その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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第六十七話:旅の終わり

 

 

「ーーーよぅしっ、こんなところね」

 

 

 季節外れの蛍火舞う幻想郷。

 あちらこちらで放たれる弾幕は景気よく、輝きに惹かれて誰もが空を見上げる夜八つ。このままでは明日の仕事は寝ぼけ眼と相成るが、妖怪の仕業なら仕方ない。親方や店主も許してくれるだろう、仕方ないったら仕方ない。そんなことを考えて、人里の者たちは老いも若きも妖怪たちの決闘を眺めていた。

 しかし所離れて幻想郷の東端、暗い林道を抜けた先にある博麗神社。とっぷりと沈んだ暗闇は海のようで、目が馴れなければ、開いているのか瞑っているのか分からない。そこには普段と同じ、静かな闇夜が満ちていた。

 

 

「メリー、そっちは準備できた?」

「ええ、ばっちり。人里で物々交換してきた商品も、霊夢ちゃんから貰った御札もカバンに入ってる」

「よしっ、それじゃあ立つ鳥跡を濁さず。可愛い巫女さまが留守の間にお掃除も済ませたことだし、そろそろ出立しましょうか」

 

 

 青白い灯りが照らす本殿にて。

 薬売りが使うような籠を背負い、立ち上がったのは見慣れぬ格好をした二人の少女。一人は黒髪に烏羽色の帽子を被った快活そうな娘で、もう一人は金髪で紫色のワンピースを身に着けた温和そうな娘。奇妙な出で立ちは人里の者ではなく、かといって妖力や霊力も感じられぬ異端者。それもそのはずで、この少女たちは幾重にも張り巡らされた壁を越えて、幻想郷を訪れた『稀人(まれびと)』。つまりは幻想郷にとっての正真正銘の余所者であった。

 

 

「いやー、冷静に考えると色々あったわねぇ」

「冷静に考えなくとも、まともな現代人が一生のうちで味わう臨死体験を三人分以上は経験した気がするわ‥‥‥」

「大丈夫よ、幻想郷を追いかけている時点で私たちってまともじゃなかったし。そういう『普通』の基準は当てはまらないわ」

「死にそうになる回数だけは、常人と同じくらいでお願いしたいわね」

 

 

 気がつくと妖怪の闊歩(かっぽ)する世界にいた自分たち。

 ほんの一ヶ月程度のはずだが、ここにいた時間は随分と濃密だった。まさか単なる神社巡りが、歴史学者と民俗学者あたりが泣いて喜ぶ体験ツアーへと変わってしまうなんて出発前に想像できるはずもない。

 元の世界で騒ぎの一つでも起こっているじゃないだろうかと蓮子は思う。大学の講義は多少すっぽかしても大丈夫だが、家を丸一ヶ月も空けたとなると誰かが警察に相談くらいはしていても不思議ではない。地元に残してきた家族とか、同じ講義を受けているクラスメイトにも一人くらいはお節介を焼いてくれる者もいるだろう。

 

 

「‥‥‥いざ帰れるとなると、やっぱり名残惜しいわね」

「うん、とっても楽しかった。次はいつ訪れられるのか、そもそも来る方法があるのかすら分からない。けれど‥‥‥‥私はそれで良いんじゃないかって思うわ、蓮子」

「幻想は幻想のままに、そういうロマンチックな理由なら私も同意よ」

 

 

 そう言って、蓮子はメリーの手を取った。

 もし簡単に幻想郷へと来る方法があるのなら、それはきっと素晴らしいことなのだろう。しかし『次はいつ来られるか分からない』、それもまた良いと思うのだ。簡単に訪れることが出来ないからこそ、やがてこの思い出は研ぎ澄まされ無二の輝きを放つのだ。

 考えていることは同じなようで、ぎゅっとメリーも手を握り返してきた。

 

 

「一応、目標は達成したけれど秘封倶楽部の活動はこれからよ。まずは帰ってから、これまでの体験をまとめなきゃね!」

「それよりも、蓮子はまずサボっていた授業のレポートを書いた方がいいんじゃないの?」

「だ、大丈夫よ。ちゃんと考えて自主休講してるんだもん、単位取得に抜かりはないわ。メリーこそ平気なわけ?」

「私は基本的にサボタージュしないもの。一ヶ月離れたところで、出席日数もレポートも安全圏よ」

「私の親友が優等生過ぎてズルいー!」

 

 

 わざとらしく崩れ落ちてみる。

 幻想郷で繰り広げられる場違いなキャンパストーク、首を傾げるものはここにはいない。何か反応を返してくれそうなのは、縁側に座り込んでいる小さな猫くらいのものである。

 黒真珠のような瞳に真っ赤な虹彩が揺らめく、美しい瞳をした黒猫だ。仕切りに話しかけてみたものの、まるで相手にされず無視されること半刻。そもそも猫へ大真面目に話しかけること自体、どうかしているとメリーから指摘されたのが数分前。自分としては言いたいこともあるのだが、結局は諦めて荷支度を続けることになったのだ。別に、この黒猫が化け猫だと自分が指摘したとして何か状況が変わるものでもないだろう。

 

 

「そろそろかしら、蓮子?」

「うん、約束の時間はもうすぐそこよ。何とか間に合ったみたいで良かったわ。ポラリスは私たちの世界と変わらずに、ならば他の星との位置取りも大きく変わらない」

 

 

 星空を見上げる双眸(そうぼう)の輝き。

 自らの頭脳を量子論の父、プランク並だと例える少女。宇佐見蓮子にとっては星空そのものが時計盤となる。星の位置関係から導き出される時刻は外れたことがなく、恐ろしいほどに正確だ。幻想郷の住人でさえ、星空から時計と寸分変わらぬ時刻を推定できる者など殆どいない。下手をしなくとも、天文学者顔負けの星読みをやってのける蓮子に敵う者は過去にも未来にもいないだろう。

 

 

「ーーーもう、幻想郷を立つ準備は済んだのか?」

 

 

 覚えのない声が鼓膜を震わせたのは、蓮子の瞳が北極星(ポラリス)を捉えていた時だ。縁側に揺らめく影は、さっきまで座り込んでいた黒猫のモノでは無くなっていた。明らかに人を形どった影法師が怪しげに二人の足元まで延びている。不意を突かれ、二人は慌てて視線を向けた。

 

 

「ああ、すまない。単なる人間と話をするのは久しぶりでな。わざと気配を流しておくのを忘れていた、驚かせてしまったことは謝罪しよう」

「「ーーーーッ!?」」

 

 

 その瞬間、心臓が凍りつくような感覚があった。磨き抜かれたナイフよりも鋭い輝きを秘めた金の瞳、それに見つめられるだけで身体が言うことを聞かない。妖術を受けたわけではない、それは素人である蓮子にも分かっていた。それなのに眼球から指先の動きに至るまで、目の前の女性から目を離せないのだ。ただ『在る』だけで、人間を釘付けにしてしまうチカラ、それは古くより『魔性』と呼ばれる。

 そんな二人を観察しながら、金髪金目の女性が怪しげに笑った。

 

 

「私の名は八雲藍、お前たちにとっては単なる水先案内人だ。覚えてもらう必要はないのだが、一応は礼儀として名乗っておこう」

 

 

 月光を遮る九つの尻尾。

 丁寧に整えられた毛並みの一本一本が、光沢を持って輝いている。そして藍色をした導師服は大陸を思わせる意匠に彩られ、自らの出自を強調しているようだった。怪異について欠片でも学んだことのある者ならば、誰もが知っているであろう大妖怪がそこにいる。

 正確な種族の分からぬルーミアや紫、そして翼を見せることのなかった天魔と刑香。あの四人とは違い、蓮子とメリーにとって初めて出会う『判別できる妖怪』だった。

 

 

「‥‥‥八雲さ、ん。貴女が私とメリーを幻想郷に招き入れた犯人なの?」

「すまないが、私のことは『藍』か『八雲の式』と呼んでほしい。その名を貰ってから久しいものの、やはり未熟者ゆえ家名だと気後れするのでな」

「じゃあ、藍さんで」

「いいだろう、先程の質問に答えるとするなら答えは否だ。今回の顛末を語るべき黒幕はそもそも幻想郷にはいない」

 

 

 藍と名乗った伝説の九つ尾。

 妖怪の中でも群を抜いた知名度を誇り、数々の国を傾けたとされる大妖怪である。自分のような小娘が気安く話しかけたなら、たちまち石にでも変えられそうだと思ったのだが杞憂だったらしい。ほっと心の中で蓮子は胸を撫で下ろす。

 そんな少女の心中を知ってか知らずか、八雲藍は視線を足元の黒猫へと移していた。そして扱いなれたように黒猫を抱き上げてから、今度はメリーへと金色の瞳を向ける。ゆらゆらと月のような光が揺らめく眼差し、何かを測られているような気がしてメリーが不安そうに口を開く。

 

 

「えっと、何でしょう?」

「いや、お前がある御方と少しだけ似ていた気がしてな。それだけで他意はない、気にしないでくれると助かる」

「私と似ている妖怪がいるんですか‥‥?」

「あっ、見て見て、メリー!」

 

 

 妖怪の知り合いと似ているというのは、なかなかに珍しい経験かもしれない。詳しく尋ねたいとも思ったが、それは隣にいた友人によって阻まれる。藍の存在感のせいか、今まで気づけなかった空模様。流星二つだけだった夜のキャンバスが、いつの間にやら幾多もの星々に彩られる星空に変わっていたのだ。ささやかなプラネタリウムが上映されているかのように、星の海が暗い世界に波打っている。

 その光景に、メリーの心臓が一際大きく跳ねた。

 

 

「これは凄いわね」

「ーーー綺麗、この時から『私』はこんな世界を求めて、ずっとずっと‥‥‥‥ずっと、何だっけ?」

「感動のあまり独り言かしら、マエリベリー先生?」

「そう、そうかもしれないわ。独り言のようで『二人』いるかもしれないけれど、ともかく私の言葉なのは変わらないわ」

「‥‥‥どういうこと?」

 

 

 一瞬、レンズを通したかのように目の前の世界が遠ざかった。目眩(めまい)を起こしたのとは違う、まるで自分とは別の誰かの視点に立ったかのよう。幻想郷に来てからというもの、定期的に同じような感覚に襲われている。ぼんやりと蓮子を見つめる紫色の虹彩には時折、深い湖のごとき影が見え隠れしていた。

 

 この世界を、まるで『水槽』のようだとメリーは思う。

 

 闇に弾けては消える光の粒子は水中の泡沫、それを放つ妖怪や妖精たちは美しい魚たち、そして幻想郷を閉ざす大結界はガラス板のよう。いつかの水族館で絶滅した生き物たちを見た、外から隔絶された空間を眺めた、それを美しいと感じたのと同じ感覚なのだ。

 そして気づいてしまったのだ。マエリベリー・ハーンにとって、この幻想郷は『あの水族館』で思い描いていたとおりの楽園であること。もしこの世界を創った者がいるのなら、その者はメリーと全く同じ視点を持っているであろうこと。

 それは、つまりーーー。

 

 

「時間だ、向こうの世界へと繋がるスキマを解錠しよう」

 

 

 ザラついた空気が捲き取られる。

 楕円をなぞるように青白い炎が燃え上がり、焼き切れた虚空の向こうに現れたのは紫に染まった異空間。見開かれた目玉が浮かび上がり、不気味な雰囲気漂わせた『スキマ』があった。

 そして微かに鼻をついて来たのは、自然に囲まれた幻想郷とは異なる空気の匂い。隠しようもない科学の足跡と爪痕の刻まれた懐かしき世界の気配だった。これを潜れば帰れるのは何となく理解できる、しかし蓮子は首を傾げざるを得ない。

 

 

「でもさ、向こうに帰るのは難しいだろうって話だったわよ。メリーの出会ったっていうお爺さんとお孫さんの二人組が間違ってたってことかしら?」

「ああ、一人は天魔殿と刑香に会っていたのだったな。あの御仁から『お主らが来た時代が分からぬから帰せない』とでも言われたか?」

「メリーだけじゃないわ。私の方は紫って人から『私の能力では戻せない』って話をされたわよ」

「くく‥‥‥なるほどな」

 

 

 ゆったりとした袖で口元を隠す藍。

 それは人間の小娘に感心しているようも、嘲笑っているようにも見える仕草だった。メリーと蓮子は自分たちの出会った八雲紫と天魔が、目の前の九尾より強大な妖怪だと知っていたわけではない。しかし、無意識にあの二人が幻想郷でも屈指の実力者であることは見通していた。故に億せず会話をすることができていた。

 

 

「紫様は『自分』では戻せないが、『向こう』から呼び戻せないとは言っていないだろう?」

「ああ、そういうこと。随分と回りくどいというか、物事の裏側に手を回すのが得意そうな人よね」

「狐の私が言うのも妙な話だが、あの御仁は狸の類いなのでな。言葉を交わすなら、その裏側まで目を通してみなければ化かされる。さあ、一つ目の疑問が氷解したところでコレは返しておこう」

「ーーーこれ、私の時計じゃないの!」

 

 

 手渡された銀の懐中時計。

 冷たい感触は変わらず、カチコチと時を刻んでいる秒針が鈍い輝きを放っていた。昔、いつの間にか迷い込んだ古道具屋にて購入したアンティークである。実用性はともかくとして、変な愛着が出てしまって使い続けている品だ。電波という概念のない幻想郷に来てからはアナログで重宝していたのだが、スキマに飛び込んだ拍子に失くしたはずだった。まじまじと自分の時計を見つめる蓮子に藍は告げる。

 

 

「それが二つ目の答えだ。恐らくはかつて『時間に干渉する能力』を持つ者が身に着けていたモノだろう。お前たちのいた時間軸を記録しているはずだ」

「スキマってやつに飛び込んだ時、完璧に失くしたと思ってたわ。へぇ、コレが鍵だったんだ?」

「どうやってお前たちの世界に、それが流れ着いたのかは知らない。だが、いつか夢で出逢うことがあるのなら元の主に礼の一つでもしてやれば喜ぶだろう」

 

 

 魔除けの象徴たる銀製の時計。

 古くより怪物退治や悪霊払いに効果があると信仰されてきた金属であり、吸血鬼に致命傷を与えることができるのは有名な話だろう。一方で黄金が太陽を象徴されるのと同じように、銀は月に深い関わりを持っている。そんなこんなで吸血鬼とは、避けられつつ求められる複雑な相性だったりもする。もしかしたら、かつての所持主はヴァンパイアと因縁のある人物であったのかもしれない。

 その真偽を確かめる時間がないのは、蓮子にとって極めて残念な事実である。スキマは完全に開いてしまい、元いた世界へと自分たちを誘っていた。覚悟して一歩踏み出すと、自分たちを囲むようにして足元から霧が立ち上る。上下が喪失していく感覚と、遅れてやってくる浮遊感は幻想郷に来た時と同じものだ。

 

 

「れ、蓮子、ちょっと抱きついてもいい?」

「いいわよ。あーあ、私たちの訪問録はもう終わりってわけかぁ。死ぬかと思ったこともあったけど、全体的には悪くなかったかしらね?」

「‥‥‥うん、私は楽しかったと思ってるわ」

 

 

 ぎゅっと掴んできたメリーの腕。

 こうしているだけなのに、とても頼もしく感じるのは何故だろうと思う。八雲藍に対しても物怖じすることなく、スキマに呑み込まれそうになっている今も震えないでいられている。耳元に甘い吐息が被さったのは、そんな時だった。口づけを落とすように妖艶な言霊が蓮子の鼓膜だけを震わせる。

 

 

「ーーーいつの日にか、マエリベリー・ハーンには例えようもないほど巨大な困難が立ちはだかるでしょう。そして宇佐見蓮子、貴女は北極星を見失わぬ者だ。願わくば、彼女にとっての羅針盤であることを」

 

 

 はっとして顔を上げる。

 もう幻想郷との繋がりは希薄になりつつあった。夢から覚める直前のように、辺りは真っ白な光に包まれている。隣にいるはずのメリーから離れないために、ますます強く腕を掴むので精一杯だ。それでも、やっとのことで目を凝らしてやると、藍が微笑みながら頭を垂れる光景が見えた気がした。大妖怪が人間ごときに敬意を示す、そんな信じられない光景が見えたような気がしたのだ。

 

 

「ですが決して挫けぬよう。さすれば放浪の果てに、必ずや理想へと辿り着けるはずです。またお会いしましょう、我が‥‥‥じ」

 

 

 夢はここで終わり。

 秘封を暴く二人組の物語は、一つの結末を迎える。結界の境目である博麗神社、そして旧き神々の眠る仏閣を渡すスキマが帰り道。行きはよいよい、帰りは怖いと童謡は語る。しかし導くのがスキマ妖怪の式ならば、天神さまの道とて恐れる必要はない。

 八雲紫と白桃橋刑香、二人の妖怪を救うために送り込まれた少女たち。御役目は来た瞬間には満たされており、そのあとの一ヶ月は報酬のようなもの。願わくば、穏やかな日々が少しでも長く二人に続くことを。

 

 それが決して果たされぬ祈りであることを知ってながら、二人の姿が消えるまで八雲藍は願い続けていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 朝焼けの広がる幻想郷。

 月は地平へと追いやられ、水に溶ける砂糖のように太陽が空をオレンジ色に染めていく頃。この世界を一望することのできる神社に、二つの影が降り立っていた。小さな花が散り、黄色い風が吹き抜けてゆく石畳。人里から隔てられた場所に位置する博麗神社の境内は、朝の陽射しを余すことなく受けて輝いていた。

 

 

「結局、朝までかかっちゃったわ。途中から魔理沙まで乱入してきてメチャクチャにされるし」

「悪い悪い、あんなに派手なことされたら黙って見てられなかったんだ。怒るなって、お詫びに朝飯作ってやるからさ」

「それだと食材は私持ちなんじゃないのよ。今日は当てがあるからいいけど、普段は遠慮しなさいよね」

 

 

 若干警戒しながら友人を睨む紅白巫女。

 これまでも同じ手を使われて、勝手に野菜やら米やらを二人分消費する破目になったのは一度や二度ではないのだ。じとりとした視線をぶつける霊夢だが、魔理沙は気にした様子もない。

 

 

「まあまあ、一緒に戦った仲だろ。結果的には勝てなかったわけだけど、二人がかりで善戦したじゃないか」

「途中から『観ているだけでは退屈なので』とかいって、黒い方も参戦してきて見事に逆転されたけどね。私一人なら勝ってたかもしれないのに」

「う‥‥‥‥それは私のせいじゃないと思うんだが」

「あーあ、代わりにアンタを三日間通してお説教してやろうかしら。まったくもう、おかげで計画が狂っちゃったじゃない」

 

 

 早朝の大気が眩しい。

 白砂を撒いたような空はとても爽やかだった。何かが始まりそうな気配の漂う朝ぼらけ。胸いっぱいに吸い込んだ空気は少しだけ冷たくて、顔を洗った時のように眠気を払ってくれる。

 そのまま深呼吸をしていると、神社から人の気配がしないことに霊夢は気づく。この一ヶ月ほど、早朝から起き出しては神社の物置やらを漁っていた二人組。たまに自分や魔理沙に運ばれて、人里に降りて散策することもあった。しかし、そのまま里で宿泊することはなかったし、夜中から日の出にかけては境内にいるはずだ。 

 

 

「そ、それにしても私のスペルカードもなかなかだったろ。こんなこともあろうかと、前から準備しておいたんだぜ?」

「はいはい、星型の弾幕がとっても可愛かったわよ。意外と乙女な魔法使いよね、アンタは」

「お、乙女って‥‥‥‥悪い気はしないけど、そこは禍々しいとか美しいとかだな」

 

 

 きっと無事に帰れたのだろう。

 祭りの日にひっそりと立ち去るなんて、洒落た旅立ちをしてくれたものである。春風に掃かれた石畳を踏みしめて、少しだけ歩みを早めてで自室へと向かう。その間も昨夜の興奮冷めやまぬ魔理沙が話しかけてきたが、あまり耳に入ってはこない。そして辿り着いた自室の前、呼吸を整えてから襖に手をかけた。

 

 

「なぁ、聞いてるのかよ。さっきから反応が薄いぜ、霊夢?」

「ちょっと考え事をしてたのよ。それも今、終わったけどね」

 

 

 きちんと畳まれた三人分の布団。

 怪しげなカラクリや二人が人里で買い集めていた物はどこにもなく、塵一つなく掃除された部屋がそこにあった。開かれた襖から射し込む朝の光が、誰もいない空間を虚しく照らしている。いつかこんな日が来るのは分かっていたし、それが遠くないことも理解していた。別に悲しさを感じるようなこともない、ほんの少しだけ寂しいだけだ。

 

 

「‥‥‥‥‥何だ、メリーと蓮子は帰ったのか」

「ん、そうみたいね。宿代でも置いていってくれれば御の字だったんだけど、どうやら無いみたい」

「書き置きっぽいヤツなら、ちゃぶ台の上にあるぜ?」

 

 

 白黒の魔法使いが指差した先。

 見つけて欲しいと言わんばかりに、真っ白な手紙が陽射しに当てられて輝いている。ご丁寧に『霊夢ちゃんへ』と小さな子供に向けたような字で書かれていた。幻想郷では存在しないくらい上質な紙に、毛筆では不可能であろう細かな文字。表紙はともかくとして、それ以外は外来人らしさが滲み出ていた。そういえば、この一ヶ月ずっと子供扱いしてきたなと今更ながらに思い出してしまう。

 本当に変な二人組だったと、霊夢は苦笑しつつ手紙をタンスへと仕舞いこんだ。

 

 

「何だ、読まないのか?」

「今日は止めとくわ。色々なことがあったし、もう少し落ち着いてから目を通すことにする。全部が全部、まとめて受け入れられるほど私も出来ちゃいないのよ」

「ふーん、流石のお前も疲れたみたいだな。それなら今日はゆっくり休むとしようぜ、『アイツ』もそろそろ来るだろうし‥‥‥‥‥おっと、噂をすればだな」

 

 

 咲き始めた桜の花が揺れる。

 わずかに散った花弁を巻き込んで、吹くは春風の調べ。暖色をした草花が笑うようにして、新葉を鳴らしている。その中に紛れ、一際高く響いた下駄の音が新たな来訪者の訪れを告げていた。

 太陽を背にして、延びる延びる黒い影。人の形を保ちながらも明らかに異なる一対の翼が作り出す輪郭が、振り向かずとも誰が訪れたのかを教えてくれる。わざわざ背後を確認することはしなかった。もう少し、もう少しで、待ち望んでいた声が聞こえてくるはずだと霊夢は心を弾ませる。そして、ゆっくりと近づいてきた影の主は言葉を紡ぎ出した。

 

 

「やっぱり見事なモノね。妖怪の山よりも、幻想郷の何処よりもこの神社の桜が美しいと思うもの」

「‥‥‥‥‥ふふん、花が咲くのに間に合って良かったわね。誰よりも早くお花見が出来るじゃない」

「そうね。そのための食材も持ってきたことだし、さっそく準備を始めましょうか。手伝ってくれるなら嬉しいかな、霊夢」

「うん、分かってる」

 

 

 舞うは真っ白な羽根と花びら。

 それらが石畳を飛び越して、芽吹いた草花のひょっこり顔を出す砂利の上に転がっていく。春一番はすでに遠く、梅の季節も過ぎ去って、桜の蕾が花開く時期がやってきた。この神社は正式に霊夢のモノとなり、スペルカードルールは施行されている。色々なことが目まぐるしく動いた一ヶ月だった。

 それでも、白桃橋刑香は何一つ変わらぬ姿でそこにいる。

 

 

「採れたての山菜に果物、あとは干した茸と川魚。天狗(うち)の集落で買い込んだモノだけど、別に妖気は宿ってないから安心していいわ」

「へぇ、天狗産の食材なんて珍しくていいじゃないか。それじゃあ、私は炬燵(こたつ)を温めておくから二人で仲良く料理してていいぜ」

「サボる気まんまんじゃない。朝ごはん作ってくれる約束は何処いったのよ、魔理沙」

「私はお前や刑香と違って、普通の可愛い人間だからな。徹夜しちまったら、早急に眠って体力回復に努める必要があるんだぜ。な、刑香?」

「ん、それなら霊夢も魔理沙も一緒に休んでていいわよ。台所だけ貸してくれたら、私がやっておくわ」

 

 

 籠から溢れんばかりの食材たち。

 それを抱えながら、白い鴉天狗は慣れた様子で台所へと向かっていく。手伝おうとした霊夢だったが、刑香がそっと微笑んで「大丈夫」と言ったので後ろ姿を見送ることになった。早くも炬燵に火を入れて、くったりと脱力している魔理沙を横目にしつつ自分も座ることにする。

 炬燵布団から伝わってくる熱が心地よく、夜通しで空を飛んだせいで冷えた身体がじんわりと温めまっていく。

 

 

「‥‥‥‥‥‥はぁー、ようやく一件落着、初めて落ち着けた気がするわ」

「紫もそのうち顔を出すだろうし、これで全部元通りってところだな」

「ううん、元通りにはならないわよ。私は正式な巫女になったし、刑香は大天狗になった、アンタだって独り立ちしたんでしょ。同じように見えて、私たちはみんな少しだけ変わったわ」

「それはそれは、これからが楽しみじゃないか」

 

 

 やっぱり手伝おうと立ち上がる霊夢。

 そんな自分のことを見送りつつ、魔理沙はうつ伏せで眠り始めていた。とりあえず放っておこうと、役立たずの友人は視界の外へと追い出しておく。そして足音を忍ばせて、気づかないフリをしていた刑香へと後ろから抱きついた。

 

 

「危ないから、そういうのは料理中は止めてくれると助かるわ」

「それじゃ、後でもう一回やることにするわ」

「ん、別に構わないけど翼はお手柔らかにね」

 

 

 この変化はきっと、いつの日にか更に大きな変化へと結びつくのだろう。少なくとも自分たちは一歩を踏み出したのだ、この先の地面が同じである保証がどこにある。されど、そんな当人たちにとっての大事件など我知らずとばかりに季節は巡っていく。水凍る冬は暦の裏側へと隠れ、うららかな風で袖口を暖めてくれる春がどこまでも幻想郷を覆っている。

 今はこの平穏を抱きしめていよう、そう思いながら霊夢は白い鴉天狗の翼へと顔を(うず)めていた。

 

 


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