変わった刑香を見て、にとりは少しだけ意外だと思っていた。

 近頃はスキマ妖怪の一派に加わったとか、巫女の式神にされたとか、刑香には良からぬ噂がある。天狗たちの間では「裏切り者」扱いされていて、河童の間でも良い話は聞かなくなっているのだ。だが、この様子だと刑香は八雲に深く関わっているわけではないのかもしれない。

 だとしたら天狗の次は八雲に、また都合良く利用されているのだろうか。本人は何とも思っていないようだが、端から見れば彼女はどこに行っても「役に立つ道具」である。憐れむつもりはないが、少しだけ同情はしている。

 

 

「まあ、鬼や天狗から道具扱いされてきた河童が言えたことじゃないけどね。道具仲間として仲良くしようね、刑香」

「……あんた、また面倒なこと考えてるわね。私のことはいいから今の山について教えなさいよ」

「はいはい、実は天狗社会が動揺していてね。規律が乱れてるんだ。組織の命令に逆らおうとする連中、果てには人里との盟約を破って人を浚おうとした奴まで現れてる。まあ、寸前で取り押さえられたけど」

「……酷いわね、少し前なら考えられなかった。でもどうしてそんなことに?」

「これまた噂だけど、大天狗たちが亡くなったらしいんだ。今は天魔様が御一人で上役をこなしているから、手が回らないとかね。ほいっと、この錫杖は返すよ」

 

 

 点検を終えた錫杖を刑香へと投げ渡す。くるくる回転しながら飛んできたソレを白い少女は難なく受け止めた。

 

 全ての始まりは吸血鬼異変が収まった時にある。あの辺りから山は騒がしくなった、堤防に出来た亀裂から水が流れ出るように少しずつ、若い天狗の一部が暴れ出したのだ。様々な不満があったのだろう、それに同調するように参加する天狗が現れて騒動は今も水面下で続いている。

 

 

「長老様もご高齢だからねぇ、天狗じゃなくても山の行く末は気になっているさ。誘拐未遂があったせいで、人里なんて最近は山に踏み込まないようにお触れが出ているくらいだ」

「……人の子が山に入って樹を伐採したり、食料を調達するのは天狗が黙認していただけだからね。彼らの気が変わってしまったなら、人間が山にいるのは危ないわ」

「そういうこと。私たち河童の中にもいるんだよ、天狗の集落に近づいて斬られた可哀想な子がね。まったく光学迷彩使っても白狼の鼻は誤魔化せないから嫌になるよね」

「あんた達は自業自得でしょ、天狗の里を見張ろうとするなんて、次は首が飛ぶわよ」

「あははっ、ちょっと監視カメラを設置しようと思っただけなのになぁ」

 

 

 鬼がいない今、この山の進む方向性を決めるのは天狗だ。それなのに彼らの社会は揺らいでいる、だからこそ監視カメラを付けて何か面倒なことがあった時に備えようと思ったのに上手くいかないものだ。儲け話にも繋がったかもしれないのに残念だ。にとりが「次は上手くやるさ」と笑うので、刑香はそれに呆れてしまう。

 得てして河童とは、こういう妖怪なのだ。

 

 

「それにしても大天狗たちが亡くなったのね。私が施してやった『能力』はまだ続いていたはずだけど、どうやって命を断ったのかしら」

「どうだろうねぇ。確かに刑香の『死を遠ざける程度の能力』を消し去って命を断つなんて、並大抵のことじゃないと思うけどさ」

「天狗の中に『死』に関連する能力持ちはいなかったはずだし、外部から呼び寄せたのかもね。まあ、この話はいいわ。山の動揺はいつまで続きそうか分かる?」

「新聞に載せて人間たちに知らせてやるつもりなの? 相変わらず素直じゃないくせにお人好しだねぇ。そんな生き方してたらいつか本当に喰われるよ、いろんな意味でね」

「その時はその時よ」

 

 

 にとりは思う。

 どこか冷めている性格、基本的には他者の定めた秩序に従おうとする姿勢を持つ鴉天狗。組織から追放された時も復讐なんてものは考えず、その後に現れた八雲紫に取り込まれる形で別の勢力へと属している。今までも組織から利用され捨てられて、今度は八雲に使われているのだ。それほどの『利用価値』があるのだろう、どこにも刑香の逃げ場はない。

 

 

「難儀なものだね。便利な能力を持って天狗様に生まれたのに、こんな目に会うんだから分からないもんだ」

「別に後悔はしてないわ、私が選んだ生き方なんだから。…………でもそうね、次があるなら平凡な河童に生まれるのも面白そうかしら」

「へぇ、そりゃあいい。河童一の技術者である私の弟子としてこき使ってあげるよ、今なら三食きゅうり付きだけどどうだい?」

「生憎とまだ天狗だし、河童の労働基準は分からないわよ」

「くくっ、そりゃそうだ」

 

 

 思わず純真な笑みをこぼす河童の少女。

 一方の刑香は笑ってこそいないが、空色の眼差しが少しだけ柔らかくなっていた。流れる川のせせらぎは溶け出した雪を乗せて輝いている、山の若葉は清々しい空気を吐き出して谷を満たしてくれていた。

 頭のてっぺんを隠す帽子を被り直す河童、白い翼を広げる鴉天狗。春の日射しに手をかざしながら、二人の妖怪少女は日向ぼっこをしているようにも見えた。しばらく黙った後、にとりはポツリと呟く。

 

 

「でも、自分を利用しようとする輩には本当に気をつけな。前に片翼を折られたのも八雲紫に関わったからなんだからさ。今回も内臓をやられて、まだ完治していないんでしょ」

「…………分かってるわよ、今日はえらくお節介ね。そんなに客がいなくなるのが困るのかしら?」

「そりゃ誤解だよ、私はただ人里や博麗の巫女との繋がりを持っている天狗様にこれからも宜しくしたいだけ。単なるお客じゃなくて商売相手、この違いは大きいよ」

「そこは『心配してる』って言いなさいよ。河童って相変わらず腹黒いわね」

「天狗様には負けるさ」

 

 

 事実として、天狗たちほど権謀術数に長けた妖怪も珍しいだろう。その上で鬼が『盟友』と認める実力を個体として持ち、集団行動を基礎としているとは恐ろしい。この幻想郷において、最も敵に回してはいけない種族が彼ら彼女らなのだ。

 河童でさえ天狗には滅多なことでは逆らわないし関わらない。にとりが仲良くしている天狗も、文と刑香とはたての三羽鴉、そして白狼の椛くらいなものだ。このところ他の天狗達から依頼されることも増えたが、どいつもこいつも河童を見下した連中ばかりで鬱陶しいものだと感じている。

 

 

「さてと、そろそろ神社に行こうかしら。今日はありがとね、にとり」

「どういたしまして、代金はツケにしておくよ。次にまとめて払ってね、払えなかったら着ている装束を剥いじゃうかも」

「いや、今回は何も直してもらってないわよ?」

「鑑定料だよ、鑑定料。さっきの錫杖が妖気を発し始めてるって教えてあげたじゃん」

「…………セコいわね、別にいいけど」

 

 

 じゃあね、と翼を羽ばたかせて空へと吸い込まれていく刑香。青空に白い翼はよく映える、まるで真っ白な雲が移動するかのように少女は春風に乗って飛んでいった。

 次はどんな厄介事を持ってくるのか楽しみだ、にとりは岩場から立ち上がり背伸びをする。湖のように静かな光を秘めた青髪が風に揺れ、胸元に縛り付けた鍵が鳴る。朗らかに笑った後、少女は川へと歩いて行った。

 

 

「ああ、久しぶりに良い風だったな」

 

 

 ぽちゃんと谷底に響いた水の音。

 そこには河童の姿はなく、ただ水面がゆらゆらと波打っているだけだった。空には幾重にも白が重なった八雲が流れる春先の頃、これは穏やかで何でもない天狗と河童の一幕である。

 

 

 

 

 


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