『その鴉天狗は白かった』が始まったのが2014年の7月下旬、少し遅れながらとなりますが一つの記念として投稿させていただきます。時間軸は本編と同じ頃、二人の天狗少女の物語です。
そして今回のお話の最後に挿し絵を入れさせてもらっています、そちらもご覧になっていただけたなら嬉しく思う次第です。
端的にいうなら、刑香は追われていた。
妖怪の山で取材をしていた際に、最も厄介な相手に見つかってしまったのだ。良い写真が撮れて少しだけ喜んでいたというのに、とんだ災難である。空色の瞳で距離を計りながら、刑香は木々の間を跳ねるように飛び抜けていく。
「ぴったり追って来てるわね、これは逃げ切れないかも……」
白い髪から覗くのは尖った耳。
天狗の聴覚は背後から迫る『何者か』を捉えていた。斜面の起伏に合わせて滑るように、装束が砂や泥で汚れるのも気にせずに、地面ぎりぎりを飛んでいるというのに引き離せない。
いつもならとっくに振り払っている頃である。鴉天狗の中でも、刑香は空を行く速度だけは上位にいるのだ。万全の状態でここまで接戦に持ち込まれたのは、山を抜けてから初めてのことである。いっそのこと迎え撃とうかと考え始めた矢先、
その背中には既に黒い鴉天狗が回り込んでいた。
「逃がさんぞ、小娘」
「な、あり得な…………ぐっ!?」
くぐもった声が鼓膜を揺らした。それに驚く間もなく、そのまま背後から身体を拘束され、力強い腕が腰に回される。それだけではなく、蜘蛛の糸のごとく粘ついた風に白い翼を絡め取られていた。非力な手足では大した抵抗もできず、あっという間に空高く身体を吊り下げられる。
わざと身体を密着させるように、何者かは自分の方へ引き寄せながら抑えつけてくる。どういうつもりかは知らないが、かなり不快だ。
「このっ、離しなさい!」
ぬるりとした妖気が纏わりつく。
相手の息が後ろ髪を撫でるほど距離が近い、それなのに顔は見えない。後ろにいるのが男か女かさえ分からないが、このままだと不味い。同族から受けていた恐怖を思い出した身体が凍りついていくのを感じる。
黒い鴉天狗は刑香を逃がさないように、空中で抑えつけていた。自分の姿が見えないように注意を払いながら、じっくりと妖気で精神を削っていく。次第に抵抗を諦めていく白い少女を眺めつつ、ニヤニヤと口元を綻びさせていた。小さく震え始めた刑香の耳元へと、口から覗く牙を近づける。
「鬼ごっこは私の勝ちですね、刑香」
「…………ちょっと冗談が過ぎるんじゃないの? 本気で蹴り飛ばしてやろうかと思ったわよ、文」
途端に緊張の糸が断ち切れる。
イタズラっぽい視線で刑香を覗いていたのは、見慣れた友人であった。つまりは射命丸文である。それが分かった時点で刑香は手足を投げ出して脱力する、自分から羽ばたく必要がないのだ。抑えつけてきた腕力が、優しく抱きしめる力に変わっていた。もう抵抗するのも馬鹿らしい。
「こういうイタズラは久しぶりですねぇ。昔は鬼のふりをして追いかけたこともありましたっけ?」
「河童の光学スーツで、萃香様に姿を変えて追ってくるとか反則よ。あれは心臓が止まるかと思ったわ」
「その時は三途の川で死神を叩きのめして、あなたの魂を迎えに行ってあげますからご心配なく」
「自分で送り込んで送り返してたら世話ないわ」
さっきの意趣返しとして全ての体重を預けてやるが、如何せん軽すぎたらしい。そんな反抗には目もくれず、黒い鴉天狗は上機嫌に刑香のことを観察していた。一応、怪我をさせていないかは気になるようだ。
「あやや、よく見ると装束が血の跡と繕い跡だらけじゃないですか。露出が多いだの、皺になってるだの、身なりに煩いあなたらしくもないですね」
「この一年は色々あったじゃない。レミリアの異変で血塗れになったし、地底で勇儀様と戦った時だってボロボロにされたからこの様よ」
「ああ、そういえば天狗の装束は人里では手に入りませんね。刑香は追放されてから、ずっと同じモノを身につけているわけですか…………ふむ」
白く清められているはずの天狗装束は、所々がほつれて細かな汚れが目立っていた。水浴びをする時に一緒に洗ったりもするのだが、これくらいが限界なのだ。すると文は何事かを考え始めていた。
「いつまで抱えてるのよ、そろそろ放しなさい」
「あやや、もう少しいいじゃないですか」
「よくないわ……恥ずかしいじゃない」
後ろから抱きつかれている姿を誰かに見られるのは御免である。優しくお腹のあたりに回されている文の腕を、ゆっくりと引き剥がす。唯でさえ身体に触れられるのは苦手なのだ。例え同性であっても、ここまで密着されると心が落ち着かない。
名残惜しそうに指が一本一本離れていく。背中から文の体温を感じなくなると、ようやく刑香は乱れていた呼吸を整えた。そして自由になった身体で振り返ってみる。
そこには私服を身につけている天狗少女、どうやら今日は非番だったらしい。風に揺れるフリルの付いた黒色スカート、眩い白の半袖シャツ、そして一本歯の革ブーツが上手く組み合わされていた。外の世界で流行している服装らしく、はたても似た服を持っている。見慣れた装束も凛々しいが、こちらも実に魅力的だと思う。
「うん、そっちの服も似合ってるわね」
「あやや、そう言われると照れますね。ありがとうございます、これはお気に入りの意匠なんですよ。同じモノを何着か持っています」
「はたても同じような服を持ってたわね。……私はともかく二人はそういう服もぴったりね」
「いやいや、刑香だって着てみれば絶対に…………あ、いいこと思いつきました」
何か思い付いた様子で、口角を吊り上げる腹黒天狗。そんな笑みを隠すように後ろを向いた動作から、「これは碌なことを考えてないな」と刑香は確信する。伊達に千年以上も長々と友人をしていないのだ、厄介なことを仕掛けてくる前触れくらいは見分けがつく。油断すると赤っ恥をかかされるだろう、とりあえず錫杖を握りしめておくことにした。
すると考えが纏まったらしい文が振り返る。
「あなたに私が持っている予備の装束を譲りましょう。物を大切にするのは美徳ですが、そこまでオンボロになってしまっては見目が良くありませんからね」
「……それは助かるわ、ありがと」
「いえいえ、可愛い妹分のためならお安いご用ですよ。それでは一つ、私は自宅まで取りに行って来るので刑香は神社で待っていてくださいね!」
「あ、ちょっと……」
風陣一閃。
八ツ手の葉団扇を降り下ろすと、瞬きの間に黒い流星が山の方へと消えていった。その拍子に舞い上げられた花弁が空中に踊り、白い少女はそれを掌で受け止める。それを見つめながら面倒なことになりそうだと、刑香はため息をついた。暖かな日射しを浴びることで咲いた桃色の花びらは春の香り、もう梅が咲く季節になったのだ。
「せっかく
イタズラかセクハラか。
今度は何をされるのだろうと半ば諦めつつ、刑香は手に乗っていた梅の花弁を風に流した。薄く桃色に染まった春の欠片は、くるくると渦を巻くように雲のスキマへと吸い込まれていく。
陽光は遮られることなく地表に降り注ぎ、真っ青な空で白い翼が羽ばたいた。耳を澄ませば鳥たちのさえずりが聴こえてくるようで気持ちがいい。しばらく休んでから紅魔館に用事を済ませに行こう。あの『姉』の気紛れに付き合うのはそれからでも遅くはない。
それくらい今日は良い天気なのだ。
◇◇◇
射命丸文にとって、白桃橋刑香とはどんな存在なのか。
これが改めて考えてみると難しい。幼なじみであり、親友であり、妹分であり、様々な感情が混ざり合っている相手なのだ。あの少女を救うためなら文は迷わず命を懸けるし、刑香とて立場が逆なら同じことをするだろう。
一方で翼の色は白と黒、両の瞳は蒼と紅、はぐれ天狗と精鋭天狗という駆け離れっぷりである。素直でない所は似た者同士だが、基本的に共通する性質はない。それでも心は通じているし、どちらかが欠けた幻想郷など考えられない。
親友という言葉では足りない気がする、かといって代わりの表現も見つからない。だから射命丸文は、自分にとって白桃橋刑香がどんな存在なのかを一言で表せないのだ。
「あやや、思ったより時間がかかりました。やはり一番新しいヤツを贈りたいですし……刑香は待っていてくれてますかね?」
射命丸文が降り立ったのは、人里離れた林の中にある古びた神社だった。
ここは組織を追放された刑香が住み着いている場所である。数年前まで荒れ放題だったのだが、壁や屋根は丁寧に補修されている。ほどほどに雑草も抜かれて、枯れ葉も掃除されているのだから真面目なものだ。所々が割れた石畳を、文は一本歯のブーツで景気よく踏み鳴らして進む。
博麗神社とは比較するべくもなく狭い境内。信仰は廃れ神々は去り、ここに住み着いた天狗の少女が主となってから早数年。すっかり妖怪神社と化したらしく、人気はない。しかし、それでも訪れる者を追い返す妖気は感じないのだから何とも刑香らしい。
「まあ、訪問客を歓迎するような気配でもないんですけどね。あの子は他者とあまり積極的に関わっていくタイプじゃないですし、できれば帰って欲しいって妖気でしょうか」
境内にある梅の木からは爽やかな香りが広がっている。『桜は花を、梅は匂いを愛でるべし』と古来より伝えられる格言であるが、なるほど良いものである。
その木の周辺で咲き誇っているのは、名も知れぬ小さな花たち。雑草に紛れる黄色や桃色が春を告げている。他愛もない草花なれど心に染みる気がする、恐らくわざと残しているのだろう。
周囲に他の家々はなく妖怪の気配もしない、夕焼けに照らされる林の中はどこか物寂しい雰囲気が漂っていた。それも含めて刑香らしいと、神社の襖に手をかけながら千年来の親友は思う。
「あやや、まだ帰っていないようですね」
遠慮なく開け放った部屋には誰もいなかった、ひとまずブーツを縁側で脱いでから上がっておく。新聞の執筆をしていたらしく、机の上には鮮やかな花の写真たちが広げられていた。ライバル紙の情報ということで「どれどれ」と文が覗き込む。
中でも目に付いたのは博麗神社の『
「私が来ることは分かっていたでしょうに。商売敵にこんなものを見せるなんて無用心ですねぇ、信用してくれているのは嬉しいですけど」
少しばかり照れくさいと感じながらも、抱えていた風呂敷を床に置く。新品の装束と『あるモノ』を入れている包みである。
そのまま待っているのも暇なので、机周りを物色してみようと歩き出す。すると目に入ったのは湯飲みと急須が乗ったお盆、わざと目立つように部屋の真ん中に置かれていた。珍しく刑香の方からイタズラを仕掛けてきたのだろうか。怪しく思いながらも近づいてみた。
「まあ、そんなわけないですよね。いただきます」
確認することもなく急須の中身を傾ける。すっかり冷えきっていたが、こぽこぽと豊かな新緑の液体が湯飲みに注がれていった。口を付けてみると苦味の強い茶葉だった、高いものではないのだろう。しかし用意しておいてくれた気遣いは嬉しく思う。わざわざ二つ置かれた湯飲みがその証拠である。
この数年、刑香やはたての存在が自分の中で大きくなっていくのを感じていた。
「……私は変わりませんね。あの子の周りは賑やかになったというのに、私には未だに刑香とはたてしか信頼できる仲間がいないようです。もちろん二人もいるだけ幸せなんですけど」
賑やかになった部屋を見回してみる。
まずは虹色に染まっている床の一部、これは道具屋の幼い魔法使いがやらかしたらしい。続けて壁際の棚には心配性な茶髪天狗が持ってきた薬箱、河童の少女が調整した一眼レフのカメラ、寺子屋お墨付きの教本、そして巫女特製の御札が並べられている。これらは山を追放されてから刑香が手に入れた繋がりだ。
あの少女が自分の手から離れてしまったようで、心の奥から一抹の寂しさが湧き上がってくる。
「やれやれ、何だか眠くなってきました。ちょっとの間だけ横になっていたいですねぇ。刑香が帰って来ないとアレも渡せませんし……ほんの少しだけ」
吹き込んで来る風は春の夕暮れ。
柔らかな熱を含んだ
持ってきた風呂敷包みには、新品の天狗装束ともう一つの服。それを刑香に着せてやるのが楽しみだ、きっと恥ずかしがるだろうが似合うに違いない。そんなことを考えながら横になった黒い鴉天狗の少女は、いつの間にか小さな寝息を立てていた。
◇◇◇
「確かにお茶は用意してたし、休んでいても構わなかったんだけど……まさか眠っているなんて思わなかったわ。疲れてたのかしら?」
ようやく所用を済ませて帰宅した刑香。
夕暮れが落ちた空の下、外界には星の泳ぐ青い夜が広がっている。そんな静かな夜を真っ白な翼で揺らして、一本歯下駄を鳴らしつつ降り立った境内。部屋に上がって襖を開けてみると親友が眠りこけていた。
布団を使うこともなく、畳の上で寝転がっている天狗の少女。膝上までのスカートと半袖シャツでは寒かったのだろうか、自分の翼を布団代わりにして身体を温めていた。いつもなら誰かが近づけば目を覚ますのだが、今日は起きる様子がない。
「せっかく紅魔館で上等なぶどう酒を分けてもらったんだけど、この分だとコルクを抜くのは夜中になりそうね……」
久しぶりに親友が訪れてくる夜。
少しばかり張り切って、レミリアからワインを貰ってきたのだ。古めかしいラベルが剥がれかけ、如何にも年代物に見える硝子ボトル。フランのお礼にと当主が自分のコレクションから選んでくれた逸品だ。「スカーレット」と外来の言葉で銘打たれているので、ひょっとしたら自作品なのかもしれない。
どんな味か楽しみである。独りで飲むつもりはないので、文の目覚めを待つとしよう。それまでに夕餉の一つでも作っておくのも良いが、果たして野菜の煮物はワインに合うのだろうか。それとも油が多少あるので、天ぷらにするのも一興だろうか。刑香は頭を悩ませていた。
「まあ、ともかく作ってみましょうか。合うなら合うでいいし、合わなければ別々に味わえばいい話よね…………何よこれ?」
台所に向かおうとした際に見つけたのは、足元に置かれた風呂敷包み。
随分と大きいので不審な気配を感じたが、そういえば予備の装束をくれると言っていた。まだ文が寝息を立てているのを確かめつつ、刑香は包みをほどいていく。あの時の親友が見せた様子から、何となく中身の察しはついている。どうせ装束だけではないのだろう。
そして出てきたのは真っ白な天狗装束と、射命丸文の私服だった。フリル付きのスカートと、リボンタイをあしらった半袖シャツ、そして一本歯のブーツが可愛らしい。どうしてこれが入っていたのかなど、考えるまでもない。
「新しい装束をあげる代わりにこれを着なさい……とでも言うつもりだったのでしょうね。まあ、これくらいなら引き受けてあげてもいいけど…………文は、もうしばらく寝てるかな?」
少し悩んでから刑香は帯に手をかけた。
どうせ着せられるなら自分から着た方が良い。着替えている途中で、平坦だの何だのと変にからかってくるに決まっている。思い通りにはならないわよ、と眠っている文にチロリと舌を出してやる。
二人だけの部屋に衣擦れの音が響く。
さらさらと帯を解き、手慣れた仕草で装束をほどくように脱いでいく。そして部分ごとに文の持ってきた服へと衣を代えていく。さすがに眠っている友人の隣で、丸ごと脱いでから着直す度胸は刑香にはない。温泉ならともかく部屋の中で、そういう格好を一方的に見られるのは恥ずかしい。
半袖シャツに腕を通しつつ、不満を口にする。
「まったく、お揃いとか幼子の姉妹みたいじゃない。絶対狙ってるでしょ、本当に素直じゃないんだから困った姉ね……」
孤独に慣れた日々を変えてくれた相手。
そんな文のことを刑香は『家族』のようだと思っている。いくら他に交流が増えても、刑香にとって射命丸文はやはり特別な存在なのだ。もっとも気恥ずかしくて一生、言葉にはできないだろう。
そして数分後、姉が起き出すまでに着替えは完了することになる。そこから「写真を撮る」「撮らない」という言い争いに発展することになったのだが、それは別のお話。
イラスト・キャラクターデザイン(刑香):北澤様
pixivページ:http://touch.pixiv.net/member_illust.php?id=1818789
今回のイラストは依頼という形で描いてもらっています。後日、イラストレーター様のpixivページにて劣化が少ないバージョンをアップしていただく予定です、宜しければぜひご覧になってください。
そして、こちらはおまけとして
【挿絵表示】
こっそり撮影していた色々と黒い少女のワンシーン。