夕方からぽつぽつと降り始めた雨は、夜中には本降りとなっていた。
ヒカリ達は夜のイモモチ作りにも駆り出された。消費しきれるのかという量をお出ししたのだが、無事に戻った救助隊の面々は泣きながら全て平らげた。その様を眺めていると重労働の労苦が報われた気分になる。うまいうまいと絶賛され、端から消えていくイモモチの山。とくにムベが仕込んだイモモチは絡んだタレが香ばしく、もっちりとした食感は職人技と言っても過言ではない。
腹は減っていたがヒカリは控えめに食べた。
その気になれば十皿は平らげるらしいシマボシも二皿程度で食べ終わり、ガツガツと喰らう彼らに目元を和らげていた。
今夜も博士は戻れないので研究室の布団を借りる。博士はだいぶ調子が戻ってきており「明日には動けそうです!」と意気込みを見せてくれたが、さて、そうすると次はどこで寝ようか悩む。ヒカリが世話になる予定の宿舎も、この雨で作業を中断している。早く晴れてくれると嬉しいが――研究室の窓から、ヒカリは勢いを増す暗い空を見つめた。
「すごい雨」
ザアザアと降り続ける。傘が無意味なほど、横殴りの雨に変わりつつある。空が光った。遅れて雷が鳴り、ヒカリは飛び上がった。怖い怖い、とランプを消す。
コトブキムラに降り注ぐ雨は、黒曜の大地にも同じように降った。
原に、川に、森に、シンジ湖に、ハマナスの島に。
森の奥、巨木の戦場に。
風雨に松明は消え、バサギリを示す垂れ幕がバサバサと暴れ回っている。その左右には丸飾りと五角形の飾りが激しく揺れていた。それぞれがシンジュ団・コンゴウ団の印である。
その横を、悪天候も悪路をものともしないアヤシシが駆け抜けた。背にはコンゴウ団キャプテン・ヨネとゴンベが掴まっている。
バサギリの住み処となっている巨木の根元で足を止める。いまにも潰れてしまいそうな1人用の天幕が張られており、もっとも風雨の強い側に亀裂の入った大きな殻が立っている。
そこからぬるりとヌメルゴンが顔を出し、来訪者を見つめた。
「キクイがいるだろう! 入るよ!」
豪雨に負けないようにヨネが声を張った。全身ずぶ濡れだが、構うことなく天幕をめくる。
中は湿気た空気と血の臭いが充満していた。
丸くなった粗布が鎮座しており、ヨネは厳しい顔で耳を寄せた。
「起きているよ」
「ん!?」
「ふふふ。驚いたかね」
得意そうな少年の顔がもぞりと出る。汚れた面貌には赤黒いものがこびりつき、それでも朗らかな笑顔を浮かべていた。
粗布の端っこからころころマメが転がっていき、ゴンベが拾って長い毛の下に隠した。
「誰かと思えばヨネさんか。どうしたのかね? オレの身を案じに来てくれたのかね」
「その通りさ。元気そうじゃないか」
「そうも元気ではないが」
キクイの顔が曇り、積乱雲のように乱れた頭髪が垂れた。
「ヨネさんの手を借りるほどではない。アヤシシはいいのかね」
キクイは首を回し、天幕の外で待つアヤシシのほうを向いた。
「いまは落ち着いていても、またひどく暴れるかもしれない」
「そっちは心配いらなくなったのさ。ある子がアヤシシ様を鎮めてくれてね」
「鎮めた? どうやって?」
「細かいことはあたしにも分からない。とにかく鎮めた。なんせ短い時間だったから信頼できる相手かも分からないが、アヤシシ様が信じろというなら信じるだけさ。夜が明けたらあんたもいっしょにコトブキムラに来てもらうよ」
他の団とはいえ、死傷者を多数だしているバサギリを看過できない。長を通す時間すら惜しいほど一刻を争う暴れっぷりだ。
だいいち、コンゴウ団の長もこの騒ぎに手が離せない。あの少女には今一度、手を貸してもらいたい。
「それは断るね」
キクイはきっぱりと言った。
「いまのバサギリから離れてはいけないことはヨネさんにも分かるだろう。カイさんから誰も近づけるなとキツく言われているからね。アヤシシが認めたとはいえバサギリには近づけさせませんよ」
「だったらその子がこっちに来るのはどうだい。それならあんたもいいだろ?」
「話を聞いていたのかね! こっちから行くのもあっちから来るのも駄目ですよ! ぷんぷん!」
「じゃ、どうすんだい。言っちゃ悪いが、このまま置いてけばあんた死ぬよ」
キクイがむっつりと黙った。
彼は頭が切れる。バサギリがおかしくなったこと。自分にはバサギリを止めるだけの力がないこと。鎮める力もないこと。いまのバサギリならばキクイとて殺しかねないことは分かるはずだ。
粗布に残る赤い染み。ヌメルゴンの殻のひび。潰れたころころマメはバサギリの好物だ。どうにかしようとして、どうにもならなくて、それでもまた誰かを傷つけないようにと見張っているのだろう。
「オレは死なないね。バサギリは必ず正気を取り戻す」
ころころマメをキクイが拾いあげた。まだ豆を拾っていたゴンベが手を止め、ちょっと申し訳なさそうに仕舞ったころころマメを返した。
「バサギリは自分の意志で巨木の戦場に戻ってきた。そして、オレの手からころころマメを食べた。これは良い兆候ではないのかね? シンオウ様から与えられた力を制御しかけている。もうすぐバサギリはいつもの――前よりも、ずっと強く、格好いい森キングになるのだよ」
その言葉を希望的観測だと一笑に付すことはヨネにはできなかった。キクイの言には確固たる理由がある。
――三日前、アヤシシがおかしくなった。
様子自体は前からおかしかったが、この狂乱は異常だ。ヨネは荒ぶるアヤシシを追いかけながら、他のキャプテンたちを案じた。特に歳若いキャプテンであるヒナツ・ワサビ・キクイ、体力の落ちてきたユウガオが心配だった。
ツバキは馬鹿だがコンゴウ団の長・セキの弟分を自称するだけの実力はある。問題なかろう。
ヨネはアヤシシを追いかける先で、信じられない光景を目にした。
仲間であるはずのアヤシシとバサギリが激しく争っているのである。
互いの体を食い千切り、狂乱し、殺気立つ二匹にヨネは戦いた。バサギリは全身が誰かの血に塗れており、おびただしい量は死を連想させるに十分だった。真っ先にキクイを連想し、ヨネは叫んだ。
「やめろ!」
バサギリの刃が逸れて大地を抉った。危うく、アヤシシの首を落としかねないところだった……。九死に一生をえたアヤシシは立ち上がり、こちらに目もくれずに逃げ去ってしまった。
残されたバサギリが、幽鬼のようにゆっくりとした動作でヨネを見た。
その瞬間、ヨネは直感した。
――キクイは生きている。
バサギリの目にはかすかな正気があった。だがわずかな時間のことで、バサギリは自分の体を幾度か斬りつけ、叫び、走り去った。
だからキクイの言いたいことは分かる。
けれどバサギリは、本当に自分の力だけで正気を取り戻しかけていたのだろうか? アヤシシのように、何かきっかけはなかったのだろうか?
烈風の唸りが耳を裂いた。続けざま、甲高いアヤシシの警告が貫く。
ヨネとキクイ、遅れてゴンベは天幕を飛び出した。途端に横殴りの雨が身を叩く。
風雨の間隙に抉るような重い音、音。
「バサギリ……!」
前へ出ようとしたキクイをヌメルゴンが抱き止めた。
激しい戦闘はすでに始まっていた。斧が閃き、果断なく突きだされる角が急所を狙う。身が凍るような寒気は雨のせいだけではない。
バサギリの身はしとどに濡れ、血はすっかり流れ落ちていた。目は爛々と、狂気を宿して奔っている。
キクイは呆然と立ち尽くし、食い入るように争う二匹を見つめていた。
「本当に、ころころマメを食べたのだよ」
ほうけたような声が漏れた。
アヤシシが二人に一瞬だけ視線を向け、ヨネはハッとした。
「キクイ、アヤシシ様に任せて逃げるよ! あたしたちがいたら邪魔になっちまう!」
ヌメルゴンが同意する。キクイのこんもりとした頭髪が雨に濡れそぼり、その下に潰れるように顔が隠れている。
「キクイ!」
オォン! とアヤシシが哭した。
ヨネが振り返ると、ぬかるみに倒れ伏すアヤシシをバサギリが斬りつけていた。
「アヤシシ様!」
バサギリがこちらを向く。
「ごんごん!」
「バサギリ! もしアヤシシ様を殺そうっていうなら、森キングといえど容赦しないよ!」
「何をする気かね、ヨネさん!」
「バサギリを止めるんだ。あんたがやらないなら、あたしがやるしかないだろう!」
待つのだ、とキクイが言い終わらないうちに、ゴンベが戦場へと躍り込んだ。バサギリの刃を紙一重で躱し、その胴体に頭突きする。
共倒れになった隙にヨネはアヤシシに駆け寄ろうとして、つんのめった。
服の端をキクイが掴んでいた。
「なにすんだい!」
「バサギリはオレが止める」
いまだ幼さの残る顔つきに似つかわしくない苦渋が滲む。ヨネは視線を走らせ、声を上げた。
「ゴンベ! 距離をとって!」
「ごーん!」
しがみついていたゴンベが手を離し、地面を転がる。追いすがるバサギリへとキクイが呼びかけた。
「バサギリ! オレの声を聞いてください!」
足を止めた。
ゆらり、と絡繰りのように顔が向く。殺意と敵意の漲る瞳を正面から受け、キクイは息を呑んだ。ポーチからころころマメを取り出し、バサギリへと両手で差し出した。縋るような目つきだった。
「昨日も渡したころころマメです。腹が減ったでしょう」
壊れたみたいな動きで、ゆらゆらと、左右に緩慢に腕を揺らし、バサギリはぬかるみを歩いた。
キクイはぼそりとヌメルゴンに囁いた――合図で竜の波動を。
ヌメルゴンが全身を震わせる。吐息が細く細く、波動を奥で高めていく。バサギリが、ぐらりと半身を崩す。
いまか。
もう少し。
唐突に、バサギリの足が地面を蹴り、斧が雨の間隙を縫って、瞬きの間に肉薄した。
風切り音は鋭く、キクイの大きな瞳が閃く刃を映した。あ、と言葉を漏らした彼の脳裏には、恐怖はなかった。
ただ、その強さに。優しさに格好良さに、憧れたその刃に、彼はキャプテンに就任した日を思いだした。
言葉も忘れるほどに。
▼
『予期せぬエラーが検出されました。修正パッチを当ててください』
「ぎゃあ!」
ヒカリは寝ぼけ眼でスマホロトムを叩いた。
「なになになになに!?」
わたわたとした手中でスマホロトムが沈黙する。ヒカリを叩き起こした警告音は止まり、暗転した画面に△が点滅している。
外は土砂降りの雨だった。
赤々とした△の記号が暗闇に浮かんでいる。
警告、警告、警告。
――〝次が来るぞ〟と、スマホロトムが警告する。
おぼつかない手つきでランプに火を入れ、ヒカリは薄暗がりに並んだモンスターボールを見つめた。ヒコザル、ビッパ三姉弟、モクロー。水槽をひっかく音に振り返ると、ミジュマルが睨んでいた。
「何が来ると思う?」
「ぴちゃッ」
そんなこと知るか、とミジュマルが歯を剥き出す。ヒカリは苦笑いし、ハァとため息をついた。なかなか、打ち解けるには先が長い。この村とも、ギンガ団とも。
隊服に着替え、支給されたポーチを巻いた。面妖、不気味と思われている以上、これから起きる出来事次第では、村にいられなくなるかもしれない。
それは嫌だ。ヒカリがここにいる限り、ウォロはまた来ると約束した。
だから追い出されるわけにはいかない。
ボールを身につけ雨のさなかに飛び出した。足下さえおぼつかない暗夜の雨中、泥水を撥ねのけて走った。
アヤシシと同じレベルのポケモンがやってくるとすれば、ヒカリだけで迎え撃てる相手ではない。誰かしらの助けが必要だ。高レベルのポケモンを連れた、バトル慣れしたトレーナー――
「ムベさん! ムベさん! ごめんくださーい!」
即決でいももち亭の扉を叩いた。
「ムベさーん! ムベさーん! 真夜中だってのは分かっていますが緊急の用事です! これはコトブキムラの存亡に関わるご相談です!」
ごんごんがんがんがん。風雨に負けないくらいに叩きまくる。雷で空が光り肩が跳ねた。けっこう近い。
候補は複数いた。ウォロはいない。テルはいまいちレベルが足りない。シマボシはケーシィ以外にポケモンがいるのかもよく分からないし、だいいち家を知らない。デンボクは昨日の今日で疲労困憊だ。怪我人を頼るわけにはいくまい。消去法でムベだった。
ヒカリのチャンピオンとしての勘も言っている。
奴は有能なポケモントレーナーだと!
「黙ってるならいももち亭を破壊しますよ!」
「たわけ!」
ピシャリと扉が開き、寝間着のムベが出てきた。暗がりでよく分からないが、頭を覆う手ぬぐいがないので一瞬、違う人が出たかとヒカリは思った。
「はよう要件を言え。こんなジジイに何ができると思っとるんじゃ、まったく」
「〝何か〟が来ます」
「何が」
「分かりませんが、たぶん来ます」
スマホロトムを見せた。つるりとした液晶を雨粒が滑り落ちていく。
ムベは首を伸ばし、赤く点滅する△マークに顔を近づけた。鼻頭に寄った皺が、赤い警告灯に照らされている。
「アヤシシを鎮めたときもスマホロトムが警告してくれました。不発もあったけど、嫌な予感がします」
ムベは視線をヒカリへと転じた。かすかに光る灰色の瞳は、納得したのかどうなのか窺い知れない。
でもムベはコトブキムラを、ギンガ団を大事に思っている。
実力があり、守りたいものがある人間が、危機に手をこまねいていられるわけがない!
遠く、それでもなお背筋が粟立つような叫喚が聞こえた。人間には発声不可能、かつ近隣のポケモンではありえない鳴き声だった。
「止めるために手を貸してください。あなたの力が必要です」
「やはりお主は、胡乱な奴よの」
時の鐘が鳴った。
何度も何度も力の限りに鳴らされる。定刻の音ではないと叫ぶ鐘にコトブキムラが動揺する。
「わしはただのいももち亭のジジイ。何も出来はせん」
雨音が急に耳をつくように感じ、言いようのない失望がヒカリの胸に広がった。
確信が間違っていたのか?
実力を隠し、危機的状況でも黙っていることに怒ればいいのか?
実力があると勘違いし、勝手な期待をかけてしまった自分に呆れればいいのか?
ヒカリは肩口で濡れた顔を拭った。乱打される鐘の音が止まり、言うべき言葉を探しているヒカリの代わりに、スマホロトムが喋った。
『検索結果:エラーNo.2 バサギリ 修正パッチを当ててください』
ヒカリは駆けだした。
▼
影が揺らめいている。星明かりさえない雨夜に溶け込むシルエットに、ヒカリはモクローを出した。出てすぐに逃げだそうとしたモクローの危機察知能力は大したものだが、結わえられた紐を忘れてつんのめった。ぐいと引き寄せ小脇に抱える。
「げぇるるる」
半泣きの抗議が漏れる。
暗闇にヒカリの目はまだ慣れない。細く、角張った体の輪郭は虫ポケモン? どこか見覚えがある気がする……もやのかかった記憶に針が突き刺さり、首が痛む。
門の方向は見えない。
門番の無事を祈りつつ、ヒカリは囁いた。
「死にたくなければ、見て」
悪寒が走った。
ぬかるむ地面を蹴った。
質量のあるものが迫ってくる。トレーナーとしての経験と勘、紙一重で躱した風切り音には聞き覚えがある。
二撃、三撃とモクローの金切り声を頼りに接近を知覚して避ける。
暗くて見えない。
ギンガ団から複数人が出てくる気配がした。
「下がれ!」
シマボシだ! ヒカリは機敏に飛びのいた。見えたシルエットは斧のような腕。それが、追跡するようにヒカリの後を追って飛んだ。
「ケェーッ!?」
ヒカリごと切り裂く葉っぱカッターをモクローが放った。至近で弾け、わずかな時間の遅延の隙間にヒカリは滑り込んだ。
ヒカリの後背から飛び込んだ黒い影が敵のシルエットと衝突する。知っている鳴き声――ドンカラスか!
次々と雨中を警備隊が走り抜け、街灯に火を入れていく。仄かに浮かび上がる敵の姿を見据えるヒカリの肩をシマボシが叩いた。
「無事か」
「はい」
「あのポケモン――バサギリを、殺さずに追い返すことは、出来ると思うか?」
殺さずに追い返せないのであれば、殺すしかない。
ケーシィのテレポートは、レベル差が大きすぎると失敗率が跳ね上がる。博打は打てない。
「あたしが止めます」
シマボシの声音の裏に潜んだ意味に、ヒカリは反射的に言い放った。
「三十秒、修正パッチを当てられればバサギリは落ち着くんです。三十秒をあたしにください」
スマホロトムをシマボシに見せると、彼女はじっと見つめ、やってみよう、と答えた。
ドンカラスが墜落する。次のポケモンが投入される。転がり突っ込むゴローニャに、バサギリが横っ飛びに避ける。
そのまま〝ヒカリへと〟向かってこようとするバサギリの頭上へとモンスターボールが飛んだ。カビゴンが飛び出した。バサギリを押しつぶすが、数秒と保たずに巨体が跳ね上がった。
人が増えてきた。みな、ギンガ団の服を着ている。テルもいた。デンボクも包帯だらけの体を張っている。ヒカリの言葉が伝えられると、デンボクは怪しむような唸りを零し、了解した。
カビゴンがバサギリと組み合った。引き裂かれた大きな腹から血が滴り、その巨体の影からバサギリへとヒカリはじりじり近づいた。背中に乗せたポケモンの手が静かに肩を掴んでいる。
モクローがケェーッ! と怯えた瞬間、ヒカリはカビゴンの影から飛び出した。直後、カビゴンがヒカリのいた場所へと倒れ込んだ。
これ以上は待てない――手放されたモクローが空へと逃げるのも構わず、ヒカリはバサギリの懐へと走った。
斧が暗闇に閃く。
ヒカリの姿が消えた。
「やぁ!」
空振りするバサギリの背後に、テレポートでヒカリはケーシィと現れた。
「キェェエエエエン!」
昆虫のような細腰に体当たりで掴まり、スマホロトムを押し当てる。
『No.2 バサギリに修正パッチをインストール中です…… 残り時間:三十秒』
バサギリが両腕を振り回す。ケーシィが離脱した空間を切り裂いた。掠めるだけでも肩の肉を抉られる衝撃だ。必死にヒカリは腕を巻きつけた。
ドン、と深く、刃が腕を潰す。声にならない絶叫が喉を貫く。それでもスマホロトムを放さない。
救えるはずだ。このポケモンだって、アヤシシと同じように、きっと苦しいだけだ。
――苦しい。
耳元で唸るような激しい動悸が、ヒカリを突き落とさんばかりに騒ぎ立てる。
なんとかしないと。なんとかしたい。
ポケモンも、みんなも、本当は仲良くなれるはずだと現代と同じように信じたい。
――やはり主は、胡乱な奴よの。
――殺さずに追い返すことは、出来ると思うか?
無数の雨粒がヒカリの頬を流れ落ちた。
どうしても、信じたい。
「あ、ァァア、ああアぁアアアアあァアアアア!」
ガツン、とバサギリの動きが急激に止まった。
ギチギチと誰かと鍔迫り合っている。
バサギリよりも背が低く、すらりとした白い足に、同じく両腕が武器となっているポケモン――エルレイドが相対していた。
『残り時間:二十秒』
エルレイドの刃をバサギリが弾く。返す刃でエルレイドが迫る。
大振りのバサギリの動きに対し、エルレイドの動きは流水のように静かだった。足下の水音さえ白い足に吸い込まれて消えてしまったように、滑るような動作でバサギリへ斬り込んでいく。
スマホロトムが時間を刻む。エルレイドは円を描くようにバサギリを斬りつけた。踊るように、しかしその場に縫い止められたように、バサギリは夢中でエルレイドと切り結ぶ。ぶつかり合いに砕けた破片が散らばり、両腕の斧はますます鋭さを増していく。エルレイドもまた応えるように深く踏み込む。
『残り時間:十秒』
カウントダウンを開始する。
――九秒。
――八秒。
祈れ。
雨とも血ともつかないものがヒカリの身を染める。
――七秒。
――六秒。
指先に掴む意識に、震える意志をかき集める。
雨雲のそこかしこが帯電した。
――五秒。
ヒカリ、と声が。
――四秒。
覚えのある少年の声が――声?
――三びょ
「ヒカリ!」
天を裂く光が降り落ちた。
身を挺し、頭上を飛んだピカチュウが雷を受け止め、目の眩んだエルレイドの刃が空振る。その胴体を横薙ぎの斧一閃が切り裂いた。
『修正パッチの適用が終了しました』
機械的にスマホロトムは言ったが、誰もその言葉を聞いていなかった。
赤い水溜まりにピカチュウが落下する。
全員が倒れていた。
戸惑った様子で心細げにピカチュウが鳴き、いの一番にテルが近づいた。
「ヒカリ?」
テルはヒカリを抱き起こした。黒々とした血が泥水のようにヒカリの体を染め、テルの手はすぐにべたべたになった。
ヒカリの髪を濡れた手で退かし、その頬を叩く。
体は温かかった。
「ヒカリ、ヒカリ」
すぐそばでエルレイドが切り裂かれた胴体を押さえてよろよろと立ちあがった。びくりとテルは振り返り、またすぐにヒカリへと顔を戻した。
何度か名前を呼ぶ。
だんだんと、体は重く、冷たくなっていくように感じられた。
テルは呆然と、駆け寄ってきたシマボシに言った。
「どうしよう、隊長、ヒカリの返事がない。血が、」
「本部の医療隊へ――」
そのとき、ヒカリが淡く光り始めた。テルもシマボシも言葉を失い、ヒカリの全身を包む柔らかい輝きを呆気にとられて見つめた。
他の警備隊やデンボクが恐る恐る近づいてきた頃には、すぅ、とヒカリは穏やかな呼吸を取り戻していた。
「デンボク団長。ひとまず、この者の処遇は後日に。いまはバサギリをなんとかしましょう」
シマボシが言った。
暗がりでも分かるほどにデンボクの顔は強ばっていた。
「バサギリは徹底して捕縛せよ。みな終わり次第、家に帰って休養をとるように。今夜の出来事は他言を許さぬ。さぁ、夜明けまでに片をつけよ!」