その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第三十九話:妖怪と人間と

 

 

 その山には死の気配が漂っていた。

 カラカラに渇いた喉で一人の少年が、湿った森の空気を吸い込みながら走る。今にも力が抜けてしまいそうな身体は頼りなく、棒のような脚に感覚はなかった。それでも生きたいならば、一歩でも遠くへと少年は逃げなければならなかった。

 そうしている間にも震えは止まらない、自分を襲ってきた『妖怪』たちの声が脳裏から離れないのだ。

 

 

――久方ぶりの『供物』よな

――天魔様に見つかる前に喰らってしまおうぞ。見張りの白狼にはシカ肉とでも誤魔化しておけば良い

 

「ひ、ひぃぃぃ…………っ」

 

 

 恐ろしさで脚がもつれそうになる。

 薬草を摘んでいた自分を拐おうとしたのは『鴉天狗』だった。この山を支配する種族にして、高速の翼で空を切り裂き、一撃の元に獲物を仕留める上位妖怪。ただの人間が襲われて生きているなんて奇跡的である。

 

 辺り一帯の空気は刺々しく、森の木々は怯えるよに静まり返っていた。憐れな人の子が泣きながら走る音だけが、何にも邪魔されず木霊している。彼は冥界でも迷い込んでしまったのだろうか。

 

 

「て、天狗様…………何で、何でこんなことをっ」

 

 

 傷だらけの顔で少年は叫ぶ。

 今、妖怪の山が危険な状態であるのは聞いていた。『山に入るべからず』という注意書きが、天狗たちの新聞でも宣伝されていた。しかし病弱な家族のために、どうしても少年には薬の材料が必要だったのだ。

 何度も自分を止めようとしてくれた恩師の顔が頭に浮かぶ。

 

 

――いくらお前が病弱なご両親のために、薬の材料を集めたいと言っても連中は見逃してくれないぞ。今の天狗たちは平気でお前の命を狩り取るだろう。だから山に入るのは止めるんだ

 

「っ、そんなことない、天狗様はそんなことしないって信じてたのにっ!」

 

 

 かつて少年は白い鴉天狗に命を救われた。そしてその日から『天狗』とは心優しい妖怪であると考えてしまったのだ。どこか清らかで儚げな少女、そんな刑香を天狗一般の基準にしてしまった。もちろん白桃橋刑香とて、無条件に誰かを救うことはないのだが。

 それがこの様である。清浄な雰囲気のあった白い鴉天狗とは真逆、人間を『供物』として捉える妖怪に追われている。闇夜の翼も血の滲んだ赤い瞳も、命の恩人とは似ても似つかない。あれは化け物だ。

 

 裏切られたような気持ちが湧き上がっていた。あの白い鴉天狗も里の外で出会ったなら自分を喰らおうとしたのだろうか、人間を喰らっているのだろうか。信じたくない、しかし逃れられない『死』が残酷に現実を語っている。そこまで考えて脚は唐突に止まった。

 

 ぼろぼろの草鞋が切り立った岩を踏みつける。

 

 

「あ、そんな…………行き止まりなんて」

 

 

 目の前には切り立った崖と、大きな音を立てて流れ落ちる滝。六角の柱が重なるように整えられた岸壁は清々しく、その周りを深い森が囲んでいる。走り回っている間に山の奥地まで来てしまったようだ。

 もう逃げられないだろう。背後の森から獣のような何かが近づいており、空では漆黒の翼が獲物を探し回っている。虚ろな瞳で笑いながら幼い少年は一歩前に踏み出した、そこに道はない。

 

 

「願わくば花の下にて春死なん、だったかな。ごめんなさい先生。どうせ死ぬならせめて『あの天狗様』の作ってる新聞の写真みたいに綺麗な自然の中で、逝かせてください…………」

 

 

 喰われるくらいなら、滝壺の下にでも沈んでしまおう。この景色を目に焼き付けながら、石ころのように墜ちていこう。人里の寺子屋でも優秀な成績を修めている秀才、そんな彼はゆっくりと『死』の淵から身を投げ出した。

 空中で何が出来るわけでもない。一直線に真っ白な泡を浮かべる滝の口へと吸い込まれていく。程なく鳴り響いた音、水底に沈んだ身体が見つかることはないだろう。そうして少年の魂はこの世から旅立つことになった。

 

 

 

 

 

「待ちなさいよ、このぉぉぉっ!!!」

「ぐぇぇっ!?」

 

 

 身を投げ出した瞬間にその手を一人の少女が掴んでいなかったならば、そうなっていたはずだ。肩が外れそうな勢いで少年は死の淵から引き上げられる。

 

 

「……あー、もう。新聞で警告された途端にコレなんだから、本当に人里の連中は油断できないわね。妖精よりバカなんじゃないの?」

「え、あれ?」

 

 

 ミノムシのように吊り下げられ、そのまま誰かに腕を引っ張られている。ぐらぐらと揺れる視界の下では、滝が恐ろしい叫びをあげていた。まるで自分を引きずり込もうとする冥界の口である。全身から汗が吹き出すのを感じながら、おそるおそる少年は顔を上げた。自分を助けてくれた相手に「もしかして」と淡い期待を込めながら。

 

 

「人里から捜索願いが出ていたわよ。まったく、今の山は天狗どもが暴れていて危険だって新聞に書いてあったでしょ。妖怪は人を簡単に喰らうのよ。まあ、この私が間に合ったから良かったけどね」

「あ、ありがとうございます…………巫女さま」

 

 

 そこにいたのは紅白の少女だった。

 いつか見た夏空の碧眼ではなく、赤みがかった黒い瞳が自分を見つめている。大きなリボンで可愛らしく結ばれているのは白ではなく黒い髪、そして天狗装束ではなく肩の部分が露出した巫女服。なかなかに特徴的な格好をした当代の巫女、その名を博麗霊夢という。

 

 

「さてと、私の他にもう一人がアンタを探してるからね。そっちと合流してから人里に帰るわよ」

「はい……ご迷惑をおかけしました」

「何だか元気ないわね。この私が助けてやったんだから、もっと喜びなさいよ」

「はい、ごめんなさい……」

 

 

 ぽっかりと心の奥には穴が空いていた。

 結局のところ人間を救うのは人間だけ、そんな『当たり前の事実』を少年は思い知らされたのだ。一年前、白い鴉天狗に出会った時の記憶が色褪せていく。命の代わりに大事な何かを失って、少年は力無く空中で項垂れていた。

 

 一方の霊夢はそんな子供の様子には目もくれず、周囲を警戒していた。迂闊に地面へ降りてしまえば白狼天狗に嗅ぎ付けられ、かといって上空に留まれば鴉天狗に発見されてしまう。この山は霊夢にさえ危険過ぎるのだ。お祓い棒を握る手はじっとりと汗ばんでいた。そして張り巡らせた五感で、微かな妖気を感じとり霊夢は目を見開く。

 

 

「っ、何か近づいてくるわ。鴉天狗だったら二人で逃げ切るのは無理、アンタを河童のアジトに放り込むから覚悟しておきなさい」

「ちょっ、河童って大丈夫なんですか!?」

「人間のことを『盟友』なんて呼んでるし、運が良ければ助けてくれるかもね。悪ければ尻子玉を抜かれるだろうけど、それはそれで優しくしてくれるでしょ」

「ものすごく嫌ですよ!?」

 

 

 二人の真下には『玄武の沢』が広がっている。

 六角の石柱で囲まれた谷を流れる小さな河、そのまま下っていけば人里に出られるはずだ。落下では死なないだろうから、あとは幸運を祈るしかない。

 そして凄まじい速さで迫って来るのは黒い点。白狼ではない、鴉天狗の方に見つけられてしまった。少年は苦笑いをするしかない。

 

 

「か、覚悟を決めたので手を離してください。天狗に喰われるくらいなら河童に尻子玉を抜かれた方がマシ、だと思います!」

「……さっきのは冗談よ。一羽なら何とかなるかもしれないから黙ってなさい」

「っ、ありがとうございます……巫女さま」

 

 

 まだ霊夢はそこまで非情になれない。

 お祓い棒を一振りすると、青い輝きが二人の周りに集まっていく。光の粒一つ一つが霊力の塊にして、妖怪を払う力を持っている。蛍のように舞う光はあっという間に収束し結界を作り出す。

 黒い刃が『突き刺さった』ソレは、並の妖怪を一切寄せ付けないだけの強度を持つ。結界をいとも容易く貫き、鼻の頭をかすってきた妖刀の(きっさき)に少年は息を飲んだ。

 

 

「ほうほう、これはこれは巫女殿。お会いできて光栄にございます」

 

 

 そこにあったのは猛禽の眼光。分厚い結界を挟んで羽ばたいているのは鴉天狗の若い男であった。妖刀を結界に差し込みながら、翼ある妖怪は焦る巫女を見つめて胡散臭げに笑っている。

 

 

「……あ、危なっ。加速込みとはいえ、私の結界に一撃で穴を空けるなんて恐ろしいわね。ぞっとしないわ」

「これは申し訳ない。当方は探し物の途中でありまして、巫女殿をくせ者と見誤ってしまったようです。重ねて謝罪いたしましょう」

 

 

 男から放たれる妖力は大きく、身体の隅々から放たれる生命力は白い少女の比ではない。少なくともこんな存在感を持つ妖怪を少年は知らないし、その赤い眼差しに好意的な光は欠片も宿っていない。こいつは人間を見下している、そう確信させるだけの雰囲気を持つ男は、太い指で少年を指差した。

 

 

「ああ、巫女殿が『拾って』くださったのですか。それは我々に捧げられた供物でして、よろしければお渡し願えますかな?」

「寝言は寝て言いなさい。縄張りに踏み込まれただけで人間をエサにしていいわけないでしょ。このまま退治されたくないなら大人しく巣に帰りなさい!」

「ほぅ、この私を退治する? これはこれは冗談がお上手であられる」

「アンタもね、思わず鼻で笑いそうになったわ」

 

 

 作り笑いを顔に張り付ける両者。

 天狗の方は結界を抉じ開けようと妖力を高めており、巫女の方は結界を破られまいと霊力を注ぎ込んでいる。会話を続けながらも相手を説得する気はお互いにない。ここにいるのは妖怪と妖怪退治屋、ならば次の行動は決まっているのだ。そして軋み始めた結界は、勝負がどちらに傾いているかを示している。苦々しい顔をする巫女に対して、黒い鴉天狗は醜悪な笑みを隠しもしない。

 

 

「ともかくそれは我らの獲物だ。返してもらおう」

「幻想郷の住人を襲うなんて許されるわけない。まさか賢者たちの取り決めを破るっての?」

「非常時ゆえに多少の荒事は仕方がない。人を喰らい早急に力を付けねばならん、さすれば大天狗の座を我がモノにできるのだ!」

「あ、ヤバい、限界かも…………ぐっ、きゃあ!?」

 

 

 結界のスキマに左右の腕を突き刺し、そこから無理やりに引きちぎる。完全な力技で鴉天狗は幼い巫女の結界を打ち破っていた。いかに霊夢が未熟だとしても恐ろしいまでの執念である。ガラスの砕ける音が響いた後、少年を放り出して巫女が吹き飛ばされる。

 

 霊夢の手を離れて再び落下していく少年を、勝ち誇った顔で鴉天狗は追いかける。その際に、キラリと上空から何かが急降下してくることには気が付かない。人間の恐怖に染まった顔をゆっくりと堪能してから、男は日に焼けた腕を伸ばした。

 

 

「近いうちに賢者たちが集まる会合もある、そこまでに我が名を上げれば『天魔』への昇格も……」

「理由は結構だけど、私たち天狗が『人喰い』に走るのはあまり上等な手段ではないと思うわよ?」

「――――何奴、ぅっ!?」

 

 

 振り向いた顔面を殴り飛ばしたのは、錫杖の一撃。

 獲物にありつける瞬間を狙われ、まともに頭を打ち据えられた男は呆気なく意識を刈り取られる。随分と情けない声を残して、暗転した視界のまま滝壺の中へと飛び込んでいった。まもなくドンと高い高い水柱が立ち上がる、落下の加速を緩めなかったからだろう。

 

 

「まだ『死』に追い付かれるのは早いわよ」

 

 

 そして白い手が少年の腕を掴み取る。そのまま出来るだけ負担をかけないように速度を落としてから、その身体を抱き上げた。そのまま数秒かけて水面ぎりぎりで二人は停止する。そこまで来て、ようやく恐怖から解放された少年は固く閉じていた瞳を開けて、相手を確認する。

 目の前にあったのは真っ白な翼だった。

 

 

「て、天狗様…………?」

「かなり慎重に減速してみたけど身体の方は平気かしら、どこか折れたり潰れたりしてない?」

「は、い。大丈夫だと思い、ます」

「なら良かったわ」

 

 

 そこにいたのは、白桃橋刑香であった。

 色素が抜け落ちたように白い肌と純白の髪、その背中に生える真っ白な翼が特徴的な少女。どこか浮き世離れしたような、存在そのものが『白』を現す妖怪が自分を抱えてくれていた。チラリと向けられた夏空の碧眼はあの日のままで、そこだけは生命力に溢れた輝きを秘めている。

 

 

「霊夢っ、そっちも大丈夫なの?」

「な、何とか怪我はしてないわ。結界を破られたくらいだし。でも刑香がもっと早く助けてくれれば良かったのにぃ……」

「ごめんごめん、あの瞬間を狙って叩き潰すのが最善だったのよ。正面から鴉天狗と戦っても、今の私たちじゃキツイからね。不意討ちも立派な戦術よ」

 

 

 春の日射しを受けて輝く白。

 それを眺めていると、いつの間にか身体から畏れが抜け落ちていた。伝わってくる妖気が『死』の恐怖を遠ざけてくれているのだ。ようやく少年の表情に色が戻り、それを見届けてから刑香が小さく笑った。

 

 

「もう大丈夫そうね」

「はい、ありがとうございます!」

「あんた私に助けられた時より嬉しそうじゃない。別にいいけど、何だか巫女としては不満だわ」

「あ、ごめんなさい」

「ふーんだ」

「ほら、さっさと帰るわよ。あんたも霊夢も積もる話はあとにしなさい」

 

 

 そして三人は人里へ飛び立った。

 足元で流れていく景色、頬を撫でる風は年頃の少年には堪らないモノのはずだ。それなのに少年は早まっていく心臓の鼓動を抑えることで精一杯だった。まったく空が視界に入らず、白い少女の横顔をじっと見つめている。

 腕の中から伝わる体温、柔らかい感触、それらに胸が締め付けられていく。そして博識な少年は『その感情』の正体を知っていた、我慢ができずに緊張した唇で問いかける。

 

 

「てん……刑香様」

「私なんかに『様』は要らないわ。それでどうしたの?」

「に、人間のことはどう思われますか?」

「それなりに好きだし、それなりに嫌いでもあるわ。天狗と同じようにね」

「あ、いえ、そうではなくて刑香さんは人間の男性と……」

「なによ?」

 

 

 不思議そうに首を傾ける刑香。

 どうやら伝わっていないらしい。更に踏み込もうかと思ったが、少年は「何でもないです」と口を閉ざすことにした。落ち着いて見渡すと、ここは雲海が広がる空の上である。吹き抜ける風も足元でうごめく雲も、人間の住む地上とは違う。自分の手を握ってくれた少女はこの世界の住人なのだ。見ている景色が違いすぎる、きっとこの想いが届くことは永遠にないだろう。

 

 

「ああ、慧音先生の言う通りでした。初めての気持ちはこんなにも、ほろ苦いんですね」

 

 

 少年は気持ちよさそうに、頬を撫でる風に目を(つむ)っていた。この日の思い出を忘れることは生涯ないだろう、そんな確信にも似た想いを抱きながら。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「本当に、本当にありがとう。お前たちが動いてくれなかったら、あの子は今頃喰われていただろう。私は教師失格だな……」

 

 

 夕暮れの光に染められた人里。

 少年を家まで送り届けてから、刑香と霊夢は寺子屋へと足を運んでいた。そして今、目の前では少年の恩師である上白沢慧音が泣き出しそうな表情で礼を述べている。おそらく少年の身を一番案じていたのは、この半人半獣のお人好し教師だったのだろう。

 

 

「今回のことは私にも原因があるし、あんただけが気に病む必要はないわよ。生徒が無事だったんだから笑ったらどうなの、上白沢先生?」

「そ、そうだな…………あの子が元気に帰って来たんだ。いつまでもメソメソしていては助けてくれたお前たちにも悪いからな。うん、何とか成りそうだよ」

「相変わらず人間のことが好きよね、あんたは」

 

 

 呆れた様子で刑香は呟いた。

 同じように人里に出入りしている人外仲間でも、刑香と慧音の間には少しばかりの距離がある。明らかに人間側に味方する慧音に対して、刑香は天狗にも人間にも『平等』に接するだけだ。どちらかを特別視することはなく、さっきの少年にしても頼まれたから助けたに過ぎない。

 

 冷たいように見えるが無理もない。刑香にしてみれば、人間も『死を遠ざける程度の能力』を目当てに近づいてくる点では妖怪と変わらない。他の天狗たちのように悪意はなくても、そこには越えられない壁がある。

 

 

「見て見て刑香っ、謝礼としてこんなに貰っちゃった。これなら今週は楽が出来そう!」

「なら神社に集まってくる私のカラスを食材として追いかけ回すのは止めなさいよ、冗談に見えないから」

「えへへ、分かってるわよ」

「まったく、ホントでしょうね?」

 

 

 だからこそ刑香が信頼できる対象は『能力』を求めてこない相手に限られる。例えば射命丸文、姫海棠はたてが当てはまり、最近では博麗霊夢が加わった。巫女の少女に刑香がとても甘いのは、そういう理由がある。

 

 

「そういえば初めて大きな依頼をこなしたのよね、おめでとう」

「うん、手伝ってくれてありがと」

「どういたしまして」

 

 

 人里の代表からお礼として渡された巾着袋は、紙幣や硬貨で膨らんでいる。満足そうな笑顔を浮かべながら、ぐりぐりと霊夢は頭を装束に押し付けて来る。一体何をしているんだろ、と刑香は疑問に思ったが楽しそうなので放っておくことにした。きっと何かの遊びなのだろう。

 

 

「お前たちの新聞からの情報も、人里では随分と助かっているよ」

「にとりから聞いたことを紙面に載せただけだし、大したことはしてないわよ?」

「他の二羽も似たようなことを言っていたよ。だが、お前たち天狗が警告してくれたからこそ、皆が山に入るのに慎重になってくれているんだ。ありがとう」

「……それは良かったわ」

 

 

 部屋に射し込んでいた夕日の光が途切れていく。

 地平線の向こうから迫ってくるのは夜の幕、まもなく人間の里は暗闇に包まれる。こっそりと軒先に止まっていた白いカラス達が翼を広げて飛び立っていく、どうやら寺子屋を覗いていたらしい。やれやれと刑香はそんな使い魔たちを見送った。

 

 

「そろそろ巣作りの時期だろうから、さっさと相手を探しに行けばいいのに……育て方を間違えたかしら」

「まだまだカラス妖怪として幼いんだろう、そう急かすものじゃないさ。お前だってまだ(つが)いを持つ気はないんだろ?」

「そ、そういえば、文の新聞にはアンタの愉快な記事がまた載っていたわね。今度は道具屋の店主と……」

「か、からかったことは謝るから『文々。新聞』の話は止めてくれっ。アレは誤解なんだっ!」

 

 

 相変わらず寺子屋教師はこっちのネタで揺さぶるのが効果的らしい。上手く話を反らすことができた。しかし伴侶を持つのかなどと言われ、色々と想像してしまった刑香は少し赤くなった顔で俯いた。

 

 

「……何の話?」

「霊夢は知らなくて大丈夫よ」

「ふーん」

 

 

 教師も天狗も頬を染めて黙り込んでいた。

 そうしている間にも老若男女の区別なく、人々は街中から姿を消していく。誰もが戸締まりをして閉じ籠り、朝まで外を出歩くことはない。妖怪の時間が訪れたのだ。あまねく闇が(いざな)われ、ぽっかりと浮かぶ月だけが人里を見守る宵の刻。今夜は『満月』である。

 

 そんな空を障子のスキマから眺めていたが、目の前の人物の変化に気がついて刑香は視線をそちらへ向ける。ゴトリ、と慧音の頭から多角形の帽子がずり落ちた。そして震えながら自分の身体を力強く抱きしめる、流れ出る汗はまるで何かに耐えるように見えた。

 突然の異変、穏やかだった教師が苦しむ姿に霊夢が心配そうな声をかける。

 

 

「ね、ねえ、どうしたのよ?」

「く、うぅぅぅ…………ぁぁっ!!」

「刑香っ、何だか慧音の様子がおかしいっ!」

「こっちに来て、慧音は大丈夫だから」

 

 

 丸い月から降り注ぐ光が溶けんでいく。

 青みがかった銀色の髪に、神秘的な『緑』が入り込む。そして慧音が身につけていたフリル付きのワンピースまでが深緑の光に染められていく、溢れ出るチカラが衣服の性質を変えてしまったのだ。

 部屋に満たされていくのは清らかな気配、それに妖怪である刑香は少しだけ表情を歪ませる。呆然とする霊夢の前で、半人半獣は人から『伝説の聖獣』への変化を完了していた。

 

 

「あー、巫女殿には初めましてと言った方が良いのだろうか。これは満月の晩だけ私が取る『ワーハクタク』としての姿だよ。以後お見知りおきを」

「え、え?」

 

 

 霊夢の足元に転がっている帽子、その代わりに慧音の頭から生えているのは大きな二本角だった。彼女から感じるのは妖怪のような邪悪さではなく、見つめているだけで心を浄化してくれる神聖な力。腰まで流れる深い緑色の髪は絹のようで、背後に揺れるのはフサフサした毛並みの尻尾。そこに人間としての寺子屋教師の面影はない。

 困惑した様子で霊夢は刑香に引っ付いていた。

 

 

「ど、どういうことなのよ刑香……?」

「何だ巫女殿には説明していなかったのか、事前に教えておかないとはお前らしくもないな」

「子供を見つけるのに時間がかかり過ぎたのよ。あんたに用があるのは私だけだったからね」

「なるほど『今』の私に用事があるのか……。それなら今夜は二人とも泊まっていくのはどうだろう、居候が留守にしていて布団が余っているんだ」

 

 

 ハクタクとは大陸に伝わる聖獣の名である。

 人の言葉を理解する高い知能を持ち、ひとたび出会えば子孫代々までの繁栄が約束されるとされる伝説の獣。幾多の病を払い、妖怪を滅する力を持つハクタクの能力と人間の心を受け継ぐハーフ。それが『人里の守護者』、上白沢慧音の正体であった。

 

 

「あんたがいいなら喜んで付き合うわ」

「私は刑香がいて夕飯がタダで食べられるなら」

「決まりだな。本来なら満月の夜は色々と忙しいのだが、まあ十年に一度くらいは呑みながら片手間の作業も悪くない」

「教師がそれでいいのかしら?」

「今の私はハクタクだからな、多少は多目にみてくれると助かる」

 

 

 月の光が零れ落ちる夜のこと。

 人里の一郭にて開かれたのは小さな宴会。天狗と教師が料理を作り、出来上がると巫女のいる食卓に付く。

 人にも妖怪にも属さない人間と、山を追われた鴉天狗、そして半獣半人の寺子屋教師。それぞれがはぐれ者で、それぞれが半端者、そんな立場にある者たちが他愛もない話で盛り上がる。

 

 

 穏やかな夜の時間が始まった。

 

 

 

 


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