視覚障害者にとって、彼女はビジョンです。
お腹がすいた人にとって、彼女はシェフです。
のどが渇いた人にとって、彼女は水です。
カレンが考えるなら、私は同意します。
カレンがしゃべったら、聞いてる。
カレンに100万人のファンがいるとしたら、私もその1人です。
カレンに10人のファンがいるとしたら、私もその1人です。
カレンのファンが1人だけだとしたら、それは私です。
カレンにファンがいなくなったら、私は存在しません。
全世界がカレンに反対するなら、私は全世界に反対します。
カレンを最後の一息まで愛します。
これは、カレンチャンのウマスタで投稿された。親しい友達のみに閲覧できる投稿だが、それに登録されているアカウントは無く、これを見れるのは投稿者本人のカレンのみである。
『ヒラリヒラリと舞い遊ぶように 姿見せたアゲハ蝶 夏の夜の真ん中 月の下 喜びとしてのイエロー 憂いを帯びたブルーに 世の果てに似ている漆黒の羽』
例えば、万引きをした子供が、実は明日のご飯も保障されぬような苦しい生活を強いられているようであれば、ある程度の情状酌量がされる。不治の病に蝕まれる母親を、本人に懇願されて苦しみから解放した医者の息子は、殺人者ではあるが、同時に親孝行をする子どもでもあるのだ。
自分の非行を許す時も同様で、仕事に疲れた自分は、己の欲求を満たすため財布を軽くすることを厭わない。非難と同情を競合させて、その差の分だけ、許される。
しかし、この罪は、国家の法律による裁きでさえ、非難が先行することは分かりきっている。自分での裁きでも、なおさら私は私を許すことはできない。立場上で、倫理上で、人間関係上でも、その罪は決して犯してはならない罪だった。この最大の免罪符があったとしても。
震える手は携帯に伸びている。常夜灯の下で目に大量のブルーライトを浴びて、新たな相手を探すことが唯一の贖罪の方法となると確信した。いや、この罪を償うのは不可能だ。逃れる術でしかない。言葉にするのも憚られるような、忌避すべき罪。しかし、明確にしておかなければ、取り組むこともできない。
そう、私は、信じがたくもあるが、自分の感情の分類を、そこに置いてしまった。
つまり────端的に言えば、罪名は恋である。どうやら、私はカレンを愛してしまったらしい。
私は遊園地沿いにあるホテルの朝食会場にいた。ガラス張りのレストランは行き交う人が映り込み、会場がラッシュ・アワーの都心駅ぐらい混み合っているように見える。朝食のゆったりとしたイメージとは違って忙しなく、騒がしい。
『先日はありがとうございました!すっごく楽しかったです』
ハート入りの顔文字をやや含んだ文章を添えて、最初に''出会った''人と写る自分の写真。画面奥で力なく笑う私は、流されるままに辛すぎるラーメンと対峙していた。遠目でも愛想笑いの奥に苦悶の感情が読み取れる。このまま自然消滅を待つのが得策だ。その日を思い起こすと、イエスマンになるばかりの自分を恥ずかしく思うし、腹がキリキリ痛むような感覚も蘇ってきた。
返信をしようとキーボードをタップする。それとなく次を匂わせるのだが、具体的な日程などは書かない。かつ、相手に不快感を与えないよう────どうしてこんなにも面倒くさいことになってしまったんだろうか。お見合い制度が意味になって羨ましく思える。
「おにーちゃん♪」
声に反応して画面の外に目をやると、バイキングプレートを持ったカレンが笑いかける。プレートの区画一つ一つに違った料理を盛り付け、この朝ビュッフェを制覇したようだ。
「カレン?」
「あーっ、もう食べ終わっちゃったの?せっかくのバイキング……どうしたの?」
画面を隠すように携帯を立てる。これが己の不貞を隠す夫のようだと感じて、勝手に彼女を妻に仕立て上げた自分の妄想にまた不快感を覚えた。
「朝だからそんなに食べないだけだよ」
どうやら彼女の興味は腹八分目の私の胃袋より、焦る私の心臓に移り変わったらしい。じいっとこちらの携帯を見つめ、わざとらしく視線を私の背後に向け無興味を装っているようだ。
「あ……今日の投稿見たんだよ。ボクっこカレンチャン、でしょ?」
カレンの深い深い瞳が私の全身を捉えた。つま先から、頭のてっぺんどころか、頭の中の隅々で見透かされているようで、思わず唾を飲む。
「……なーんだ!何かやましいことでもしているのかと思ったけど」
「今日もカワイイよ」
「か」「わ」「い」「い」の形に口が変わるくらいたくさん放った言葉でいなす。
「ありがとう♪」
いつものニコニコカレンが帰ってくる。笑顔で細くなる目は未だ私を逃さない。君と目はしっかり合っている。しかし心は一方的に見透かされているようだ。もしも本当に心を読めてしまうのなら、いっそのこと私の罪を見て失望し、私を君の手で切り裂いて、悲しみの息の根を止めてくれ。
「それじゃ〜そんなお兄ちゃんにプレゼント!」
こちらの机にデザートのプレートが置かれる。種類が豊富なビュッフェから取ってきたはずなのに、一流のシェフが盛り付けたように、美しく整頓され、一つ一つが魅力的に映る。
「こんなに……」
「すっごい甘党なの、知ってるからね」
ガラス張りのお陰で自分の表情が分かった。反抗期の子供が嬉しいことがあって、無理矢理笑顔をかき消す時にする表情とよく似ていた。カレンはフォークでいちごごと突き刺した一口サイズのケーキを私の口に押し込んだ。私は黙ってそれを受け入れる。朝にちょうどいい、重すぎない、甘すぎないクリームが身体中を支配した。
「カレンも甘いのって好きだよ。辛いよりずっとカワイイから」
「そうだね、カワイイよ」
また簡単で甘い言葉を並べた。こんなことをしているから、教職者にも関わらず、彼女に恋をしてしまったのだろうか?恋とはなんだろうか。カレンぐらいの年の子は、好きな人と遊園地でデートをしたら、それ以上の恋の喜びはないと考えているだろう。私はホテルでの一泊を経て、軽々しくその行為をする。恋仲でもないカレンと。それとも、私たち大人の恋の目的はそんな浅瀬にないのか?考えたくもない。考えたら、最愛の人が選んだデザートを全て吐いてしまいそうになるから。思考を、今日一日だけでも止めよう。私は思考の切れ目に、このケーキがもっと甘かったらいいのに、と願った。
私は映画館にいた。一人ではない。女性といる。カレンとではない。スクリーンいっぱいに有名俳優女優の顔が映るシーンが多々ある恋愛映画で、有名な作曲家と有名な監督がついている。暗がりの中こっそり視線を隣にやる。アダチさんは同年代の総合電機メーカーに勤める社会人で、私と同じく人生の伴侶をデジタルの海に探し彷徨う旅人でもあるらしい。
『ねぇ、愛って何?』
男が女を壁に追いやり、手を女の後ろの壁に当てる。
『ダメ……』
『逃げんじゃねぇ』
いきなり二人の顔がクローズアップされて、男が小声で『恋にダメなんてねえよ』とか囁いて、キスをした。私には、この男優が
目の前のアイドル女優にかけらも興味がなさそうに見えた。アダチさんはハンカチで涙を拭う仕草をしている。
ラストシーンは二人がどこか華麗なところで主題歌をバックミュージックに手を取り合って踊ったり歌ったり駄弁ったりして、重要な役職とスポンサーのスタッフロールが流れ始めて、まもなく映画は終わりを迎えようとしていた。
男のセリフが頭の中で反響する。この映画の単調なクライマックスも相まって、その声が大きく、強く脳にこびりついて離れない。この映画はニュースや噂話でもよく聞くし、チケットを買うときに見た上映ホールの数から考えても、相当人を集めているのだろう。キャッチコピーに『日本中が、恋をして泣いた。』とか書いていたから、この映画の倫理観が日本人の一般的な感覚におおよそ即していると思っていい。この国の人々は、私の過ちに名を''恋''とつけてやれば、スクリーンの彼のように''ダメ''を許してくれるだろうか?少なくともスクリーンの彼は私を許して欲しいな、とだけ思っていたらいつのまにか照明がつき、スタッフロールまで残った客がゾロゾロと席をたっている。
私の恋の正体をその映画から見出そうとしていたが。
「いきましょうか、いい映画でしたね」
そう言いながらポップコーンのゴミをアダチさんの分まで持ち、先に立つ。
「そうですね。あの、よかったらすぐそこのカフェで感想でも話し合いませんか?」
私たちは劇場に隣接するカフェにいる。暗い場所からいきなり夕日が差し込むガラス張りの部屋に移動したから少し目が辛い。アダチさんはベレー帽を両手で掴み、振り、興奮した様子で感想を詳らかに話している。
「やっぱりタイスケくん演じる主人公がずっとかっこよくて、ちょっと映画館の柔らかい椅子で眠くなっちゃった時、そうその瞬間!────」
一つの懸念のせいか、感覚は研ぎ澄まされていた。嫌な話だけれど、私はアダチさんといる時でさえ、カレンのことを考えていた。そもそも私はカレンを騙してやってきてしまったのだ。
「お兄ちゃんと会える日、少ないでしょ?」
「トレーニングの日は毎日会えるよ」
不満を増幅させる彼女を見て、まずい、と思っていたのが1週間前くらいだろうか。放課後に真っ直ぐトレーナー室にやってきて、何かあったのかと心配したが……彼女はついさっきメールで送った予定表を指差して私を問いただす。
「じゃあ、この水曜と金曜と日曜の午後はフリーだから、デートしてくれるよね?」
「ううん、ナカジマ先生の病院に行く」
「ナカジマ先生?カレンはどこも悪くないけど」
「俺のかかりつけ医でもあるの」
少し怒りを収めた様子で髪を触る彼女に、自分の腹の底から期待していない汚れた欲が湧き上がって喉の奥が焼けるように痛むのを感じる。
「お兄ちゃん、どこか悪いの?」
形状し難く、受け入れ難い感情のカタルシス。湧き上がるものはついに決壊して、カレンはそれを忌み嫌うことなく、カレンの汚れなき両手で受け止める。君の心配そうな表情で起きる喜びが、さらに私の体調を悪くしてしまった。どうして、心配すらも素直に受け取れない身体になってしまったのだろう。
「大丈夫、大丈夫」
「うーん……」
何に怒っていたのかすっかり忘れてしまったかのように、上目遣いでこちらを見つめる彼女に目を奪われた。
「ね、この日曜のも病院なの?」
私は彼女に嘘をついていた。その日は本当に予定が空いている日であって、アダチさんとカレンが見たいと言う映画の公開日でもあるのだ。私は、アダチさんと見に行く。
強い罪悪感に苛まれるけど、これが嘘をついてしまったことによるものだったらよかったのに────
「そうなんだ」
「そう。じゃあ、気をつけて」
伏し目のカレンはいつもより小さく見える。いや、いつも彼女の人格や価値観、性格で大きく見える分が元に戻っているだけなのかもしれない。その姿が、まるで捨て猫のように苦しいほどの愛おしさを感じてしまって────
「それで、カレンチャンがすごいですよね」
「えっ?」
いきなり出てきた彼女の名前に思わず素っ頓狂な声が出てしまった。クスクス笑うアダチさんは続ける。
「だから、カレンチャンとタイスケくんの熱愛報道が出たじゃないで────」
「カレンはそんな!……すみません」
大きな声に驚いて目を丸くするアダチさんを見てハッとした。それでも彼女はまたしてもクスクス笑って「ガチ恋の人ですか〜?」と茶化してくれた。皮肉にも聞こえた。
「それで、タイスケくんの事務所が公表したんですよ。彼に女装の趣味があったって。まるで空と海が交わるようなありえない話だって思うでしょう?彼のヒミツの趣味を、アドバイスしたりメイクしたりしてたのが悪く切り抜かれたのがその報道────まあ、飛ばし記事ですけどねー」
「そ、そんなことが……」
「それってすごいことでしょ?だって、性別の違う、期待の俳優がヒミツを話してしまうなんて。カレンは人の心を奪うのがうまいんですよ。それにタイスケくんの女装がまた素晴らしくってカレンさまさまというか……」
「僕もカレンのこと、よく知ってますよ。ちょっと前にはボクっこカレンとか、最近はリテラリーカレンとかって」
会話が弾んできた。映画から離れてくれたのはありがたいし、カレンの話ならいくらでもできる。だって、一番近くで見てきたのは私なのだ。
「あ、じゃあ今の私、カレンのメイク意識してるんです。ちろっとカワイイでしょう?」
アダチさんはテーブルの上に置いた私の手に指を這わせ、またどこかで見たことあるような猿真似の上目遣いで私を見る。
「すっごく素敵ですよ。ね、トレーナーさん」
右肩に手を置かれ、聞きなれた声で耳慣れない呼ばれ方をする。振り返ると、カレンがにっこりとアダチさんに笑いかけていた。
「え……カレン?生カレン、カワイイ……いや、カワイイがすぎる……というか、えっ?トレーナーさんだったんですか?」
「いや、その……まあ」
両肩に両手を置かれて、俯いてテーブルのコーヒーを越しにカレンと目が合う。ブラックコーヒーより深く、底が見えない目だ。
「ね、映画見終わったんだよね?自主トレーニング行きましょう。トレーナーさん」
「えっあっ、そうですよね。ごめんなさい。トレーナーさんお借りしてしまって」
コーヒーを飲み終わる前に席を立たせられる。少しでも、このデートを成功を見出したと思ったら泡のように消えていった。カフェから出て、デパートから出て、カレンは手を引くばかりで無言。
ひとしきり歩いて、CDレンタルショップにたどり着いた。肌着が汗で張り付いて気持ちが悪い。時刻は5時を回り、太陽は地平線にふれかけて、帰り道を爆走する子供達と何度もすれ違う。無言だった彼女が振り返って、ほおを膨らませた。
「むー」
単に文句を言われると思ったけれど、意外にも最初の言葉は言葉ではなかった。
「カレン……」
「『嘘をついてごめんなさい』」
「嘘をついてごめんなさい……」
肌を焦がすような通行人にジロジロ視線。カレンは未だ怒りのほおをそのままに続けた。
「他には?」
他に?カレンに悪いことをしてしまったと認識するのは嘘をついてしまったことだけだ。
「『カレン以外の』〜?」
「カレン以外の」
もしかして、君は嫉妬してくれているのか。
「『女の人と』〜?」
やめてくれ、私は今思ってしまったことこそが苦しみなんだ。
「女の人と映画を見に行ってごめんなさい」
「まあヨシにしてあげる!」
デート、何て言葉を使ったら、口から罪悪感が溢れて溺れてしまいそうだ。彼女はCDショップの扉を押して、レンタル会員のカードを見せながら高らかに宣言した。
「お兄ちゃんには埋め合わせで、もちろん映画を一緒に見てもらいます」
「あ、だからCDショップに来たんだ。いいよ、どんなの見る?」
「見たい映画はね、ウマスタの映画マニアフォロワーさんに教えてもらった映画なんだ」
CDの棚に指差して一つ一つ確認して「あった」と声をあげて一つのパッケージを引き抜いた。
「この映画を一緒に見てもらいます。もちろん、お兄ちゃんの家で」
「いや、確かにトレーナー寮じゃないと個室にテレビはないけど……トレーナー室じゃダメ?」
「ダメー!パイプ椅子じゃゆったり見れない!ほらっ、早く借りて行こう」
カレンとずっと手を握っているのに気がついたは、帰路の河川敷で子供に「カップルだ!」と揶揄われた時で、カレンは少しも気にする様子もなく笑っていた。少しだけ寂しい気持ちになってしまった。
「映画、何見に行ってたの?」
「今日公開された話題のヤツ」
君と映画を見れて、少しワクワクしていたのに蒸し返された気分に勝手になってしまう。
「だから今日だったんだ。ナカジマ先生も見に行くって言ってたよ」
「そっか」
そっけなく返すと、カレンは歩みを止める。こちらの顔を暫時見つめると、いきなり携帯を取り出し、腕を組み、内カメラをこちらに向けて、太陽を背にシャッターを切った。
「ウマスタにあげるなら……」
「ううん、これはプライベートだよ。お兄ちゃんのナーバス姿、ゲットしちゃった」
顔色が悪いのが、逆光でもばれてしまったのだろうか。
「じゃあ、映画はお兄ちゃん以外の誰かと行くね」
浅瀬に浮かんでいた軽い赤い風船が、ぱっと割れて深い深い海峡に沈む。その言葉の裏に男、と見出してしまった自分が更に重く、重く罪の意識となってのしかかる。
昼間に流行りの映画を見たけれど、私の感情を強く揺さぶったのはこの映画だった。それこそ、いつもカレンのことを考えていたのをすっかり忘れてしまうほど夢中に。
「……ポストに鍵を入れておくの?」
「え?そうかな」
その映画はアメリカの恋愛映画。毎日違った同年代の人に意識が憑依するティーンエイジャーの霊が、ある日とある女の子に恋をしてしまう。相思相愛になった二人。霊は、たとえ女の子の所在より遠い人に憑依しても彼女に会いに行く。次第に体を重ねるようになった頃、霊はとても優秀な青年に取り憑いた。彼女はその体を気に入って、しばらくその体に憑いたままでいてと頼むが、霊はその青年の家族に迷惑をかけていることを辛く思い、彼女に別れを告げることを決意する。
この恋を確かな形にすることに障害がいくつもあった。例えば、彼女が子供を孕んだとして、その子供は誰の遺伝子を継いだものなのか?肌の色は?性格は?
一人親もわからない子供を抱いた彼女の家に、代わる代わるやってくる、彼が憑依した人を見て、周りの住民はなんと思うのか?
霊は、彼女の元を離れた。憑依していた、優秀な青年の心の隅に一握り恋を残して。ただひたすらに、彼女を愛していたからこそ、素晴らしい彼と結ばれるのを望んだのだ。
エンドロールが流れる頃には、自然と頬を涙が伝っていた。隣で肩に頭を寄せているカレンの表情はよく見えない。体にどっと疲れがきた。昼間の心労が今になってやってきたのだ。力が抜けて彼女の肩にもたれかかる。揶揄われるでもなく、彼女はただぼそっと、小さく言った。
「私の肩で羽を休めてね」
ただ、一つ優しく言ってくれただけなのに、全ての力が抜けて、ストン、と落ちた。この世界の憂鬱を消してくれるのは、カレンただ一人なような気がした。
その日、カレンと夢で会った。私たちは同じ布団の中で目覚める。
「おはよう」
私は声が出せず、彼女の手に手を重ねる。毛布に触れてくしゃくしゃになった銀色の髪が、朝日よりも眩しく、ありがたく感じて触れてみたくなる。
「きれいだね」
海月を紫色の光が通り抜けて煌めくのを、カレンは眺めてる。暗がりの中で、紫色のライトだけを頼りにカレンを見つめる。影がかかってカレンの透き通る肌が、どうにもあの海月見えて、それならカレンを眺める方が水族館に来た価値があるな、と思った。
「ありがとう」
もうカレンのことばかり見ていた。カレンと手を握り、ただひたすらに彼女に耳と目を集中させる。
「愛してる」
尿意で目覚めた頃は真夜中で、私の身体をベッドに置いて彼女は帰ってしまった。起き上がって冷蔵庫に向かう途中、部屋が綺麗になっていることに気がつく。食い散らかした菓子や飲料が綺麗に片付けられているだけでなく、シンクに山積みだった皿でさえ姿を消して、なんと鍵までしっかり閉まって去るほどのホスピタリティ。カレンに感謝しつつ横になると、寂しくなって携帯に手を伸ばすと、カレンの投稿を知らせる通知があった。
『旅人に尋ねてみた どこまで行くのかと いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど そう…じゃあ お気をつけてと見送ったのはずっと前で ここに未だ還らない 彼が僕自身だと気づいたのは 今更になってだった』
投稿日時は正午。タグ一つついていない、純粋な文の投稿。その意味を深考することなく再び眠ってしまうのは、彼女が帰った後も何もなく、少なくとも、正午までは無事生きていることに安心したからだった。
「おにーさん、結構持ってそうに見えるけど」
「いや、そうでも」
無駄に遮音性の高い個室は、居酒屋特有の騒がしさを失わせてしまう。その騒がしさと酒の勢いに頼りたかった水曜。間が悪くなって目を逸らしても、どうしても彼女の長い銀髪が視界に入り、つい視線をやると、今度は未開の部族を思わせるピアスが印象強く、青いマスカラがよく似合う冷ややかな目に囚われる。
「えー。最初っからプロフに『TUで直ぐ』って書いてんのにさ、わざわざご飯行くのってあんまないよ。20ぐらい?お医者さん?」
「うーん……教師?かな」
「……ふーん。ねー、やっぱり支援慣れてるの?おにーさん。連絡すぐきたからびっくりしたんだ」
「あのさ、ゴトウさんのこと、もっと聞いてもいいかな?」
あっけに取られたような表情をして、彼女が「スリーサイズとか?」と返してきたので慌てて否定する。
「例えば……す、好きな食べ物とか?」
またしばらくの沈黙を置いて、彼女はケラケラ笑い出した。私が少し困った様子でいたら、彼女はその表情を見てどんどん笑い声を大きくしていく。
「すごい面白い人。あーあ……なんかもういいや、今日はご飯目的って事でいい?って言ってもわかんないかな」
彼女は料理を少し残したまま、ブランドモノの鞄を翻して、流し目で手を振り立ち去った。
「また今度は、ちゃんとね」
隠された主語に、しっかり辿り着く前に別れを告げる。
「またね」
一人になった個室で野放図な彼女が残していった香水。何度も彼女の姿が脳裏に浮かんで、その姿に魅了されていることを自覚した。カレンの薫陶を受け私の真善美を持ってしても、その美しく魔力を持つ銀色が色濃く目に焼き付いてる。大きく息を吐いて「もうお腹いっぱいだよ」と独りごつ。
もう帰ろう。一人飲みは好みじゃない。最後に忘れ物がないか、座席の周囲、テーブルの下を確かめると、一枚領収書のようなものが落ちていた。確かめると、ゴトウさんの名前が書かれていて、病院の領収書かと思われる。保険書を忘れたのか、高額な金額を支払ったようだ。
これがゴトウさんのものだと考えると、少しだけドキッとした。それを持ち帰ろうとした自分がチラついたのだ。その行動の裏に、持ち帰って「忘れてたよ」とか言って渡して恩を売ろうとか、会う口実を作ろうとか、そう言った謀略が浮かんだ自分がいたのではない。単純に、彼女の持ち物を持ち帰りたいという性欲紛いの感情が見えた気がしたのだ。
すると、几帳面な行動で長所だとも思っていた忘れ物チェックの習慣が、ゴトウさんの影を探す、ストーカーのように感じられてまた気持ちが悪い。
もう考えるのすらもやめよう。伝票に手を伸ばした時、携帯が震えた。カレンからの着信だ。その名前を見た時一瞬ドキッとしたが────別に私は何も悪いことはしていないはずだ。それは、いまさっきの行動も、ゴトウさんとの密会も。応答する。
「あ、もしもし、お兄ちゃん?診察終わった?」
「うん。終わったよ」
また嘘をついた。
「……お疲れ様!じゃあナカジマ先生もお仕事終わりかな?ウマスタの投稿見てくれるかなあ」
「えー、繋がってたんだ」
電話口から得意げな声が聞こえてくる。
「ナカジマ先生もカレンのファンだからね」
こうやってゴキゲンな状態でいてくれることが何よりも嬉しかった。カレンがカレンたるには、常に明るく、目に見える限り人を照らす太陽にも例えられるようでなければならないのだ。その影に入り込めるのに喜びを感じている私がいて、好きじゃない。それって、職権濫用みたいな話だと考えてる。
「ところでカレンは見てほしいファンがもう一人いるんだけどなー?」
「うん、見ておくよ」
カレンはくすぐるような笑い声と共に「じゃあね!」と電話を切った。これでいいんだ。私は近くても、遠くてもいずれいなくなる。そして、恐らく彼女より早く。
「なんで言ったらアカンの?」
「いやあ……一応、責任というか」
通い慣れた病室で、ナカジマ先生と対面する。私の通院とカレンのと合わせて、何度も彼と会ったため、時折地元の方言が漏れるようなって面白い。
「まああんたはカレンに気を取られすぎだと思う。自分のことすら見えてないわ」
「先生もカレンのポスターここに飾ってるじゃないですか」
彼は痛いとのころを突かれたな、と顔を顰めた後「恋人でも作ったらどうなんだ?」と茶化してきた。
「努力してます」
「まぁ、隣にいる時羽を休められる人がいるのが一番だわ。俺がおらん日曜日以外に。ご自愛ください」
「じゃあおにーさんは本当にお相手探してアプリやってたんだ」
今度はお高くとまった個室焼肉ではなく、店中に煙が立ち込めて、脂で滑りそうな床の焼肉屋にいる。店内はやたらと騒がしく、カレンとではあまり来たくないな、と思った。
「親を満足させたくて」
ゴトウさんはトレードマークの銀髪こそ変わらなかったが、通気性の良さそうなシャツを着て、あのブランドのバッグも持っていなかった。この間よりもずっとラフに見える。
「あたしじゃつとまらないかもね。親なしだからご挨拶行けんし」
「それ関係なく、ゴトウさんはいい人だよ」
機嫌良さそうにビールを煽って、彼女は続けた。小さい手で大きなジョッキを持つのが小動物みたいで、愛おしく感じた。
「周りによさげな人とかいなかった?」
「言いづらいけど女子校の先生なんだ。だから、浮いた話はすぐにウワサになるし、忙しいしで」
「でもおにーさんカッコいいからモテそうじゃん。ほら、わざわざタンありがと」
はっと自分の手を見ると、鉄箸で焼き上がった肉を向かいの皿に置いていた。少し揶揄われたようで顔を逸らした。
「お嬢様学校の娘たちと違って、金なし未来なしの私だけど。私のことも愛してくれる?」
「『も』っていうか……未成年に手を出すのって禁忌中の禁忌だよ」
店の窓から海が見える。夏の陽はしぶとく、6時近くの今もなお海を照らし、空と海、そして水平線が赤く染まっていた。
「本当に愛し合うっていうなら、お互いにお互いのことを知り合わないといけないんじゃない?」
「もっと君のこと知りたいかも」
「でしょ?それじゃ早速……あたし、ホラーがダメで、叫びすぎてお隣さんとご近所トラブルになったことがあるんだ」
思わず笑いが漏れる。クッションとかを抱いて恐る恐る画面に向かうゴトウさんを想像して、可愛いなとも思った。はにかむ彼女をみて更に笑いが大きくなって「そっちこそ何かちょうだい!」と言われて、私も話した。
「俺も、海外の恋愛映画で泣いたことあるよ」
その時、あの時の光景が刹那で蘇る。隣のカワイイ子を思い出して────今のいままで、忘れていたのか?いや、そういう感覚であっただけだ。寧ろ、ゴトウさんと出会うまで、常に脳内にはカレンのかけらがあったのだ。次第に汗ばむ。煙の熱にやられたのではない。
「ちょっと息苦しい?出ようか」
ゴトウさんの言葉が冷水のように浴びせられて、意識が現実に戻る。立ち上がって財布を取り出して、この店内から出ようと提案した。
「俺、払ってくるから先、外出ておいて」
「割り勘!もう真剣な関係なんだから」
「カードしか持ってないんだ」
少し不満げな彼女は、夜風にあたりながらお腹をさすった。
「めっちゃお腹いっぱい。こんな食べたの久しぶり」
海を見ると、もう漁船の光が時折見えるばかりで、すっかり暗くなっていた。空にはいくつか星々が煌めき始めている。
「俺も。帰ってゆっくり寝るよ」
「もうお腹でてるよ〜。……ねえ、触ってみる?」
彼女は扇情的な手つきで、私の手を引き、シャツの裾からくびれに指を這わせた。私はそれを振り払い、軽く彼女の頭にチョップを食らわせてやる。
「俺、大切にしたいんだ」
自分を大切にしなさい、とは無責任なように感じて言いたくなかった。
「……ふーん」
彼女の表情は暗くてあまりよくわからなかったが、小走りで帰っていく時、街灯の下で明るく「これからもどうかよろしくね!」と手を振ってくれた。その体躯には大ぶりの銀髪が揺れていた。
穏やかな気分で就寝する。眠る前のスマホは良くないと聞くが、カレンの投稿をチェックするのが習慣だからやめられない。
カレンの新しい投稿。
『詩人がたったひとひらの言の葉に込めた 意味をついに知ることはない そう それは友に できるならあなたに届けばいいと思う』
その投稿に添付された写真を見た時、何が写っているのかよくわからなかった。一目見て、まずアスファルトに落ちる影の写真と気づいた。そして、ウマ娘の耳つきの影が一つと、もう一つ影。ウマ娘の影はきっとカレンのものだ。
もう一つの影の存在がどんなことを裏付けるのか、何となく理解した時、色んなことが脳内を駆け巡り、あっという間に結論の一文が浮かんでしまった。カレンが私の知らない誰かと映っている。
吐きそうになった。息が詰まったから、本当に吐いていたのかもしれない。もちろん、こんな写真を一緒に撮った覚えは一切ない。願わくばその隣の影が私であったらと思うと、今度は罪の意識が襲いかかる。私のことを好きと言ったのは何だったんだろう?ああそうだ。私が恋人を探したように、カレンも好きな人ができたんだ。それこそ、影が一つになるくらい近くにいたい人が。私が最初に動いたんだろう。
誰が悪いのか?
誰も悪くない。私も彼女もただ恋をしただけで。
誰が誰に惚れて、誰が誰と別れた、なんて繰り返されるよくある陳腐な話で、劇的さも物珍しさもない。けれど、今日だけは保安灯を消して瞼を閉じた。
考えると、カレンに私の行動がばれたのは、ナカジマ先生が病院にいない日曜にアダチさんと出かけたのが原因だったのだろう。カレンが私に対して多少の恋愛感情を抱いていたと考えるこの思考も、今となっては、過去のものとなったと思えば多少の胸焼けで済んだ。
「おにーさん、ホルモン焦げてるよ」
ゴトウさんの一言で自分が場末の座敷焼肉屋にいることを思い出した。目の前のホルモンが丸まって真っ黒に焦げている。箸で突くと、ホルモンは網に脂をこびりつけながらブチっと離れて、私は「言ってくれればよかったのに」と呟いた。
「だって、あたしもおにーさんのこと見ててさ。悩み事?」
相手側に話を聞いてもらう、謂わば受け身で話してくれそうな彼女。この感覚が妙に久しく、自分にすら受け入れられない感情が少し漏れ出した。
「男ができたみたいなんだ。その、妹に」
真っ先に浮かんできたカレンのイメージが妹だった。そのことが少しありがたく感じて、手前の文に潜む恐怖が薄れる。
「うん、わかるかも。だって、ずっと一緒だった妹さんは、おにーさんの愛するヒトでもあるもんね」
金網には肉が乗っていない。ゴトウさんは箸を置いて、頬杖をつきながらこちらの顔を覗き込む。
私は絶望のどん底にくたばっている半身と、失望の底にいたが少し浮かび上がっている半身を確かに認識していた。例の投稿によって、私の罪はだんだんと未遂と枕詞を添えられるようになる。私の人生で、教職者であった、という肩書きを傷つけることが────それよりも、カレンを私の手で傷つけることがなくなったのが喜ばしくもあった。
「愛ってさ、受け入れることじゃ無いかなって思うの。心から」
「字面だけで言っているの?」
「まずおにーさんは妹さんに恋をしていた訳では無いでしょ?」
「それは、もちろん」
「恋人に対して『そうしてほしい』とか思ってたら、それは当人のエゴだっていうので、これは愛じゃなくて恋だって思うの。『そうしてあげたい』っていうのが愛だっていうヒトもいっぱいいるけど、その『あげたい』っていうのも自発的な思いだから、ある意味ではエゴなんじゃないの、って思ってるの。だからこそ、愛っていうのは受け止めることであるんだろうって」
もしも、カレンに抱いていた感情を愛として、その愛がゴトウさんの言う通り、受け止めることにより形を成すものだとしたら、懸念していたはずの''彼女を傷つける可能性''すらなかったのではないのか?
「もう眠たいからまた今度ね。焼肉ばっかりはいやだから、また別のところで」
私はちっとも眠くなかった。タクシー代を断って次の約束を取り付けたゴトウさんに、入り口から手を振る。夜風が心地よい。ICカードを手に取る直前まで手を振り続けた彼女に愛おしさを感じつつ、その美しい銀髪が翻るのを見たからか、君が乗っているであろう終電を眺めてぼうっとしてしまった。しばらく経ってようやく自分がカプセルホテルか満喫で夜を明かす運命を悟ったのだが。
サイレントモードの携帯で、カレンを取り巻く投稿を見る。
『カレンの匂わせ投稿マジ無理すぎ だってリテラリーカレンとかもこれへの布石ってことでしょ?』
『もえてる例の投稿、タイスケとの写真って言われてるけどただの影じゃん』
『売れっ子アイドルと、有名インフルエンサー、これは、別に、あり得ない話じゃない!と、思いマス。寧ろ、俺は、知ってたような?』
『気にするほどじゃない』
『タイスケ女装趣味発覚の時からよろしくやってんだろ?どっちが女なんw』
『誰?』
私はふたつなんかじゃなく、たった一つの信条のもとに成り立っているのを思い出した。指導者。教職者。聖職者。未熟な若者たちを導き、時に身を挺して降りかかる炎から守るもの。
昨日カレンの投稿を見た時に感じた不安どころか、あの日自室で絶望した気持ちすら和らいでいく。何より支えになっているのはゴトウさんの言葉。そして、カレンに対する親愛。というよりゴトウさん自身が、なのかもしれない。
その美しい銀髪を思い浮かべながら、眠った。
その日、カレンと夢で会った。私はただ見ている。彼らは同じ布団の中で目覚める。私とではない。
「おはよう」
「恋にダメなんてねえよ」
私は声が出せず、彼は彼女の手に手を重ねる。毛布に触れてくしゃくしゃになった銀色の髪が、朝日よりも眩しく、ありがたく感じて触れてみたくなる。
「きれいだね」
「恋にダメなんてねえよ」
そいつはそれしか言わない。
海月を紫色の光が通り抜けて煌めくのを、カレンは眺めてる。暗がりの中で、紫色のライトだけを頼りにカレンを見つめる。隣には奴がいる。
「ありがとう」
「恋にダメなんてねえよ」
もうカレンのことばかり見ていた。カレンと手を握りたかった。ただひたすらに彼女に耳と目を集中させたかった。
「愛してる」
「恋にダメなんてねえよ」
なんだよ……。
「かなり、きています」
「やっぱり、カレンのことか」
部屋には、病気がまっきの者がいるのかと思うぐらい重苦しい空気が漂い、暗い顔をした男二人が向かい合って座っている。
「自分の娘が男を連れてきたようなものだろ。もっとも、俺には息子しかいないが」
飾られているポスターにも目を向けたくなかった。昨日の解放された気持ちは再び私の肩にのしかかり、今にも息が止まりそうな思いをしている。
「カレンが、多くの人の顰蹙を買っているのが受け入れらないんです」
「おまえさん、カレンを愛しとるんやろ」
その質問に冷や汗が噴き出そうになるが、内奥に潜む罪を看破されたのではなく、家族愛なのだと気づいたから、すぐに答えた。
「もちろん、大切な担当です」
「俺も、息子を愛している。だからこそ、受け入れてやるべきだろ」
何を言っているんだろうか?医師のくせして、何にも解決にならないことを言って治療をしたつもりでいるのか?
「意味がわからない」
「あいつは、俺の子どもである以上に、一人の人間。だから尊重してやなくちやならんだろう」
だから、当人は関係なく────
「もういい!自分で、なんとかする。精神科の先生じゃないあなたに聞くのも良くなかったですね」
考えるより先に言葉が出た。怒りに任せて立ち上がり、足早に診察室を去る。
「俺だって、最初は戸惑った。だけど、受け入れてやるのが────」
学園でカレンがどこにいるかたづなさんに聞いた。私はカレンとの面会を禁止されているらしい。最近のカレンの投稿が炎上していることを鑑みて、男性である私も隔離すべきとの考えが職員室からの答えのようだ。実際、SNS上でも、私にもカレンとの不純交友があるのではないかと囁かれている。
私は自室のドアノブに力無く手をかけて、体で扉を押して開く。
心の支えであるカレンに会えない。カレンに会えないことが、こんなにも切り裂くような思いだったとは。
ゴトウさんに連絡をする。
『会えないかな』
『どこで会う?焼肉はごめんだよ』
『うち』
少しの間。
『おけ』
今すぐにでも特効薬が欲しかった。浸水し始めた船のように、体中を冷たいものが蝕み、侵されていく。数分がとてつもなく長く感じて、床に座り込んで救命を待った。
インターホンが鳴り、私が出れない状況にあることを察したのか、彼女は自分でドアを開いてやってきた。
「こんなとこで寝ちゃ体に悪いよ。ベッドいこ」
片手のレジ袋をガサガサながらしながら彼女はしゃがみ込んで聞いてくれた。
「別に健康は気を使わなくていいんだ」
両脇の下から手を通されて、抱き上げられるような形で立ち上がる。もちろん、私の方か身長があって、後ろから抱きつかれるような形でベッドまで歩く。
「ね、私が代わりになろうか?」
「できるの?」
「できるよう。じゃあ……お兄ちゃん?」
「その呼び方、なんでかわからないけど心地いい」
私が笑うと、彼女は両手を組みながら回って、私の前に来る。銀色に視界が染まる。
「ね、お互いにさ、受け入れられるかわかんない奴言い合おう。愛し合うために」
「俺、実はカレンのトレーナーなんだ」
「そっか、だからか。……あたしね、親いないんだ。家出少女ってやつ?」
言葉を重ねるごとに、ひとつずつ彼女を知っていく。
「そうなんだ。じゃあ、こっちは……実はあまりもう長くないんだ」
「えっ?」
「説明しづらいんだけど、かなり重い病気らしくて」
今になって、罪に気づいた理由を思い出した。けれど、そんなことは今更怖いとは思わなかった。彼女が少し涙声になる。
「そうなんだ。あたしも辛くなってきちゃった」
その泣き顔が痛ましく、愛おしい。もしかしたら、彼女なら、この心にぽっかり空いた穴に収まる人なのかもしれない。
「ね、もっと抱きしめて」
「君の告白は?」
彼女の腕の力が強くなって体が揺れる。ベッドのふちに膝が当たって、転びそうになる。
「あたしね、17なの」
ぐらっ、と落ちた感覚があった。ベッドに落ちたなら怪我もせず、あぶないあぶないと一言だけで済んだかもしれない。
償う私に降り続く雨。紛れもない罪からは決して逃れられることはなく、ただ自裁による判決のみが待たれるのだ。思い出した。私はたった一つの信条のもとに成り立っているのを何度も思い出した。指導者。教職者。聖職者。未熟な若者たちを導き、時に身を挺して降りかかる炎から守るもの。その信条が破られるなら私は芯から溶けて、まるで標本のように''私だったもの''が冷え固まる運命を辿る。
柔らかく、優しく、温かい。
「ゆっくりおやすみ」
その声が……。
次の日、目覚めた時には一人。ベッドには見慣れない、長い銀の毛が朝日を受けて煌めいていた。
お前は誰でもない。乾き切った体に僅かな潤いを求めるかのように学園を訪ねたが、カレンはいないと言われた。ただ私を救ってくれる人物なら誰でも良かったけど、そんな救世主はカレン以外には神さましか思いつかなかった。
掴みかけた愛を口元に運んだ瞬間、偽りの殻が破れて消えたとばかり思っていた罪が現れて牙を向いた。
現に、比喩でしかなかった筈の罪という言葉が現実のものとなる。許しを乞うにはどうすればいい?礼拝堂に行って洗いざらい全て話して吐き捨てて仕舞えばいいのか?それでも、精進の道を選んで煩悩を捨てればいいのか?私はただひたすらに彷徨い歩き回って、カレンを求めた。
赤い夕焼けが夜の色に染まっていく様子を、私の愛と思っていたものたちがオセロのように裏返って消えていく様子を重ねた。
私が告白する様子を考える。この体を脱ぎ捨てて他の誰かに職や関係を引き継いでもらって、自らの魂を深い海の底で物言わぬ貝の中に埋め込んでしまいたい。時折カレンのことを思って泣かせてくれたら、それだけで満足です。
時刻は真夜中を指す。私は走り続けていた。ここ最近はずっと、息継ぎをしないで泳いでるのと同じくらい息つく暇も無く動き回っていた。疲労困憊の体を鞭打って歩く。風に流されるような足取りで、街路樹にもたれかかる。
夏の夜の真ん中で、湧く汗を払って呼吸を落ち着かせた。もしこれが戯曲なら、絶望的で不穏なシーンであるはずなのに、空は透き通り真上で月が煌々と輝いている。
公園には私一人ではない。少し離れたところにある自販機の隣のベンチで、女の子が一人泣いている。子供だろうか。
────償う。犯罪者が社会奉仕を通して、社会復帰を目指す、と言った話を聞いたことがある。私にも、そういうことができたら……。
きっと、こんなに時間に一人でいたら補導されてしまうだろう。できる限り不審者っぽくないように、いつも通りに彼女のほうへ歩き出す。
ショート・ヘアが月明かりに照らされて銀色っぽく光っている。トラウマが蘇る。一歩踏み出して、近づく。
「大丈夫?」
彼女は画面を隠すように携帯を立てる。その顔が、手に持つ携帯の光に照らされた瞬間、この世で一番美しいものを見たと確信した。
「お兄ちゃん?」
真夜中の邂逅に、いろんな感情が瞬く間に体中を駆け回り、ただひとつ出てきた感情の名前が『カワイイ』だった。
「カレン、どうして……」
震える声を出したら、カレンは飛び上がって私の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい!カレン、お兄ちゃんの体が良くないことにも気づいていたのに、わがままなことして……だって、まさかお兄ちゃんまで言われるなんて……」
カレンの独白。腕の中にいるカレンが、胸に空いた穴に収まり、満たされていく。
「カレン、落ち着いて。ちゃんと聞かせて欲しい」
「あのね……カレン、お兄ちゃんが恋人を探しているって気づいていたの。だから、どうやったらオトナの女の人に勝てるかって考えて、ああいう風に投稿しちゃったの。きっと、タイスケくんだけが、と思ってたから……」
いつもは策略高く、狡猾とも呼べるほど賢明なカレンが自暴自棄になった子供みたいな行動がどうにもかわいくてしょうがなかった。
「大丈夫。一緒にタイスケ?くんにも謝らなくちゃだし、どうにかありもしない噂を抑えよう」
「うん、ありがとう。でも気にしなくてもいいよ。すぐに収まるから。それでね、どうにかしてお兄ちゃんに会ってやろうと思って、ポストの鍵を使ってベッドの中に隠れてたの。それで、銀髪の人との会話を聞いたの。お兄ちゃんがもう……」
冷や汗が吹き出して、毛が逆立つ。私の確かな罪。思い出してしまった。急いで携帯を取り出す。カレンの最新のメッセージがついさっき、送信取消されていて……それは関係ない。ゴトウさんの連絡先を探す。……見つからない?
とにかく、これを告白しなくてはいけない。目の前に、待ち望んだ救世主がいるんだ。
「カレン、俺……ゴトウさんに、未成年に手を出してしまったのかもしれない」
もう、カレンに嫌われても構わない。私にすら受け入れられない私が、カレンに浴びせかけられたのだけでも嬉しかった。
「そんなことないよ。だって、その人のことすぐに追い出してたのを聞いたもん。その人が何かたくさん言ってたのを、お兄ちゃんが無言で追い出したから、すっごく怖かったの。だからよく覚えてるもの」
じゃあ、この連絡先も私が消したのか。そして、あの銀色の毛は、カレンの尻尾の……。ゴトウさんは私を受け入れてくれたが、私は、ゴトウさんを受け入れられなかった。
肩の重みが取れて、ふっと身体中の力が抜ける。ベンチにもたれかかると、瞼が重みを増していく。
「お兄ちゃん、カレンのことを受け止めてくれる?」
「もちろん。……カレンは?」
「カレンも」
「ところでさ、いつから気づいていたの?」
カレンの肩に頭を預けて眠る。
「最初からだよ。あんな真っ赤な料理より甘いものの方が好きなの、知ってるから」
『ナカジマタイスケ 同性愛を告白 「親父とカレンの後押しが……」』
『マジで?』
『タイスケくん、思い悩んでたよね。辛かったよね。気づいてあげられなくてごめんね』
『カレンのファンとカレンへ、ごめんなさい』
『タイスケくんのことなら心から受け入れられる!だって愛してるんだもん!』
カレンの新しい投稿。カレンの後ろに、机に突っ伏した彼が写っている。頭にアゲハ蝶が止まってる。
『リテラリーカレン、最終章!カレンとトレーナーさんは、どこまでも幸せに暮らしました♪お誕生日おめでとう、トレーナーさん!(詩とトレーナーさんとの影の写真の事は困らせちゃってごめんなさい!そんなに気にしないでね)』
『カレンは今日もカワイイなぁ!』
『そんな燃えてなかったところをカミングアウトで持ってかれたかんじやな 策略のうちか?』
『おじさん惑わされた〜 なにか目覚めちゃったかと思ったヨ!』
これは、カレンチャンのウマスタで投稿された。親しい友達のみに閲覧できる投稿だが、それに登録されているアカウントは無く、これを見れるのは投稿者本人のカレンのみである。
『荒野に咲いたアゲハ蝶 揺らぐその景色の向こう 近づくことはできないオアシス 冷たい水をください できたら愛してください 僕の肩で羽を休めておくれ』
Who is Curren?
For the blind, she is vision.
For the hungry, she is the chef.
For the thirsty, she is water.
If Curren thinks, I agree.
If Curren speaks, I’m listening.
If Curren has a million fans, I am one of them.
If Curren has ten fans, I am one of them.
If Curren has only one fan, that is me.
If Curren has no fans, I no longer exist.
If the whole world is against Curren, I am against the whole world.
I will love Curren until my very last breath.