その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第四十六話:その導きは星辰の下に

 

 

 遠く耳鳴りが、木霊(こだま)している。

 

 痛いくらいに全身を打ち付ける雨粒の中、舗装(ほそう)されていない剥き出しの地面の上に自分は立っている。狂った狼のように叫び続ける木々の音、靴を呑み込む泥の路。まるで悪い夢のような光景だ、どうしようもなくマエリベリー・ハーンは途方に暮れていた。

 夜の大気は肌を冷たく刺しては荒れ狂い、風雨を避けるための人工物はどこにもない。大都会で暮らし慣れていた人間にとって、ここはあまりにも現実離れした空間である。

 

 

「ここは、何処なの‥‥‥?」

 

 

 ぼんやりとした声が夜風に(さら)われて砕かれる。頭痛のような耳鳴りは酷くなり、熱に浮かされたように思考がかき乱されていく。この雨のせいで風邪を引いてしまったのかもしれない、メリーは頭を押さえて立ちすくむ。ちょっとだけ泣いてしまいそうだ。そんな弱気な少女に代わって、隣にいる友人が白い息と共に言葉を吐き出す。その瞳にはメリーとは違う熱が宿っているように見えた。

 

 

「ねぇ、メリー。今の今まで私たちはお寺にいたはずよね。間違えても登山なんてしていなかった、そうよね?」

「‥‥‥ええ、私たちはランチに何を食べるのかを話しながら仏像を眺めていたはずよ。少なくとも山に踏み込んだ覚えはないし、夕暮れを通り越して夜になるほど、無邪気に会話を楽しんでいたわけでもなかったわ」

「そうよね、そう、よね」

 

 

 帽子を押さえながら、蓮子は弾んだ声を漏らす。

 化学物質で汚染も洗浄もされていない雨が打ちつけられ、豊かな土の香りが立ち昇る地面。人の手が入れられた痕跡はなく、のびのびと枝を伸ばしている大樹たち。そして街灯の一つ存在しない自然は身震いするほどに澄み切った暗闇を生み出している。それらは自分という存在が呑み込まれてしまいそうな恐怖さえ、感じさせた。

 ここはきっと恐ろしい場所、人間が踏み入れてはならない領域だ。小さく震えたメリーは蓮子の上着を掴もうと手を伸ばす。

 

 

「ねぇ、蓮子。ここはもしかしたら‥‥」

「メリー、あそこの木の下に誰かいる。原住民に違いないわ、話を聞きに行くわよ!」

「あ、ちょっと待って‥‥‥待ってよっ!」

 

 

 もう少しで届きそうなタイミングで、何かを見つけたらしい友人が歩き出してしまった。伸ばした指先は虚しく空を切り、こちらを振り返ることなく蓮子は進んでいく。そんな後ろ姿を眺めつつ、メリーは震える自分の身体を抱きしめた。冬の雨で濡れた服はとても冷たく、心まで凍てついてしまいそうだ。赤くなってしまった手のひらに、はぁと息を吐いてからメリーは友人の後に続いた。

 親友は木の下にいた少女へと遠慮なく話しかけている。

 

 

「おーい、そこのお嬢さんっ。ここが何処なのか教えてくれないかしらーー?」

「わはー?」

 

 

 どこか場違いな存在がそこにいた。

 こんな暗闇の中、雨宿りをしていたのは小さな女の子。十歳にも満たないくらいの背丈と、黄色い髪を結んだ赤いリボンが幼い印象を与えてくる。わずかに驚いた表情を見せてから、少女は曖昧な笑みを浮かべ始めた。親とはぐれた迷子だろうか、しかしワンピース姿でこんな山に来るのは妙だ。そんな疑問を痛む頭で思い浮かべたメリーだが、ズンズンと蓮子が女の子へと近づいていくので後を任せることにした。

 

 

「いやー、突然ごめんね。ちょっとお姉さん達さ、道に迷っちゃったみたいなのよ。よければここが何処なのか教えてくれないかしら?」

「お前たち天狗にでも拐われて来たのか?」

「なるほど、確かに鴉天狗と関係のある仏像を見ていた身としてはあり得ない話じゃないかもね。ところでお嬢ちゃんのお名前は何ていうの?」

「私はルーミア」

 

 

 ルーミア、それは『光の芸術』を意味する言葉。

 左右も分からず暗闇の中へ放り出された自分たちにとって、この少女と出会えたのは確かに光明なのかもしれない。そんな救いを感じさせる名前だった、コテンとルーミアは可愛らしく首を傾ける。

 そんな少女へと手を振ってから、メリーは力無く大樹に寄りかかった。雨に濡れて体温は下がっているはずなのに身体の中には熱が溜まっている。情報収集は友人に任せよう、気怠さに耐えられそうもない。風邪をひいてしまったのかもしれないわね、と頭上を見上げて額を押さえた。

 隣では蓮子とルーミアが会話を続けている。

 

 

「つまりルーミアちゃんの話を纏めると、ここは天狗の支配する『妖怪の山』ってことなのかしら?」

「うん」

「うーん、確かノートにも書いてあったわよね。天狗の住む山の話と、山を治める『天魔』って天狗の親玉の話があったはず。なら私たちは探し続けた『幻想郷』にいるということになるけど、どうして突然入り込めたのかしら?」

「ねぇ‥‥‥蓮子、私、もう‥」

「分かってるわ、メリー。おぶってでも二人一緒に山を降りるから安心しなさい、絶対に大丈夫だから‥‥ルーミアちゃん、この山を降りるにはどうしたらいい?」

 

 

 体調が悪いことに気づいてくれていた。

 決して見捨てない、その想いの込められた一言にほんのりと心が暖かくなったのは秘密だ。自分が逆の立場だったら同じ言葉を送れただろうか、きっとあんなに自信満々には口に出来なかったと思う。

 うさぎの薬売りにも会えそうねと二人は冗談めかして笑い合った。そうと決まれば道案内を頼むとしよう、蓮子はしゃがんでルーミアと目線の高さを合わせる。この方が小さな子供は話しやすいのだ。

 

 

「ルーミアちゃん、人里にはどうやって」

「そろそろいただきますをしていいのかぁ?」

「ーーーーッ!?」

 

 

 ぞっとする寒気を感じて、蓮子はルーミアから弾けるように距離を取った。実際の温度ではない、少女の纏っていた気配が大きく変わったのだ。毒薬を投げ入れられたような痺れ、刃物を首に突きつけられたような殺気、それが周囲の空気を汚染していく。

 闇を射抜くのは深紅の瞳孔、そもそも少女の視線には『人間が人間に向ける感情』が載っていない。あるのは棚に並んだお菓子の品定めをするように楽しげな光だけだ。それに気づいた瞬間、けたたましい警報が二人の脳内へと鳴り響いた。

 

 

 ーーーここがルーミアの言う通りに天狗の住まう危険な場所であるならば、どうして『当の本人』は平気な顔をしていられるのか。

 

 

 そんな当たり前の疑問が湧き上がり、二人は押し流されるようにお互いの手を取って雨の中へと駆け出していた。まだ寒さの残る春先である、冷たい雫はまぶたを貫いて眼球にまで染み渡ってくる。視界はぼやけるし、手足から感覚があっという間に奪われてしまう。せめて雨が止むまではあの場から動くべきではなかっただろう。それでも二人に立ち止まることは許されない。

 

 

「逃げるのか、そーなのかー」

「いやぁぁああっ、何なのよコイツはーーー!?」

「は、早く走って逃げましょう!!」

「もう全速力で走ってるわよ!!」

 

 

 地面に足をつけることなく、迫ってくるルーミア。

 どうして気付かなかったと二人は自分自身へと悪態をつく。どこの世界に大雨の夜に、こんな山をワンピース姿で登る幼子がいるというのだ。しかし逃げ出すのが遅れたのは仕方ないといえば仕方ない。いくら幻想郷について調べていたといっても、自分たちはまだ実際に会ったことがなかったのだ。

 上空から追いかけてくる少女の姿を見て、二人は心の中で愚痴る。いきなり『妖怪』に襲われるなど、予想出来るわけがないだろう。

 

 

「しんどいかもしれないけど、しっかり付いてきてよメリー!」

「う、うん!」

「わはー?」

 

 

 木々の間を縫うように蓮子がメリーを誘導しながら走り抜ける。二人の姿を見失い、ルーミアが困惑して速度を落とした。相手が空から来るのなら枝葉に紛れればいい、そうすれば空から追跡されても競り勝てる可能性はある。子供の頃に誰もが経験した鬼ごっこにおいて鬼を巻くコツの一つ、それは鬼の目を(くら)ませることに違いない。ここが奥深い山ということもあり、少しずつルーミアから距離を話していく二人。突き出た枝に引っかかれて腕は傷だらけ、何度も足を取られて転びそうにもなる。しかし、これなら逃げ切れるかもしれないとメリーは思った。

 前を走っていた蓮子が悲鳴を上げたのは、その瞬間だった。

 

 

「ぃ、痛った、ぁぁぁぁっ!!?」

「きゃ、ぁっ!?」

 

 

 悲痛な声を上げて前方へと倒れ込む蓮子。

 鉄臭い液体が飛び散り、巻き込まれたメリーも地面へと全身を打ち付けた。泥を拭って顔を上げてみると、蓮子は脚を押さえたまま動かない。歯を食いしばって痛みを封じ込めているようだった。今の衝撃で骨を折ってしまったのかもしれない、メリーはよろめく身体で立ち上がる。

 黒いモヤが立ち込めてきたのは、ちょうど蓮子を助け起こそうとした時だった。

 

 

「‥‥もう、追いついてきたのね」

「うん」

 

 

 自分たちを取り巻いた不自然なモヤ、形を持たない黒い霧が渦巻きながら人形へと固まっていく。見つめていると気のせいか息まで苦しくなってきた。そんなメリーの目の前で、ルーミアは海から上がってきた子供のように黒い闇をしたたらせて裸足で歩み出る。遅れて黒いワンピースが少女の身体を包んでいく。

 飴玉を頬張るように、ルーミアは口の中で何かを踊らせてからコクリと喉を鳴らす。それが済むと両手を合わせて無邪気な笑みを浮かべた。

 

 

「まずは少しだけ、ご馳走さまなの」

「‥‥お腹が空いているなら手持ちのお菓子をあげましょうか?」

「そうなのかー、なら食後の楽しみができたの。でも、こういう包み紙は不味いから要らない」

「っ!?」

 

 

 吐き出されたのは白い布。

 唾液でべとべとになり、所々が黒く変色した切れ端がメリーの足元へと落ちた。何だろう、見たところは服の切れ端に思えるが詳しくは分からない。そもそも、そんなものに気を取られている場合でもないだろう。ちらりと親友の方へと視線を動かしてみるが、まだ蓮子は痛そうに地面にうずくまっていた。よほど深く脚を切ってしまったのだろうか、そんな植物や石は無かったと思うのだが。

 そこまで考えてから、どっと冷たい汗が背中を流れ落ちる。

 

 

「ちょっと待って‥‥‥まさか蓮子、あなたの怪我って!?」

 

 

 妖怪の少女から後ずさりをしたメリーは親友の身体を思いっきり引き寄せた。そして友人の傷を確かめると、まるで獣に噛みつかれたように歪(いびつ)な牙の痕が膝下にある。ちろりと唇を舐めるルーミアの様子から確信する、さっきの布切れは食いちぎられた靴下だ。蓮子は直接触れられることもなく身体の一部を喰われていたのだ。おぞましい寒気がメリーを襲う。

 暗闇そのものが自在に動く手足であり、獲物を仕留める牙となる。そんな存在こそが『闇を操る程度の能力』を持つ、常闇の妖怪ルーミア。単なる人の子が抗うには少しばかり困難に過ぎる。夜という時間の中、こんなモノからどうやって逃げ切れというのか。

 涙を浮かべた蓮子が口を開く。

 

 

「ふ、ふふっ、やばいわよ。私たちの冒険はここで終わってしまうのかしら。どう思う、賢者メリー?」

「冗談が言えるようなら大丈夫そうね、まだ街に帰ってセーブする余力くらいはあるはずよ。ユーシャ蓮子さま」

「ははっ、違いないわ。でも、脱出用のアイテムくらい欲しいところ、ね。まだ動けるなら早く一人で逃げなさい」

「そんなのはお断り‥‥あ、結構言えるものみたい」

 

 

 小さく「馬鹿メリー」と呟かれたが後悔はない。

 どうやら自分たちは正反対なようでいて、似た者同士であるらしい。決して見捨てないという一言は蓮子から送られ、今はメリーから返された。後ずさりを繰り返し、遂に背中を大樹の幹にぶつけた自分たち。その視界を濃厚な闇が塗りつぶしていく。完全に景色が見えなくなってから、ぬるりと舌で舐められたような感触が首筋を伝う。ああ、これは駄目そうだと感じたのは果たして二人のどちらであっただろうか。

 クスクスと無邪気な笑みを顔に貼り付け、常闇の娘は夜を背景にして舞い踊る。その姿はもはや人の子たちからは見えていない。

 

 

「食べていい人間は珍しいの。だから大切にいただきま‥‥‥」

 

 

 赤い双眸は光のない海に堕とされた不知火のごとく。

 すでに闇へ囚われた少女たちの視界には映らない、だが『何か』から見られているという感覚だけは伝わる。それこそが妖怪の原点、いいようのない恐怖こそ人の子が妖怪を生み出した感情なのだ。

 可愛らしい八重歯を見せて、ルーミアは「大切にいただきます」と両手を合わせた。そして闇が少女たちを包もうとして、

 

 

 

 

 

「ーーー待ちなさい」

 

 

 

 

 閃光のごとき紅白が舞い降りた。

 ルーミアの時を遥かに上回り、空気が変わる。夜が明けて朝が訪れたかのように、劇的な変動が周囲を染め直す。人の子の危機に駆けつけたのは、人の守護者。お祓い棒が一閃されると、たちまちに周囲を淀ませていた妖気が取り払われていく。

 そしてメリーと蓮子の視覚は息を吹き返す。見回した風景には何でもない雨の森が映り込み、夜目はもう十分なまでに暗闇へと馴染んでいた。時間を巻き戻したかのような光景である。思わず涙がこぼれ落ちる。そして平穏を取り戻した二人へ不機嫌そうに言霊を投げかけてきたのは、不吉を払う紅白の巫女。

 

 

「アンタたち、外来人ね」

 

 

 その呆れたような表情と僅かな熱を帯びた焦げ茶色の瞳を、マリエベリー・ハーンはきっと一生忘れない。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ああ、なるほど‥‥‥そういうことなのね」

 

 

 錆びついた天井が視界一面に広がる中、八雲紫は静かに白い吐息を漏らしていた。

 頭痛が酷いが、気持ちいいくらいに思考は纏まっている。刑香との戦いで自分があそこまで心乱されることになった理由と、たかが錫杖の一撃で結界を破られた原因に納得がいった。普段の自分ならば有り得なかった失態の数々はまるで人間の少女のような甘さと弱さ、その不可解な全てに答えが出揃ったのだ。横になったままで手のひらを窓辺の月にかざす。

 わずかながら妖力が回復したのを確認して、紫はため息をついた。

 

 

「今しがた何者かが幻想郷に入り込んだのは分かっていた。単なる迷い人ならば私にこれほどの影響を与えるはずもなかったけれど‥‥‥ああ、まさか『こんなこと』がありえるなんて思いもしなかったわ」

 

 

 そっと指先で虚空をなぞり、境界の線を引いてやる。それだけで頭を悩ませていた痛みと熱は消え去った。代わりに大切な扉の鍵を無くしてしまったかのような虚しさが心を吹き抜けていく。

 古きに生きる妖怪が『過去』に追いつかれた、そんなことは通常なら有り得ない。だが八雲紫は少しばかり特殊だ。捨て去ったはずの思い出は色鮮やかに甦り、忘れていたはずの記憶がから浮上する。これまで多くの出会いがあり、多くの別れがあった。だが始まりは『あの巫女』との繋がりだったのだ。忘れないと思っていたのに、こんなにも人の記憶は脆い。

 

 

「ゆ、紫さまっ。お目覚めになられたのですか!?」

 

 

 傾く思考を中断させたのは、開け放たれた窓から飛び込んできた見慣れた式神。茶色の毛並みと赤いワンピース、二本に分かれた尻尾が特徴的な娘が目の前でしなやかに四足で着地を決める。そして化け猫の少女、橙は心配そうな様子で主人の主人の元へと駆け寄ってきた。

 

 

「お体は大丈夫ですかっ!? あと紫さまの帽子を探してたんですけど見つからなくて、それに藍さまが‥‥‥むぐっ!?」

「もう少し静かな声を紡ぎなさい、せっかくの静かな夜なのだから」 

「ふ、ぁ‥‥ぃ」

 

 

 柔らかな指先が子猫の唇へと当てられた。

 寝起きの頭に次々と要件を叩きつけられるのはあまり気分が良いものではない。顔を真っ赤にして黙り込む橙を横目にしながら、紫はゆっくりと起き上がった。冷たい風が窓辺から入り込んで黄金の髪を波立たせる。ベッドの隣に備え付けられた鏡に映った姿には、帽子が無かった。そういえば、白い鴉天狗にやられたのを思い出す。

 

 ここはスキマから呼び出した列車の一つ、それも寝台特急の一室らしい。アンティークの家具が並べられ、小さな洗面台まで備え付けられている。外の世界を散策していた時、気まぐれに頂戴しておいた珍品だ。まさか自分が眠ることになるとは予想しなかったが。

 恐らく主人の主人を外に寝かせるわけにもいかないと考えて、橙がここまで運んできたのだろう。弾力のあるベッドに腰掛けながら「悪くない判断ね」と紫は呟いた。

 そのまま視線を何気なく窓の外へと向けてみる。月下の舞台では白い流星と黄金の太陽が、未だにぶつかり合っていた。

 

 

「まだ戦っているのね。藍の実力ならすぐにでも決着がつくはずなのに‥‥橙、どうしてなのか分かるかしら?」

「‥‥藍さまは刑香さんをなるべく傷つけないように、戦っているんだと思います。本気になれないから、まだ決着がつかないのではないでしょうか?」

 

 

 明らかに今の刑香は、白狼にも劣る速度しか出せていない。それでも九尾の式が攻め切れないでいるのは、傍目から見ている分には藍が手を抜いているようにも思える。しかしそうではないのだと、スキマの賢者は首を横に振る。

 

 

「『死を遠ざける程度の能力』は刑香が死に瀕するほどに回避率が上がっていく。あそこまで弱ってしまえば、殆どの攻撃は当たらなくなるのよ。だから藍は攻めあぐねているのでしょうね」

「じゃあ刑香さんはもう‥‥」

「安心しなさいな、そうなる前に決着はつくだろうから。あんなものは蝋燭の火が消える寸前に燃え上がるような一過性のものよ」

「でも藍さまは刑香さんと‥‥‥え、わひゃっ、紫しゃま!?」

 

 

 言い終わる前に、しなやかな両腕が幼い式神少女を包み込んでいた。

 

 

「今夜だけよ、少しの間だけおとなしくしていなさい。さっきまで私の帽子を探しに行ってくれていたお礼よ」

「は、はいぃぃ‥‥」

 

 

 膝の上に乗せた橙の身体を抱きしめる。

 すると二本の尻尾が左右へ行ったり来たりと揺れ動き、緊張しているのか猫耳がへにゃりと折れた。布越しに感じる体温は冷たい、こうなるまで帽子を探していたのだろう。お腹のあたりに腕を回しつつ、身体を温めてやる。本当に藍は良い式を持ったものだと少しだけ嬉しく思う。『優しさ』は術式としては打ち込めない、少しずつ学んで自分のモノにしていくしかないモノだ。だからこそ、それを最初から持つ妖怪は式神にするには最適なのだ。

 

 

「私は心の底でもう一人、式神が欲しかっただけなのかもしれないわね。ツンツンしているけどあの娘、羽も含めて本当に温かいもの‥‥」

「何のことですか、紫さま?」

「何でもないわ、千年に一度くらいの与太話よ。またいつか語ってあげるから、今宵のうちは泡沫の闇に溶かして忘れてしまいなさいな‥‥あら?」

 

 

 氷の華が春の日差しで溶かされて散るように、一枚また一枚と透明な花びらが窓枠へと舞い落ちてくるのに気がついた。手のひらで掴んでみると、どうやら空から剥がれた結界の残骸のようだった。先ほどまで『境界を操る程度の能力』が不安定だった影響だろう。このあたりを囲んでいた障壁の一部に亀裂が入ったらしい。

 ランプの火だけがゆらゆらと揺れ、カチコチと古時計が針を刻む夜の世界。星が語りかける静かな時間がここにある。しかし、そんな静寂はやはり長くは続かないだろう。なにせ侵入者を防ぐための防壁が崩れているのだ。間もなくして、何者かの気配を感じた猫耳がぴくんと立ちあがる。

 

 

「紫さま、ドアの外から足音が一つ。ゆるやかな速さでこっちに近づいてきてるみたいです。藍さまや刑香さんのモノでは‥‥ないです」

「あら、意外と早かったわね。刑香の妖気を辿れないように、敢えて鴉天狗の住処である妖怪の山の上空に陣取っていたのだけれど」

 

 

 古びた廊下を鳴らす靴の音色。橙の言う通りに数は一つ、聴こえるのは一本歯下駄の音ではないので寺子屋の教師かもしれない。彼女とていきなり目の前で知人を誘拐されれば黙っているわけもない。他の可能性としては霊夢だが、あの娘はまだここには来られないはずだ。

 様々な憶測を立てて、対策を組み立てていく頭脳。そんな紫にはお構いなく気配は部屋の前まで到着ていた。そして小刻みに戸を叩く音が三回、どうぞと促してやると扉が開かれた。その向こうにいたのは意外な人物だった。

 

 

「‥‥初めまして、スキマの賢者。頼んでもいないのに地上へとご招待いただき光栄の極みです」

 

 

 開いたドアの向こうから現れたのは、眠たげな瞳をした少女。そのまま拍子抜けするほど穏やかに一礼する。桃色のセミロングスカートの端を少しだけつまみ上げる一連の動作は、柔らかな物腰の淑女のようだった。そして夕焼けを連想させる瞳はある種のカリスマ性さえ感じさせる。噂されているような名ばかりの支配者とは思えない雰囲気である。

 そこにいたのは地霊殿の主、古明地さとり。

 

 

「意外な顔が来たものね。射命丸や姫海棠でもなく、霊夢や慧音でもない。あの娘と特別縁深くもない、地底のひねくれ者が先駆けて現れるとは思わなかったわ」

「ひねくれ者はお互い様でしょう、八雲紫。それに私は白桃橋刑香とはともかく、その祖父との因縁はそれなりにあります。部外者扱いはやめさない」

「それは失礼。ところで、どうやってここまで来たのかしら?」

「もちろん飛んできました」

「今のはそういう問いかけではないわ、どうやって『この場所』が分かったのかという話よ。それぐらい分かっているでしょう?」

「さて、どうでしょうか」

 

 

 のらりくらいと言葉が受け流されていく。

 胸元にあるサードアイがこの瞬間もこちらの思考を読んでいるのは分かっている。ならばこの娘は相手の求めることや言いたいことを理解した上で、会話を転がしているのだ。とても不快なことではあるが、紫とていちいち怒りを感じるほど狭量でもない。しばらくしてため息をついたのは、さとりの方だった。面倒なことに関わってしまったと、口に出さなくても嫌そうな目つきがそう語っている。

 

 

「はぁ、これ以上は言葉として紡ぐまでもないでしょう。このタイミングで貴女の前に私が現れた。ならば心を読めない妖怪であろうとも推測はできる、私の目的は火を見るよりも明らかです」

「いくら心を覗いたところで、火中に放り込まれた竹が爆ぜる方向さえ予測できない覚妖怪が大きく出たものね」

「ええ、まったくもってその通り。ですがたったソレだけの能力を恐れて、使いの天狗を地底に寄越したのはあなたです」

「理由ならありましたわよ?」

 

 

 ただ思考を覗かれるだけなら構わないが、もし博麗大結界の仕組みを持っていかれるなら酷いことになる。八雲紫の持つ秘術の悉く、洗いざらいを奪い取られるかもしれない。さとりを地上に召集しようとした折には、そんな警戒心がスキマの賢者を地上に縫い止めた。

 冬の間に行われた三羽鴉による地底録は、そもそも古明地さとりという一人の妖怪が原因で紡がれた物語であった。そんな思考を読んたのか、気だるげな様子で少女は語る。

 

 

「最初はここに来るつもりなどありませんでした、地上の揉め事に私が関わる義理などない。しかし、白桃橋刑香のことについて私は天魔に問いたださなければならない。どうして彼がこんな未来を選んだのか、その心の深きを」

「これからアナタは何をするつもりかしら?」

「この戦いを止めます、あの白い鴉天狗をまだ八雲の手に委ねるわけにはいかない。曖昧なまま、境界線の上に寝そべったままで終わらせてはならないこともある」

 

 

 それは不可能だ。さきほどの刑香には不覚を取ったが八雲紫はこの幻想郷でも指折りの大妖怪である。その実力は鬼の四天王に勝るとも劣らず、まして九尾の妖狐まで護衛として付いているのだから隙がない。どうやっても古明地さとりが勝てる相手ではない、まだ刑香の方がマシである。それが分からないわけでもあるまい、紫が呆れたように口を開いた。

 

 

「私や藍を止められるとでも思っているの? それとも地底から鬼の一匹でも用心棒として連れて来ているのかしら。大して違いはないけれど‥‥‥」

「ご心配なく」

 

 

 その時、ふわりと風が吹いた。

 それまでカーテンを揺らめかせていた窓辺のそよ風は突風に変わり、星明かりにほのめく窓ガラスを小さく打ち鳴らす。そして小石をぶつけられるような音が列車の床から伝わってきた。窓の外では雲が渦巻き、形を変えていっている。これは鴉天狗の妖力だ。

 すぐに紫の頭に思い浮かんだのは射命丸文と姫海棠はたて、あの二人が近づいてきているということ。ここに来る前に古明地さとりが話をつけておいたのだろう、あの二人なら「刑香が危ない」とでも伝えれば協力してくれる。しかし鴉天狗の小娘たちが加わったくらいで揺らぐほど八雲紫は弱くない。まとめて押し潰してしまえるだろう。

 まあ、この短時間で用意できる戦力などその程度だ。さとり一人であったなら、そうであっただろう。

 

 

 

 

「ーーーー私たち、星熊勇儀及び古明地さとりは連名にて、白桃橋刑香を『大天狗』に推薦する」

 

 

 

 

 

 大きく風の向きが変わった。

 地底の少女が取り出していたのは、星の文様が刻まれた書簡。にじみ出る妖気は確かめるまでもなく、旧友の鬼と同じだけの格を持つ四天王のモノであった。すでに開封されているらしく、そこに封蝋(ふうろう)はない。

 まるで合図をしたかのように数え切れない羽ばたきが夜の空を満たしたのは、唖然とした紫が何事かを口にしようとした瞬間だった。

 

 

「そういえば、言い忘れていたことがありました。私は初めからこの辺りにあなた達がいることを知っていました、助けに来るのが遅れたのは『彼ら』に話を通していたからに他なりません」

 

 

 地底の少女は一枚の写真をかざす。

 それは空が見えないと残念がっていた少女のために、撮影された大きな満月。はたての能力で先ほど撮られたものである。その中心には光を遮るように入り込んでいる黒点二つ。よく見なければ分からないが人の形で、それは紫と刑香であった。こんな偶然もあるのかと八雲紫が驚愕する。

 そうしている間にも羽が舞い散り、一本歯下駄がレールを踏み鳴らす。黒い鴉たちと白い狼たちが次々と雲を突き破って姿を現していく。一人一人が上級妖怪、この幻想郷で最大の勢力を誇る『天狗』がそこにいる。そして、さとりは穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 

「かつての上役である鬼からのお墨付きを得た、そんな少女を見捨てることなど許されない。そんな天狗社会の上下関係を利用させていただきました、白桃橋刑香はもはや『山』と無関係の天狗ではありません」

 

 

 さとりの言葉に従うかのように百に届こうかという大軍勢の天狗たちが、瞬きの間に天上の月を覆い隠す。それは千年もの間、固まっていた時間が動き出した証。白い鴉天狗と山の長老との繋がりに火が灯った瞬間でもあった。

 

 

 

 


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