ヒカリのでばっく日記   作:犬小屋

9 / 11
Bug9 密談

 バサギリの襲来から翌日。夕刻、長く伸びる窓辺の影を踏んで、デンボクはラベン博士の研究室を尋ねた。夜明けから彼は働き通しで、日が暮れはじめても目は冴えていた。

 

 ポケモンをすべて引き上げた研究室は静かだった。

 この部屋はたった一人の少女を閉じ込めて置くためにあった。その少女――ヒカリはまだ目覚めない。

 

 ヒカリのそばに座る老人がゆっくりと振り返った。

 死人のような白装束である。硝子玉に似た瞳は感情の揺らぎの一筋も窺えず、相貌は能面のようだ。気配が薄い。瞼を降ろせば溶けて消えてしまいそうな老人に、デンボクは不安げな視線で問いかけた。

 

「起きたか」

「いや。目覚めぬよ、デンボク。深く眠っておる」

「そうか」

 

 老人が目を細めた。

 

「こやつをどう見る?」

 

 昨夜の事を尋ねているのだとデンボクにはすぐに分かった。

 神々しい光とともに、人間が再生するなどありえない。苦々しく顔を歪めた。

 

「神など信じてはおらぬ!」

「では、ポケモンとでも?」

「いや……」

 

 デンボクは視線を外し、包帯の下の顔を片手で覆った。

 ヒカリは何なのか――それをずっと悩んでいた。

 悲鳴のような少女の叫びが、耳奥でいまだ生々しく尾を引いている。

 あれはポケモンに出せる声ではない。

 しかし、神でもない。

 人間でもない。

 だったら〝何〟だというのだ?

 

「災いを呼ぶやも知れぬな」 

 

 白装束の老人が囁くように警告した。

 

「そうだ。災いかもしれぬ……人ではない……ポケモンでもない……しかし、こやつがバサギリを鎮めたのだ。他に誰が、それを成し得ると言うのだ……」

 

 デンボクは掌の暗闇の中で暗澹とした。

 もしまたバサギリのようなキングがコトブキムラに入り込めば、そのときにヒカリがいなければ、どう対処すればいい。

 

 災いを呼ぶやも知れぬ。

 

 しかしヒカリこそが現状、唯一災いに対処しうる切り札だ。仮に彼女自身が災いであろうとも手放すわけにはいかない。荒ぶるキングやクイーンはまだいるのだ。

 バサギリと同じようにコトブキムラを襲われれば、第二の故郷と目すべきこの土地も再び離れざるをえないだろう。

 

 焼き払われる故郷の姿をデンボクは思い起こした。暴れ回るギャラドスの前になすすべなく泣き叫び、逃げることしか出来ない自分の情けなさ。かろうじて避難させた町人たちの中に、妻子の姿がなかった時の絶望といったらない。身を裂かんばかりに泣いた。

 

 コトブキムラができて二年。

 這いずるように、暗闇の中で細く遠い光を求めた。血を吐くような二年だった。

 支援者から金をかき集め、生き残った人々を必死に鼓舞し、眠れない夜を幾度も過ごし、コンゴウ団やシンジュ団とやっていく道を模索し続けた二年だった。

 ポケモンの為に再び奪われれば、もう立ち上がれない。

 

「わたしは怖い」

 

 デンボクは震えながら泣いた。不安で苦しい皆の前で自分が取り乱せば、耐えている人々も心が折れてしまう。

 そんな事はできない。

 

「怖くて怖くて仕方がない……こんな小娘さえ怖いのだ、ムベよ。どうにもならぬのか。奇怪なる災いが、どうしてこの土地を襲っているのだ。恐ろしゅうてかなわん。どうしろというんや。皆、わたしを信じて、着いてきてくれとる。今更やめるわけにはいかん……」

 

 大きな体をすぼめ、声を殺して袖を濡らした。

 白装束の老人はデンボクの肩に手を置いた。葉脈のように皺の浮き出た乾いた手であったが、故郷の焼け野原から変わらぬその手は、デンボクにとって誰よりも力強い手であった。

 この手は枯れようとも、老いようとも、変わらず幼きころより、先行きを引く。 

 

「わしは主の懐刀よ」

 

 決して裏切る事のない男が語る。

 

「今も昔も――なあ? なにを畏れることがある。思うままにやれば良い」

 

 からからと白装束の老人――ムベが笑い、すぐに笑顔を消し去った。

 デンボクは涙を拭い、唸った。暗がりへと目を背けて命じる。

 

「……いましばらくは留め置こう。しかし、ギンガ団やコトブキムラの皆に害を及ぼすと判断すれば容赦はせん」

「承知した」

 

 にわかに外が騒がしくなった。デンボクが窓かけの隙間から窺うと、慌てふためいたテルが走っていく姿が見えた。

 

 

 

 

 テルが予期せぬ来訪者に気づいたのは暮れ六つ直前のことであった。

 遠目には大きなポケモンが、ふらつきながらやってきたように見えた。

 重傷の門番の代打を務めるテルは警戒したが、やがて睨んだ姿が、ポケモンと少年を背負って歩く血塗れの女であると気がついた。

 緩慢な足取りで近づくヨネと目が合い、テルは気圧された。近づいてくる——「通るよ」とヨネはぼそりと告げ、半壊状態の門をくぐった。

 弾けるように振り返った。

 

「ヨネさん! それ――」

「触るな!」

 

 ヒッと手を引っ込めた。

 ヨネがぜいぜいと呼吸を整え、悪いね、と詫びる。爛々とした眼球がコトブキムラを見回した。

 

「バサギリは、どうした」

「なんで知って……」

「門、壊れてるだろう。それで、どうした。殺したのかい」

「こ、ころしてない。倒れたから、モン……っいや、捕えました」

 

 テルはとっさに言葉を換えた。

 ヨネたちはモンスターボールに対して忌避感を抱いている。モンスターボールを抵抗なく使うキャプテンも一人いるが、彼でさえキングをモンスターボールに収めることはない。

 バサギリは今、モンスターボールに収まり、厳重に保管されている。

 

「誰が倒した」

 

 ひしゃげた声が細く問いかけた。その声音の奥に見える少女の姿が、身を打つ豪雨の彼方から鮮明にテルの眼前に現れた。

 

「ヒカリが……」

 

 震える声でテルは答えた。絡みつく得体の知れないなにかが喉を絞めていた。

 ヨネは安心したように微笑んだが、テルは彼女との間に隔絶したものを感じておののいた。

 冗談のような光が少女の体を再生したことを、テルは受け止めかねていた。

 バサギリが打ち倒されて安心ではない。別の得体の知れない生き物が、無害そうな顔でコトブキムラにいるほうが彼には恐ろしかった。

 

「治療をお願いできないか。この通りだ」

 

 ヨネが頭を下げた。乾いた血で固まった頭髪にテルは目をみはり、ギンガ団へと転がるように走った。

 

 

 

 

 シマボシが医療隊のキネと駆けつけると、ヨネが縋るように請うた。

 

「頼む」

 

 シマボシが頷いた。ヨネはゆっくりと足をひき、キクイとアヤシシを降ろした。

 キネが「運ぶのを手伝ってください!」と呼びかけると、わらわらと人手が集まる。包帯を巻いた負傷者ばかり。近づかないものもいたが、以前アヤシシに救助された調査隊員たちが率先してやってきた。

 

 シマボシはキクイを抱えあげた。少年にはトレードマークの帽子がなく、肩から袈裟懸けに引き裂いた布が巻かれている。布は赤黒く固まり、体は軽く冷え切っていた。思わず胸に耳を当て、鼓動を確認してしまったくらいだ。

 

「キクイは――」

 

 シマボシは事情を尋ねようとしたが、ヨネはすでに気を失っていた。数名が板きれに彼女を移動させ、簡易担架で運ぼうとしている。

 

「……第三医療室に運べ! そこの、傷薬をかき集めろ! アヤシシは鍛錬場に連れていけ!」

 

 鍛錬場は一時閉鎖し、ポケモン専用の治療施設(仮)とされている。丘の上にあり、村から微妙に距離がある。傷ついたポケモンはとくに暴れるため、怯える村人への配慮だ。

 

 ヨネとキクイを医療隊に任せ、シマボシはアヤシシの治療へと加わった。キングは通常のポケモンよりも体力があるし、回復能力も高い。一時治療さえ終われば心配はない。

 

 ――そう考えていたのだが、改めてその足を見て、シマボシは厳しい顔をした。

 蹄は真っ赤に染まっていた。血を落として初めて、鋼鉄に等しい硬度の蹄にひびが入っていると気がついた。

 胸元の毛を濡らす血の奥で、か細い呼気が鳴る。

 満身創痍の身でありながら、ヨネとキクイを乗せて限界まで走り続けたのだろう。

 蹄は砕け、肺は裂け、なおも夜を昼を駆けた。

 同じく、その事実に気がついた調査隊員が、布で必死に血を拭いながら「死ぬな。死ぬなよ……」と呼びかけ続けていた。

 

 同時刻、医療隊のキネも、ヨネの服を脱がせて険しい顔をしていた。足も肩も腕もパンパンに腫れ上がっている。気の遠くなるような距離を歩き続けたに違いない。

 キクイの傷はまるで斧で斬りつけられたかのようであった。運良く内臓までは達していないが、あとわずかに深ければ致命傷だ。

 キクイが避けたのか、斬りつけた相手が躊躇ったのか――。

 

 二人の治療が一段落つく頃には、とうに太陽は沈みきっていた。門番を交代し、今度はあちらこちらと奔走していたテルをシマボシは呼び止めた。

 

「ヒカリは起きたか?」

「いや、見てないです」

 

 テルは伏し目がちに答えた。バサッと葉ずれの音がして、テルが機敏に振り返った。

 ギンガ団の庇でモクローが首を回している。ヒカリの他のポケモンたちとは違って、彼だけはあの夜の出来事を知っている。唯一、デンボクの引き出しに仕舞われなかった彼は、何故か逃げることなくコトブキムラに留まっていた。

 

「モクローも、また捕まえねばならないな」

「おれ、捕まえてきます」

「いや、いい。彼の主が眠っているのだ。しばらくは逃げないだろう。それよりテル。明日の朝、ヒカリが目を覚ましたら団長室に来るよう伝えろ」

「ヒカリが、ですか。なんで」

 

 言ってから、聞くまでもない事だったとテルは気づいたらしい。

 

「あいつ、どうするんですか」

「団長の沙汰を待て。必ず伝えるように」

 

 断る暇を与えず、シマボシは踵を返した。

 

 

 

 

「はれ?」

 

 夢だったのだろうかとヒカリは研究室を見回した。

 暗い。

 服も寝たときとまったく一緒で、降っていた雨だけが止んでいたことだけが、唯一の違いだった。

 

 寝ぼけ眼でスマホロトムに触れると、通知が一件。〝アップデート完了〟と。

 ヒカリは首を傾げた。ホーム画面にアイコンが二つ増えている。

 一つ目をタップする。

 四角いフレームが飛び出し、ポケモンのようなアイコンの真下に〝修正パッチ適用済み〟〝瀕死〟と表示された。

 もう一つもタップする。

 〝修正パッチ適用済み〟の下に赤いバーが伸びている。

 

(訳わかんないな、もう)

 

 ため息をついて服を着替え――ようとしたが、寝る前に置いておいた場所にない。水槽を振り返るとミジュマルもいなかった。並べておいたモンスターボールもない。

 ヒカリは顔を強ばらせた。

 

 どこまでが夢で、どこからが現実なのだろう。

 

 窓辺に近づき、額をくっつける。月明かりに分かる事は、みんなもう寝入ったらしいということだけだ。通りには黒々とした建造物が影を落としている。

 顔を引き剥がして廊下に出ると、扉の開いた隊長室と医療室から光が伸びていた。抜き足、差し足で近づき、隊長室を覗く。シマボシが書き物をしていた。

 

 邪魔をしないように抜き足、差し足で医療室を覗く。ベッドから寝息が聞こえる中で、灯の入ったランプを置いた机に突っ伏しているキネがいた。疲れ切っている。きょろきょろと周囲を見回し、端に追いやられていた毛布を拾い上げ、その肩にかけて医療室を出た。

 抜き足、差し足でギンガ団の正面玄関に近づく。

 

「どこへ行くつもりだ?」

 

 びくぅっとヒカリは飛び上がった。くるーり、と引きつった笑顔で振り返る。

 

「えーっと、雨、上がりましたね?」

 

 シマボシは執務机の向こうからじっとヒカリを見据えている。

 

「こちらへ来るように」

「……はい」

 

 しょぼしょぼとヒカリは隊長室へ入った。

 

「体の具合はどうだ」

「体? 別になんとも」

 

 ないですけど、と答えかけ、アッと青くなった。

 やはり、バサギリとの戦闘は夢ではなかったのだ。無傷でピンピンしています、などと答えようものならあらぬ疑いをかけられるに違いない。

 例によって体に違和感はなく、どこもかしこも傷なくツヤツヤのピカピカだ。

 

「あ~そのぉ、ちょっと節々が――」

 

 チラとシマボシを見た。

 本気と書いてマジの目だった。駄目だ。誤魔化せる相手じゃない。

 

「……あたしの怪我、凄い早く治ったんじゃないですか?」

 

 ヒカリは肩を落とし、正直に尋ねた。

 開け放しの扉から漂う冷気が足を撫でた。

 

「ああ」

「どんな感じでした?」

「どこまで覚えている?」

「バサギリに掴まって……修正パッチを当て終わったところまでは。知らないポケモンが助けてくれて」

 

 自身の腕に触れた。潰された腕はその跡もない。

 

「その体質は前からか?」

「いいえ、ヒスイに来てからです。……黙っていてごめんなさい」

 

 ヒカリはうつむいた。

 

「頑張りますから、迷惑かけませんから、置いてください」

 

 一言ごとに、行き場がない孤独がヒカリの足を掴んだ。

 家出をしたことがある。

 きっかけは忘れたが、明るいうちは元気だった気持ちは陽が沈むほどに萎んでいった。宵闇は魔物のように街を覆い、身を守るように体を縮こめた。

 ――帰ろう。結局、怒られるのを承知でとぼとぼと引き返した。笑い声の聞こえる他人の家の灯りを見たとき、酷く惨めな気持ちになった。

 

 不意にヒカリは、小さなウォロが自分と同じように明るい窓辺を見上げている様を思い浮べた。彼は孤児だと言っていた。いまの彼に帰る家はあるのだろうか。ヒカリに灯りを渡し、笑顔で暗闇の中に去っていたあの顔を不思議と忘れられない。

 

「お願いします」

 

 ヒカリは頭を下げて懇願した。頑張らないといけない。

 頑張れ。

 

 ――ヒスイに限らず、こちらでは故郷がなくなることも、親族がいないことも、理不尽な目に遭うことも、みなさん〝よくある事〟です。

 

 この程度、彼の苦労に比べたら、きっとたいした事ではない。

 シマボシはずいぶんと長いこと黙っていたようにヒカリは思った。

 

「テルがキミを助け起こした直後、キミの体は光に包まれ、みるみるうちに再生した」

「……」

 

 焦って駆け寄るテルが目に浮かぶ。暗がりでも分かるほどに傷は深かったようだ。

 ――当たり前か、とヒカリは床を見つめていた。バサギリの斧で散々斬りつけられたのだから、そこに謎の光も加われば、さぞ目立っただろう。

 自分では分からないけれど、どんな風だったんだろう。自分の体の事ながら、グロくないといいな、とヒカリは切り裂かれた腕に触れた。

 

 深夜の雨中で発光する少女――

 

 眉を寄せた。

 ガバッと顔をあげる。

 

「なんで光ってるんですか」

 

 ヒカリは胡乱な眼差しを向けた。シマボシは変わらぬ鉄面皮で頷いた。

 

「神々しい光だったぞ」

「いやだから、光? もしかしてその光が再生の原因なんですか?」

「私は一度しか見ていない。判断しかねる」

 

 シマボシがきっぱりと言った。ヒカリの頬がぴくぴくとした。

 

 ポケモンじゃあるまいし光ってたまるか。こちとら生まれてこの方、人間以外になった覚えはない。ヒカリは抗弁した。

 

「それホントにあたしの体質ですか? ふつう人間って再生しないじゃないですか。だったらポケモンかなんかが原因なんじゃないかと思います」

「ではキミは、瀕死の人間を再生する事の出来るポケモンが姿を隠している、と言いたいわけだな」

 

 う、と言葉を詰まらせる。整理するとそうなるが、果たしてそんなポケモンがいるのだろうか?

 プレイバック。あからさまに〝死んだのでは?〟という場面がいくつか脳裏を過ぎった。

 

 そのポケモンは瀕死のヒカリを復活させ、かつ、気づかれずに体を回復させる程度の能力を持っていることとなる。ヒカリがウォロに抱えられてコトブキムラに来たときも、ウォロにもヒカリにも勘づかれることなく任務を遂行した。

 

 すげぇ無理がある。

 

 考えれば考えるほど、そんなことはできないと思える。

 回復だけに焦点を絞れば不可能でなくとも、ヒカリのシンオウチャンピオンとしてのプライドに賭けて〝そんなポケモンがいれば気がつかないはずがない〟と断言できる。

 しかしながら、そうではないとすると。

 ヒカリは未知の力により、瀕死時には発光しながら自己再生を行う程度の能力を有していることになってしまう。そのほうがヤバい。

 ヒカリは頭を抱えた。

 

「ポケモンにはまだ謎が多い。だから我々は調査隊を作った」

 

 ヒカリは手を下げ、降ってきた言葉に目を瞬かせた。

 シマボシの声音は優しくはないが、その顔は真摯だった。

 

「それって、あたしの言い分を信じてくれるって事ですか?」

「キミにこちらを害する意思があるのなら話は別だが」

 

 首を横に振る。ならばよし、とシマボシが頷いた。

 

「そのようなポケモンがいるのなら証明しろ。キミは調査隊員であり、それが仕事だ」

「もし、」

 

 冷たい汗が頬を流れた。

 

「証明できなかった、ら?」

 

 ヒカリは泣き笑いのような情けない顔をした。

 いるのか?

 本当に?

 雲を掴むような話だ……ヒカリ自身でさえも、その存在を信じ切れないのに。

 シマボシは繰り返した。

 

「いいか。これは命令だ。証明しろ。恐らくそれは、キミがこの世界に来た理由の手がかりだ」

 

 シマボシの冷静で揺らぎのない瞳はアカギによく似ている。最後の最後まで、敗北してもなお、自分の道を譲らなかったアカギ。彼のようにヒカリも最後には、誰かに道を遮られてしまうのかもしれない。

 だとしても彼と同じようにヒカリだって、先が見えなかろうと諦められない。

 手放せないから大事なのだ。理屈の話ではない。

 

 きゅるるる、と控えめな音がした。

 

 ヒカリは神妙に腹を抑え、シマボシの耳に入らなかった可能性に賭けた。

 

 もう一度鳴った。

 

 もう今日は寝よう。空腹を主張する腹に黙れと命じ、ヒカリは気まずさを誤魔化すように顔をキリッとさせた。

 しかし、その目はおもむろに開いた引き出しから出てきたものに吸い寄せられた。果たして期待の通り、小さな包みをシマボシは差し出した。

 

「これを食べろ」

「……ありがとうございます。シマボシ隊長のおやつですか?」

 

 ヒカリは包みを開けながら問いかけた。四角くて黒い……食べ物? だと信じて口に入れる。芋と蜂蜜のねっとりとした甘みが広がった。

 羊羹だ。

 

「ケーシィのおやつだ」

 

 咽せかけた。

 

 

 

 

 

 テルはシマボシの命令を遂行すべく、朝、研究室の前に立っていた。

 彼は朝早く起き、妙にゆっくりと支度をして、いちいち足を止め、朝食の盆を治療室へ運ぶ老女を少し手伝ってから、ここにやってきた。気持ちが重かったのだ。どうして自分が伝えなくてはならないのだろう。……ヒカリと一番親しいからだ。バサギリの件がなければ、こうまで躊躇ったりはしなかった。

 いまはどんな顔すればいいのか分からない。

 急にヒカリの事が分からなくなってしまった。

 腹をくくり、テルは研究室の扉を叩いた。

 

「ヒカリ、起きてるか?」

 

 がちゃ、と扉は待っていたかのように開いた。にっこりと、すでに隊員服に着替えたヒカリが笑って顔を出した。

 

「おはよ」

「……おはよう」

「ボスが呼んでるんでしょ? もう団長室で待ってる?」

「あ、あぁ。急げよ」

「うん」

 

 颯爽と部屋を出たヒカリの後を、テルは混乱しながら着いていった。

 あの夜の出来事などなかったかのような振る舞いだった。ますます分からない。

 治療室からは楽しそうな談笑が漏れている。空になった朝食の盆を運ぶ老女とすれ違い、「お腹空いたなぁ」とヒカリが呟いた。後でね、と老女と笑い合う。ヒカリは怪我をした形跡もなく、元気に階段に回った。

 それにテルは耐えきれなかった。

 

「あのさ!」

「なに?」

 

 ヒカリが足を止めた。

 段上から見下ろす顔は違和感しかなかった。

 

「お前、」

 

 本当にヒカリか?

 

「怪我、もう平気なのか?」

「うん、治った」

 

 言おうと思っていた言葉は急に違うものになった。舌が別の意思を持ったみたいだ。

 ヒカリから返ってきた言葉は、もっと予想と違っていて、テルには理解出来ない言語だった。

 目の前のヒカリのようなものが、テルには人間によく似たまがい物に見えた。

 喉が鳴る。

 

「治ったって……」

「テルも見てたんでしょ? 治るところ」

(何言ってんの?)

 

 少女がなにか喋っているが、まるきり耳に入ってこなかった。

 光が? ポケモンの原因で? それを捕まえることが出来れば?

 あの時ポケモンなんて、どこにも入る余地はなかった。

 

「お前、おかしいよ」

 

 干からびた声で言うと、少女は操り糸が切れたかのように止まった。

 黒々とした瞳がテルを見返す。

 

「おかしくないよ」

「変だよ。治るわけないだろ。そんなポケモンだって、いない」

「おかしくない!」

 

 少女が喚いた。あまりの声にテルはたじろぎ、階段から足を踏み外した。

 

「あ」

 

 スローモーションに体が傾いだ。

 階上から伸びてくる白い手は得体が知れない。あまりの気持ちの悪さから反射的に払いのけた。視界が反転し、急な階段を転がり落ちる。

 角に散々体をぶつけ、「いってぇ……」とテルは頭を抱えて痛みに悶えた。たんこぶの出来た頭に触れると目の前に火花が散っている。

 階段を見上げた。

 少女の姿はなく、駆けていく音だけが聞こえた。

 

 

 

 

 ヒカリは団長室に飛び込んだ。

 デンボクを前にして、テルと同じものをそこに見た。重いものを飲み下し、「報告に来ました」と頭を下げる。

 

「一昨晩のこと、覚えておるようだな」

「はい」

「では、まず――」

 

 デンボクはテルよりはまだ冷静だった。怪我人相手に喚く気持ちも起こらず、問いにひとつずつ答えるうち、飲み込んだ感情もずぶずぶと沈んでいく。

 努めて明るく無害な人間であることをヒカリは意識した。

 

「昨晩の事は不問に付す。信用を得るために粉骨砕身働くように」

 

 デンボクはそう締めくくり、ヒコザルやビッパのモンスターボールを返してくれた。

 

「ヒカリよ。もし他に、バサギリのようなポケモンがおればどうする」

「いるんですか?」

「どうする。答えよ」

 

 巌のようなデンボクに見下ろされ、ヒカリは眉を寄せた。

 

「鎮めるに決まってるじゃないですか」

 

 何を当たり前の事を聞いているのだ、とヒカリは思った。暴れてるんだから鎮める。他に選択肢などないだろう。

 

「先だってのように身を切り刻まれるやも知れんぞ」

「だぁいじょうぶですよぉ。さっきも言いましたけど、謎のポケモンのおかげで怪我が治っちゃうみたいですし。あんまり痛かったとか覚えてないんです。そんなにヤバかったですか?」

 

 ケラケラと明るく笑い、意気込んで拳を振りあげる。

 

「謎のポケモンも今度こそとっ捕まえてやります! そうすれば怪我した調査隊のみんなの怪我だってすぐ治せるし! ボスも傷、大丈夫ですか?」

 

 デンボクは不気味そうにこちらを見ていた。

 調子に乗りすぎたかな、とヒカリは拳を下ろし、「それで、他にも暴れてるポケモンがいるんですか?」と話を戻した。

 

「そうだ。ヨネ殿から頼まれた。ヨネ殿の出した手紙の返事次第で、すぐに調査に向かってもらう」

「手紙? 誰に?」

「コンゴウ団の長にだ。キングやクイーンは彼らの守り神。不用意に手出しはできぬ」

「はぁ。でも、もう被害が出てるんですよね? 勝手に鎮めたらダメなんですか?」

 

 デンボクがキツい眼差しでこちらを睨んだ。

 

「勝手は許さぬ! わたしたちギンガ団は後からヒスイ地方にやってきた余所者だ。コンゴウ団・シンジュ団とは揉めてはならぬ……分かるな?」

 

 むぅ、と口を閉ざす。まどろっこしい事この上ないが、デンボクが言うのならば従うしかない。ポケモンは心配だが……ここでの生活はデンボクの命令一つだ。

 はい、とだけヒカリは言った。気のない返事にデンボクの眉が吊り上がる。

 

「よいな!」

「分かりました」

「話は終わりだ。返事が来るまでしばしの休息をとるが良い。……お前も疲れただろう」

 

 デンボクは酷くくたびれた顔で言った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。