「なんだ今の」
「え、まだ時間あるよね!?」
ゴーン、ゴーン、と続けて鳴る時の鐘。しかし日はまだ落ちていないし、暮れ、というのは早すぎる。焦るヒカリに、テルが「大丈夫だ」と両手を振った。
「七回だ。暮れ六つにはひとつ多い」
胸を撫で下ろす。刻限は暮れ六つ。刻々と近づいているのは間違いない。
ぴしゃりとヒカリは両頬を叩いた。テルがビッパ達の逃げていった方を見つめた。
「さっきのは仲間を助けに来たのか?」
「絶対そう。たぶん姉弟じゃないかな。あの子達の方が体が小さいし、気も弱そうだもん」
ビッパやビーダルは血縁で縄張りを作る。一番大きいビッパがあっさり捕まったことから、全員年が若く、経験も浅いに違いない。親という年齢ではないだろう。
「縄張りを守っていた親が死んで住み処にいられなくなったか、単純に迷い込んで帰れなくなったか。もし追い払われても村から離れなかったのなら、親が死んで住み処を探してここに来たんだと思う。今は怖いポケモンが外にいるんだよね? そんな場所で弱いポケモンがすぐに住み処を見つけるのは無理だよ」
同じポケモンを相手取るよりは人間の方がマシだろう。
モクローのことはさておき、ヒカリはいももち亭をじろりと睨んでビッパを探しに出た。難易度の低い方から攻めるしかあるまい。
以下、村中を駆け回って探し回り、行方を聞き込んだ村人達の証言。
洗濯物を取り込んでいた村人A(話し終わると速攻で立ち去った)の証言。
「ひえっ! ご、ごめんなさいね、分からないわ……怖いわね……頑張ってね……じゃ、じゃあさよなら!」
縁側で作業していた村人B(顔を見るなり近づいてきた気難しそうな老人)の証言。
「早く捕まえろ! わしの家の柱を囓ったんだぞ!? 尻でも叩かんと気が済まん! ――ん? ぎゃあ!!」
畑の記録をとっていた村人C(つるの緩い眼鏡の位置をしきりに直していた青年)の証言。
「わっ!? ……ああ驚いた。ずっといたけど、こっちでは見てないよ。悪いね。ポケモンはさっぱりで」
干し物作業をしていた村人D(必死に目を合せないようにしていた若い娘)の証言。
「ひぃぇあ!? びびびび、ビッパ!? み、見てない。わかんない! つ、捕まるよね?」
満面の笑みで駆け寄ってきた村人E(生意気そうな子供)の証言。
「なんだこいつ全然大したことねーの! ハハハ! オレが捕まえてやるからボール寄越――ゲフッ!?」
村人Eがビッパに頭突きされて沈んだ。とっさに避けたヒカリの動線上にいたのが悪かった。ギャン泣きする村人Eを家に送り返し、村を改めて見回す。
視線が合った全員に目を逸らされた。
妙だ。ヒカリが余所者だと差し引いても、この扱いはおかしい。
「なに、なんなの? ねぇビッパ、なんで?」
小脇に抱えたビッパに問いかけると、ビッパは無表情で固まっていて返事をしなかった。
「だから最初に言っただろ、ビッパはボールに仕舞っとけって!」
「ビッパは仲間意識が強いから、同じビッパがいた方が安心して近寄ってくるの!」
「そっちじゃない! 村の人たちがドン引きしてただろ!」
むー、とヒカリは唸り、ビッパの顔を覗き込んだ。つぶらな目がすい~と動き、ヒカリの目と合う。反抗する気力がないのか、その気が無いのか、大人しく捕まっていた。ビッパの中でも軽い方なのでそれも助かる。
抱え直して背中をさすると、痩せた背骨に触れた。ごわごわする毛並みを撫でる。
自分もそうだが、ビッパたちもどうしよう。食は自分も困っているだけにどうにもならないが、住み処だけでもなんとかしてやりたい。
「テル、どこをどう見たらこのビッパが怖いの? みんな怯えてるみたい」
「怖くはないけど、それはおれ達が慣れてるだけで、村の人は慣れてないんだから仕方ないよ」
「慣れてないってなに? みんなポケモン持ったりしないの?」
村中を駆け回ったが、モンスターボールを持っていたり、ポケモンと一緒になにかしている人はほとんどいなかった。例外はイチョウ商会やテルと同じギンガ団の制服の人間で、普通の服装の村人は誰ひとり持っていない。
シンオウ地方でもモンスターボールを持たない人はいるけれど、ポケモンと触れあったことが無い、苦手という人はほとんどいなかった。
それがここでは逆だ。
「おれは調査隊員だから少しはマシだけど、やっぱポケモンって基本怖いし」
テルがちらりとビッパを見やった。
ビッパは短い前足でヒカリの服を握っている。ヒカリもビッパをしっかりと抱え、当たり前だが恐れもない。むしろ両者の間には和んだ空気さえ漂い始めていた。
テルがあからさまに異物を見る目つきをした。
「お前はお前で、ビッパだからって、なんでそんな風にできるんだよ。おかしいだろ」
――なんでそんなこと言うの。
違う。
違う。そうじゃない。
この子は〝テル〟であって〝コウキ〟じゃない。だからこんなことコウキは言わないなんて、意味がない。
ヒカリの言葉は喉に感じた重苦しいものに押しつぶされて、消えた。何度言い聞かせても錯覚するし、傷つく自分にうんざりする。
ポケモンに詳しくて、ポケモンに優しくて、ヒカリにとっては先輩トレーナーで、頼りになって――
『君がポケモンに優しい人で良かったよ』
声までそっくりなんてあんまりじゃない?
「ういっ!?」
テルの頬を抓った。
こんなことコウキにはしたことない。ヒカリは走り出した。抱えたビッパは軽い。背骨の浮き出るほどに痩せた体で、爪の汚れた短い手でしがみついている。
――助けてください。
――あなたの力が必要なのです。
誰が、なんのために、どうしてヒカリだったのか。考えてもまるで分からない。
だってテルが分からない理由なんて、みんなが分からない理由なんて、〝分からなかったことのない〟ヒカリには分からないからだ。
ヒカリのお腹が鳴った。ビッパの耳がぴくぴく動く。
――アナタは時空の裂け目の向こう側からやってきた人なのではないでしょうか
門番がヒカリを止めようとしたが、ビッパが強く鳴いて退けた。怯んだ隙に梯子を登って蹴倒す。
はち切れそうな想いがヒカリを強く突き動かしていた。ビッパを下ろすと乱暴に鐘つきを掴み取る。
ビッパは逃げもせずに大きく振りかぶるヒカリを見つめている。
その、大きな瞳で。
時の鐘が鳴った。
村を越えて、外へ、海へ、山へ、空へ。
聞いて、と思いを込めて。
遙か遠くの次元まで届きそうな音に誰しもが振り返り、時の鐘を仰いだ。全身を叩く反動。梯子をかけ直そうとしていた門番が手を止め、ヒカリは鐘つきをもう一度振りかぶった。ビッパの全身が音にぶるぶる震える。
ごぉん、と時の鐘を打つ。
痺れる手から鐘つきが落ちた。
聞こえますか、と思いを込めて、息を吐き、震える両手を強く握る。
ヒカリはくるりと村を振り返り、ビッパを抱えた。鐘つき台の村側には手すりや壁がない。ギリギリに立って高々と掲げ、叫んだ。
「弟ビッパー! 聞こえるかー!」
ビッパがきょとんとした。なんとはなしに空気を読んだのか、短い両前足をバンザイと持ちあげる。
見下ろした村には、ぽかんとする人々、走ってくるテル、動かないギンナン、いももち亭の軒先にはムベだけでなく、モクローさえもいた。
「お姉ちゃんビッパの命が惜しかったら出てこい! 三秒以内に出てこないと、ここから落とす!!」
両前足をあげたビッパが硬直した。
梯子を上ろうとしていた門番もあんぐりと口を開ける。ビッパを掲げる両手がすでにぷるぷるしており、ヒカリは力一杯に声を張った。
「いーち!」
村がざわついた。二匹のビッパが物陰から飛び出した。炊事中だった村人Aが軒先に出ていて、気難しそうな村人Bがなんだ騒がしいと険しい顔で喚く。
「にーい!」
ビッパ達が人々の足下を凄い速さで駆け抜ける。テルがヒカリとビッパとどっちを止めるべきか右往左往し、記録の終わった村人Cが息を呑んで趨勢を見守り、干し網を洗っていた村人Dが両手で顔を覆った。
掲げられたビッパはぽやっとした顔で弟たちを見下ろしていた。
ヒカリの腕の筋肉が限界だと訴える。
さん、と口を開いたとき、ヒカリは足を掴まれた。
上ってきた門番だった。とっさのことにバランスを崩し、ヒカリの足がズッ! と落ちる。梯子が反対方向へ傾き、ビッパが中空に放り出された。小さな瞳が見開かれる。ああああああ、という門番の悲鳴。足を掴まれたまま、ヒカリはビッパの尻尾を掴んだ。
「あ、あ、アアアアアア゛ッ!」
ビッパが!!
それだけが頭を占拠して、瞬きの時間がそれだけのために消費され、ビッパを抱きしめ受け身さえもとれないまま、ぐんと地面が近く。
奇妙な考えが脳を過ぎる。
死んでも、またやり直せるから大丈夫だなんて。
気がつくと、さほどの衝撃はなかった。
ヒカリだけに不平等なその現象は訪れることがなく、目を瞬かせる。柔らかい地面が窒息しかけな呻きをあげた。
「重い……」
「テル?」
プラス二匹分の鳴き声も。柔らかい地面だと思ったそれは、受け止めてくれたテルと弟ビッパ達だった。姉ビッパはヒカリがしっかりと抱えていたので傷ひとつなく呆けている。門番はなんとか受け身をとったようで、よろよろと梯子の下から這い出すところだった。
ヒカリが慌てて上から退くと、テルが怒鳴った。
「なに考えてんだ!」
この短い間にテルは怒ってばかりだったが、その中でも一番怒っている。
「ビッパは落ちるわお前は落ちるわ、変通り越して訳分かんねーよ! なんでこんなことした!」
じわっと、ヒカリの目に涙が滲んだ。テルがぎょっとして言葉を止める。
ヒカリはぽろぽろと泣き出した。
「あのね、変だ変だって何度も言わなくていいじゃん!! やめてよ!?」
腹が立ったからやった。この村にも、テルにも、どうにも出来ない自分にも腹が立って仕方なくてやるせないからやった。
ひとりで出来ることは限られているのに、ここには誰もいないから。
決壊した堤防みたいにヒカリの目から次々と涙が落ちた。
「あたしだって帰りたいし、ビッパも帰りたいだろうし、お腹は空くし、誰もいないし、なんで……変だなんて、言わないでよ! 怖がったり、変だって言わないでよ! 自分だけが怖いなんて思わないでよ!!」
同じ顔で、同じ声で、お前なんか知らないと顔を歪めないで。
言ったところでコウキはコウキ、テルはテルで彼らはただのそっくりな別人だ。ここに居場所はないのに、そんなの心細くて堪らないに決まってる。そっくりだから、誰よりもテルの言葉に傷ついてしまう。
不意にビッパが目を丸くしているのに気がついた。ヒカリのあまりの剣幕に驚いたのだろう。ごめんね、と詫び、そっと離す。
姉ビッパは弟ビッパ達を鼻先で助け起こした。小さな舌で顔を舐めると、弟ビッパ達が泣き出す。
誰かを大切に思う気持ちは、ポケモンだって同じ。
傷ついたら悲しいのも同じ。
そんな簡単なこと、分からないなんて言わないで欲しい。
「悪かった」
顔を拭うと、テルがは困ったように眉を下げていた。
「もう言わない。ビッパのことも、……考えた事もなかった」
テルの視線に気がついた姉ビッパが、ぺこりと頭を下げて鳴いた。テルは複雑な様子で頬を掻いた。肩口で涙を拭うヒカリに、目を伏せて続ける。
「……おれは、ピカチュウって相棒が一応いるんだけど。ぜんぜん言うこと聞かない。怒るとエレキ出すし。モクローはおれもピカチュウも馬鹿にするし逃げるし攻撃してくるし。ミジュマルはいっつも斬り掛かってくる。それでなんか、怖くて。なのにお前、ぜんぜんポケモン怖くないのな。おれには出来なかったのに……ああもう、言い訳したかったんじゃなくて、だな」
テルは言葉を探して額を抑えていた。
ヒカリがくしゃみをすると、おもむろに上着を脱ぎだした。
「貸してやる」
その直後に冷たい風が吹き、テルが堪えきれずにくしゃみをした。決まり悪そうに鼻を啜る。心配になって見つめると、テルは恥ずかしそうに吠えた。
「いいから使えよ。ビッパは捕まえるまでもなさそうだけど。あとはモクローもいるんだ。くしゃみでボールを投げ損なったら嫌だろ」
「びぱ?」
三匹のビッパが揃って首を傾げた。
ヒカリとテルが喧嘩している間にこしょこしょと相談し終わったのか逃げる様子はない。上着を着たヒカリは、おいで、と手を差し出した。
姉ビッパが前足を乗せる。
「びぱ」
姉ビッパが弟ビッパ達を振り返った。
二匹ともヒカリの手ではなく、退け腰気味に姉ビッパのほっぺに前足を当てた。むぎゅ、と両側から前足を当てられた姉ビッパが変な顔をする。ぷ、とテルが笑った。
ヒカリがぽんとボールを投げると、残りの二匹が収まり、ほとんど揺れずにしゅっと火花が上がった。
トントン、とヒカリの肩を誰かが叩く。
振り返ると門番がいた。
「事情がよく飲み込めないんだが。とりあえず、君は誰だ?」
▼
門番に事情をかいつまんで説明し、勝手に梯子を使ったことや巻き込んだ諸々を平謝りした。
刻限まで残り一刻程度。橋を渡った川沿いからいももち亭を眺め、ヒカリとテルで作戦会議を開いた。
「モクローがいももち亭にいるのは間違いない。なにか考えあるか?」
「ない」
テルがこけた。
そもそもあったら既に実行している。ないから先にビッパを捕まえたのである。
先ほど、ビッパを掲げたときにいももち亭の軒先にモクローがいた事を告げるとテルは考え込んだ。ピカチュウのモンスターボールに触れ、意を決して口を開く。
「おれのピカチュウが入り口の方からモクローを追い出すから、お前が縁側の方からそれを捕まえるのはどうだ」
「……ピカチュウは言うこと聞かないって言ってたけど大丈夫?」
テルは自分のモンスターボールを手に取った。
木製のボールは中が見えないから、現代と違って中のポケモンがどうしているか分からない。
「おれはピカチュウが怖い。けど、お前の言うとおり、ピカチュウもおれが怖いのかもしれない。……でもそれじゃ駄目なんだろ。なぁ、お前、なんでポケモンが好きなんだ?」
「え、わかんない」
テルがこけた。
本日二度目である。
「あのなぁ!! なんかこう、理由くらいあるだろ! お前だって最初っからポケモンが好きだった訳じゃ――」
ヒカリが眉を八の字にして見つめると、テルの語気が急激に弱まった。がくりと肩を落とす。
「ああ、つまり、最初っから好きだったんだな……」
「うん」
博士のところの三匹と初めて出会ったときからずっと好きだ。怖いことも悲しいことも怒ったこともあるが、嫌いだと思ったことは一度たりとてない。
しかし、ヒカリはポケモンが好きだが、それはポケモン全てに対して博愛の精神を持っている訳ではない。〝ポケモンだから〟という理由で嫌ったり恐れたりしないだけだ。
「とりあえず自分のポケモンの事だけでもちゃんと分かれば十分じゃない?」
「そりゃそうかもしれないけど」
「そんなわけで第一問!」
「は?」
「テルのピカチュウの性別は?」
ずいと詰め寄った。
テルが半歩下がりつつ答える。
「お、オスだ」
「ピカチュウの使える技は?」
「でんきショックと、でんこうせっかと、でんじは!」
更に詰め寄ると、テルの足が更に半歩下がる。
川が近づいてきた。
「ピカチュウの好きな食べ物!」
「オレン! チーゴも好きだ!」
「触られると嫌な場所は!?」
「尻尾!」
「弱ってるときはどうする!?」
「オボン食わせてギンナンさんのレントラーに電気分けてもらう!」
テルの下がった足が土手にかかった。
「ピカチュウの好きな寝場所!」
「研究室のこたつ!」
「ピカチュウの癖!」
「オレンをおれの部屋の鏡の裏に隠すこと!」
「ピカチュウの好きなところ!」
「強くて可愛いところ!」
「可愛いよね」
テルは三秒ほど「次の質問は?」という顔をしていたが、ようやく気がついたらしく真っ赤になった。「ち、ちがっ」狼狽えながら半歩下がり、土手から滑り落ちた。
派手な水しぶきが上がった。
「大丈夫?」
「お前っばか!! ひっくしゅ!」
テルを川から引き上げる。
落ちても手放さなかったピカチュウのボールを腰に戻し、テルは服を絞った。
「寒くない?」
「寒くない。は……は……うぐっ」
テルは無理矢理くしゃみを飲み込んだ。
「あたし、テルとピカチュウなら大丈夫な気がする」
テルが目を丸くする。
先ほどの赤みがまだ顔に残っていて、誤魔化すように大きな声で宣言した。
「とにかくだ、絶対におれ達が叩き出すから、お前は絶対にモクローを捕まえろ。しくじんなよ。おれとピカチュウがやるのは、いももち亭からあいつを叩き出すところまでだ!」
「うん!」
▼
いももち亭の裏に忍び入る。
手前には小さな水車小屋が回っている。縁側の障子がモクローサイズに破壊されていた。縁側には羽根も散らばっている。「いない」と即答とは性格が悪い。ヒカリは苦虫を噛みつぶした。
縁側の破れた障子に片目を当てる。こじんまりとした畳の部屋の奥に木の引き戸、小さな棚など。こざっぱりとしていて物が少なく、生活感のない部屋だ。一番端の引き戸が半分ほど開いており、モクローのために開けてあるのだろう。
テルがそろそろ来るだろうかと耳を澄ませると、背後から泣き叫ぶような声が聞こえた。
ヒカリは振り返った。
川面は静かだ。
対岸も。
水車がゆっくりと回っている。
聞き覚えのある声、いや鳴き声。暗がりから覗いた赤い瞳、そして数多のポケモンの記憶を軽く掘り起こし、なるほど、と独りごちる。
何事もなかったかのようにヒカリは空のモンスターボールを手に取った。
引き戸の向こうから話し声がする。テルだ。ピカチュウを出すタイミングを見計らっているに違いない。
ヒカリの肩を誰かが撫でた。
ぬるりと纏わりつく気配を振り返らず、しっしっと手を振る。
「いま忙しいから邪魔しないで」
モクローは人を舐めているのでテルだけなら必ず油断する。
モクローにまともな戦闘経験は無いだろう。最初の遭遇戦での慌てっぷりと言ったらどうだ。相手はたかが人間にも関わらず、応戦すらできずに逃げ出した。
ピカチュウとの喧嘩も、モクローがちょっかいを出す→ピカチュウが怒る→少し反撃してから逃げて、ピカチュウが追いかけられない場所から馬鹿にする、がお決まりのパターンだとテルが言っていた。
ヒカリはあくびをかみ殺しながら思考を巡らせた。
モクローは、安全地帯に入ると途端に増長する。
重たい警鐘が意識の底で鳴っている。
なにか、おかしくないか、と。
ヒカリは目を擦った。
ムベとヒカリのやり取りは、耳がいいから絶対に聞いていたはずだ。暮れ六つまでいももち亭に隠れていれば、この鬼ごっこはモクローの勝ち。馬鹿にしたり仕返しをするのは、その後でいい。その方が安全だ。
ムベとテルの言い争う声、モクローの軽やかな笑い声が聞こえる。さっきの泣き叫ぶような声が、悲しそうなすすり泣きになって聞こえてきた。
鬱陶しい。
振り払う気が妙に湧かず、無視、無視、無視。こんなにも最悪のタイミングでちょっかいをかけてくること自体、おかしいと思ったが、濁って沈んでいく。
「ビカァ!」
ピカチュウの鋭い声にハッとした。
雷撃が木戸を吹っ飛ばす。転がるようにモクローが飛びだした。ヒカリはモンスターボールを構えた。
引きつけ、確実に仕留められるタイミングは一瞬の一呼吸。
悲しそうなすすり泣きが囁く。
飛び回る蠅のような鬱陶しさが、粘性のある眠気となって絡みつく。
モクローが目の前を悠々と通過しようとしていた。重い……腕が、体が重い! ボールが手から落ちそうになって、モクローを重い瞼で睨みつけた。
――しくじるなよ。
テルの言葉が濁った頭に浮かび上がり、ヒカリは唇を思いっきり噛んだ。
テルがピカチュウと一緒に飛び込んできた。
「逃がすなピカチュウ!」
「ヂウ!!」
命令にピカチュウが応える。電気ショックがモクローの片翼を掠めバランスを崩した。
いまだ耳元に貼りつく、〝催眠術〟の主へヒカリは怒鳴った。
「どけ〝ムウマージ〟!!」
ピぎぃ、と影が退いた。渾身の力で投擲されたモンスターボールがモクローを撃ち抜く。
しゅっと、落ちたモンスターボールから火花が上がった。
▼
ムウマージはムベのポケモンなのではなかろうか。
半壊した店に怒り心頭なムベに対して、あの場でしつこい突っ込みはしなかったが。テルはムベがポケモンを使っているところなんて見たことがないと言った。
4つのモンスターボールが執務机に並ぶ。
窓の外で暮れ六つの鐘が鳴った。
「手こずったようだな」
テルの上着を着たヒカリと、まだ痺れているテル。シマボシは淡々としていた。
「このポケモン達はキミひとりで捕まえたのか?」
「いいえ」
テルが、いいのかよ、という目で寄越したが、ヒカリは構わず続けた。
「テルがいなかったら無理でした」
「正直だな」
「本当のことです。でもあたしは約束を破ったとは思いません。テルがいないとあたしは捕まえられなかったけど、テルにもあたしが必要なはずです。そしてポケモンを恐れるこの村の人たちにも」
怯むことなく背筋を伸ばす。
「キミはこの村では異端だ」
シマボシ自身もそう少なからずそう思っているのだろう。
夕焼けの陽が窓から差し込む。
夜が近い。村の外はきっと冷える。
「でも隊長、ヒカリはポケモン使いがすごく上手です」
テルが口を挟んだ。シマボシがそちらを見やるとビクッとしたが、テルは退かなかった。
「そりゃへ――いや、あー、んん゛ッ! ポケモンには詳しいし、おれも調査隊に必要だと思います。確かに手伝ったけど捕まえたのはこいつです」
「テル、団長室の茶器を壊しただろう。団長が戻ったら直接報告するように」
「!?」
脇腹に槍を突き刺されたような顔でテルが黙った。やっぱり壊れていたか、とヒカリは同情した。
「多くの人は分かりやすいものを好む。異端であるキミがここで生きていくとしたら、誰よりも努力が求められることとなる」
「はい」
やっぱり野宿か野垂れ死にするんだろうか。
ヒカリの背中に冷や汗が流れた。
「テルはキミに少なからず理解を示した。それはキミ自身の努力と才覚によるものだ」
シマボシが執務室の机上から、テルとお揃いのポーチを手にとる。
「試験は合格だ。無理難題にキミは応えた。祝福する」
ポーチを手渡され、ヒカリは目を瞬かせた。
テルが背中を叩いた。
「合格だヒカリ! お前、野垂れ死にしなくて済むぞ!」
合格、だ。
「や――やったああああああああああああああ!」
拳を突き上げる。テルと手を取り合って跳ねていると、シマボシが付け加えた。
「いももち亭で食事と休息をとり、今夜は博士の部屋を使うといい。明日にはキミの宿舎と隊服を用意する」
テルとヒカリがぴたりと止まる。
「隊長。そのいももち亭なんですけど、あー……ちょっと壊れて、今夜は……ひぇ」
そろりと青い顔で告げたテルに、シマボシが凄い顔をした。