その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第六十四話:旅立ちのスピカ

 

 

 高らかな音色は神楽鈴(かぐらすず)

 穢れを祓うソレは、古来より神懸かりのための儀式の一部であった。神職にある者が己の身体に神を宿し、人ならざる者と人との橋渡しとなる。外の世界では形骸化し、喪われてしまった神聖な在り方である。幻想を泡沫の夢とし、現実を確固たる真実とする世界。

 かつて魔術の一部でしかなかった科学のみを振りかざす人間に、幻想へと触れる術はないのだから仕方のないこと。しかし、博麗大結界を挟んだ内の世界、この幻想郷では『巫女』という存在は正しく現役であった。

 

 

 流石は博麗の巫女様だと、誰かが感嘆するように呟いた。

 

 

 人々が見つめるのは小さな舞台。

 そこで紅白の袖を広げて、空間を色づかせているのは一人の少女。まるで遊ぶようにして舞いを奏でては、雅やかな気質を放っていく紅と白。十分すぎるほどに大きな足場で繰り広げられる舞踊は、ささやく風のごとくに流麗だった。これは継承の儀、これまで仮の立場であった少女が『博麗』となるための儀式である。白い鴉天狗に遅れること数日、幼い巫女もまた一歩を踏み出したのだ。

 参列者の大半は人里の有力者たちで、誰もが新たな守護者となる少女のことを期待と不安の入り混じった心で見守っている。

 

 

「‥‥‥霊夢のヤツ、舞踏の練習なんて殆どしてなかったくせにメチャクチャ上手いじゃないか。やっぱり才能ってやつは不公平だぜ」

 

 

 観衆の中、不満そうな声を漏らす者が一人。

 神社の森が霊気に震え、周りの人々は残らず巫女に畏敬の念を向けている。その中で唯一、霧雨魔理沙は人間に向ける感情を霊夢に抱いていた。

 ちょっと立ち上がって歩いていけば、舞台に上がれば手の届くような位置。たったそれだけのはずなのに、自分と霊夢との間に横たわる距離があまりにも遠い。そのことが、酷く不快だった。

 

 

「魔理沙、黙って巫女様の舞いを見ていなさい」

「分かってるよ、親父」

「この場だけでも御父様と呼びなさい」

「分かったわ、御父様」

 

 

 隣の父に諭されて口をつぐむ名家の令嬢。

 日の光に輝く金髪を結い上げた少女は、いつもの白黒ではない鮮やかな着物を風に遊ばせていた。忠告されて数秒は不満そうに友人の舞いを見つめることにしたが、やはり退屈だった。すぐに父親の顔を盗み見る作業へと移ることにする。

 眉間に刻まれたシワは如何にも神経質そうで、痩せた頬は弱々しさより先に厳格な雰囲気を思わせる。人里で名を知らぬ者はおらず、多くの人々から尊敬の念を抱かれている名士。打算的で無駄なことを嫌い、それ以上に妖怪や怪異を嫌う。誰よりも幻想郷の人間らしい人間だった。

 つまり、霧雨魔理沙にとっては何者よりも退屈な相手である。

 

 

「‥‥‥‥‥やっぱり暇だな、よーし」

 

 

 するりと取り出したのは中身の波打つ小瓶。

 それを父親から見えないようにして袖口で開封して、呪文を一言二言と口にする。瓶の中身は一瞬で沸騰したかのように泡立つと、その量をたちまちに減らしていった。そして底に刻まれていた『熱』の魔法陣が顔を覗かせた頃に、儀式の最中にも関わらず魔理沙は大胆に立ち上がった。

 

 

「よっと‥‥‥‥黙ってアイツの晴れ姿を見ているのも悪くないんだけどなぁ。せっかく『面白そうな連中』が集まってんだ、あっち側に行かないと魔法使いの名が廃るってもんだぜ」

 

 

 イタズラ好きな笑みを漏らしながら、人間たちの集まっている場所から離れていく。父親や他の者たちが騒ぎ立てる様子はない。初めて使う魔法だったが、上手くいったらしい。精神に負荷をかけない術式にしたので、あまり長くは持たないが暇つぶしをするくらいの時間は稼げるだろう。きっと父親の隣には、彼にしか幻視()えない愛娘がお行儀良く座っているに違いない。

 やがて目的の場所が近づくと、こちらに気づいた赤髪の女性が目を丸くする。

 

 

「あれ、どうしたんですか。もしかして迷子だったりします、魔理沙さん?」

「いやいや、この広さと人数程度で迷うほど子供でもないぜ。退屈しのぎに会いに来たんだよ、美鈴」

 

 

 たどり着いたのは『もう一つの勢力』。

 目も眩むような金髪と藍色の瞳をした美しい女性、その傍らに座る幼い黒髪の式神。

 青みがかった銀髪と血の輝きを秘めた紅い瞳をした令嬢、主を守護する燃える赤髪の門番。

 そして、その二組には及ばずとも人知の届かぬチカラを備えた大勢の怪異たちが首を揃えている。そう、ここは妖怪たちのために設けられた座敷であった。

 

 

「あまり私たちの席に近づくのは良くないと思いますよ。人里のお偉い方々は私たちの正体にも気づいておられるでしょうから」

「認識をずらす魔法をたっぷりと撒いてきた。そのあたりの対策に抜かりはないぜ?」

「うわぁ、さすがは霊夢さんの友人なだけありますねぇ。パチュリー様が聞いたら苦笑いしそうです‥‥‥」

「まあ、気にするなって。それよりちょっと詰めてくれ、私もここで霊夢を見守るよ」

 

 

 若干引いている美鈴だったが、身体をズラして魔理沙の座れる場所を確保してくれた。刑香のようにツンツンしているわけではないが、お人好しな雰囲気が似ている。前に宴会で見かけた時に仲が良さそうだったが、こういう所が似た者同士なのでお互いに相性が良いのかもしれない。

 頭の奥を痺れさせるような声がしたのは、そんなことを考えている時だった。

 

 

「ーーーちょっと美鈴、ここは人ならざる者のいる領域よ。ただの人間がいるべき場所ではないわ」

 

 

 頭の奥底に突き刺さる鋭い響きがやってきたのは、美鈴を挟んだ隣側。もう腰を下ろしていた魔理沙は身をかがめるようにして、そっと門番を壁にして声の主がいる方を覗き込んだ。一瞬だけ絡み合っただけだというのに、真紅の視線に気圧されてしまう。その際に喉の奥から小さな悲鳴が湧き出してきたのを、すんでのところで噛み砕いて口を開く。

 

 

「っ、な、何だよ。わ、私がここにいて駄目な理由でもあるのかよ‥‥?」

「この幻想郷のルールとして望ましくないと言っているのよ。妖怪の領域に人間があまり近づくべきではない、少なくとも表向きは『そういうモノ』なのでしょう?」

 

 

 冷え切った瞳で告げるのは、レミリア・スカーレット。先の異変、つまりは『吸血鬼異変』を起こした張本人で、八雲紫や刑香たちによって敗北した魔族である。

 物心ついた頃から、ずっと平穏であったはずの幻想郷を初めて掻き乱した存在。しばらくは大人しくしているだろうと霊夢は語っていたが、その事実にやはり畏怖の一つくらいは覚えてしまう。そんな魔理沙を観察するように揺らめいていた紅い眼差しは、やがて興味を失ったようで巫女のいる舞台へと戻された。

 

 

「気にしないでください、魔理沙さん。ああ見えて、お嬢様も心配して言っているんです」

「何で私が人間の心配なんて‥‥‥‥ああ、でも確かに広義的には間違ってないから否定はしないでおこうかしら」

「アンタが私を気遣う理由こそ見当たらないんだが」

 

 

 相変わらず真紅の瞳は霊夢だけに向けられている。

 それでも多少の意識は割いてくれたらしく、レミリアは答えの代わりに掌を魔理沙の視界に入るように晒してきた。制止するような動作からするに、黙っていろということだろうか。これでは父親からされたことと変わらないではないかと、幼い魔法使いはがっくりと肩を落とした。結局、誰もが魔理沙を『そちら側』へ踏み込ませまいと邪魔をするのだ。

 しかし、次にレミリアが口にしたのは思いも寄らぬ言葉だった。

 

 

「顔を上げなさいな、未だに銀の靴さえ持たない人の子よ。こんな程度でへこたれるなんて、臆病風に吹かれた獅子よりも情けない」

「‥‥‥‥それなら、勇気の心を欠片でもいいから恵んで欲しいもんだ。無いなら額に祝福のキスでも構わないぜ?」

「あら、西洋の物語にも通じているなんて博識ね。気に入ったわ、少しだけアナタへ肩入れしてやることにしましょうか」

 

 

 どうして物語の話などしたのだろうか。

 ああ、そういえば自分が妖怪やら巫女やらと本格的に関わり始めたのは刑香がキッカケだと思い出す。あの物語の序章は竜巻からだったが、霧雨魔理沙の場合は天狗風だった。そんなことに引っ掛けて西方の童話のことなど出してきたのだろうか。だとしたら、レミリアは随分と少女らしいところのある吸血鬼らしい。その事実が魔理沙の心を氷解させる。

 

 

「旅立つ気があるなら、もう覚悟を決めなさい。アナタなら分かっていると思うけど、人間が生き方を選べる時間は長くない。これ以上延ばしてしまうと、残してしまうモノの重みに潰されてしまう」

「それは、レミリアの経験則なのか?」

「五百年近くも生きていると、色々あるものよ。今だって私たちは故郷を捨てて幻想郷にいるし、ルーマニアに置いてきた財産は決して軽くない。刑香もそうだったけど、選択を迫られるのが人間だけだと思わないことね」

 

 

 何かを失う代わりに未来を求めて飛び立つ。

 その一連の流れは、人間であろうと妖怪であろうと変わりはない。妖怪としてではない、これは長く生きた先達として助言だ。ああ、そうだと魔理沙は改めて理解する。悩んでいる暇なんて、『普通の人間』である自分にはこれっぽっちも無かったのだ。

 

 

「はっ、わかったよ。霊夢や刑香、あとはレミリアと同じように私だって覚悟を決めてやる」

「あら、このまま人里で暮せば安定した人生を送れると思うわよ?」

「ここでそんなこと言うのかよ。……でも、そっちの方が私にとって幸せな人生だったりするのか?」

「ぷっ、くくっ。何を言うかと思えば……それは悪魔に尋ねることじゃないわね。何十年か費やして自分自身で確かめなさいな」

 

 

 春の太陽を遮る日傘の下、紅い悪魔が不意をつかれて笑い出す。悪魔である自分がそんな質問をぶつられるとは思わなかったのだろう。運命を操る吸血鬼の少女は愉快そうに表情を崩しながら、初めて霧雨魔理沙をはっきりと見つめていた。

 

 

「親不孝な娘ね。唆した私が言うのも難だけど、きっと傍から見れば最低の選択よ」

「軽蔑される覚悟は出来てるさ。それでも私の生き方は私が決める」

「軽蔑なんてしないわよ、少なくとも『こちら側』の連中はね」

「そりゃ良かった………それだけ分かれば十分だ」

 

 

 この瞬間のことは忘れない。

 後から思い出してみると、随分と短いやり取りだったと未来の自分は驚くのだろう。霊夢や紫ではなく、最後に背中を押してくれたのが吸血鬼だという事実も合わせて。どのみち早いか遅いか、その二択だったとは思う。御礼の一つも告げず、少女は立ち上がる。

 

 

「さて、一足先に家へ帰るよ。親父や使用人たちに気づかれる前に準備をしないといけないからな」

「……そう、きっと何度も後悔することになるでしょうね。同じだけ良かったと思うこともある。アナタの旅立ちに月明かりの輝くことを祈りましょう」

「くく、魔法使いの旅立ちには最高の言葉だぜ」

 

 

 レミリアの言葉に今度は魔理沙がニヤリと笑った。

 悪魔に幸運を祈られるなんて、ただの人間ならば縁起でもないことだ。向こうにとって予想通りの答えだったようで、紅い吸血鬼はヒラヒラと手を振っていた。二人の会話に黙って耳を傾けていた美鈴が「頑張ってくださいね」と小さく口にしたのを皮切りに、幼い魔法使いは歩き出した。

 

 

「ーーーそれでは、この瞬間より幻想郷における異変解決をあまねく『命名決闘法』、『スペルカードルール』に則ることを宣言します」

 

 

 霊夢の言葉と拍手の音が聞こえる。

 祭事の舞いが終わったのだろう、しかし振り向いてやる気はない。今までは、ここが魔理沙の非日常だった。博麗の巫女やスキマ妖怪、鴉天狗と会うことのできる場所。これからは、それを『日常』にしなければならない。こんな時のために父親宛の書き置きは用意してあるが、荷物を纏めるのは時間がかかる。

 

 

「待ってろよ、霊夢」

 

 

 あとは当面の寝床だが、それは空いてる小屋に覚えがあるので問題なさそうだ。

 

 

◇◇◇

 

 

「ーーーそれでは、珍妙なカラクリで我らの里を覗いていた河童への処罰は貴方様が行うと?」

 

 

 妖怪山の奥深く、音に聞こえし天狗の隠れ里。

 そこは山霧に覆われ、春の水滴に濡れた木々が枝をしならせる幽谷(ゆうこく)(その)。幻想郷で唯一の御山において、その支配者として君臨する者たちの住居である。

 群れを作る妖怪というのは珍しく、それも自分たちで独立した『社会』を形作るとなれば極少数に限られる。集団であることの不自由を許容できる精神性と、多勢であることを利点にできる高い知性を持ち併せた妖怪であること。そして集団を導く、強大な能力を持った頭目がいることが最低条件となるからだ。

 

 

「ええ、何か問題でもあるかしら?」

「あの河童め、河城にとりと貴方様は親しき仲だと(うかが)っております。まさか今回の沙汰に手心を加えるつもりではありますまいな?」

「顔見知りというのは不利に働くばかりではないわ。それに重い罰を課して事を荒立たせるよりも、二度と起こさないように釘を刺す方が肝要でしょう」

 

 

 里の中央に置かれた会議場。

 他種族の妖怪たちは当然として、鴉天狗たちも理由がなければ立ち入ることなど出来るはずもない禁制の領域。かつては八人の大天狗、そして種族の長である天魔によって重要な会合が行われていた場所である。天魔を除く上役たちが彼岸の向こうへと旅立った後、ここでは彼らの一族による権力争いが繰り広げられていた。決まるモノも決まらず、そこには時間ばかりを空費する日々があったのだ。

 

 

「ふむ…………まあ、大した話でもないですからな。わざわざ貴女様が気に掛けることに目を瞑るなら、我らから特に異論はごさいません」

「なら、この話は私が預かるわ。河童たちへの沙汰も追って検討しておく。あの娘に手を出すことも、これ以上の詮索も一切許さない」

「御心のままに、白桃橋様」

 

 

 その状況に雪解けが訪れたのは、つい最近のこと。氷を溶かすには幾分白く、それでいて夏空の瞳を持つ少女が大天狗に選ばれてからだ。緩やかにではあるものの、妖怪の山に活気が戻ってきている。

 強い妖力を誇っていたわけでも、組織の上層部との繋がりを保持していたわけでもない。戦闘に関する能力は高くなく、頭の回転にしても『スキマの賢者』や『傾国の大妖狐』といった規格外の者たちには及ばない。そんな小娘が大天狗に選ばれたところで長続きするはずがない、それが天魔を除いた上層部の見立てであったにも関わらず見事と言える働きだった。

 

 

「ところで、勇儀様に壊された結界の改修は進んでいるのでしょうか。アレはスキマ妖怪、つまりは八雲紫の侵入を防ぐために重要な……」

「それなら二日もあれば元通りに出来るそうよ。それに今は博麗の継承式が行われたばかり、紫が大きなことをする可能性は低い。何かあっても私が相手するから、アンタたちが心配することじゃないわ」

 

 

 長老の選択は間違っていなかったのかもしれない。

 この新米の大天狗は決して弱くはないし、頭の回転も想像していたよりも相当早い。しかも対立する意見を軽視することなく、どの程度で妥協してみせれば遺恨を残さないのかが分かっている。まだまだ甘いところが多いものの、なかなかどうして(まつりごと)における最低限の舵取りは出来ているのだ。射命丸あたりの入れ知恵もあるだろうが、ある程度は初めから『為政者としての才覚』を持っていたのだろう。

 

 

「それじゃあ今回の議題は以上、これにて解散としましょう」

「ーーー承知致しました」

 

 

 終了を宣言する白い大天狗。

 それに返答すると同時に、天狗たちが一斉に(こうべ)()れる。このような形で自分たちより遥かに年下の小娘に敬意を示すのは、彼らにとって好むところではない。それでも純白の少女が広間から去るまでの間、誰一人として顔を上げることも(しか)めることもなかった。

少なくとも無闇に敵対するよりは恭順(きょうじゅん)した方が良い、そう思わせるだけの強い輝きを、あの瞳は持ち合わせていたのだから。

 油断ならない娘であるが、信頼できる娘なのかもしれない。天狗たちは主のいなくなった上座を、複雑な眼差しで睨めつけていた。

 

 

 

 

 

「やれやれ、まだまだ御山は寒いものね。麓は雪解けが訪れているようだけど、このあたりはまだ道半ばってところかしら」

 

 

 夜は妖怪の時間である。

 周囲はとっぷり闇に沈み、光源となるものは夜空に浮かんだ月と星空のみ。とても視界の全てを照らすような力はない。手元のお盆には淹れたてのお茶が入った急須、こぼさないように少女は気をつけて廊下を進む。天魔が秘蔵していた茶葉を惜しげもなく使ってやったので、風味は保証付きという代物だ。

湯呑みは二つ用意したし、これから向かう部屋にいる相手と味わうのが楽しみである。

 

 

饅頭(まんじゅう)も美味しそうなヤツを頂戴してきたことだし、良い夜を過ごせそうね。まったくもう『あの子』の頼みとはいえ、こういう役回りは疲れるわ」

 

 

 やがて辿り着いた部屋。

 古い木の匂いがする建物は長老の屋敷とは比べるべくもなく、こじんまりとしたモノ。天狗の里では珍しくもなく、人里にあったとしても目に止まるような華美な雰囲気は欠片もない。長老邸の端に立つここは、とてもではないが『大天狗』が住居にしているとは思えない物寂しい雰囲気が漂っていた。喉の調子を整えるように咳払いをしてから、白い少女は廊下と部屋を区切る障子に手をかける。

 

 

「ーーー入るわよ」

 

 

 まず己を迎えてくれたのは、山のような書類だった。

 部屋に備え付けられた棚に入り切らず、この数日間で詰め込まれたモノが溢れに溢れている。まるで床が浸水しているような始末だ、足の踏み場もありはしない。飛んでしまえば移動に問題ないとはいえ、流石に酷い有様である。お盆の中身を零さないようにして、辺りを見回していく。しばらくして、巻き物や書類が小さく動いているのを発見する。

 

 

「ああ、そっちにいたのね。同じ色をしているから分からなかったわ」

 

 

 本人が紙と同じくらい白いので見つけにくかったが、どうにか見つけることが出来た。そちらへと忍び寄り、見下ろした視線の先には自分の両腕を枕代わりにして突っ伏している天狗少女の顔があった。小さな寝息が聞こえてくるのを確認してから、少女は己に掛かっていた『妖術』を解く。

 純白の髪はあっという間に(うるわ)しい漆黒へと変わり、空色の瞳は妖しくも凛々しい深紅の輝きに染め上げられる。まるで鍍金(めっき)が剥がされていくように、気配そのものが塗り替えられていく。数秒としないうちに、白い少女としての面影は消え失せていた。

 

 

「……ん、ああ、帰ってきてたんだ。おかえりなさい」

「あやや、こんなところで寝ていると風邪をひきますよ。休みたいなら布団を敷いてあげますから、そっちに移りなさい」

「せっかくだけど遠慮しておくわ。今から横になると、きっと朝まで起きられないだろうから。そんなことより会議はどうだったの、にとりの件は解決してくれた?」

「私にかかれば当然ですよ。いやー、私の活躍をアナタにも見せたかったですねぇ、刑香」

 

 

 白から黒へと変化した双翼。

 それまで身に着けていた深紫の羽織を外しながら、射命丸文は得意気に口元を緩ませていた。その胸元には梵字(ぼんじ)の描かれた御札がチラついている。墨痕(ぼっこん)鮮やかに『変化(へんげ)』と銘打たれたソレは、仏道の中でも極めて高位の者によって作成された術具だ。やれやれといった様子で座り込むと、文はそのまま刑香へともたれ掛かる。

 

 

「天魔様の術は予想以上でした、あの数の天狗にバレませんでしたよ。この効力ならば、しばらく私がアナタの姿で会議に参加することも可能でしょう。ふふ、刑香に連中の相手はまだ早すぎますからねぇ」

「……悪いわね、重たい役目を背負わせてしまって」

「私とアナタの仲なんです、このくらいは構いませんよ。それより、はたてとの特訓は如何でしたか?」

「勝負としては負け越しだったけど上出来よ。これなら本気のアンタと戦っても、即座に撃墜されることはないでしょうね」

「手加減はしてあげますから、せいぜい良い勝負を演じてくれると助かりますよ…………ふぁ、眠い」

 

 

 流石に少し疲れた。

 昼間は霊夢への伝言のために神社へ、その後は一癖も二癖もある連中を相手にしての会議。例の訓練をしていた刑香も疲労が溜まっているようだが、こちらはこちらで消耗が激しい。やろうと思えば徹底的に説き伏せることも出来たかもしれないが、それをやってしまうと禍根を残す。後々に刑香が大天狗としてやっていく際の敵を作ってしまうのは避けたかったのだ。

 刑香を助けるためでなければ、是非ともお断りしたい役回りである。

 

 

「……お互いに今夜は『あと一仕事』残っているわけだけど飛べそう?」

「少しだけ休みましょう。私は一戦やるだけで終わりですが、特に刑香は二戦もこなさなければならないでしょう?」

「……分かった、小休止を入れてから向かいましょうか。戦っている最中に力尽きて墜落なんて笑い話にもならないわ」

 

 

 それではお茶にするとしよう。

 あの博麗の巫女と会うのも悪くはないが、今はそこまで魅力を感じる話し相手ではないのだ。将来性には恵まれていそうなので、もしかしたら歴代の中で最も面白い巫女になるかもしれない。自分とはたて以外に心を開かなかった刑香を、あそこまで惹きつけたことが何よりの証拠だ。

 だが未来は未来、現在は現在だ。目の前にいる妹分との過ごす時間の方が心安らぐ。湯気の立つ急須から注がれたお茶は二つ、その片方を刑香へと手渡した。相槌も目配せもなく、コツンと自分たちは湯呑みで乾杯する。

 

 

「『アレ』のことなのだけど、枚数は三枚でどうかしら?」

「四枚でも五枚でもご自由に、私はアナタに合わせます」

「むぅ‥‥‥‥随分と余裕じゃない」

「実際余裕ですからねぇ、負ける要素が見当たりません」

「へぇ、そこまで言われると本気で勝ちに行く必要がありそうね。元より手を抜いてあげるつもりは無かったけど、文字通りの全力で相手してあげる」

 

 

 今日は宵闇が深い。

 まるで光届かぬ洞窟の底に迷い込んだかのように、漆黒の空が彼方まで広がっていた。そして開けっ放しになった障子から眺める星々は色とりどりのガラス玉のごとく、一面に散りばめられている。澄んだ空気は呼吸するたびに、少しずつ頭を冴え渡らさていく。もう一度だけ、ぬくもりを感じようと刑香へと身体を傾けると小さな笑い声が鼓膜を満たす。

 どれだけそうしていただろう、気がつくと刑香もウトウトと夢見の舟を漕いでいた。その手元には妖力で編まれた『カード』が三枚、それぞれには三羽鴉の共同で考えられた『スペル』が刻まれている。いつの間にか疲労は遠のいており、文が起き上がると刑香もまた目を擦りながら立ち上がる。お互いに目配せをして頷きあう、準備は整ったようだ。

 

 

「さあ、行くわよ文」

「ええ、行きましょう刑香」

 

 

 静まり返った宵闇の空へと、白黒の天狗少女たちは翼を広げて飛び立っていく。これは後々に『幻想郷縁起』にて語られることとなる幻想郷の転換点。この世界の行く先を決定付けることとなった一夜、少女たちによる演目の幕が華々しく上がろうとしていた。

 

 

 ーーーさあ、幻想郷で初となる『弾幕ごっこ』を始めましょう

 

 

 遠い遠い何処かで、誰かが呟き声が闇夜へと溶けていく。

 

 

 

 


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