その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

73 / 84
第六十話:はぐれ天狗の道しるべ

 

 

 月光が雲の隙間から漏れ出していた。

 まだ灰色の雪風が舞う季節である。西に傾いた月が寒々しい輝きを紡いでは、空を燻らせる雲を透かして地上へと光を落とす。それは地上に届く前に消えてしまうような儚きモノで、たまゆらに凍える冬の欠片たち。日の出は未だに遠く、夜明けはもう少し先にある。

 しかし頼りない光量であろうとも、零れ落ちる月明かり。それは洞窟を照らす松明のように、白い少女の視界をかろうじて確保していた。

 

 門の内側に踏み込んだ刑香は、念のためにと用心しながら周囲を見回していく。嫌な気配のする宵闇である。山にいた頃に何度も感じさせられた、暗く重々しい漆黒が身体中にのしかかってくる。夜は夜で変わらぬはずなのに、門を潜った途端に視野が狭まっていた。別に鳥目というわけでない、夜雀の歌でも流れない限りは視力に不足はないはずだ。小さな光量しかないとはいえ、この空色の瞳は人間とは比べ物にならないほどに闇に強い。

 

 

 ーーーかごめかごめ、籠の中の鳥は

 

 

 何も見えない、不快な汗が滲んでくる。

 ここは天魔の屋敷ではなく、親友たちも傍にはいない。山に帰ってきてから、初めて味方のいないところで独りきりになった。それがここまで心細いことだと思わなかった、恐ろしいとは思わなかった。自覚させられてしまう、白桃橋刑香が鬼族の次に苦手とする妖怪は『天狗』なのだ。

 

 

 ーーーいついつ出やる、夜明けの晩に鶴と亀が滑った

 

 

 どうして帰ってきてしまったのか。

 あの死神が口にした言葉が頭の中で反響する。この息苦しさも視界の狭さも、心に迷いが残っているのが原因なのだろうか。そんなことは無いと思っていたのだが、存外にも傷跡が疼いてしまっているらしい。もちろん肉体ではなく精神的なものだ。ぼんやりとした少女の碧眼が闇夜を映すようになるまで、数十秒もの時間を要してしまった。

 そして、ようやく正面からの気配に気づく。

 

 

「……お待ちしておりました、刑香様」

 

 

 己とは違う質感の白い髪をした少女。

 身に纏う装束は鴉天狗のモノとは細部が異なり、黒に紅白の入り混じった鮮やかな色彩。剣を振るい易いようにするためなのか、大きく肩の部分が露出していた。見方によっては少しばかり扇情的に見えなくもない格好であるが、これが彼女らの正装である。

 地上を駆ける者と空を翔ける者、その両者の間にある戦闘法の違い。それが端的に表されているのだろう。ともく紅葉が散りばめた雅やかなスカートを揺らしながら、規則的な呼吸と足取りで白狼の少女は刑香の前に立っていた。

 

 

「顔色が優れませんね、大丈夫ですか?」

「大丈夫とは口が裂けても言えないかな。今からでも引き返したくて堪らないわ。碌でもない目に合いそうな予感が嫌でも伝わってくるから」

「まあ、あまり歓迎される風でないのは間違いないでしょう。私とて経緯を知らなければ首を傾げる決定です、ほんの少し前まで追放されていた者が『大天狗』になるなど……いえ、私ごときが言及することではありませんね。御無礼をお許しください」

「率直な意見で感謝するわ。籠の鳥が自分から籠の中に戻ってきたばかりか、種族の上役になろうとしている。自分でやっておいて何だけど、コレって凄まじい下克上よね。天邪鬼あたりの妖怪に紹介してやったら喜びそうな物語に違いないわ」

「そこまで冗談を言えるようなら、きっと大丈夫です。出席予定者はまだ半数しか到着されていませんが、貴女から指示された通りに()()()は整っています。なので、このまま大広間までご案内致しますね」

 

 

 相変わらずお役目に忠実らしい。

 妖怪の山における哨戒役たる白狼天狗、その中でもそれなりの家柄と高い実力に恵まれた少女。お互いにあまり接点の無い相手だった。せいぜいが出会ったら軽く挨拶をするくらい、面と向かって言葉を交わした記憶も殆ど無い。椛が天魔の護衛をしていたということさえ、最近になって知ったのだ。

 足元を濡らす雪を踏み固め、先導する少女に従って楼閣へと歩みを進める。一歩内部へと踏み込むと不気味な風が頬を撫でた、こんなに淀んだ風を感じたのはいつ以来だろう。思わず立ち止まると、椛から視線で急かされたのでまた歩き出す。そして廊下を進んでいくと『その場所』はすぐに見つかった。

 

 

 ーーー後ろの正面だぁれ?

 

 

 蛍火のごとくに行灯が集う場所。

 菜種の油をふんだんに使った炎が、ちろちろと闇を溶かしている。青々しい松を描いた障壁画と、金銀で贅沢に拵えられた飾り金具が光に浮かび上がり、絢爛とした雰囲気を醸し出す大広間。その一つ一つが人間たちの世界では失われたとされる著名な美術品だ。戦乱に巻き込まれる前に人間の手で寄贈されたか、それとも何らかの代償として捧げられたか、理由は様々だろう。いずれにしろ穏便な手段で集められたモノではないらしい、ここは怨霊の類いの気が濃すぎる。

 

 

 多くの目玉が、こちらを向いていた。

 

 

 能面のごとき無の表情で、黒い群れが自分を観察している。老いた者、そうでない者、男も女も区別なく、様々な『同族』たちがここに集結していた。こちらの到着した気配を読んでいたのだろう、初めから全員が入り口へと眼球を固定していた。

 座敷に腰を下ろしているのは、妖怪の山が進む方向を決めるだけの決定権を持った高位の天狗たち。彼らと目線を合わしているだけで、底知れぬ何かが足元の影から這い上がってくるのを感じる。

 しかし翼をばさりと羽ばたかせて、刑香はその気配を追い払う。この程度の威圧感は鬼の四天王と比べれば、どうということはない。顔は動かさず目の動きだけで人数を確認してみたが、三十はいそうだ。よくもまあ、ここまで頭数を揃えてくれたものである。

 

 

『ほれ、おいでなさったぞ』

『誠に白い翼であったとは、なんでまたあのような奇異な姿でお生まれなさったのか。まるで白狼のようではないか、情けない』

『そも、天魔様の隠し子の噂は後を絶たなんだ。もっぱら射命丸が()()()()()()()()()思っておったが、まさかお孫様がおられるとはな』

 

「……刑香様、どうか周りに余計な気をやらず進んでください。貴女の座すのはこの儀礼の場において、天魔様に次ぐ上席です。私もそこまでお供致します」

 

 

 唇を動かさずに言葉を紡ぐ椛。

 本来ならば、椛はこの大広間まで刑香を送るまでが役目だった。本心では一刻も早くここを去りたいだろう。普段から鴉天狗を良く思わない少女にとっては、この場所は苦痛でしかないはずだ。だが、刑香に掛かる負担を減らそうと同行してくれている。

 扇子で口元を隠して小声でやり取りをしては、しげしげと見世物を眺めるように自分たちを見つめている者たち。場違いな少女二人はさぞ滑稽な存在であるのだろう、その中に好意的なモノは一つも存在しない。

 

 

「なかなか酷い扱いね。お祖父様の威厳だけじゃどうしようもないのかしら」

「ここにいる者たちは先代の大天狗様たちの一族や眷属たちです。天魔様ご本人にならともかく、何の地位にも付いていない刑香様に対する敬意は期待できません」

「なるほど、私を道具として扱っていた連中の身内なら納得だわ。天狗の中でもとびきりに厄介な連中を集めてくれたようね」

 

 

 今、この場で初めて刑香を目にした者もいるだろう。

 今まで組織内で重役にも付いておらず、どの程度の実力があるのかも分かっていない元追放者。そんな小娘が突如として、天魔の血族ということが明かされ、おまけに大天狗となることが決まってしまった。これまで権力争いをしてきた者たちにとって、さぞや面白くないだろう。壁に延びた影までもが、少女たちを嘲笑うように揺れていた。

 深く息をしてから、刑香は椛の言っていた上座とやらの前で立ち止まる。ここに集まった全ての天狗たちを見渡せるように一段高く作られた上段之間。つまり向こうからも座った者を視界に捉えることの出来る位置である。

 何というか、すごく座りたくない。

 

 

「…………なんで権力者ってヤツは、どいつもこいつも高いところが好きなんだか。こればっかりは分かり合えそうもないわね」

「同感です」

 

 

 通常ならば長たる『天魔』のみが座す場所だ。

 しかし今回だけは例外が設けられており、その血族である刑香もまた座るようにと指示されているのだ。正直なところ、こういうのは苦手だ。どちらかといえば壁際にでも背中を預けて、余計な喧騒に巻き込まれぬように振る舞うのがいつもの自分だろう。しかし己が主役である此度の席ばかりはそれが許されるわけもない。

 覚悟を決めて上段へと昇り、天魔が座るのであろう位置の斜め後ろへと進む。そして突き刺さる視線を煩わしく思いながらも、そのあたりで腰を下ろすことにした。

 

 

『いやしかし、翼や髪の色はともかくとして、姿形はなかなかにお美しい。もう少し己が若ければと後悔してしまいそうですわい』

『見目については圻羽(きしは)様の血であろう、それより妖力が貧弱すぎるのは問題だ。あれでは射命丸が隠し子である噂が真実である方が幾分マシであった』

『それよな、あの娘ならば妖力も実力も申し分ない。性格には多少、それなり……いや、かなりの難があるが』

 

 

 わざと聴こえるように言っているのだろうか。

 どちらにせよ、聴こえても問題がないと思われているのは間違いない。行灯の火が揺らめき、空色の瞳に夕暮れのような影を作り出していく。ここまで軽んじられるとは思わなかったと、刑香は内心で深い溜め息をついていた。無理もない話だというのは理解できる、ここにいる連中は『八大天狗』の氏族たちなのだから。

 

 

 平安の世にて、京の都に大火を引き起こしたとされる災厄の化身。極めて多くの眷属を従えた姿は伝承として語り継がれ、現在でも能楽の一つとして演じられる『愛宕山(あたごやま)太郎坊(たろうぼう)』。

 

 ある源氏の若武者に剣術を授け、人の歴史を動かした無双の武芸者。伝承の残る地では本尊の一つとして祀られており、その信仰は神仏にすら劣らぬ『鞍馬山(くらまやま)僧正坊(そうじょうぼう)』。

 

 ある時代を襲った大凶作の際に方術を駆使して、多くの人々を飢えから救ったという守り神。不動明王の化身の一つとされ、数々の妖術や忍術を人間に授けたとされる『飯綱(いずな)三郎(さぶろう)』。

 

 

 全員が紛れもない大妖怪だった。

 これで八の中の三、残りの五人もまた規格外の実力を持つ大天狗。かつて月の戦で負った傷が癒えず、刑香の『死を遠ざける程度の能力』で延命し続けた者たち。恨み事こそあるものの、彼らの妖怪としての格は本物であった。既に本人たちは亡くなっており、ここにいるのは彼らの親族や眷属たちである。それでも鬼と大して変わらぬほどの妖力を感じさせてくるため、大変息苦しくて仕方がない。

 

 

『しかし貧相な身体よな、あれでお世継ぎに恵まれるのか不安だ。もう少し肉付きが良い娘であれば、まだ良かったのだが』

『なに、貴殿には関わりのない話だ、あの小娘は我が息子の誰かと婚礼を挙げさせる。そうすれば次代の天魔は我らの一族から選ばれるであろう?』

『抜け駆けは絶対に許さんぞ』

 

「……少し騒がしいわよ、いい加減に黙りなさいな」

 

 

 下卑た思惑を言霊の刃が両断した。

 ざわめきは水を打ったように静まり返り、白い少女から発せられた一言に黒い翼たちが一斉に目を見開く。名門たる彼らに向けて「黙れ」などと口にする者は天魔を除いて他にいない。困惑を顕にして、彼らはまるで亡霊でも見るかのように刑香へと赤い眼差しを送っていた。

 

 

「黙って聞いていれば、流石に言いたい放題に過ぎるでしょう。生憎だけど私はまだ誰とも……その、え、縁組みをするつもりはないわよ」

「そこは緊張するんですね」

「椛、うるさい」

 

 

 群れの長へ取り入るにはどうすれば良いか。

 その答えは自らが権力者の『親類となる』ということである。古来より人の子が繰り返し行ってきた方法、それは一部の妖怪においても当てはまる。今までは取れぬ手段であった。天魔の一人息子は命を落とし、天魔は高齢である上に亡き妻を非常に愛していた。下手に色話でも持ちかけようものなら、不興を買ってしまう。

 もはや誰もが諦めていた道であった、しかしそれを成せる鍵が不意に目の前へ現れた。降って湧いた存在を利用しようと、ここに集まった者たちは必死なのだ。下手をすれば長老家の一員となれる『最後の好機』なのだから。

 

 

 もし八雲紫の策略がなければ、

 父母が生きていれば、

 初めから長老家の跡取りとして成長していれば、

 こんなことにはならなかった。

 

 

 千年という月日を埋める術はなく、ざわめく闇の中に取り残されていた。彼らだけに非があるわけではない、この山において白桃橋刑香という天狗はあまりにも信頼を預けられるだけの素地がないのだ。あまりにも彼らに示せるチカラが少なすぎる。天狗としてではなく、自分が未だに道具として見られるであろうことも分かっていた。

 

 

『何という、あれでは射命丸と変わらぬではないか。もう少し聞き分けの良い娘であるという話であったが』

『おとなしく婿を取っておれば楽であろうに、どうして大天狗の地位を欲するのか不可解極まる』

 

「文と変わらないっていうのは、褒め言葉としてありがたく受け取っておくわ。実力不足なのは承知の上だし、未熟なのも覚悟の上、それでも私のことをアンタたちに認めさせてみせる」

 

 

 純白の翼は光を失わなかった。

 数十の視線が突き刺さるが、こういうのは怖気づいた方の負けだ。自分などより大天狗に相応しい者がいることは分かっている。それでも白桃橋刑香でなければ、出来ないこともあるのだから譲れない。自分も天狗なのだ、たまには同族相手に尊大な態度で挑んでみるとしよう。天狗らしく、たまには()()()()()()()()も成功させてみるとしよう。

 そっと、刑香は椛にだけ伝わるように呟いた。

 

 

「しっかりと入り口は閉まってるわね?」

「ええ、間違いなく施錠してあります。行灯に注いである油も匂いからして通常よりかなり多いものかと」

「上々ね……それじゃあ始めましょうか」

「はい、貴女の御心のままに」

 

 

 心を落ち着けるために、深く深く呼吸を繰り返す。祖父からやり方は聞いている、『コレ』を扱うには心に悩みなきことが何より重要であると。思い出す、メリーと名乗った少女との席で祖父がやってみせた光景を出来るだけ鮮明に。

 

 

「私にはお祖父様のチカラを丸ごと受け継げるような器はない。だから迦楼羅王(かるらおう)の跡継ぎにはなれない。けれど……」

 

 

 その瞬間、行灯の炎が消えた。

 風の仕業ではない、油もまだ残っている。それにも関わらず光が掬い取られたかのごとく、室内から明かりが消失した事実に天狗たちが首を傾げた。そして、仕方なく部下へと新しい火種を持ってくるように命令を下す。いや、命令しようとして彼らは動きを止めることになる。

 輝くような黄金の焔が、いつの間にか行灯の中で燃え盛っていたのだ。再び広間に灯りが戻ってくる、しかし今度は光量が多すぎる。

 

 

 ーーー私には天魔様‥‥お祖父様のチカラを丸ごと受け継げるような器はないわ。せいぜいが今持っている『延命』と、多くて『あと一つ』くらいが限界でしょうね

 

 

 かつて自分はそう言った。

 祖父が司るとされるチカラは一つ一つが極めて強大だ。屈強な肉体を持つ迦楼羅王ならともかく、その全ては一介の鴉天狗に扱える代物ではない。故に少女は悟ったのだ、自分が受け継ぐことの出来るのは『せいぜいが二つ』までだと。つまり裏を返してみれば『あと一つ』は余裕があるということである。

 山吹よりも濃い色をした焔が、透かし紙を溶かして立ち上がる。行灯を喰らうようにして、しかし床も行灯自体も何一つとして燃やすことなく、焔は天井へと輝くツルを伸ばしていく。物質を焦がす匂いはなく、熱を感じさせることはなく、まばゆい光を放つばかりの不可思議な火焔が立ち昇る。

 それを見て、特に年長であった男が悲鳴のような声を張り上げた。

 

 

「は、離れよっ、離れよと言っているっ! その焔に断じてに触れてはならぬぞっ、それは天魔様の御力だ!!」

 

 

 白い少女がその身に宿すことを選んだチカラ。それは人々を襲う悪蛇を祓う聖なる陽炎、龍をも灼いたとされる霊鳥の絶対的な切り札。仮に天魔の全盛期ともなれば天狗といえども、ひとたまりもないだろう。籠の中の鳥が本当はどちらだったのか、施錠された密室に集められた者たちは嫌でも思い知ることとなる。

 

 

 その御名を『迦楼羅焔(かるらえん)』という。

 

 

◇◇◇

 

 

「っ、あああ、あ、貴女様たちは!?」

 

 

 その男は痙攣したように言葉を上擦らせていた。

 天狗の里の入り口にて、何百年もの長きに渡って門番を務めた白狼天狗の青年である。自分の守る門から侵入者を許したことは一度もなく、職務に忠実な熱血漢。生真面目なところで馬が合い、犬走椛とも将棋を指す程度の仲であったりする。そんな青年であるのだが、今宵ばかりはツキがなかった。いや(ツキ)は空に浮かんでいるのだが、少なくとも幸運のウサギが彼の前から尻尾を振って雲隠れしたのは間違いない。

 

 

「まったく、アンタって鬼は本当に……ああ、もう!」

「あっはっはっ、そう愚痴るべきじゃないさ。せっかくの取り繕った仙人面が台無しじゃないかい」

「全部アンタのせいでしょうが! まさか天狗たちに何一つとして連絡を入れずに里まで突き進むなんて……少しは刑香にやられて大人しくなったかと思ったら、相変わらずの大馬鹿じゃないの!」

 

「ぁぁあ、あ……童子様、どうしてここに?」

 

 

 目の前にいるのは、巨大な怪異。

 地底に姿を消して数百年、ただの一度も地上に姿を見せることのなかったとされてきた鬼の一族。その棟梁の一人、紛れもない鬼神が雄々しい牙を見せつけて笑っている。何がどうして、そんな存在がここに現れたのか皆目検討も付かない。白状するなら悪夢以外の何でもない、というより本当に吐きそうだ。

 

 

「どうしてかって? 決まっているだろ、私が推してやったヤツが大天狗として選ばれるっていうから、祝いに来てやったのさ。せっかくの土産もあることだし、どいつもこいつも巻き込んで朝まで呑み明かそうじゃないか!」

「し、しかし本日は来客があるとの連絡は受けておりませぬ。赦しのない者を門より内に入れるわけには……上に報告してきますので、しばし時間を」

「おいおい、私が通せと言っているんだ。おとなしく退いときな、坊主?」

 

 

 一本角の大鬼が眼光を細める。

 ああ、思い出してきたと青年は目眩を覚えた。こちらの事情も世の道理も、何一つとして通用しない天災のごとき上司様。昔もこうやって、無理を通されたと当時のことが鮮明に甦ってきた。

 向かい合うだけで冥界に迷い込んだような死の錯覚を、恐怖という形で脳裏へと刻んでくる彼女の名前は星熊勇儀。かつて妖怪の山に君臨した偉大なる主の一人である。天狗に河童、覚に土蜘蛛、様々な妖怪たちを従えて百鬼夜行を作り上げた大妖怪。なるほど、このお方から見れば己など小童に過ぎぬであろうと青年は震えながらも納得した。

 気がつけば無意識の内に、身体が門番としてのお役目を放棄していた。よろよろと腰を抜かした己を踏み越え、厳重に閉じられていた門が呆気なく鬼によって開かれていく。

 

 

「悪いねぇ、あとで天魔には私から説明しておいてやるから気にしなくていい。華扇、お前さんも乗りかかった舟だ。最後まで付いてくるかい?」

「何が乗りかかった舟よ。無理やり搭乗させたのはアンタでしょ。三途の川にいる死神だって、こんな強引な仕事はしないわ。でも……心配だから同行はしてあげる」

「よし来た、そうと決まれば…………ん、結界まで張ってあるのかい?」

「そ、それはスキマの賢者対策の………あ、ちょっと、それだけは駄目ですよぉっ!?」

 

 

 幾重もの方術が施されている門の内側。

 幻想郷を自由に移動できる八雲紫、あの賢者に侵入を許さぬための防壁である。それは結界に長けた『飯綱三郎』の一族によって施された強固な守り。遠い昔に人間たちへと妖術を授けたとされる大天狗であり、その眷属たちによる術式は美しく結界を形作っていた。そこに鬼神は何ともなしに爪を捩じ込んだのだ。

 

 

「ーーーーぉぉおおおおおっ!!!」

 

 

 数秒と時間はかからなかった。

 何の工夫もなく、術式の解読もなく、指先のチカラだけで結界が粉々に砕かれる。風に舞い散っていく妖力の欠片を青年は呆然と見送った。あり得ない話だ、しかし目の前で確かに起こった事実だ。数日がかりで天狗が編んだ結界を物理的なチカラだけで砕くなど、もはや意味が分からない。それを当然のように受け止めて、里の内部へと進んでいく勇儀と華扇を呼び止める胆力は白狼の男には残っていなかった。

 頭を掻きむしりながら、怒りとも悲しみともつかぬ声を漏らす。

 

 

「あーあ、やっちまったなぁ。これで今月は減給確実だよ。犬走隊長にも怒られそう……いや、あの人は怒らないよな」

 

 

 地底での戦いのことは聞いている。

 あの白い鴉天狗とその一団が、鬼の四天王の一人を打ち破ったという話だ。このことについて里の天狗たちの反応は二つに一つ、噂そのものを妄言として捉えるか、鬼の四天王が落ちぶれたと見なしていた。だが、そのどちらも誤っていたのを青年は確信する。

 星熊勇儀は弱体化などしていないし、そんな鬼神を間違いなく打ち負かしたのだ。そうでなければ、こうして本物がわざわざ訪ねてくるわけがない。

 自分には出来るだろうか、いや勝負にもならないだろう。腕力も妖力も、速度でさえ遥かに上回る相手に挑むなどバカバカしい。次代の大天狗として名乗りを上げている連中も同じようなものだろう。

 

 

「あはは、は、すげぇなぁ……あんな相手に『あの方々』は勝ったのか。惚れちまいそうだよ、まったく」

 

 

 そのまま刀を放り投げて寝転んだ。

 里から悲鳴が聞こえてくる、突如として現れた鬼の姿に面食らっているのだろう。門で止められなかった己の失態である、きっと上司から嫌味を言われるのは間違いない。しかし、今は門番としての責務がどうでも良く感じられた。

 

 

「そういえば隊長、なんであんなに油やら藁を継承の儀式に集めるように言ってたんだろ。松明を焚くにしては多かったような……かがり火でもするのかねぇ」

 

 

 どのみち鬼まで呼び寄せてしまうようでは、他の天狗に勝ち目はなさそうだ。きっとあの白い鴉天狗は大天狗となるのだろう、漠然とした予感が胸をよぎる。

 気のせいだろうか、随分と懐かしい焔の香りが風に乗ってやってきていた。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。