ラビットとしてかくあれと育てられたウマ娘のお話。
――走る。
前には誰もいない先頭の景色。幼少の頃より見慣れたいつもの光景。
青い空、白い雲。今日は駆け抜けるには絶好日和。
大勢の歓声罵声、健脚に弾かれた青芝がターフを舞う。
――走る。
後先のレース展開など考えない。それはボクの役目じゃない。
回せ、回せ、回せ。脚を回せ、腕を回せ、血潮を回せ。
己が生きた意味を証明しろ。
――走れ。
掻き乱せ、先行策を採用したウマ娘達の身体を引きずり回せ、追い込みを狙うウマ娘達を引きちぎれ。
事前に用意された理想のレース展開など全て燃やし尽くせ。
今日、このレースでそれが許されるのはただ一人、お嬢様だけだ。
――走れ。
レースも終盤に差し掛かっている。
全身が熱を持ち、呼吸が乱れる。脚が悲鳴を上げ、心臓が荒れ狂う。
元よりハイペースでの走り抜けが許されるような距離ではなく、ボク自身そのつもりもない。
お嬢様を勝たせる――それがボクの役割。ボクが走る意味。
このレース、一番人気のお嬢様の対抗とされる二番人気は典型的な差し狙いのウマ娘だ。
溜めた脚を使って最終直線前からバ群をすり抜けるように駆け抜けていくその姿から、疾風とも称されている名門ウマ娘。
総合的な能力はお嬢様が優っているというのがトレーナーの事前評だが、容易に脚を溜められるようなスローペースなレース展開にだけはさせてはならない。
果たして、その目論みは成功した。
スタミナを無視したボクの走りによってレースは荒れている。縦に長くなったハイペースな展開。呑気に脚を溜めていられる状況ではないことに加えて、それぞれのウマ娘が最内を走っているので後方から抜き出るためには外に膨らむ必要が――つまりは、余分な距離を走ることになる。
ラビット。
それがボクの役割。
勝つのではなく、勝たせるために走るウマ娘。
走る兎肉に本能を刺激された猟犬達が躾を忘れて群がるように、このレースの為に身体を鍛え、策を練ってきたウマ娘達がその実力を発揮できぬままにターフに沈んで行く。
怨嗟の気配、吐き出される呪詛。
お前さえいなければという言葉に背中を押されて駆けていく。
疲労困憊の、ともすれば崩れ落ちそうなこの身体に満ちるのは達成感。
後は予めレース展開を知っていて好位置に付けたお嬢様が、あの素晴らしき黄金の末脚を発揮して、ボクを躱して、先頭を、駆け抜けていく。
その瞬間が、その光景が、たまらなく好きだ。
太陽の光すら霞む黄金毛をたなびかせて行くその背中に、心臓が早鐘を打ち、視界が焼き付くされる。
美しい、ただその一言に尽きる。
その姿を見れば誰もが確信する、するしかない。
お嬢様は、このウマ娘は――歴史に名を刻む存在なのだと。
――そう、それだけのはずなのに。
ああ、お嬢様、お嬢様。
名門アイリッシュ家の至宝と呼ばれ、その走る姿で、その才で、見る者全てを魅了し、数多の心を蹂躙してきた、冷酷なるお嬢様。
そのお嬢様が何故、今レースが終わったというのに、
――ボクの後ろにいるのですか?
† † †
レース終了から三日が過ぎ、ボクはお父様から自室での謹慎を命じられていた。お嬢様に泥を塗ったのだからそれも当然であろう。
食事も侍女が運んできたものを自室で食べている為、外の様子は分からない。きっと今頃は主家であるアイリッシュ家の方々と共に両親がボクの処遇について話しているのではないだろうか。
その間に脳裏を過るのはただひたすらに自責の念。
ラビットとしてあり得てはならない過ちを犯した。勝たすべき主人を置いて先着するなど、許されざる愚行である。
ましてや今回のレースはお嬢様の進路に関わる大事な一戦であった。その舞台でお嬢様に仕えるボクが勝つなどと、どれだけの恥知らずだというのか。
お嬢様は勿論のこと、代々アイリッシュ家に仕えてきたご先祖様達にもとても顔向けが出来ない。
レース後のライブも酷い様であった。
当然であろう。ボクはラビット、お嬢様をセンターに立たせる為に存在しているのであって、自分がその立ち位置にあることなど一度として想定していない。
自分がセンターに立った時の事前練習などしておらず、それでもどうにか形を取り繕えたのはお嬢様の練習風景が脳裏に焼き付いていたからだ。
「なんて愚か……」
呻きながら、傍にある目覚まし時計を弄くり回す。
短針を動かし、長針を動かし――そんなことをしたところで、当たり前だが時間が巻き戻ったりはしない。どれだけ泣き喚こうがボクはラビットとして無能という現実が横たわるだけである。
ボクは目覚まし時計を放り捨てると、溜息を吐きながらベッドに転がった。
レース以降、お嬢様とは顔を合わせていない。
謹慎という名目もあるし、そもそもどのような面をして姿を晒せというのか。
失望されたか、嫌われたか、或いは悲しませたか。
もしそうならば、即刻首を裂いて贖罪としなければ。それで責任がとれるとも思えないが、お嬢様に仕えるものとしての責務を成さなければならない。だがボクの後任となる適当な者がいただろうか。
そんなことを考えていると、コツコツと、扉を叩く音がした。
「私だ、入るぞ」
「はい」
聞き覚えのある声にボクは慌ててベッドの上から立ち退くと、服の皺を整え、姿勢を正す。
扉を向こうから姿を現したのはお父様だった。
二メートル近い長身に豹を思わせる鋭い目つき、隙の無いその立ち姿に我が父ながらまるでマフィアの幹部みたいだなと思ってしまう。顔には大きな切り傷がついていて、ボクは未だにその傷の理由を聞けずにいる。
お父様はちらりとこちらの姿を一瞥して、恐らくはボクが数秒前までだらしなく寝転んでいたことに気がついただろうが、それを口に出すことはなかった。
「……調子はどうだ」
「問題ありません」
珍しい。
お父様が要件を告げる前にワンクッション置くなど普段はあまりないことだ。
恐らくは大失態を犯した娘を気遣っている。お父様は表情が薄くその鋭い相貌から勘違いされることもあるが、他者を気遣うことの出来る尊敬すべき人物だ。それだけに心苦しい。そんな人に手間をかけさせるなど、なんたる失態か。
目の前にいる男は父であると同時に、アイリッシュ家に仕える者としての上司でもあるのだ。
ましてや今の自分は謹慎中の身であるので、身内の甘えを表面上に晒すなど許されない。
「それで、御用件は」
お嬢様のご様子はどうなのか。
そう尋ねたいのをぐっと我慢して、ボクはお父様の顔を見た。
そんなボクを見てお父様は何故か小さく息を吐き出した後に、
「今日の話し合いで、お前の今後の処遇が決まった」
本題を切り出した。
知らず知らずのうちに緊張する。
お嬢様の側仕えは恐らく、外されるだろう。だが幼き頃よりラビットとして英才教育を受けてきたのだから、それを無碍にするようなことにはならないはず。暫くはレースから外されて、一度分家筋の方に回され——…………、
「お前の日本のトレセンへの留学が決まった」
「え?」
その口から出てきた予想とは全く違う言葉に、ボクは暫し硬直した。お父様は構わずに言葉を続けるが全く耳に入ってこない。
「向こうとの話もすでについている。出立は一月後、向こうは全寮制だ——…………」
日本。
地図の端にある極東の島国。
レース後進国と呼ばれていた時期もあったが、近年は海外でも活躍する競技者が現れ始めたことで活気付いている国の一つだ。
他にもオタクの発祥地だったり美食の集まることでも有名だが、それらはどうでもいい。ボクにとって重要なのはただ一つ。
日本という国では他者が勝たすための出走が――つまりは、ラビットが認められていないということだ。
「ま、待ってください。お父様、どうかもう一度だけ……もう一度だけチャンスを」
その時に口から漏れ出た声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。
ぐらぐらと足元が、己の存在の根幹が揺れる音がする。
ウマ娘として生を受け、お嬢様を勝たせる為に走り続けてきた。ターフの上でお嬢様の背中を見送るのは、ボクの誇りだ。
だというのに。
だというのに。
「ボクに、ラビットの許されぬ地で走れというのですか……?」
それは、あまりにも酷いではないか。
お嬢様の側にいることも許されず、他者を導くことも許されず、ただただ、極東の地でターフを駆けろというのか。
「違う環境で頭を冷やし、少し自分の走りを見つめ直せ」
「必要ありません! もう二度と今回のような失態は犯しません! どうか、どうか再考を!」
「もう決まったことだ」
「お、お嬢様はなんと……? お嬢様も賛成したのですか………?」
唇が乾く、喉が掠れる。
どうにか絞り出したかのような声。
客観的に見て、このときのボクは最低だっただろう。
仕えるべき主に縋り付くなど、みっともないを通りすぎて有害ですらある。
だがそんな醜態を晒してしまうほどに、ボクは追い詰められていて。
それと同時に幼少の頃より同い年の幼馴染みとして姉妹同然の関係を紡いできたお嬢様ならばと、そんな浅ましい考えが思い浮かんでいて。
「……マリーシャロン、お前の日本への留学はお嬢様が発案されたものだ」
「あ」
その瞬間、私はその場でただ崩れ落ちたのだった。
史実 マリーシャロン
アイルランドの名門アイリッシュ牧場で生まれた雌馬。
幼駒時代から跳ねるように遊ぶ姿を見せ、その血筋に合わぬ軽く速い脚質と馬群を嫌う性格から、早くからレースコントロールを目的としたラビットとして育成するようオーナーからの指示が入る。その見立ては間違っておらず、同一ジョッキーと共に幾つものレースで同オーナーの所有馬を勝利に導いた海外の名俳優。
だが初のG1レースで先頭に立ったまま勝利してしまい、ジョッキーはそのオーナーの所有馬に乗ることは以降一度も無かった。
まあ全部嘘だけど。
ウマ娘 マリーシャロン
ラビットガチ勢、お嬢様ガチ勢、同担拒否。
お嬢様
別に太陽の光すら霞む黄金毛ではないし、走る姿を見て誰もが歴史に名を刻む存在だと確信もしない。でも強い。
最近の悩みは侍女の幼馴染みが自分より速いんじゃないかと感じること。
血涙を流しながら侍女の日本行きを提案した。周囲はドン引きした。
多分ジャパンカップあたりで再会する。
侍女ガチ勢。
続きはないです