その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第四十一話:雨の天道

 

 

 漂うのは泣き出した空の香り。

 人里に降り注ぐ雨は、しんみりと寺子屋の屋根を打ち鳴らしていた。カンカンと拍子を取るように木々や小石を楽器代わりにして遊び回っているのだ。空の息づかいが鼓膜を満たしていく心地は悪くない、刑香はそう思う。

 

 そのおかげか重い真実が告げられているというのに、心は不思議なほどに落ち着いていた。安らかな寝息をたてている霊夢を優しく撫でながら、目の前のハクタク教師から紡がれる真実に刑香は耳を傾ける。

 

 

「『天竜八部衆』とは、仏法を守護する者たちの総称だ。それぞれが圧倒的な力を行使することで仏の教えと人々を護り、そして‥‥」

「その中に名を刻んでいる一柱こそが『迦楼羅(かるら)王』ってわけか。………まさか仏法に話が繋がるとは想像もしなかったわ。かなり面倒なことに私は首を突っ込んでるみたいね」

「その辺りは覚悟してもらうしかないな。お前が考えているよりこの問題はずっと複雑なものなんだ。ここからが本題だ、付いて来てくれ」

 

 

 慧音は指先で空間をなぞる。

 そして虚空から取り出された巻物たちが、また新たに部屋を埋め尽くしていく。蛇のごとき書物たちは床と天井を這い回り、このままだと畳の目まで埋め尽くしてしまいそうだ。千年以上をまとめて閲覧しているとはいえ、溺れてしまいそうな量である。

 これは十年かけても読みきれないだろう、流石に辟易としてきた刑香がため息をついた。すると霊夢が目を擦りながら起き上がる。

 

 

「ぅん……どうしたの、刑香?」

「ああ、起きたの?」

 

 

 眠っていても気配を感じ取ったのだろう。ハクタクの能力であっても、それが人外のモノであることには変わりない。鋭い感覚を持つ巫女には耳障りだったに違いない。

 うつらうつらと幼い巫女は両手をさ迷わせる。そのまま寄りかかって来たので身体を刑香が抱きとめた。そしてやんわりと布団へ幼い少女を押し戻す。

 

 

「ちょ、けいか‥‥?」

「まだ月は南の空にあるから、外は子の刻限を回ったばかりよ。人間が目を覚ますには早すぎるわ、良い子だから眠っていなさい。‥‥起きてるつもりなの?」

「ふぁ‥‥何だか重要な話をしてるみたいだし、私だけ除け者は嫌だからね。うわ‥‥寒いじゃない」

 

 

 瞼を擦りながら刑香の隣にちょこんと座る霊夢。

 かろうじて意識はあるようだが、身体はゆらゆらと舟を漕ぎ始めていて危なっかしい。仕方ないとばかりに白い翼が少女を肩から包み込む。

 

 

「ほら、もう少し近くに来なさい」

「ん、ありがと‥‥」

 

 

 あまり身体を密着させるのは好きではないし、自慢の翼を毛布代わりにされるのも不本意だ。しかし霊夢に風邪を引かせるわけにもいかない。少しばかり不服そうな表情で鴉天狗は巫女と肩を寄せあうことにする。そんな一連の流れを眺めていた寺子屋教師は、堪えきれずに小さく吹き出した。

 

 

「ふふっ、お前たちは本当に微笑ましいな。こちらまで心が暖かくなるよ、いっそのことお前は霊夢の式神にでも成ったらどうだ?」

「お断りするわ。山で散々に道具扱いされたからそういう立場はもう御免だし‥‥‥そういう関係はもう要らないの、例えこの子でもね」

「くすぐったいわ、刑香」

 

 

 幼い黒髪を白い指が溶かしていく。細い手櫛はゆったりと流され、それに合わせて霊夢は頭を揺らしていた。とても機嫌良さそうである。

 この巫女を支える存在の一人として、刑香は必要かもしれないと慧音は思う。幻想郷のために、白い少女には霊夢の式になってでも傍にいて欲しい。そこまで考えてコホンと咳払いをする。こういったことは自分が立ち入るべきではなく、あくまでも本人達の問題であるべきだ。

 

 

「何やら話が逸れてしまったな。確か天竜八部衆のことまで話したか、ならばそろそろ核心に触れるはずだ。ここからはお前の疑問も晴れるだろう」

「てんりゅーはちぶ‥‥‥‥何それ?」

「途中で起きてきたアンタには後で説明するわ」

 

「察しのいいお前のことだ。天魔殿との関係について自分なりの考えは持って来たのだろう? ならば私は結論から述べさせてもらう」

 

 

 そう言って深緑の瞳は部屋を見渡していく。

 ここに満ちた文字たちは幻想郷の歴史そのものである。大結界に閉ざされる前から続いていた世界の歩み、幾千年と続いてきた人間と妖怪の争いが記されている。そしてその底にあるのは埋もれた想い、その忘れ去られた儚さを聖なる獣人は歌い上げるのだ。

 

 

「『天魔』とは、天狗の長老が代々受け継いでいく号であって本人の真名ではない。歴代の長がそうであったように、あの方にも自身の名はある。当代の真名こそが、迦楼羅だ」

「‥‥それは分かってる。私が知りたいのは、あの方が私とどういう関係があるのかよ。続きを話して」

「……ああ、お前が期待する私の役目は答え合わせだったな。すまない、話を続けよう」

 

 

 気がつくと雨は大降りになっていた。

 軒先に置かれたバケツは怒り狂ったように鳴り叫び、真っ白な霧が外界を塞いでいる。一寸先も見通せず、水飛沫(しぶき)が跳ね返る音だけが荒れた波のように耳を浸していた。これ以上は口にするなと、まるで空から警告されているようだ。それに構わず慧音は結論を紡ぎだしていく。

 

 

「かつて人々から守り神として祀られた迦楼羅王。そんな彼が現在、天狗の棟梁となっている理由までは分からない。しかし彼は妖怪に身をやつしてまで、大天狗たちと共に現在にまで連なる天狗の組織を創り上げている」

 

 

 大陸にて黄金の霊鳥として崇められ、現在も少なくない国々で信仰を保っている人の守護者。それが迦楼羅という存在であり、この島国では鴉天狗の祖として扱われている節すらある。紛れもない神霊、もしくは最上位の大妖怪なのだ。

 

 慧音は刑香のことを高く評価している。天狗であるが故に頭の回転は早く、その思考は並の妖怪とは比較にならない程に冷静だ。飄々としながらも恐ろしく頭のキレる射命丸文、その妹分としても申し分ない。だがそれでも天魔とは格が違いすぎていた。並みの天狗相手にも苦戦する刑香と天魔では余りにかけ離れ過ぎている。

 

 

「その途中で、彼はある天狗と結ばれたと歴史書には記されている。その奥方の家名こそが『白桃橋』、つまり天魔殿の真名は白桃橋迦楼羅。あの方は紛れもなくお前の肉親だよ。刑香」

 

「‥‥何とも実感の湧かない話ね。私にはそんな大層なチカラは何処にも宿っていないわよ?」

「いや、延命の加護は迦楼羅王が誇るとされるご利益の一つだ。一介の鴉天狗に過ぎないお前が持つには異質すぎる『能力』は、恐らく遺伝によるモノだろう」

「そう、なのね」

 

 

 ちろちろと蝋燭の炎が揺れる。

 他に灯りはなく、部屋に広がる文字たちは渦を巻き続けていた。黒い蛇がうごめいているかのような気配と、紙の擦れる音だけが響く空間は不気味すらである。だが、その中にあっても空色の瞳が陰ることはない。正面から射抜いて来るのだから、この少女はやはり真っ直ぐだと聖なる獣人は微笑んでいた。

 

 

「これでお前は天魔殿との繋がりを得た。私が天狗たちに証言したなら、お前は連中にとって無視出来ない存在となるだろう。何せたった一人残った長老家の跡継ぎなのだから‥‥さあ、お前はここからどうする?」

 

 

 涼やかな声が夜の湿った空気を押し退ける。凛とした気配が部屋を満たし、蝋燭から放たれる光が深緑の瞳に溶け込んでいた。煌々と森を染める色の正体は果たして、朝焼けなのか夕焼けなのか。真意を見極めようと、ハクタクの深い眼差しが白い少女に注がれていた。

 そんな慧音に対して、刑香は肩を竦めて苦笑する。

 

 

「‥‥どうもしないわ、私はここに真相を確かめに来ただけだって伝えたでしょ。この話はこれで終わりよ」

「何だ、随分と平坦な反応だな。激怒するなり悲観するなり想像していたんだが‥‥お前は今まで肉親から裏切られ続けてきたことになるんだぞ?」

「だから何よ、それで私が復讐に走るとでも思ったの? 勝てやしないでしょ、天魔様どころか文あたりに弾き返されて終わりよ。そもそもしないけど」

 

 

 それは予想していた反応ではなかった。

 親類の存在を知ったというのに喜びはなく、そんな相手から裏切られたことへの怒りや悲しみもない。むしろ真相を知っても厄介事程度にしか捉えていない、ある意味ではいつもの刑香らしい反応であった。少なくとも表面上はそう見える。

 

 

「そもそも私は別に家族が欲しいわけじゃない。腐れ縁から大切な間柄になった二人もいるし、最近は紅魔館の連中とも知り合えたし、それに人里にだって知りあいはそれなりにいるわ」

「‥‥いや刑香、お前は」

「地底では勇儀様や古明地姉妹とも知り合えたし、だから私は別に‥‥こんな」

 

 

 それでも瞳の奥深く、そこには冬空を連想させるような物寂しさが宿っているのに慧音は気づいていた。自分に言い聞かせるように言葉を形にし続ける刑香。そんな白い少女の頬にひたりと小さな手が触れる。悲しげな顔をした霊夢が空色の瞳を覗き込んでいた。

 

 

「ねぇ、刑香」

「何よ、どうしたの霊夢?」

 

 

 

「どうして泣いてるの?」

 

 

 

 真っ白な頬には一筋の雫が走っていた。

 霊夢の一言を合図に、ガラスにかかった小雨が流れ落ちるように透明な粒たちが一つ二つと頬を伝っていく。黙ったまま見守る霊夢と慧音に背を向けることもしない、夏空の碧眼はただ静かに涙を零していた。どうして自分の頬が濡れているのか理解できないという様子で、少し驚きつつ刑香はその水滴をぬぐい去る。

 異変が起きたのは、その時だった。

 

 

「お、おいっ!?」

「刑香っ!?」

 

 

 ガクンと傾いた視界、突如としてバランスを失った少女の身体が『真下』に引き込まれる。そこには目玉の浮かぶ不気味な空間、これは『あの妖怪』の能力であると刑香は瞬時に確信する。油断した瞬間を狙われたらしい。霊夢と慧音からあっという間に引き離され、

 

 

 気がつけば空の上に放り出されていた。

 

 

 波立つ銀の雲海で白翼を羽ばたかせて滞空する。

 のびやかに降り注ぐ春の月光は、怯えが来るほど鮮明に千里の先を照らし出していた。やれやれと周囲を見回して刑香は嘆息する、どうやら一瞬のうちに人里から雲の上にまで飛ばされたらしい。こんなことが出来るのは、自分が知る限りで一人だけである。

 

 足元には雨の匂いを漂わせる雲が浮かび、くすんだ銀色の海がどこまでも広がっている。位置的にはちょうど妖怪の山の上辺りであろうか、そんな世界で刑香を待ち受けていたのは一人の大妖怪。その眼差しに身体の芯が凍りつく。

 

 

「本当に久しぶりね。元気にしてたかしら、刑香」

「っ、紫‥‥!」

 

 

 まるで波間に浮かぶ小舟に腰かけるようにして、八雲紫は三日月型のスキマで空に浮かんでいた。

 冬は眠りについていたため、刑香とは数ヵ月ぶりの再会である。普段の言動を考えるに、挨拶代わりのイタズラでここまで転移させたのだろうか。しかし伝わってくる妖力は呆れるほど大きく、鬼の四天王と比較しても遜色はない程のモノ。これは冗談の類いではない。

 

 

「あら警戒しているようだけど、どうしたのかしら?」

 

 

 扇子で口元を隠しつつ、向けられる紫水晶のような瞳は美しく。そこから放たれる光に込められているのは鋭く冷たい感情だった。初めて会った時と同じ、敵意を秘めた瞳が注がれていることに初めから刑香は気づいていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 陽光の届かぬ大地の底、無人の野が横たわる中心に『旧都』はそびえ立っている。

 

 

「も、もう無理だって。勘弁してくれよ大将!」

 

 

 赤い提灯がゆらりゆらりと闇を照らし、一見華やかに映る歓楽の街。賑やかな声が絶え間なく響いているが、それに惹かれて迂闊に足を踏み入れてはならない。強力な妖怪たちが居を構えるここは部外者にとっては帰らずの都である。鬼や土蜘蛛、橋姫や覚妖怪と出会って五体満足でいられる幸運にはそう恵まれない。

 先の事件において鴉天狗の少女たちが全員で帰還できたのは、実の所はそこそこの偉業であった。

 

 

「もう限界だって? 何言ってんだ魁青、まだ十を越えたばかりじゃないか。こんな程度で弱音を上げるなんざ、その角は飾りかい?」

「いや普通の酒器ならいざ知れず、酒樽で十越えはキツいッスよ!?」

 

 

 灼熱地獄を管理する『地霊殿』の近くにあるからか、この辺りは暖かな熱に恵まれている。そのため地上を追放され、或いは人間に見切りをつけた多くの妖怪たちが集まり、旧地獄を建て直して都にしたという経緯がある。この間の喧嘩で少しばかり街は破壊されたが、鬼を中心とした妖怪たちはすでに旧都を修復していた。この都を丸ごと作り上げた者にとって、半壊からの修理など容易いことだったのだろう。

 そしてその際に酒の匂いと湯気の漂う居住区には、荒々しい活気に包まれた鬼の酒場が新しく建てられていた。

 

 

「魁青の野郎が白旗上げたぞっ、これで大将の十人抜きだぁ!」

「すげぇっ、流石は姐さん!!」

「今度はアタイの番さ。その次はヤマメちゃんも参加してみるかい?」

「全力で遠慮しとく」

 

 

 そこで繰り広げられていた鬼の大宴会を、土蜘蛛の少女は白けた様子で眺めていた。大の字で倒れた青鬼を見下ろしながら、鬼の大将は愉快そうに笑い声を上げている。だがそれにも愉快な気分になれない。なみなみと注がれた盃に映るのは、少女の不機嫌そうな表情ばかりであった。そんなヤマメへ勇儀が話しかける。

 

 

「何だい、珍しくお前は乗り気じゃないね。どうかしたのかい、ヤマメ?」

「どうもこうもないよ。さっき、さとりのヤツに『地上へ一緒に行きたいなぁ』って可愛らしく頼んだんだ。そしたら『僧侶に化けるならいいですよ』だってさ!」

「あっはっはっ、さとりのヤツも毒舌だねぇ。遠回しに断るにしても、もう少し言い様があるだろうに」

 

 

 遠い平安の世において、土蜘蛛は僧侶に化けて『とある武将』に近づいたことがある。その際に正体を見破られ、彼の部下によって仲間だけでなく巣まで焼き払われた経験があるのだ。以降、土蜘蛛たちは僧侶に身を変えることを避けている。別に変化できないわけではないが、何となく嫌なのだ。

 

 

「あの根暗妖怪め。せっかく久しぶりの地上で獲物を味わえると思ったのに‥‥」

「そんなこと考えているから手痛く断られたんだろうさ。さとりとパルスィは無事に地上へ向かったのかい?」

「さっき私たちの巣を通過していったよ、今頃はお迎えに来た天狗どもと落ち合ってんじゃないの? うぅー、病で死にかけの人間一人二人なら構わないと思ったのにな。口減らしだって大歓迎なのに」

 

 

 名残惜しそうにヤマメは盃を傾ける。

 この地底での生活に不満はないが妖怪である以上は、百年に一度くらい人里にちょっかいを出したくなるのだ。人間から畏れられるという妖怪の本質、それを確認したくなるのを誰が止められようか。ただ土蜘蛛の場合はそれで村が一つ消えることになるので、さとりからは断固拒否されたわけだ。『病を操る能力』は伊達ではない。

 

 虚しく喉を降りるのは濁り酒。

 ほんのりと舌触りは甘く、強い度数は酔いを誘ってくれる。流石は鬼の御用達の一つ、良い酒である。それで少しだけ機嫌を持ち直したヤマメは「最近ツイてないなぁ‥‥」と呟きながら、胸元から白い羽を取り出していた。キラキラと静かな光を放つそれは前回の騒動で拾った戦利品である。

 

 

「この間だって、あの三羽を勇儀が叩きのめしてからが私にとって本番だったんだよ。死にかけのアイツらに牙を突き立てて楽しもうと思ってたのにさ。まさか鬼の大将が負けちゃうんだから、上手くいかないもんだ」

「お前、そんな理由で私を焚き付けたのかい。ロクでもない上に油断ならないヤツだ」

「ふふっ、それにしては口元が笑ってるよ?」

 

 

 別段、珍しい話ではない。人間を喰らって力を付けるのと同じように、妖怪を喰らって妖怪は力を付けることができる。弱ったところを狙って強い者の血肉を狙うのは効率的なのだ。特にヤマメは白い鴉天狗には執着している、天魔が関わっているなど面白そうで仕方がない。

 藪をつついて蛇を出し、それを丸呑みにしてやるのは地底ではよくある娯楽なのだ。

 

 

「地上に行くついでに、白いのにも挨拶しておきたかったんだけどね。あんなに面白い境遇のヤツは久しぶりだよ」

「その口調だと、お前さんは刑香の裏事情に気づいていたのかい?」

「ああ、天魔との繋がりのこと? そりゃ気づくでしょ、私たちみたいな旧い妖怪は忘れようにも忘れられないよ。だってアイツは‥‥」

 

「おーい、ヤマメちゃん。こっちで一緒に呑まないか。サービスするぜっ!」

「ぶっ飛ばすぞ馬鹿野郎、ヤマメちゃんは俺らと一緒に呑むんだよ!」

「男どもは鬱陶しいだろうし、アタイの所に来なよ!」

 

 

 次々とヤマメを呼ぶ鬼たち。それぞれが酒瓶ではなく酒樽を片手にして誘っているのだから恐ろしい。嬉しそうな顔を張り付けながら「今日は遠慮しておく」と少女は全力で首を振った。鬼の酒に付き合うと明日に地獄を見ることになる。

 地上では嫌われ者のヤマメだが、その明るい性格もあって地底ではアイドルのような存在だったりする。しつこい部下たちを「話の邪魔だよ」と鬼の大将が追い払っていく。小突いただけで同族が壁を突き破っていくのだから、相変わらずの金剛力である。向かいの店から轟音が聞こえてきた。

 

 

「あはは‥‥もう傷は治ったみたいだね」

「あんなモンはとっくに全快してるよ。吸血鬼のお嬢ちゃんから貰った内臓破壊は強烈だったが、三日もあれば問題ない」

「でもアイツに潰された目も治しちゃうとは思わなかったよ、萃香みたいに残しておかないんだ?」

 

 

 白い少女に抉られた目は既に再生を果たしていた。光を失っていた水晶には松明のような炎が燃え盛っている。睨まれただけで大半の人間が失神するという、それほどの妖気を感じさせる鬼の双眸である。

 そんな無双の眼光を恥ずかしそうにヤマメから外しながら、勇儀は返しの言葉を酒の代わりとして口にする。

 

 

「それは萃香のヤツが先約だからね。私が真似しちまったら、再会した時に格好がつかんだろう?」

「なーんだ、友人への見栄を優先したわけか。鬼の大将さまも可愛いところあるじゃん」

「あっはっはっ、要するにそういうことさ。ほらほら、まだ日の出まで十分あるからジャンジャン呑みな!」

 

 

 少しだけ照れた顔で酒を促す勇儀。彼女にも色々とあるのだろう、しかし鬼の面子というものは土蜘蛛であるヤマメにはあまり理解できてなかったりする。自由気ままに暴れまわっていた自分たちに、見栄だとかそういうものは馴染みが薄い。そのまま続けられても面倒なので、話題を変えるとしよう。

 

「そういえば、さとりが言ってたんだけど天狗たちが内部で揉めているんだってさ。どうやら大天狗が亡くなった跡目争いらしいよ」

「その話は聞いてる、私の所にも天狗から『後ろ楯になって欲しい』だの『名前だけ貸してくれ』だのといった寝言が届いてるからね」

「あー、ひょっとして今宵の酒と肴は天狗連中からの貢ぎ物だったりするの?」

 

 

 ちらりと奥の座敷を見てみると、目に飛び込んでくるのは大量に積まれた酒樽と食糧の山。これらが全て貢ぎ物だとすれば大したものだ。一部の天狗はかつての上司である『鬼』の力を頼んでいるらしい。ついこの間まで百年単位で交流が途切れていたというのに、虫の良い話である。

 ちなみに勇儀は送り主に力添えしてやる気は毛頭ない。鬼の力を求めるなら、まずは本人が乗り込んでくることが鬼に対する最低限の礼儀なのだ。どの天狗も部下に使いっ走りをさせるばかりでは呆れるしかない。

 

 

「あまりにも連日で鬱陶しいもんだから、私の方から一人推薦しておくことにしたよ。これで少しは落ち着くだろうねぇ」

「ありゃりゃ、絞れるだけ絞ってから断れば良かったのに。‥‥それで結局、勇儀は誰を押してやったの?」

「ん、ああ、一筆書いたヤツを丁度さとりに持たせてるよ。アイツが山まで届けてくれるだろうからね、それで私が推薦してやったのは‥‥」

 

 

 気がつけば、期待に満ちた目で土蜘蛛の少女は一本角の鬼を見上げていた。星熊勇儀の後ろ楯を得たならば、その者は大きく大天狗の座に近づくことができるであろうからだ。ヤマメとしても誰が選ばれるのかに興味があった。

 かつての大天狗たちは、土蜘蛛の目からも痺れるほどの化け物揃いだったのだ。

 

 源氏の若き天才に兵法を叩き込み歴史を動かした者、

 陰陽師のひしめく京の都を怒気のままに焼き払った者、

 飢餓に苦しんだこの島全土の人々を神通力にて救った者、

 そこらの妖怪には不可能な、輝かしい逸話が彼らには山ほどあった。

 

 山の神たる天狗衆を取り纏めていた八人の大天狗。晩年には失われてしまったとはいえ彼らの『格』は誰から見ても本物だった。深山幽谷、人知の届かぬ深き山々を統べて、幽玄なる谷々を一本歯にて駆けた者。彼らの後任ともなれば当然、それに劣らぬ怪物がーー。

 

 

 

 

「私は刑香を推薦してやったよ」

 

「‥‥‥‥‥‥は?」

 

 

 盃が手を離れて床に落ちる。

 最初は耳がおかしくなったかと疑った。次に冗談を言われているのだと思った。ぽかんとしたヤマメへと、してやったりと鬼の頭目は笑う。少しずつ言葉が頭に染み込んでくるにつれて、土蜘蛛の少女の顔は驚愕の色を浮かべ始めることになる。

 

 


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