その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第四十八話︰上下天光の名月夜

 

 

「刑香、本当にお前はあの娘に、お前の祖母に良く似ておるよ‥‥‥ケイカ」

 

 

 繊細で慈しむような瞳が、そこにあった。

 天狗たちを支配する大妖怪としての、あの絶対的な威厳に満ちた眼差しはどこにもない。目の前にあるのはどこまでも澄んだ色で、今にも泣き出しそうな光を宿した眼差し。その表情が嫌というほど胸を揺さぶってくる。紫の見せた夢の世界、あったかもしれない未来の光景と老天狗が重なっていく。

 

 どうして今更、そんな瞳を向けてくるのか。

 どうしてもっと早く見せてくれなかったのか。

 どうして最初からそうあってくれなかったのか。

 怒りより憎しみより、狂おしいほどの哀しみが沸き上がってくる胸を刑香は押さえ込む。

 

 

「天魔、さま?」

「うむ」

「迦楼羅さま?」

「‥うむ」

「お祖父様、なの?」

「‥‥う、む」

 

 

 答えに詰まる老天狗。

 それでも遠慮するように吐き出されたのは、紛れもなく肯定の一言だった。それっきり喉がしめつけられたかのように、刑香は続く言葉を失った。失われた時間はあまりにも長く、代わりに与えられた時間はひどく冷たいものだった。二人の親友たちがいなければ、とっくに自分は駄目になっていただろう。

 この男は鴉のように狡猾で、狼のように獰猛だった。無理やりに使わされた『死を遠ざける程度の能力』の反動で、どれだけ自分は寿命を失ったか分からない。もはや恨んでも仕方ない、だから憎悪は欠片も抱いていない。しかし、だからといって決して許せるものでもない。

 

 

「ーーーーこのぉっ!」

「ぐおわっ!?」

 

 

 ドンッ、と拳を老天狗の胸板に叩きつける。

 何度も何度も、抗議するように残り少ない腕力を振るう。気の利いた言葉なんて浮かんでこない、かといって恨み言を口にすることも出来なかった。あんな顔を見せられては出来るはずがない、千年分のお返しがこれっぽちしか許されないなんて本当に理不尽だ。

 自分ほどではないが痩せた身体だった。何度も死線を乗り越え、酷使し続けたのだろう。刑香の力でも多少は効いているらしく漏らされたのはうめき声。果たして衰えているのは肉体なのか、それとも痛むのは心の方なのか。どちらにせよ抵抗は一切なく、天魔は甘んじて刑香の殴打を受け入れていた。しばらくして息を切らした少女が顔を上げる。

 

 

「慧音から、アンタの真名を聞いて、それから色々とぶつけてやりたい言葉を用意、してたのに‥‥はぁ、駄目ね、一つも出てこないわ」

「そうか、ワシもじゃよ」

「‥‥まったく、今まで、本当に色々と疲れたわ。山では散々だったし、ようやく自由になったらなったで、どうして私なんかが、次々と大妖怪を相手取らなきゃ、ならないのよ」

「すまぬ」 

「今更謝らないで」

 

 

 言葉が続かない、緊張の糸が切れたせいだろう。

 今までこの老天狗の近くにいて、安心を覚えたことなどないというのに可笑しな話だ。今は心が穏やかになっていくのを感じる。そういえば肉体の方も随分と楽になっている気がする。

 確認してみると、いつの間にか全身から傷が消えていた。妖力もかなりの量が戻ってきており、能力も問題なく使用できそうだ。回復したというより、これは外部から治療されたといった方が正しいのだろう。その証拠に、老天狗の掌から膨大なチカラが自分へと流れ込んできていた。カチリと歯車がはめ込まれたように、身体の中で何かが回りだす。

 

 

「どうじゃ、少しは持ち直したかの?」

「‥‥何したのよ?」

「ワシの方に残しておいた『死を遠ざける程度の能力』をお前に移し替えた。これまで不安定だったお前のチカラも、これで少しは使い物になるじゃろうて」

「そんなことをしてアンタは、あなたは大丈夫なの?」

「ワシの心配は要らん。元よりお前のように能力が無ければ死に追いつかれるような存在でもないからの。この能力はお前が持っているが良い」

 

 

 長い年月を重ねたシワだらけの腕。

 刑香を抱きかかえながら、そんな手が純白の髪を優しく撫でつける。どこか遠慮するような手つきは少しだけ焦れったくて不器用だ。もし知り合いが見ていたのなら、刑香が霊夢の頭を撫でてやる時と似ていると指摘していただろう。性別も違えば、年齢も遠く離れている、妖怪としてもアチラは元神霊でコチラは殆ど単なる鴉天狗。それなのに、何気ない仕草は瓜二つとまではいかなくても何処か似ている。

 二人を観察していた藍だけが、そのことに気づいて小さく微笑んでいた。天魔がゆっくりとそんな式神へと向き直る。

 

 

「さて、待たせたな八雲の式よ。しかし随分と余裕だったではないか、ワシがこやつを治療している間に撃ち込んで来ないとは思わなかったぞ。手心でも加えたか?」

「いえ、あなたを通してしまった結界の穴を防ぐことに夢中で、貴方を仕留めるような隙があったとは気づきませんでした。それは惜しいことをしました」

「くかかっ、道理で口うるさい部下たちが昇って来ないわけよな。お主も気が利くようになったではないか、まるでスキマ妖怪のような演出をしてくれる」

 

 

 愉快そうに天魔が笑う。

 すぐにでも追いついてくると思っていた部下たちは足止めを食らっていたらしい。八雲藍がしばらく結界で押し留めていたおかげで、今この空には自分たちしかいない。だからこそ腕の中の少女を回復させることが出来たし、わずかだが言葉を交わすこともできた。「せいぜい感謝してやる」と天魔は藍へと心の中で礼を言った。

 しかしそれも終わりだ。雲の下から聴こえてくるのは風のざわめきと一本歯下駄の音。結界を破った部下たちが間もなくここへ押し寄せるだろう。刑香を抱えているところを他の天狗どもに見られるのは不味い。ひとまず腕の中から降ろしていいかと、天魔は語りかけた。

 

 

「飛べるか?」

「嫌よ、飛んでやらない」

「そのようなことを言うでない、このままでは多くの者たちに我らの繋がりが知られようぞ。そうなってしまえば、お前は‥‥」

「それでもいいって言ってるのよ。いい加減にお互い、逃げるのは止めにしましょう」

「‥‥」

 

 

 本当に良いのかと目線で問いかけると、夏空の碧眼は力強い光を返してきた。山の外に多くの仲間たちを持ったこの娘にとって、自分との関係は重荷でしかない。知られてしまえば後戻りはできず、その先にあるのは一本の細道だけだ。多少の違いはあれど行き着く果てはおそらくカゴの鳥。たった一人の爺のことなど忘れて、外の世界で生きて欲しいと思う。

 この少女はそれでも構わないという、いや乗り越えるつもりなのかもしれない。ならば自分も覚悟を決めねばならぬだろう。深く息を吸い込んでから老天狗は、その漆黒の翼をゆっくりと羽ばたかせた。

 雲上を遥かに超えて浮かぶ月、かつて息子が散っていった都があそこにある。跡取りが健在であったなら、自分たちは上手くやっていただろう。二人仲良く縁側で笑い合っていたかもしれない。云わば、アレは自分たちの運命を狂わせた分岐点。そんな月から降り注ぐ光の粒は、純白の翼を美しく輝かせている。

 しばらくして老天狗は力強く頷いた。

 

 

「‥‥承知した、今度こそワシはお前のチカラとなろう。だが、なればこそ自分の翼で飛ぶがいい。ワシに支えられたままでは格好がつかんだろう。まずは形だけでもワシと並び立ってみよ」

「そうね、そうするわ」

「ああ‥‥うむ、アレだ、気をつけるのだぞ」

「何によ、何に」

「風が冷たいだろう」

「いきなり過保護になったわね‥‥」

 

 

 翼を広げて老天狗の隣で刑香は羽ばたいた。

 次の瞬間には雲が引き裂かれ、次々と黒白の天狗たちが姿を現していく。そのまま二人を八雲藍から護るような位置で白狼天狗が前衛へ、鴉天狗が後衛へと展開していく。一糸乱れぬ風のようにレールを切断しては、狐火を薙ぎ払う。金属の塊と灼熱の炎が粉々にされていったのは、あっという間の出来事だった。

 そして彼らは誰からの指示もなく、陣を築き上げていく。一人一人が幻想郷でも上位の実力者、そんな妖怪のみで構成された布陣はそれだけで強固な結界のようなモノ。こうなってしまっては、八雲藍ですら迂闊に手を出せはしないだろう。

 その最前線で睨みを効かせているのは、柳葉刀(りゅうようとう)を勇ましく振りかざした白狼の少女。犬走椛は八雲藍と相対していた。

 

 

「指先一つでも妙な動きを見せたなら、この剣にて即座に斬り捨てる。せいぜい大人しくしてもらおうか、八雲の式殿」

「刑香たちが地底に出発した際に顔を合わせた娘か、だとしたら会うのは二度目だな。以前よりも血の気が多い眼差しだが、やはり剣を構えると違うのか?」

「下っ端は下っ端らしく、目の前の敵に食らいつくのみ。その在り方に不満はあれど、刃に感情を乗せるべきではないでしょう。ただ‥‥」

 

 

 真っ赤に染まった紅葉(こうよう)の瞳が九尾を射抜く。

 その実力を買われ、時には天魔の護衛として駆り出されることもあった椛。彼女もまた白い少女と老天狗との秘密を知ることになった一人である。慧音から話を聞いてすぐに山の警備を放り出し、白狼の中では誰よりも早く部隊を引き連れて刑香を探していた。どこか嬉しそうな様子で、そんな白狼の少女は耳を動かす。

 

 

「ただこういう場面では、どうも胸が高鳴りますね」

「修行不足だな、お互いに」

「ええ、そのようです」

 

 

 そう言って笑みを浮かべる二人。

 一触即発、今にも戦闘が始まりそうな緊迫した状況。だが、事情を知っている者とそうでない者には見える風景は異なるものだ。二人の繰り広げる親しみを込めた会話に部下たちが困惑する中、椛はちらりと後ろを振り返る。

 白狼と鴉天狗に護られた陣の中心、そこには普段からは想像もできぬ程に柔らかな表情をした天魔がいる。先ほどまでの鬼気迫る雰囲気が嘘のようだ。そんな光景を見つめるだけで悪くない気持ちになる。

 

 そして、天魔の肩には深紫の羽織が見当たらない。アレは上地と下地を合わせて織り上げる技法で仕上げられた一品物だ。わざと上地を薄くすることで下地から家紋を透かして見せる技法もまた用いられ、いつしか天魔の証として見られるようになった羽織である。

 それが今、白い鴉天狗の肩に掛けられている事実に椛以外の天狗たちがざわめき立っていく。

 

 

「‥‥思った以上に視線が痛いわね。この羽織は私が着たら不味かったんじゃないの?」

「くかかっ、この程度で参っていてはこの先が思いやられるぞ。ともかくお前は胸を張っていればそれでいい、あとは勝手に事が運ぶだろう」

「何か考えがあるの?」

「地底から客が来ている、お前もさぞや驚くだろう」

 

 

 刑香の肩で揺れている天魔の羽織。

 度重なる戦闘でボロボロになった天狗装束の上から、老天狗が自ら被せてやったモノである。天魔が常に身につけていたため神聖視され、いつしか他の天狗たちは似たものを決して作成しなくなった。云わば、それは天狗の長老の証でもあったはずだ。

 何故、それをあのような小娘に許したのかと天狗たちに動揺が広がっていく。ほとんどの者は「白桃橋刑香を探し出し、その上で丁重に保護せよ」とだけ命令を受けたに過ぎない。その先にある真実を知らされている者や、辿り着いた者は本当にわずかである。

 疑問に思えど説明はなく、長老は白い小娘と親しげに何事かを話し合っている。まるで自分たちは目に入っていないかのようだ。それに痺れを切らして、一部の天狗が天魔へと言葉を投げかけようとした。

 だが、

 

 

 

「その必要はまるでありませんよ」

「ええ、まったく無いでしょうね」

 

 

 

 まだ口にしていない言葉が遮られる。

 一斉に天狗たちが視線を向けた先、現れたのは目玉の浮かんだ不気味な空間だった。この幻想郷で長く過ごしている妖怪なら、誰もが知っているであろうスキマ妖怪の移動手段。そして式神である藍がすでに目の前にいる以上、そこから現れるのは八雲紫しか有り得ない。だが、スキマから歩み出てきた影は二つ。

 一人は八雲紫、そしてもう一人は桃色の髪をした小柄な少女。明らかに地上の者とは違う妖気、胸元にぶらさげられたサードアイが目を引く。その姿を目にした瞬間、天狗たちは顔をしかめた。

 

 

「アレは覚妖怪、ではないか」

「数百年も顔を見せなかった奴がいまさら何故、スキマ妖怪と共に現れる?」

「恐れ多くも地底の代表として、天魔様に謁見したという話は聞いていたが‥‥よもや此度の騒ぎを起こした元凶ではなかろうな」

「妹共々、つくづくと疎ましい姉妹だ」

 

「うふふっ、天狗たちから私以上に疎まれている妖怪なんて中々いませんわよ?」

「余計なお世話です、あと心の中でまで同じ言葉を繰り返すのは止めなさい。不愉快ですよ、八雲紫」

 

 

 見たくないモノを見てしまったと言わんばかりで、その上を飛び交うのは嫌悪を宿した言の葉。どんなにサードアイで見回しても、あるのは敵意が殆どだ。冷たい視線を浴びせかけられる中で、古明地さとりは「やれやれ」とため息をつく。余計なモノを視界に入れないように片目を閉じつつ、サードアイだけを白い鴉天狗へと動かした。

 

 

「しばらくぶりですね、白桃橋刑香」

「‥‥そんなに久しぶりって訳でもないわよ」

「いえ、ここまで状況が変わってしまっては地底での出来事を遠い過去だと感じても無理はないでしょう。少なくとも私の知る貴女はこんな騒動の中心になるような存在ではなかったですから」

 

 

 そう言って、古明地さとりは微笑んだ。

 そんな少女からは地底で会った時のような、陰惨とした影が少しだけ薄れていた。フランから聞いた話では妹と再会できたらしいのでそれが原因なのだろう。しかし、こんな敵意の満ちた中で涼しい顔をしていられるとは大したものだ。寄る夜風が肌に痛い、凍てつくような視線のいくらかが自分へと向けられている。それだけでも心が冷たくなるというのに、さとりは動じていない。

 だが向けられていない眼差しもあることに刑香は気づいていた。唯一、八雲紫だけは刑香を一瞥もしていない。

 

 

「司会役はお任せしますわよ?」

「最初からそのつもりです」

 

 

 さとりが取り出したのは鬼の書簡。

 すでに封は切られており、天魔のみが目を通し、そして紫に内容が伝えられたモノ。この場を収めるためには、さとりがもう一働きする必要があった。このままでは八雲と天狗、幻想郷でも屈指の勢力が衝突することにもなりかねないのだ。両陣営の及ぼす波紋は地底にまで伸びるだろう、それは地底の主として見過ごせる話ではない。

 

 

「さて、皆さま。望む望まぬに関わらず、暫しのご清聴をよろしくお願い致します」

 

 

 それに、妹と再会する切欠をくれた恩人たちを見捨てられるほど古明地さとりは薄情者ではないのだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「妖気の感触からして、このあたり‥‥‥!」

 

 

 灰色の雲を切り裂き、紅白の影が空の上を目指していた。

 さきほど頭上から感じた妖力の気配、それは探し続けていた妖怪たちの手掛かりだった。唐突に妖気だけが現れたということは結界を張り巡らせて、こちらの知覚をすり抜けていたのだろう。その術式が綻んだことで、はっきりと伝わってきたのは彼女たちの位置そのもの。場所さえ分かれば話は早い。

 

 

『ーーーあぁ、やられたみたい。容赦の無さは先代そっくりかもね、あなた』

 

 

 まずは迷い人を襲っていた妖怪を叩きのめした。

 強力な能力を持っていたわけでもなし、全力を振るった霊夢の前にルーミアは呆気なく敗れ去る。木に縛り付けられた常闇の少女は諦めたような表情で一言二言つぶやいて、だらりと手足をぶら下げた。その際に見せた雰囲気は、それまでの子供らしいモノとは一変していたが、時間がないので捨て置くことに決める。

 

 

『じゃ、私は急いでるから』

『ちょっ、このまま置いていくの!?』

『不安ならコレでも持ってて、結構強力なヤツだからあまり触らないで足元にでも広げといて』

 

 

 助け出した人間たちには護符を渡しておいた。

 結界と合わせておいたので、しばらくは大丈夫だろう。黒髪の少女の怪我はそこまで酷いものではなかったし、金髪の少女に至ってはほぼ無傷。身の安全さえ確保できたなら急いで人里に案内する必要はないはずだ。悪いが、今の自分にはやらなければならないことがある。

 

 

「まってて、刑香‥‥‥!」

 

 

 飛びつづていると雨が晴れ、雲のスキマから月光が霞んで見えた。

 結界で身を守りながらの上昇とはいえ、夜の空は容赦なく身体の芯を冷やしていく。雨粒のしたたる巫女服と、ずぶ濡れの黒髪には小さな氷が出来ていた。いつか白い鴉天狗と共に飛んだ秋晴れの空、ピクニックに出かけた日の思い出が心をよぎる。震えの止まらない身体を自分の腕で抱きしめながら、巫女の少女は飛ぶ。

 あの日のように、これからも一緒に幻想郷の空を見渡したい。たったそれだけの願いのために、自分は必死になっている。それは何て笑える話だろう。

 

 

「まったく可笑しな話、この私がどうしてここまでしてるんだか。やっぱり傷つけ合っているのが紫と刑香だからかな?」

 

 

 あの二人は少しばかり特別だ。

 守るべき人里の人間たちとは違い、魔理沙のような友人とも違う。もっと親密な感情を抱いている自分がいる。巫女として望ましくないことだろうが、今更なので見逃して欲しいと思う。一度でも大切だと思ってしまったのだ、どうしようもない。

 雨雲の中、自分の直感を信じて突き進む。更なる高空から伝わってきたのは刑香とは別の天狗の気配だった、もしかしたら二人が襲われているのかもしれない。大抵の相手を返り討ちにできる紫はともかく、刑香には複数の天狗と戦えるような力はない。嫌な予感がする。陰陽玉を周囲に浮かべ、霊夢は最大の警戒をもって最後の雲海を突き破った。

 

 

「紫っ、刑香っ、二人ともだい‥‥」

「ーーー以上、私たち地底は白桃橋刑香を次期上役、つまり大天狗へと推薦します。これは私、古明地さとりと星熊勇儀、双方の合意によりもたらされた最終的な決定です」

「‥‥じょうぶ?」

 

 

 静かな声が夜風に乗る。

 まず目に入ったのは、信じられない程に集結した天狗の大軍勢だった。鋭い牙をチラつかせた白狼たちが剣と盾を構えて周囲を固め、その後ろでは鴉天狗たちが風をまとった葉団扇を携えている。周囲を覆っているのは吐き気がするほどに濃い妖気、並の妖怪退治屋では意識を丸ごと刈り取られているだろう。コレはさすがに多すぎると霊夢が身構えた。だが天狗たちは誰一人として、こちらへ振り向きさえしない。

 それどころか、一部の天狗たちは何事かを呟き合っていた。

 

 

「ただでさえ大天狗の選出は難航しているというのに‥‥また鬼の気まぐれに振り回されるのか」

「よりにもよって追放された小娘を推薦してくるとは、勇儀様にも困ったものよ」

「いや、果たして本当に気まぐれか?」

「あの小娘がひょっとしたら天魔様の、ということか? ‥‥まさかな」

 

 

 その表情は苦々しげであったり、不敵な笑みを浮かべていたりと様々だ。しかしロクでもない内容であろうことは幼い霊夢にも理解はできた。口々に漏らされるのは暗い影が差した言葉たち、そこには自分たちの身を案じる以外の感情が載っていない。だが、そんな天狗たちの視線を辿った先、その中心に探し続けていた相手の片方がいるのを霊夢は発見した。ようやく白い翼を見つけて霊夢はほっと胸を撫で下ろす。

 

 

「よかった、刑香は無事みたいね」

「ふふっ、安心したかしら?」

「アンタも無事みたいでよかったわ、紫」

 

 

 ふわりと背中を包んだのは柔らかな感触。

 スキマから半身を乗り出した紫が、いつものように霊夢を抱きしめる。あまり心配はしていなかったが、こちらもやはり無事だったらしい。両腕から伝わってくる温かさに目を細めた霊夢はため息をつく。二人とも大事には至っていないと分かって、気が抜けてしまったようだ。

 

 しかし周囲はそうでもない。さとりが間に立っているおかげで戦闘自体は抑えられているものの、険悪な雰囲気は隠しようもなかった。そもそも、ここにいる多くの者たちは任務の詳細を知らされていないのだ。スキマ妖怪に拐われた白い鴉天狗を探せと命令されただけである。

 非番の者まで夜中にたたき起こされて、駆けつけてみれば、下位も下位の身分である小娘が天魔から直々に保護されている。おまけに鬼から『大天狗』への推薦を貰っていたなどと聞かされて納得できるわけがないのだ。

 今も凍てつくような視線が白い少女へと注がれている。

 

 

「大丈夫か、刑香?」

「平気よ、同族から向けられる悪意には馴れてるもの。これくらい何ともないわ」

 

 

 状況が飲み込めない。

 てっきり戦闘が行われるかと思えば、天狗たちとはにらみ合い。しかも初めて見る桃色髪の妖怪が口にしているのは『刑香を大天狗へと推薦する』という話。二人の無事を確認して安心していたが、段々と今いる状況が理解できないものであることに霊夢は気づく。何があったというのだろうか、背中に垂れかかってくる紫へと問いかける。

 

 

「ねぇ、これってどんな状況なの?」

「うーん、霊夢に説明するのは難しいかしらねぇ。でもたった一つだけ言えるとしたら、少しだけあなたは『遅かった』わ」

「なにがよ?」

 

 

 見たところ戦火が上がるようには思えない。

 それなら、いつものように紫がこの場を言い包めて霊夢や刑香を連れて撤退すればいい。どうして自分へと「遅かった」と手遅れのようなことを言ってくるのか分からない。少しだけ寂しそうな眼差しを紫が刑香へと向けているのかも理解ができなかった。そういえば、どうして刑香は天狗たちに囲まれているのだろうか。これでは自分は近づけない、触れられない。

 そんな困惑する巫女を一瞥して、天魔は口を開いた。

 

 

「‥‥八雲殿、この娘はこちらで預からせて貰う。これから要人となる可能性のある者を山の外に置いておくことは出来ん、異論はあるまいな」

「そうなる前に、刑香をこちら側に式神として引き入れたかったのだけどね。いえ、本当はこうなるのが正しいのかしら‥‥‥異論はありませんわ、天魔殿」

「ちょっと、待って、待ってよ‥‥‥何言ってんのよ!?」

 

 

 ごめんなさい、と聴こえてきた気がした。

 そしてその瞬間、足元の雲が吹き飛ばされる。晴れ渡った空には、取り残された雫が浮かんでは月光に輝いていた。まるで濡れたガラスのテーブルに光が反射されているかのように美しい光景が広がっている。

 止風雨の加護、それは迦楼羅王が持つとされる能力の一つである。妖怪の山一帯だけとはいえ、ここまで完全に雨雲を払えるとは凄まじい。上下天光、足元と頭上にはあまねく光が満ちている。そんな中で純白の少女だけは真っ直ぐに霊夢の瞳を見つめていた。

 何かを言おうとしたが、何を言えばいいのか霊夢には分からない。そうしている間にも紫と天魔の話はまとまっていく。

 

 

「まさか大天狗に勧められる程の娘とは知らず、無礼を働いてしまいましたわ。八雲として謝罪します」

「うむ、その件については我らも今宵知ったことよ。鬼の気まぐれもある、今回ばかりは致し方あるまい。娘も無事ゆえ特に天狗として言及はせぬよ」

「ええ、それではご機嫌よう」

「ああ、また会おう」

 

 

 気づくと藍に手を引かれていた。

 その隣には橙が涙をうっすらと浮かべて立っている、もしかしたら先にこうなると話を聞かされていたのかもしれない。紫が天魔へと優雅な動作で一礼し、そして三人を包むようにスキマを開く。その様子を見つめていた刑香は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

 

「少しの間だけお別れよ。約束破ってごめんね、霊夢」

 

 

 最後に自分は何を伝えようとしたのだろう。

深紫の羽織を揺らした少女へと、何かを叫ぼうとした瞬間にスキマは閉じられた。

 

 

 

 


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