その鴉天狗は白かった   作:ドスみかん

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そろそろ原作時間の物語へと移る予定です。


第六十九話︰凱風快晴の瞳にて

 

 

ーーーこの手は、穏やかな日常に届いたのだろうか。

 

 

 朝が影も形もなくなった頃合いのこと。

 薄い桃色をした雲は空高く、暖められた空気が流れる牛の刻。桜の木がそよ風に吹かれ、枝々のスキマから揺れていたのは黄金(こがね)色をした太陽。サワサワと音を鳴らす葉を鮮やかな黄緑色をしたメジロが行き来しては、耳障りの良い(さえず)りを落としていく昼下がり。開け放たれた障子から見える空は、湖のように爽やかな青色がどこまでも広がっている。空から大地に至るまで陽だまりに包まれた幻想郷の春がそこにはあった。

 そんな中で、紅白の少女は目を覚ます。

 

 

「ん、ふぁぁ…………我ながらよく寝たわね」

 

 

 黒髪を揺らす風をくすぐったく思いつつ、ゆっくりと布団の中で目を開けた霊夢。もう睡眠は十分なはずだが、寝すぎてしまったのか身体の動きが鈍い。欠伸をするのも億劫で、ぼんやりと壁を見つめているだけで時間が過ぎ去っていきそうだった。赤みがかった黒い瞳は目一杯の眠気を揺蕩えていて、心地よい布団の温もりに抗うことは出来そうもない。もう少しだけ、もう少しだけと寝具に首まで潜り込む。そのまま目を閉じてしまっても良かったのだが、少し確かめておきたいこともある。せめてもの抵抗として、もぞもぞと脚を動かしてから頭だけを隣の布団に向けた。

 

 

「‥‥‥‥よし、やっぱり夢じゃない」

 

 

 そこには静かな寝息を立てる天狗少女の姿。

 昨日の再会が幻想でなかったことに、霊夢は静かな安堵を滲ませる。弾幕ごっこでは負けてしまったが、刑香を連れ戻す目的は無事に達成できた。色素の感じられない髪は出会った頃のままで、障子のスキマから射し込む光を受けて淡い輝きを放っている。夏空を映し込んだ碧眼は閉じられており、安らかな寝息が聴こえてきていた。昨日の弾幕ごっこで妖力を少なからず消耗したのだろう、まったく寝覚める様子はない。

 

 

 なので、こっそりと布団に潜り込むのは簡単だった。

 

 

 紫と藍にはやったことがあるものの、それ以外の相手にしたのは初めてだ。もぞもぞと刑香の隣へと忍び寄り、大胆にも向かい合うようにして横になる。チラリと顔を上げると、涼やかな刑香の寝顔がそこにはあった。考えてみれば翼を触るために背中から抱きつくことが多かったので、自分たちが正面から引っ付くのは珍しい。天狗少女の体温が布越しに共に伝わってくると、霊夢は安心して溜息をつく。

 やっぱり夢じゃない、そんな当たり前の言葉を胸のうちで繰り返してしまう。誰かに目撃でもされれば赤面ものの行動だが、不思議とそれでもいいと思えてくる。だからだろう、ぼんやりと空色の瞳が開かれたことに気づくのが遅れてしまった。

 

 

「………何してるのよ、霊夢?」

「け、刑香!? えっと、その……お手洗いに行ってたら、その間に布団が冷えちゃったの。だから刑香の布団にしばらくお邪魔しようかなって」

「それは別にいいんだけど、二人が入るには少し狭いわよ。私があっちのを使うから、こっちは霊夢がこのまま使いなさいな。それなら寒くないでしょ?」

「ち、ちょっと待った!?」

 

 

 咄嗟に白い少女を引き止める。

 このまま移動されれば、今の言葉が嘘だったとバレてしまう。今の今まで自分が入っていたのだから布団が冷たくなっているわけがないのである。それに今はこのままでいたい、あのピクニックの日に抱えられて空を飛んだ時のことを思い出せるから。

 しかし、それをそのまま伝えるのは何というか、そこそこの勇気がいることだったらしい。口元を強く結んだまま、じっと空色の瞳を見つめ続けるしかできない。刑香が全てを察して口を開いたのは、それからたっぷりと十数秒後のことであった。

 

 

 

「‥‥‥‥‥少し狭いだろうけど、詰めれば何とかなるでしょ。霊夢がそうしたいなら私は構わないわ」

「うん、ありがと!」

 

 

 ぽふんと枕に頭を戻す鴉天狗。

 本当は刑香が『誰かに触れられること』を不得手としているのを霊夢は知っている。幼い頃に受けた傷なのか、それとも別の原因があるのかは分からない。きっと尋ねたとしても誤魔化されるのだろうし、きっと刑香も自分に知られたいとは思っていない。何も言わず、さらさらと頭に触れてくれる手が心地良かった。やがて夕闇が迫ってくるだろうが、今日は境内の掃除もしていない。刑香にしても、任じられたばかりの大天狗のお役目はどうなったのだろう。

 

 

「‥‥‥‥どうか良い夢を、博麗の巫女さま」

 

 

 その言葉に安心して瞳を閉じる。

 先代の巫女から見れば信じられない光景であっただろう。誑かしたわけでもなく、誑かされたわけでもない。それなのに妖怪と人が一緒になって同じ布団で眠っているなどーーーきっと、お伽噺ほどにも信じられなかったに違いない。

 そんな光景が日常となっていく、この神社と霊夢を中心として描かれる物語はすぐそこまで迫ってきていた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 宵の月が近く、昼の日差しは遠くなる逢魔が時。

 葡萄のような色をした夕暮れが空を染め上げ、障子越しに射し込んでくる光は芳(かぐわ)しい夜の香りに満ちていた。花火を打ち上げたかのように華々しいスペルカードの決闘から、あと数刻もすれば丸一日経ったことになる。結局は勝敗がつかなかった文との弾幕ごっこと、何とか勝利を収めた霊夢との弾幕ごっこ。それは誇りと技量を惜しみなく出し合った決闘もどき。瞼を閉じれば光舞う光景が蘇り、身体を掠めるスペルに胸の奥がそっと熱くなる。

 正直なところ、己にはあまり有利なルールではないというのは理解した。『死を遠ざける程度の能力』は致命となる攻撃でしか発動せず、妖力に恵まれていない自分では多くの弾幕を放つこともできない。攻守ともに今までの戦闘経験が活かしにくく、次に霊夢と戦っても勝てないだろう。だが「それも悪くない」と、空色の瞳は隣で眠りこける幼子を見守っていた。

 

 

「本音を言うとね、再会するのはもう少しだけ先にするつもりだったのよ。私が大天狗としての務めを果たせるようになったら、大手を振って会いに行くつもりだったから。それなのに‥‥‥まさか霊夢の方から飛び込んでくるなんて思わなかったわ」

 

 

 緩んだ口元で眠っている黒髪の巫女。

 こちらの胸に顔を埋めるようにして、すうすうと寝息を立てていた。ぴったりと離れないようにしている姿は、巣立ち前の雛鳥を連想させる。とはいえ、もう霊夢はそこらの妖怪では太刀打ちできぬ程度には強い。精神とて幼い子供とは思えぬほどに成長しているし、そもそも初めから独りで生きていける程度には気丈だったと思う。だから『このように振る舞っている』のは、純粋に甘えているだけなのだろう。

 

 

「‥‥‥‥‥心を許してくれるのは嬉しいのだけど、流石にちょっとむず痒い距離感ね」

 

 

 ほんの少しだけ身体を動かそうかと思ったが、起こしてしまいそうなので止めておく。かつての己が今の光景を見たら何を思うだろうかと苦笑してしまいそうだった。こうしていることを欠片も不快とは思わないし、むしろ不思議な心地よさはある。しかし、情けないことに落ち着いて睡魔に身を任せることは出来なさそうだ。

 

 

「‥‥‥‥‥むにゃ」

「それにしても‥‥‥‥妖怪のために飛んでくる巫女なんて、前代未聞よね。まあ、私も変わり者には違いないのだけれどアンタはそれ以上だと思うわよ?」

 

 

 ささやくように語りかける。

 聴かせるつもりはない、故にこれはただの独り言だ。誰に届くこともなく空気へと溶けていく音の波。宵闇に覆われて光が失われていく境内にあって、妖怪と人間の少女たちが静かに身を寄せ合う。夏でないため虫たちの声は聞こえず、秋ではない故にススキ穂の波打つ音も聴こえない。冬の残り香を運ぶ風と春の月光だけが、たまに木々を揺らす青い夜が横たわっている。

 

 

「昨日の今日で静かなものね。あれだけ騒いだのだから、今はどいつもこいつも身体を休めている頃合いかしら」

 

 

 霊夢の黒髪に手櫛を通していく。

 こうしていると、やはり自分は『黒』という色が好きなのだと改めて思う。もし己の翼が『白』ではなく、『黒』であったなら未来はどうなっていたのだろう。きっと鬼と二度も戦って死にかけることもなかっただろうし、この巫女と出会うこともなかったかもしれない。果たしてどちらが自分にとって良かったのだろうか。そんな考えが胸を掠めていったのを馬鹿馬鹿しいと一蹴する。きっとコレは天秤に掛けるようなことではないのだろう、至るべくして至った今に不満などあるはずもない。

 もぞもぞと霊夢が身じろぎしたので、「ごめんね」と小さく呟いてから刑香は黒髪から手を引くことにした。

 

 

「さて、そろそろ夕食の準備くらいはしておきたいのだけど‥‥‥」

 

 

 すっかり日が傾いてから暫く経った。

 月はすでに燦然と空で輝いており、夜空から降る光が障子の張り紙から透けている。朝から眠っていたので二人揃って昼も食べていないのだ、夕餉はそれなりのものを用意しておいた方が望ましいだろう。そう思ってはいるのだが、ぴったりと霊夢が引っ付いているので動けそうもない。目を覚ましてからいつかのピクニックのように、簡単なおにぎりでも握るのがいいかもしれない。

 

 

「あの時は何を作ってたかな。野菜の炒めものや漬物あたりを詰めてたような‥‥‥…ん、流石に冷えてきたか」

 

 

 首元にもたれかかってくる空気が冷たかった。

 眠ったままの霊夢が小さく身体を震わせる、外からのスキマ風が部屋の気温を下げているのだ。二人分の体温で暖められた寝具といえど万全とはいいがたい、そもそも刑香の体温は人間よりも若干低いのだから尚更だ。風邪を引くことはないだろうが、あまり寝心地は良くないだろう。

 夕食のこともあるので霊夢を起こしてしまうのも選択肢の一つではあったのだが、随分と心地よさそうにしているので躊躇してしまう。少し考えてから、刑香は『そのチカラ』を使うことにした。

 部屋の隅におかれた火鉢がパチリと小気味良い音を立てたのは、それから数秒後のこと。

 

 

「オン・ガルダヤ・ソワカ。こんな使い方をしたなんて知られたら、お祖父様に何て言われることやら……こればっかりは反省しないけどね」

 

 

 そこに灯っていたのは黄金の焔。

 蝋燭の灯よりも小さな輝きが、小さく小さく灰の中で息づいていた。火鉢の中に炭はなく、火種となる木片すら無い。それでも導かれるように焔はゆったりとした歩みで白い灰を取り込みながら、その身を大きく成長させていく。しばらくすると鋳造したばかりの小判のような輝きを放つ焔が部屋を暖かな熱で覆っていた。

 

 天魔から受け継ぎ、刑香が大天狗となる決め手となった『迦楼羅焔』。本来ならば邪なる者を焼き祓い、竜すら喰らう神炎である。元が仏神の持ち物だけあって、使用者に十分な妖力があれば他の神霊に対抗できるだけのチカラが宿るのだろう。そんなものを暖房代わりに使ったなど、山の天狗たちが知れば卒倒してしまうかもしれない。まあ、今は見られていないのだから構わないだろうと、段々と上がってきた室温を感じつつ白い少女は満足そうに頷いた。

 その時だった、部屋に射し込んでいた月の光に『人影』が浮かんだのは。

 

 

 

 

「ーーーその焔に、そんな使い方があるなんて驚いたわ」

 

 

 

 気品の込められた声が頭の芯に響く。

 見慣れた紫紺を思わせる装束も、怪しげな瞳の輝きも見えず。その輪郭だけが月に照らされ、障子越しに影となっている。遅れて伝わってくる『大妖怪』としての強大な妖力がその存在を主張していた。鼓膜を揺らしてくる音色から敵意は感じられないので、ここで一戦やらかすつもりはないようだ。立ち上がって縁側に出ようとも考えたが、ぎゅっと胸元の霊夢が抱きつく力を強めてきたので横になったまま口を開くことにする。

 

 

「ーーーあれから一ヶ月は経ってるわよ、随分と久しぶりじゃない。もう会いに来ないつもりかと思っていたんだから」

「誤解のないように言っておくけれど、意図的に避けていたわけではないわ。ただ、動けないだけの理由があったから来られなかった。それだけのことですわ」

「まあ、嫌われたわけじゃないなら安心したわ。お互いに傷を負ったし、傷つけられた。それなのに宴の一つもなくそれっきりなのだから、次に顔を合わせたらまた血みどろの決闘になるんじゃないかとヒヤヒヤしていたところよ」

 

 

 両者の間に剣呑な空気は微塵もなかった。

 式神にしようとした側と、されそうになった側。おまけに刑香は八雲紫にとって宿敵である天魔の身内で、紫は白桃橋刑香にとって両親の仇である。それでもお互いから敵意や悪意は欠片も感じられず、むしろ『あの夜』を迎える前より穏やかな気配を漂わせていた。そうして、純白の大天狗とスキマの賢者は壁一枚を隔てたまま言葉を交わす。

 

 

「随分と遅れましたが、まずは大天狗への就任を祝福しましょう。噂によると、私やレミリアのような外部の者との交渉役、そして人里の守護職を兼任することになったそうね?」

「そんな井戸端会議を聞いてきたみたいな口調で、こっちの機密を仕入れてくるんだから油断ならないわね‥‥‥‥まったくアンタは。既に知られてるみたいだから白状するけど、その言うとおりよ」

 

 

 大天狗としての刑香の御役目など、まだ文とはたてくらいしか知らないはずの情報である。それを当たり前のように語ってくるとは、コイツの情報網はどうなっているのか。刑香としては声を大にして問い詰めたいところだが、今更な気もするので自重する。

 

 

「妥当と言えば妥当でしょう。アナタは天狗社会の内実に詳しくないのだから、自ずとそういった役割を担うであろうことは予測済みでしたわ」

「天狗の中にはアンタやレミリア、慧音とまともに話が出来るヤツがいないのよ。そのせいで無用な対立を招いてしまうこともあったから、これからは私みたいな役割の天狗も必要らしいわ」

「あの老天狗にしては悪くない選択をしたものね。アナタが相手であるならば心を許す者や譲歩する者だっているでしょうから、きっと妖怪の山との対立は今よりも少なくなるでしょう」

 

 

 障子から漏れ出すスキマ風。

 それは春を迎えておきながら、取り残された雪のように冷たかった。外にいる紫に部屋へ入ってきて話せばいいのにと思わないわけではない。だが本人が何も言わないのなら、こちらから勧めるべきではないのだろう。まだ顔を合わせたくないからこそ、こうしているだろうから。やがて月が雲に隠れ、紫の影が闇へと消えていった。

 

 

「それでは、私はこれにてお暇しますわ」

「‥‥‥‥結局、アンタは自分の手を煩わせずに目的を達したということよね。スペルカードは幻想郷に普及し、私はアンタ達と妖怪の山を繋ぐパイプ役になる。これじゃあ、アンタの一人勝ちじゃない」

「うふふ、そのあたりは年季の違いと諦めなさいな。また近日中に会うのを楽しみにしているわ」

「ん、それじゃあね。また必ず会いましょう、紫」

「………怨敵を焼き祓うための焔を、誰かに暖を取らせるために使う。その在り方をゆめゆめ無くすことのないよう、貴女が貴女で在り続けることを願います」

「私はこんな鴉天狗だもの。これはきっと死ぬまで変わらないと思うから、安心しなさいな」

 

 

 それっきり会話は途切れた。

 気配はスルリと消え去り、雲が晴れた後もそこに人影は無くなっていた。もうスキマに入ったのだろう、相変わらず神出鬼没を絵に書いたような妖怪である。交わした言葉は決して多くはなかったが、次に会う時には以前と同じような関係へと近づいていることを期待するとしよう。万が一、戦うようなことがあったとしても先刻のとおりにスペルカードでの決闘になるので命のやり取りをする心配はないだろうが。

 そこまで思考を整理してから、刑香は意識を布団の中へと戻す。

 

 

「終わったわよ、霊夢」

「……うん」

 

 

 ずっと自分の寝間着を握っていた幼い少女。

 途中から起きていたのは気づいていたし、こちらに勘付かれていたことも分かっていたのだろう。声をかけると、ゆっくりと目尻の赤く染まった顔を見せてくれた。その様子からすると、やはり心配させてしまったようだ。火鉢に揺らめく鴉天狗の炎が反射して、巫女の潤んだ瞳を輝かせている。見られたくなかったのだろう、すぐに顔を布団で隠してしまったので刑香も視線をそらす。

 そして言葉を発することなく、霊夢を優しく抱きしめた。夕食はもう少し先でいいだろう、今はこうしている時間の方がきっと大切なのだと思いながら。

 これは代替わりを果たした博麗の巫女が初めて解決したとされる一連の出来事、主な舞台が妖怪の山であったことから『御山異変』と呼ばれることとなる。まるで山に光が反射するかのような一夜限りの弾幕ごっこは、新たな時代を映し出す鏡のようだったと人里では語り継がれることとなる。

 しかしその影に白い鴉天狗と紅白の巫女の絆があったことを知る者は、あまりにも少ない。

 

 

 

 これは、博麗霊夢の幼い頃にあったかもしれない物語。

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 




今回は挿し絵があります。
刑香(大天狗バージョン)

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