その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第五十五話:迎えの灯は不知火に似て

 

 

 カチコチと無機質な音が一日を刻んでいく。

 脈打つ黒色の短針は白い長針を追いかけるように、せわしなく動き続けていた。追いついては追い越して、重なっては離れていく二本の針たち。同じ動力源によって稼働し、同じ盤上にいるにも関わらず混じり合うのは僅かな時間だけで、すぐにお互いの距離は再び離れていく。

 時を告げる盤上では、そんな物語が無限に紡がれているのだ。留まることを知らぬ河川の水のように、形を変え続ける大空の雲のように、時間の流れとは掴みどころがない。

 これ一つ取っても浪漫な詩が描けそうだと、理知的な少女はそんなことを考えていた。

 

 

「もちろん文学よりも実益、今は本来の使い方が優先されるわけだけどね。アンティークショップで買った時計が役に立つ場面が来るなんて思ってもみなかったわ」

 

 

 日の光を浴びて輝くのは銀色の懐中時計。

 幻想郷では珍品として扱われているコレは、自分たちの時代では半ば化石と見做されている骨董品の一つである。秘封倶楽部の活動をしている中で、たまたま巡り合った店で購入した逸品だ。あの時はメンテナンス不足のせいでまともに動く状態ではなかったのだが、おかげで値切り倒すことに成功した。修理には苦労したが、結果として財布にも活動費にも優しい取引となったのだから満足だ。鬱々とした表情をしていた眼鏡の店主のことは、今はもう忘却したことにしている。

 

 

「あの妙な雰囲気のお店の名前、何だったかなぁ。確か、こーりん……まあ、いいや」

 

 

 穏やかな陽射しに恵まれた博麗神社にて、面倒な思考を放り出して宇佐見蓮子は空を見上げていた。

 境内を吹き抜ける風は爽やかでそんな空気を肺一杯に吸い込みながら背伸びをする。太陽に映える白いブラウスと赤いネクタイ、そして黒いスカートはようやく乾いた一張羅。こちらの世界に来てすぐに大雨に打たれて、ずぶ濡れになった時はどうしようかと思っていた。しかし、薬剤や機械に頼らない自然乾燥も馬鹿には出来ないらしい。暖かな匂いのする衣服に頷いてからもう一度、蓮子は時間を確認する。

 

 

「随分と遅いわね、とっくに人里からメリーが帰ってきてもいい頃合いなのに……やっぱり私が行くべきだったかしら」

 

 

 明け方に相棒である少女が神社を立ってから、既に数時間が経過していた。ここから目的の場所まではそう距離があるわけではないらしいし、そろそろ姿を見せてくれないと心配になってくる。一応は道案内として魔理沙が同行してくれているのだが、妖怪にでも襲われたらどうなるのだろうか。いや考えるのはよそうと思う、どのみち通信手段がないので気長に待つしかないのだ。そう自分に言い聞かせて神社の階段へと座り込むことにした。そして気を紛らわせるために考えを別方向へと巡らせる。

 

 

「……こっちに来てから数日経つけど、未だに私たち秘封倶楽部が『幻想入り』した経緯は不明。お寺にいたはずが、前触れもなく山の中に放り出されていた。でも大勢の人が訪れるような観光スポットでそんなことあるかしら、あの場所で行方不明者が出たなんて聞いたことがないわ」

 

 

 一瞬だけ意識が飛んで目を開けると山の中、そこで凍りつくように冷たい雨に打たれていた。よくあるフィクションのように怪しげな声が頭の中に響いてきたり、謎の案内人が現れることも無い。本当に『何も無い』のだ。ならば誰かの思惑によるモノではなく、事故のような現象に巻き込まれたと結論付けるべきなのだろう。

 

 

「でもそれだと何かが引っかかるのよね……」

 

 

 自分たちが山道で逃げ惑っている間に、上空では大きな戦いがあったらしい。幼い巫女に聞いた話だと妖怪のボスの一人が名も無い妖怪に敗北したという。それはある意味では幻想郷の一大事だったはずだ。

 確証も証拠もあったものではないが、もしかしたら自分たちがここに迷い込んだのは『その戦い』に関係があるのではないかと思えて仕方がないのだ。だが霊夢に尋ねてみても、それ以上は口を噤んでしまう。話したくない理由があるのか、部外者に話してはならない掟があるのかは聞くつもりはない。どちらにしようと情報不足で、このままでは手も足も出やしないのだ。「参ったなぁ」と流石の蓮子も溜め息をつく。

 

 

「ーーー何が参ったよ。暇なら家事の一つくらい手伝ったらどうなの、蓮子?」

「う、ひゃっ!?」

 

 

 階段から転げ落ちそうになったのを、蓮子はギリギリで踏み留まる。一つ下の段を片足で踏みしめて、ぐらりと傾いた身体の向きを修正した。急いで振り返ってみると、そこにはここ数日で見慣れた顔がある。幼いわりには妙に大人びた雰囲気がある不思議な少女で、あの雨の山で妖怪ルーミアから自分たちを救ってくれた恩人だ。そんな博麗霊夢は箒を片手にして突っ立っていた。

 

 

「え、えーと……ちなみにどこから聞いてたの?」

「アンタが独り言を始めたあたりからよ。別に盗み聞きするつもりは無かったんだけど、引き返すのも面倒だったからね。ほら、雑巾を貸してあげるから掃除を手伝いなさい」

 

 

 グイグイと押し付けられる布切れ。

 寝食を提供してもらっているのだから、当然だが断るわけにはいかない。しかし掃除を手伝うくらいなら、もうしばらく神社の着物を借りれば良かったかもしれない。せっかく洗って乾かしたのにまた服が汚れそうだ、とりあえず腕まくりだけでもしておくことにする。

 

 

「よいしょっと。まずはどこから掃除すれば良いのかしら、霊夢お嬢様?」

「そうね、それなら私と一緒に本殿に行きましょうか。……あと私を茶化す分には良いけど、魔理沙にはその呼び方を使わないようにね」

「やっぱり魔理沙ちゃんって、どこかの御令嬢だったりするの?」

「推測なら勝手にどうぞ、詮索は受け付けないわ。ほら、アンタは手の届く範囲でそっちをお願い」

 

 

 まずは柱を軽く拭いてみる。あまり汚れている印象はなかったので雑巾の裏側を確認してみると、ほとんど黒ずんでいなかった。こまめに掃除はしているようで、これなら手間は少なく済みそうだ。もしかしたら気分転換のために掃除へ誘ってくれたのかもしれない。

 

 

「霊夢ちゃんって何だかんだで優しいよね。良いお母さんとかお姉さんにお世話してもらってたんじゃない?」

「……そうね、否定はしないわ」

 

 

 続いて賽銭箱の蓋を開ける。

 錆びた音が響いて、鼻を掠めてきたのは古い木材の匂い。こちらの世界に来る前の仏閣を思い出してしまいそうだ、ずらりと並んだ仏像が壮観だったような気がする。そして底に入っていた数枚の小銭を避けるようにして埃や木の葉を取り除いていく。あまり儲かっているように見えないのは、こんな僻地にあるせいなのだろう。人里から神社までの道で妖怪に襲われる危険性があるという立地上、お参りに来る人間が少なくなるのは当然である。

 

 

「ここまで広い神社を一人で管理するのは厳しいんじゃない? 掃除するだけでも日が暮れちゃうでしょ」

「毎日少しずつやれば案外と苦にならないものよ、それにいつもは手伝ってくれる妖か……人がいたからね」

「それって魔理沙ちゃんのこと?」

「アイツは掃除なんて手伝わないわ。魔理沙が持つのは掃き掃除用じゃなくて空飛ぶ箒だけよ。掃除なんてやらせたら、きっと屋根の上でサボるに決まってるもん」

 

 

 恐らくあの少女は裕福な家庭の子供なのだろうと、蓮子は予想している。科学技術が発達していない幻想郷において、子供が重要な労働力とみなされているのは想像に固くはない。言い方は悪いが、家の手伝いをすることもなく出歩いている魔理沙が名家の娘であろうことは、何日か共に過ごせば気づいてしまうのだ。

 幼い少女の家庭事情に踏み込むのは褒められたことでないのは間違いない。しかし今はどんな情報でも集めておきたいのだから勘弁して欲しいと思う。しかし、そんな思考は本殿の床下を覗き込むと同時に途切れることになる。

 

 

「……猫がいるわね、ちょっと驚いちゃったわ」

 

 

 暗い空間に潜んでいたのは、真っ黒な毛並みをした小さな黒い猫。日向ぼっこにでも飽きて潜り込んで来たのだろうか。突然現れた蓮子に対して、幼い姿の猫は後ろ足で奥へ奥へと後退していく。鋭く引き締められた眼差しから察するに、怯えているというよりは警戒しているといった様子だった。ひょっとしたらネズミ対策として神社が飼っている猫なのかもしれないと、しゃがみ込んで蓮子は静かに腕を伸ばす。

 

 

「ほらほら、おいでー」

 

 

 話しかけるように優しく呼びかける、だが黒いモフモフは全く意に返さないようだ。文字通りにそっぽを向いてその場を動かない。何となく舐められている気がして更に腕を突っ込んでみるが、到底届きそうもなかった。そんなことをしばらく続けていると、耳元で砂利を踏みしめる音が聞こえてきたので顔を上げる。すると不審者を見つけたような表情を隠しもせずに、幼い巫女がこちらを見下ろしていた。

 

 

「這いつくばって何してんのよ、ネズミでもいたの?」

「どちらかと言えばその逆かな。ねぇ、この神社は猫を飼っていたりする?」

「ないない、世話するのが面倒くさいわよ。飼うとしたら自分で掃除と洗濯ができて、人の言葉が理解できるくらい利口なのが必須。あと私の部屋は広くないから図体の小さいヤツがいいわね」

「おおぅ……宣言通りにこれっぽっちも世話するつもりがないじゃん。その条件満たすのって、もう小さな人間くらいだと思うんだけど?」

「ああ、小人が当てはまるのか。だったら制限を更に足しとこうかしら。まあ……それはともかくとして黒いチビ猫がそこにいるんじゃないの?」

 

 

 ひょいっと隣にしゃがみ込んできた霊夢。

 すると子猫は驚いたように目を見開いてから、そっと立ち上がる。そして一声も発することなく、こちらへと進んできた。警戒するような気配はすでに無く、足早に床下の暗闇から歩み出てくる黒い猫。チャンスとばかりに蓮子が抱き上げようとすると、何故かそのまま幼い巫女の肩へと飛び乗ってしまった。

 

 

「ご主人様は元気なのかしら、橙?」

「みぃ」

「その仔、チェンっていうんだ。少し変わってるわね。どちらかというと大陸で付けられそうな名前だし、飼い主さんは外国の出身なの?」

「そう言われると大陸にいたことがあるとか言っていたような気がするわ。昔はやんちゃだったらしいから一つや二つは国を滅ぼしてたかもしれないわね」

「どういう飼い主なのそれ!?」

 

 

 そんなことを話していると、不意に橙と呼ばれた黒猫が霊夢の耳元に顔を近づける。そのまま小さな口を動かしている様子は、まるで幼い少女たちがひそひそ話をするかのような仕草に見えた。何事かを考えるように目を瞑っていた霊夢だったが、しばらくして納得したように頷く。

 

 

「ちょくちょく来る白いカラスもそうだけどさ、どちらも過保護なんだかそうじゃないんだかね。……調子が悪いのは分かるけど、少しくらい顔をみせなさいって伝えてくれる?」

「にゃ」

「それじゃあ、もう私は大丈夫だからアイツの所に帰りなさい。蓮子とメリーもわざわざ監視するほど怪しい連中じゃないわ。だから紫にも心配しないように伝えてあげて」

 

 

 最後にコツンと額を合わせ合うと、巫女の腕の中から抜け出した黒い猫は地面に降り立った。そして名残惜しそうに一声鳴いてから、ゆっくりと神社の出口へと進んでいく。その様子が余りにも人間じみているので、蓮子はこっそりと霊夢へ問いかける。

 

 

「もしかして幻想郷の猫は人間の言葉が分かるの?」

「そんなわけないでしょ、猫は猫よ。人間の言葉なんて理解できないわ」

「だったら何で霊夢ちゃんは……ああ、そういうこと」

 

 

 頬を引きつらせる人間の少女。

 黒猫の後ろ姿には黒い『二本』の尻尾がゆらゆらと揺れていたのだ。幻想郷の猫は成長すると二尾になる、などということはない。複数に別れた尾は魔性の証、古来より恐れられてきた妖怪の一つである『化け猫』もしくは『猫又』。それが八雲藍の愛猫、橙の正体である。

 どうして巫女が妖怪と仲良くしているのかは聞かない方が良さそうだと懸命な少女は口をつぐむ。しかし見逃せない『モノ』が視界に映った瞬間、そんな考えは霧散することとなる。

 

 

「アイツは藍の式神でね。いつもは山にある棲み家で暮らしているんだけど、たまに………蓮子!?」

 

 

 鼓膜を揺らすのは幼い巫女の声

 それが意識に反映されるよりも早く、蓮子は走り出していた。ルーミアに噛じられた足はまだ治っていないが、それでも少しくらいなら何とかなる。痛みを熱く訴えてくる患部を無視して、強い反発を返す石畳を蹴った。そして半ば飛び込むような姿勢で橙へと手を伸ばす。妖怪少女が『入り込もう』としていたモノに対して蓮子の瞳は釘付けにされていた。

 

 

「それはメリーの『境界』じゃないのよっ!」

 

 

 そこに広がっているのは、目玉の浮かんだ紫色の不気味な裂け目。それは親友がノートに描いて見せてくれたこともある、自分たちが現実と幻想の『境界』だと仮定していたモノ。どうしてあの黒猫はそこに入って行こうとしているのか、霊夢が初めから知っていたような反応をしていたのは何故か。そんなことはどうでも良かった、ずっと謎だったモノを紐解く鍵がそこにある。それは宇佐見蓮子が突き動かされるには、十分過ぎるほどの理由だった。

 

 そして指先がスキマに触れた瞬間、宇佐見蓮子という存在は切り取られるように博麗神社から消失することになる。地面の上で光を放つ銀色の懐中時計だけを残して。

 

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーそれでは昨晩、我が屋敷に死神めが忍び込んでいたというのだな。しかもお主に会いに来たなどと……何故すぐにワシへと知らせなんだ、刑香?」

 

 

 同じ頃、昼下がりの人里にて。

 幻想郷ならば何処にでもあるような定食屋での一幕。特に儲かっているわけでも、かといって閑古鳥が鳴いているわけでもない。そんな良くも悪くも普通の店で、一人の老人が困惑のあまりに肩を揺らしていた。懐の深さを感じさせる声色はどこまでも穏やかで、いかにもご隠居といった雰囲気を感じさせる男性だ。

 そんな彼へと向けられるのは透くような空色の瞳。人里では珍しい純白の髪をした少女が湯呑みを持ちながら、老いた男へと静かな言葉を紡いでいく。

 

 

「じゃあ、試しに尋ねるんだけど仮に報告したらどうしてたの?」

「決まっておろう。ワシの許しも無く屋敷に立ち入ったことを死神めに心底後悔させてやったところだ。即座に白狼による追跡隊を結成させて、草の根分けても見つけ出してだな……」

「……だから今まで黙ってたのよ、厳格で残酷なお祖父様。山で彼岸の連中と一戦交えてどうする気なの?」

 

 

 呆れたように白い少女、刑香は溜め息をついた。

 やはり小町が訪れたことを天魔の耳に入れなかったのは正解だったらしい。もし報告していれば、天魔は自らの誇りに賭けて彼女を追わねばならなかっただろう。長老への不敬は天狗という種族そのものへの侮辱だ。だからこそ天魔は屋敷への侵入という、自らへの無礼を働いた者を必ずや捕まえねばならない。

 それを防ぐためには、こうするしかなかったのだ。もし自分一人が天魔から何らかの罰を下されても受け入れるくらいの覚悟が刑香にはある。

 だが、しばらく沈黙していた老天狗が口にしたのは意外な言葉だった。

 

 

「……やすやすと死神に侵入されたことは見逃せない事実だが、それはこれから対策をすれば良い。そして射命丸と姫海棠にお主の監視を命じておく故に、これからは屋敷内であろうとも独りになることは許さぬ。それを此度のお主への罰としよう」

「いや、むしろ願ってもない処遇なんだけど……随分と甘い処分じゃない。片翼くらいは折られても文句を言えないと思ってたわよ」

「くかかっ、そんな罰を下した日にはワシは自分の首をへし折っておるかもしれぬな。案ずるでない、未だに信用は出来ぬだろうが今のワシは刑香、お主の味方としてここにいる」

 

 

 そう言って、老天狗は愉快そうに破顔した。

 その姿は白髪混じりの長髪に、どこにでもいるであろう黒い双眼と翼のない背中。紺色の着物はゆるりと着流して、同じ染め色の羽織を肩に掛けていた。。まさか天狗の親玉が人里に来たなどと知られるわけにはいかないので、そのための変装である。

 そして刑香の方も、今は天狗ではなく人間の少女のような格好だ。淡い色合いをした桜色の着物はとても春らしく、繊細に縫い込まれている刺繍は桃の花。純白の髪と相まって、その見目はまるで雪の下に眠っていた蕾が空へと芽吹いたようであった。

 

 

「……それにしても私が人里に行きたいって頼んだら、すぐに許可してくれるなんて意外だったわ。てっきり断られると思ってたんだから」

「どのみちワシが許さなくとも、お主は一人でも山を抜け出そうとするじゃろう。射命丸と姫海棠が助力すればどうにでもなるであろうよ、あやつらの天狗としての能力は周囲が評価する以上に高い」

「二人に迷惑は掛けないわよ、やるなら私一人で……っていうか、それ以上に長老様がこんな所まで来て良かったの?」

 

 

 ここは天狗の里でなく人里なのだ。

 他の妖怪に襲われる危険性を考えるならば、天魔は里の外に出るべきではないだろう。まして滅多に姿を現わさぬほどに用心深く、それでいて組織内部の情報を余すことなく把握する。闇に潜みて忍び寄る影のようだと、同族から恐れられる天魔である。それが孫娘と一緒に人里を訪れているなど他の天狗が知ったら卒倒するかもしれない。

 

 

「射命丸の阿呆は酔い潰れて使えぬし、姫海棠は護衛としては頼りなかろう。さりとて犬走には別の任務を与えておるし、他の連中は信用ならぬ。なに案ずるでない、ワシがいる以上は注意を払う妖怪なぞ八雲の奴くらいのものだ」

「紫と同じくらい強そうな奴らも何人かいるけどね、たまに花屋に来るアイツとか」

「お主の思い浮かべた連中はそもそもワシと対立してくることはなかろう。戦闘にならぬ相手を頭数に加える必要がどこにある。ともかくワシがいるのだから一切の心配事は不要だ、お主はお主のしたいように振る舞えばそれで良い」

「ありがと、お祖父様。治療が済んだとはいえ、どうしても患者たちの様子が気にかかってたの。それにあんな別れ方をした慧音にもせめて置き手紙くらいは残しておきたかったから……感謝するわ」

 

 

 山へ戻ることを決めた時、簡単には来れないと思っていた。はぐれ天狗でなく、下っぱ天狗でもない、長老家の跡継ぎになってしまった以上は今までのように好き勝手は出来ない。本来ならば、しばらく機会はなかったはずだ。

 

 

「ふむ、己の信義を貫く在り方は好ましい。だが刑香よ、甘さや優しさはいずれ自らの身を焼くことにも繋がる。そこのところを忘れるでないぞ」

「残念だけど、これが私の生き方だからご忠告は頭に留めておくだけになりそうよ。炎が身を焼くのなら、そんなモノは葉団扇で消し飛ばしてやるだけだもの」

「……そのあたりの強情さは母譲りやもしれぬな。アヤツもワシの言うことには従わなんだ。特に使い魔のカラスを己の子供として育てるなどと言い出したのを止めようとした時には、随分とそっぽを向かれたものよ」

 

 

 困ったように肩をすくめる老天狗だったが、緩んだ口元は嬉しそうだった。顔さえ覚えていない母親だが、どうやら随分と天魔を困らせていたらしい。

 祖父が無理をしているのは分かっている。山が騒がしいこの時期に長老が組織を留守にするなど好ましくない、こうしている僅かな時間でさえも気が気でないだろう。それでも彼に頼るしかないのだ、今の自分はひどく無力なのだから。

 

 

「お母様にも使い魔がいたんだ……その子も今は鴉天狗として山にいるの?」

「ああ、達者にしておる。お主とは比べ物にならんほどに融通が効かぬ石頭で、尚且つ優秀すぎて扱いづらい天狗として成長しおったわい」

「ふーん、ちょっと会ってみたいかな。相手が嫌がらなければ、だけどね」

「なれば本人に伝えておいてやろう。お主がどうしても会いたがっているとな。くかかっ、そうなるとあの阿呆がどんな顔をしてくるのか今から楽しみじゃわい!」

 

 

 そよぐ陽の光に老いた笑顔が映える。

 まだ自分たちの間には多くのわだかまりが存在している。祖父から受けた仕打ちの痛みは決して忘れられるようなものではないし、天魔も己がしたことを忘れたわけではないだろう。和解はしたものの、お互いに古傷へと触れるのを避けている。何でも無い会話に今までのゴタゴタを溶かして誤魔化しているのだ。

 そんな自分たちの関係であるが今はそれでいい、一歩ずつ愚直に進もうと思う。過去を無かったことには出来ないし、これから歩むことになる未来もまた過去の上に積み重なるモノに過ぎないのだから。

 

 

「何にせよ、ゆっくり考えていきましょうか」

「む、何の話だ?」

「ああ、死神から置き土産を貰ったんだけど、すっかり忘れてたって話よ。アイツの言うにはお祖父様宛らしいから、ここで渡しておくわね」

「そんなものがあるのなら、それこそ早めに報告して欲しいものだが……考えてみればお主は組織というものを分かっておらんのか。少しずつで構わぬから慣れるようにの」

「善処するわ」

 

 

 渋い顔をした祖父に苦笑する。

 天狗の里にいた頃は友人たち以外からは爪弾きにされていたし、追放されてからは単独行動。考えてみれば、自分はそういった類のしがらみとは無縁だった。上から哨戒任務をさせられたことも数えるほどしかないのだ。とはいえ文やはたても、命令無視を平然とやらかしてしまうあたり組織に属していようがいまいが関係ない気がする。

 

 

「これはまた、珍妙なものを持ち込んできたな」

 

 

 死神の包みを開けてみると出てきたのは、小さな赤い『御守り』だった。真ん中に大きく書かれている『頭痛封じ』などという祈り文句が変わっている。霊力が宿っていないので、恐らくは形だけを真似して作られた庶民向けの売り物なのだろう。鬼が出るか蛇が出るかと身構えていた天魔はあからさまに興味を失くし、出来の悪い冗談を見るような目で御守り袋を見つめていた。

 

 

「なるほどな、何のチカラも宿っていないときたか。確かにこれならお主が報告を怠るのも無理はない、今回は不問としよう。死神めもどういう意図でこんなものを持ってきたのか……」

「お祖父様にも覚えがないの?」

「有るには有るが……いや、しかしのぅ」

 

 

 少なくとも刑香にはコレにどんな意味があるかは分からなかった。死神から渡されたので詳しい出どころは不明で、誰が作ったのかも知り得ない。だが、天魔なら何らかの心当たりがあると思っていた。

 そもそも『モノ』というものは、見る者によってその価値や意味を変える。作られた過程であったり、これまでに誰の手を渡ってきたのかなどだ。つまり単なる御守りに過ぎないコレも、見る者が見れば何らかの意味がある。そう判断して刑香は祖父に意見を求めたのだが、どうやら当てが外れたようだ。考え込む素振りを見せる天魔も心当たりはあるものの、何故コレがここにあるのかまでは分からないようである。

 

 

「お祖父様にも分からないなら、コレをどうして死神が持って来たのかをもう一度考えてみる必要がーーー」

 

 

 

「ーーーそれって、私が落とした御守りじゃ?」

 

 

 

 いつから、そこにいたのだろうか。

 声のした方向へ振り向くと、見慣れぬ人間の少女が不思議そうな表情を浮かべて佇んでいた。気配を感じなかったというよりは感覚をすり抜けられたような感触がある。まるで初めからそこにいたかのように、紫色のワンピースを着た人の子は机の上の御守りを見つめていた。

 警戒するような素振りを見せる祖父を隠すように、刑香は立ち上がって少女と向かい合う。

 

 

「知人から譲ってもらったモノなんだけど、まさか落とし物だったなんてね。アンタの持ち物だっていうのなら、もちろん返却させてもらうわ」

「あ、ありがとうございます」

「ところで名前、一応教えてもらってもいいかしら?」

 

 

 先程から刑香と天魔が話していたのは、死神やら天狗の組織のこと。当たり前だが、この二人は誰が聞いているのか分からない状態でそんなことを口にするほど不用心な性格をしていない。今の今まで二人が座っていた席の周りに人影はなく、聞き耳を立てるような不届き者はいなかったのだ。自分たちの周囲には天魔が『人払いの結界』を張っていたのだから。

 それを当然のようにすり抜けてきた者、そんな人間を刑香は油断なく見つめていた。

 

 

「私は……八雲メリーと申します」

 

 

 告げられたのは偽りの名。

 古来より名前を知られるということは、すなわち呪術の対象となる危険性を有していた。曲がりなりにも妖怪やその周辺のことを調べていた人間の少女は結界を張っていた二人組を警戒していたのだ。故に見知らぬ相手から名前を尋ねられて、自らの名前を偽ることにする。親友が付けてくれた愛称、そして実在した作家の家名を借りて偽名を用意した。その『八雲』という名が、この幻想郷にて『どんな意味』を持つのか知らぬままに名乗ってしまったのだ。

 

 

 その少女の名は、マエリベリー・ハーンという。

 

 

 

 


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