その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

50 / 84
第四十話:オン・ガルダヤ・ソワカ

 

 

 ひっそりと静まり返る人里にて。

 傾く満月は山へと差し掛かり、餅をつく兎は雲隠れ、人の影なし宵の刻。(かすみ)を抱いた春風が、ゆらりゆらりと障子のスキマから流れては白い翼を揺らしていた。心地よい空気の中、刑香はわずかに赤い頬で盃を傾ける。

 

 

「何だか悪いわね。満月の夜に忙しいのは知ってたけど、尋ねておきたいことがあったのよ」

「気にしないでくれ。雑談を交わしながら仕事をするのも、たまには良いものだからな。もう少ししたら一服するよ、お前の頼みはその時に聞こうじゃないか」

 

 

 さらさらと走る筆の音。

 酒の注がれた器には口を付けず、半獣の教師は歴史書の編纂(へんさん)を行っていた。一つ一つ、魂を込めるように紙面へと文字を踊らせる。こうして百年もの間、慧音は幻想郷の歩みを書き残し続けているのだ。その作業をのんびり眺めていた刑香が口を開く。

 

 

「本当にアンタは『人里の守護者』に相応しいわね。そこそこ強いし、霊夢の仕事が減るのも納得よ」

「そ、それはすまない。困っている人がいると落ち着いていられないんだ、巫女殿の邪魔をしていたなら謝罪させてもらう」

「……冗談よ、本当にお人好しよね。あの居候といい私といい、アンタがそんなのだから厄介者を呼び寄せるってこと分かってるの?」

 

 

 ほどけた雲の間から淡い月光が降り注ぎ、その灯りを頼りにして筆は進んでいく。ほとんど手元が見えない中での執筆なので気を抜くことができない。それにも関わらず慧音は苦笑せざるを得なかった。あの少女と刑香のことを厄介などと考えたこともないのだ。聞き分けの悪い生徒たちの方がよっぽど扱いが難しい。

 部屋の隅に積まれた予備の布団を慧音は指差した。

 

 

「アイツはいい奴だよ。少し事情が複雑なだけで、私が見習いたいくらいに根は真っ直ぐだ。もちろんお前もだぞ刑香。というより、そろそろ人里に移り住んでみたらどうだ?」

「あんたねぇ、人の子が鴉天狗に襲われたばかりなのよ。それなのに私を人里に住まわせるなんて……ひょっとして私が鴉天狗だってことを忘れてるんじゃないの?」

「そんなわけないだろう。ただお前が考えているよりも、お前は人里に受け入れられているんだ。刑香の治療を必要としている病人も大勢いる、だから……」

 

「……悪いわね、この『死を遠ざける程度の能力』は人間の傍に置いていいものじゃない。それ一本だけ、貰うわよ」

 

 

 ふわりと風が吹いた。

 その涼やかな夜風の調べは、慧音の元から一輪の花を刑香の手のひらへと運ぶ。それは随分前に慧音が生徒たちから貰った花束の生き残りであった。摘んできてから時間が経っているので寿命を迎えかけ、本来なら黄色である花はもはや茶色へと変色してしまっている。それでも捨てられなくて、そのまま机の水差しに生けていたモノだ。

 

 ゆっくりと白い指が花弁を撫でる。その瞬間から時間が巻き戻されるように、触れた部分が鮮やかな黄色へと変わっていく。やがて花は再び咲き誇り、(しな)びた茎は潤いを取り戻す。それは輪廻の流れを遡り、あらゆる生命を救うチカラ。相変わらず見事な能力だと、慧音はその光景に見惚れていた。そんなハクタク教師へと、憂鬱な光を宿した空色の瞳が向けられる。

 

 

「この『能力』は便利だけど、使い方を誤れば相手を生ける屍に変えてしまうわ。私は二度と大天狗たちのような失敗をするわけにはいかないのよ」

「それが、人里に住まない理由なのか?」

「理解してくれて嬉しいわ、ほら」

 

 

 刑香から手渡された花は生命力に溢れていた。ハクタクである慧音にも『病除』の能力は備わっているが、やはり根本的に何かが違う。刑香の持つ『延命』の能力はそんなに生易しいものではないのだ。それを考えてみると、刑香がどうして『人里から近くて遠い鴉天狗』などと呼ばれるのかが分かってくる。

 

 

「そうだな、確かに人間は『死』に敏感だ。それこそお前を捕らえてでも、能力の使用を強要する輩が現れるかもしれない。長寿は人間なら誰もが求める夢の一つだからな……」

「この能力は要らない邪念を呼び寄せることが多いのよ。私はその願いを否定しないし(さげす)みもしないけど、お互いのためにも一定距離は必要よ」

 

 

 不老長寿とは人々の野望である。

 洋の東西を問わず多くの者が追い求め、果てなき冒険を繰り広げた。そんな歴史を慧音は知っている。地平線の向こう、水平線の彼方までも探し続けた『延命』の手段、それが目の前にあったなら人々はどうするだろうか。きっと手に入れるための手段は選ばない。

 刑香が自分以外の存在から距離を置くのはそういった理由がある。

 

 

「難儀なものだな、天狗殿?」

「お互い様でしょ、ハクタクさま? 」

 

 

 考えてみれば慧音とて、苦労話ならば誰にも負けない自信がある。半人半獣として生きてきた中には苦難の一つや二つは日常茶飯事だったのだ。ならば同情するべきではない、ここは笑って見せるくらいが丁度いい。

 

 

「くしゅんっ」

「……少し寒かったのかしら、仕方ないわね」

「霊夢には私の布団は薄かったのかもしれないな、ちょっと待っててくれ…………刑香?」

 

 

 もう一人の参加者である幼い巫女は、白い少女の隣で丸くなっていた。まだ春の始まりである。夜の冷気と春の暖気が混じる風は人間の身には厳しいようだ。そんな少女へと真っ白な翼が毛布のように被せられ、手触りの良い羽に霊夢が頬を緩ませていた。伝わる体温も心も温かなモノに違いない。

 天狗と人間、種族の違う彼女たちが姉妹のように接するとは微笑ましいものである。しばらく眺めていたかったが、コホンと咳払いをしてから慧音は視線を戻す。

 

 

「本当に、全ての天狗がお前や射命丸のようだったらと思うよ。そうすれば人里とも……いや射命丸はダメだ、私が酷いことになる」

「言っとくけど、私も文も人喰いを是とする妖怪なのよ。天狗が起こした『神隠し』の歴史は知っているでしょ」

「……そう、だったな。今の私が歴史を語られるとは情けない。しかし、お前たちを見ていると忘れてしまいそうになるのも事実だよ。それに神隠しは人喰いとは違うのだろう?」

 

 

 妖怪は人の畏れから生まれ成長する存在である。だからこそ、より多くの人々から畏れられるために妖怪たちは人間を喰らい、拐うことで人の心を掻き乱すのだ。かつて天狗たちも人の子供を拐っては、数ヶ月後に帰すという『神隠し』を行っていた。

 

 

「『組織』としての神隠しと、『個』としての人喰いは別なのよ。今回の男は自分の力を付けるために人間を襲っていた、あの様子だと子供が家に帰されることはなかったでしょうね」

「妖力を付けるなら、人間を喰らうのが天狗としても一番簡単なやり方なのか。刑香、もしかしたらお前も……」

「勘違いしてもらっても困るけど、私は人喰いはしないわよ。弱い者苛めをしているみたいで嫌だし、そういう趣味もないからね。たまに私より強い人間もいるけど」

 

 

 ひらひらと手を振って刑香は『人喰い』を遠ざける。

 そこに嘘偽りは無さそうだ。実力が足りないなら他で補って乗り越える、そうして刑香は今まで生き残ってきた。能力と速度だけを武器にして、あの星熊勇儀との戦いからも帰ってきている。「信じてくれなくていいけどね」と付け加えた白い少女へと、慧音はいつの間にか笑みを浮かべていた。

 

 

「まあ、刑香が人喰いをしようものなら博麗の巫女が黙っていないな。鬼のような形相と霊力でお前を止めにくるだろうさ」

「それは怖いわね、せいぜい怒らせないように気を付けるわ。……この子を悲しませるのも嫌だし」

 

 

 霊夢を見守る眼差しは穏やかだった。

 かつて宿っていた冷たい光は無くなり、今の瞳からは暖かな光が滲んでいるように見える。おそらく親友にのみ向けていた感情を他の存在にも注ぐだけの余裕が出来たのだろう。それはこの一年あまりで出会った者たちのおかげであろう。

 だか、残念ながら嬉しい変化ばかりではない。刑香のことは喜ばしいが、妖怪の山で起こっている事態は慧音の頭を悩ますのに十分すぎた。

 

 

「上役たちが亡くなったということは次に『大天狗』となる者たち次第で、人里への対応が変わるかもしれないな」

「私が滝壺に叩き込んだヤツみたいなのが選ばれたら最悪でしょうね。人間が山へ立ち入ることを徹底的に取り締まるかもしれないわ」

「薬草や山菜、果実などは山に頼っている部分もあるんだ。それでは人々の暮らしが立ち行かなくなってしまう。人里に味方してくれる大天狗が選ばれないだろうか?」

 

 

 この幻想郷に『山』はあそこしかないのだ。

 食料だけではなく、火を起こすための木材や猟師たちの獲物は主に『妖怪の山』に依存している。その場所を支配している天狗との関係が途絶えてしまえば、これまで何とかやってきた人々の多くが路頭に迷ってしまう。人里の守護者たる慧音としては、見過ごすことのできない問題である。

 しかし刑香の答えは否であった。

 

 

「わざわざ天狗は人間に味方なんてしないわよ。だって他種族のために尽くす物好きは人間にも少ないでしょ。それと同じことよ」

「……ふぅ、今悩んでいても仕方なさそうだな。ようやく今宵の仕事も片付いた、これからお前の頼みを聞こうじゃないか」

「ああ、ようやく終わったの?」

 

 

 休まず進んでいた筆が止まっている。インクの匂いが鼻をくすぐる部屋の中で、ハクタク教師は「やれやれ」と背伸びをした。その間も深い森のように独特な輝きを秘めた双眸は白い少女を捉えて放さない。

 

 

「とはいえ今の私に尋ねることがあるとすれば、ただ一つだろう。正直なところお前が尋ねてくるのはもう少し先になると思っていたが……地底で何かを知ったのか?」

「やっぱり、あんたは全部知ってたのね」

「許してくれとは言わないさ。だが私とて自分の『能力』を隠していたわけではないだろう?」

 

 

 カタリと書棚が揺れる。

 座ったまま慧音が何もない空間に触れると、そこから整然と並べられた黒い『何か』が流れ出してきた。くるくると巻物のようにハクタク教師を取り囲んでいくのは、墨で描かれた文字の濁流。まるで部屋の全てを用紙とするように、どこまでも繋がった文章が呪術のごとく壁や天井を染め上げる。

 洪水のように暴れまわる文字の波、それを背景にして淡い光を放つ知恵の聖獣は白い少女に問いかける。

 

 

「さあ、お前は何を教えて欲しい? 何を調べて欲しいんだ?」

 

 

 歴史の千里を照らすハクタクのチカラ。

 満月の間のみ上白沢慧音が持つのは『歴史を創る程度の能力』。人と妖怪の永き歩みを知る聖獣は、今宵のみ幻想郷で起こった『あらゆる歴史』を把握し、形にする力を手に入れる。そこには人以外の、つまり天狗組織の歴史も含まれる。単なるしたっぱ天狗であったなら名は残されていないだろう、しかし上層部に関わる情報となれば話は別だ。

 

 

「『天魔』の正体と、そして白桃橋 迦楼羅(かるら)という天狗について教えて欲しいのよ。できるかしら、大陸の聖獣さま?」

 

 

 イタズラが成功したように微笑む寺子屋教師へと、白い少女は正面からその言葉を投げつけた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「何処行ったのかしら、もう蓮子ったら……」

 

 

 視界にくすぶる線香の白い煙。

 湿った木と草の匂いが漂う寺社の中、紫色のワンピースを身につけた少女は歩いていた。目の前には千を越える仏像たち、人々の祈りを満たしたような気配を押し退けて進む。今日も今日とて、サークルの活動でここまで来たのだが相方が行方不明である。さっきから探しているのに、なかなか見つからない。どこまで行っても終わらない回廊は足が擦りきれてしまいそうで、『三十三間』の名に恥じない長さであった。

 

 

「うぅ、いつも私を置いてきぼりにして消えちゃうんたから…………でも水族館の件があるから五分五分かなぁ」

 

 

 心細そうに言葉を漏らす。

 あらゆる音が溶けていく、湖面へ石を投げ入れたように飲み込まれていく空間。ここは不気味なほどに静かであった。亀裂の走る柱と仏像たちが視界に映る、刻まれた歴史は無言で自分を見つめてくる。

 そのくすんだ輝きが語るのは、滅びかけた教え。人間の闇を照らさんと歩み続けた彼らの生涯、多くの人々を救った術が失われることを嘆いているのだろうか。そうして生まれた幻想と現実の境界線は、この場所に大きなスキマを幾つも作り出していた。

 

 

 畏れるように、

 恋をするように、

 マエリベリー・ハーンは脚を止める。

 

 

 だからだろう、メリーは自分の後ろから忍び寄る影に気づかなかった。そっと彼女へと近づいた人影は、悪い笑みを浮かべながら『あるモノ』を少女の頬へと押し付けた。

 

 

「スキあり、おりゃっ!」

「わ、ひゃわぁーーっ!!?」

 

 

 それは冷たい缶コーヒーだった。

 自販機から購入されたばかりの冷気が襲いかかり、驚いて可愛らしい悲鳴があげる。「大成功」とばかりに笑い出す下手人への恥ずかしさと怒りから、メリーは夕日色に染まった顔で振り返った。

 

 

「びっくりするじゃないっ。何するのよ、蓮子っ!」

「いやー、ごめんごめん。またメリーが夢の彼方に旅立ってたからさ。呼び戻すのに丁度いいかも、なんて思ったのよ。ほら、目が覚めたでしょ?」

「言いわけないでしょ!」

「まあまあ、それはあげるから許してよ」

 

 

 にひひ、と笑っていたのは黒帽子の少女。

 宇佐見蓮子はビニール袋を持って、機嫌がよさそうに立っていた。どうやらお土産を買い込んで来たらしい。売店はこの先にしかないので、蓮子は買い物をしてから順路を逆行してきたことになる。派手にルール違反を犯したにも関わらず、自由気ままな友人はドヤ顔である。ため息をつくメリーに反して、とても楽しそうに二つのアクセサリーを差し出してきた。

 

 

「へっへー、珍しい御守りを買っちゃったわ。災いが起きた時に身代わりになってくれるんだってさ、いいでしょ。こっちはメリーの分ね」

「頭痛封じの御守りなんてあるんだ。……念のために言っとくけど、水族館で私が倒れたのはそれが原因じゃないからね?」

「分かってる分かってる。けどせっかく買ったんだから受け取ってね。ほいっと」

「あっ、ちょっと勝手に……もう」

 

 

 あっという間に御守りをカバンに結ばれてしまう。少し強引なのでメリーは頬を膨らませる。しかし蓮子なりにメリーの体調を心配してくれているのだろう。いつも決して言葉にはせずに、この友人は自分を気遣ってくれる。そっとメリーは心の中で感謝した。

 

 

「ところで調査はどんな感じなの? 今回は思いきって歴史あるお寺まで足を運んでみたけど、成果はあったのかしら?」

「うーん、何だか冬が明けてから調子が悪いわ。以前ならはっきりと見えたスキマが霞んでいるし、見つけられる数も少なくなってるみたいなのよ。ごめんね、蓮子」

 

 

 わずかではあるが冬の頃と比べて『能力』が衰えている。まるで重なっていた歯車がズレてしまったような感覚だった。申し訳なさそうに俯く紫色の少女、その額を黒帽子の少女はぺしんと叩く。

 

 

「そういえば、ここにある仏像は一体一体の表情が違うらしいわよ。どうせならメリーそっくりな顔を見つけてやろうかしら」

「へ、ちょっと蓮子?」

「ふふふ、メリー似の顔を拝んでやるから覚悟しなさい!」

「そ、それなら私は蓮子みたいな顔をしてる仏像を探してお経を唱えてあげるんだから!」

「よし、ならば競争あるのみよ!」

 

 

 トントンと小太鼓を奏でるように、軽快なリズムで二人は床板を踏み鳴らす。お互いの顔そっくりな木像を探しながら歩いていくのは面白い。薄暗い部屋のはずなのに気分は軽やかになっていた。沈みかけた雰囲気を一変させて掬い上げる、蓮子にはそういう才能がある。

 友人の背中を見つめながら、くすくすと金髪の少女は笑みを溢していた。

 

 

「メリー顔が見つからないなぁ。ねえねえ、もうちょっと探検したらお昼食べに行かない? お店の下調べは入念にしてきたから抜かりはないわ」

「まさか今日も遅れて来たのはそれを調べていたからじゃないよね。それならまたお昼を奢ってもらっちゃおうかなぁ…………あれ?」

 

 

 ひたりとメリーは脚を止める。

 爪先が痙攣するような痛みと、そして襟首を引き寄せられるような力を感じた。その感覚に従うままに視線を向けた先、そこには一体の仏像があった。まるで極楽と俗世を線引きする番人のごとき威風、重々しく鈍い輝きがメリーの前に立ちはだかっている。

他の像とは明らかに違う、唯一『翼』を持つという異質な外見がメリーの精神を捉えて離さなかった。まるで金縛りにあったようだ。

 そんなメリーを蓮子は現実へと引き戻す。

 

 

「お、お昼はもう駄目だからねっ。冗談半分に私の財布をぺちゃんこにしたフレンチ事件は忘れないわ!」

「っ、蓮子……?」

「とにかくフレンチは駄目よ、あれは洒落にならなかったんだから!」

 

 

 ガクガクと肩を揺らされて意識が復活する。

 激しく脈を打つ心臓、凍りつく肺、それらを解きほぐすように浅い呼吸を繰り返す。ほんの数秒でメリーは平静を取り戻していた。ゆっくり息を吸ってから蓮子へと返答する。

 

 

「でも足りない分は貸してあげたじゃない、それに今日の活動費用だって私持ちなんだからね。ちゃんと返してよ、利息込みで」

「うー、また今度返すわよ。お母さんから仕送りが届いたらすぐにでも突き返して…………ちょっと待って、利息って何?」

「ハーン銀行はトイチなのよ?」

「やーめーてーよ、そういうのは!」

 

 

 ひとまずランチ論争は後回しにして、まずはこの仏像を調べなければならないだろう。ここに来て初めて『当たり』を見つけたのだ。

 

 

「蓮子、この像が怪しいかもしれないわ。お昼は私が奢ってあげるから、これを調べるのを手伝って」

「この年で借金はしたく…………え、そうなの?」

 

 

 厳めしい表情で横笛を吹きながら、恐ろしげな瞳を向けてくる木造の像。注意深く近づいてみると、武人と鳥を混ぜたようなユニークな姿をしていた。無礼ではあるが翼を持った妖怪を連想させる。「何の妖怪だったかな?」と顎に手を当てて、メリーは古い文献を頭の中で洗っていく。順番にページを捲るように、一つ一つの種族を検討する。

 一方、蓮子はさっさと思考を放棄してパンフレットを捲っていた。それに少しだけむっとしたメリーが口を開く。

 

 

「ちょっと蓮子、まだ検証の途中なのに調べちゃうの? 印象が固定されるから良くないし、こういうのは真っ白な視点から見つめないと本質が分からないわよ?」

「前知識もなしに仏像やお寺を拝んでいても、浮かぶモノは少ないわ。そこに込められた歴史や経緯を知っているからこそ見えるモノもあるものよ」

「見解の相違だね、そういうの嫌いじゃないけど」

「ぷくくっ…………そうね、私もそう思うわ」

 

 

 それは水族館と同じ問答だった。

 物事に対する考え方はそれぞれ、捉え方もそれぞれである。生まれながらに人間の思考は自由なものであり、そこに善悪はあっても貴賤はない。もちろん自分たちの間だけでの取り決めだ、それくらいメリーと蓮子はお互いの感性を尊重している。すれ違う思考の中にあっても二人の間にスキマは生じない、それは学生としては実に良い友人関係だった。

 よくやく手元の資料を調べ終えた蓮子は顔を上げる。

 

 

「これは『天竜八部衆』の一柱を模した仏像ね。病魔を退け厄を払い、煩悩さえも消し去ってしまう、そんなご利益一杯のお方みたいよ」

「へえー、そんなに凄い存在なんだ。そうだ、蓮子も百八個くらい煩悩を消してもらったらどうかしら?」

「まさかこの流れで私叩きがくるとは思わなかったわ。侮れないわね、親友」

「どういたしまして、説明の続きをよろしくね」

 

 

 紫水晶のような瞳が鋭いものに変わっていく。

 この像の周辺だけはスキマが見えない。まるで『能力』が拒絶されているような異様な気配、それをメリーは険しい表情で見つめていた。きっとこの像には何かがあるという、漠然とした確信が胸の奥で燻っている。いや、もしかしたらこのモデルの存在と何らかの因縁があるのかもしれない。

 

 

「オン・ガルダヤ・ソワカ。人間を蝕むあらゆる悪を喰い尽くし、金色の翼を持つという鳥頭人身の者。その名はーーーー」

 

 

 謳うように説明を読み上げる蓮子。

 どこか清らかな声は耳によく馴染み、巫女が神託を口にするようだった。勿体ぶるような口調だが、不思議と嫌みは感じない。メリーは静かにその言霊を聞いていた。そのまま蓮子は高らかに告げる。

 

 

「その御名は 迦楼羅王(かるらおう)。司るのは寿命を延ばすというチカラ。つまりは『死を遠ざける能力』を備えた仏法の強力な守護神よ」

 

 

 その時、外と内でカチリと歯車が合わさることになる。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。