ガリガリガリガリ。ガリガリガリガリ。トライデントじみたガス灯のみが光源の、暖色系の室内に羊皮紙へとペン先を刻み込む音が響く。柱時計が時を刻み、ペンと秒針の音だけが満ちている。この場にカイセキキカンはない。ペプチド・ペンテンス博士の計算速度より遅いからだ。
照らされる不如帰の墨絵。枯れた尾花を差す花瓶。部屋の片隅に埃の被った折りたたみチャブテーブル。メインとして扱われる執務テーブルには無数の羊皮紙が溢れ、そのどれもに意味不明な数式が列挙されてある……波動関数?いや、似て異なる、もっと禍々しい、何かだ。
知らぬ者が見れば、果て無き数式は狂気に誘う魔術式めいて見える。そういう類いだ。「クッキキキキキ。面白い面白い」不意に博士が言葉を漏らした。全うな数学界からドロップアウトした、邪悪な算術師。およそ色気というものを自ら捨て去った女。
白衣の下は、ダボついたダサいシャツの一枚着。髪も手入れせず、野放図に荒れ果てたナチュラルストームヘア。私室でもあるまいに化粧のひとつすらしておらず、他者からの視線など考慮外。彼女は「恥」というものを一切意識しておらず、奥ゆかしくなかった。
学問の世界は男女平等。万人に開かれている……彼女はタテマエを真に受け、しかし現実の壁にぶつかり、EUヨーロッパアンダーグラウンドへ。ペプチド・ペンテンス博士はテンプレートじみた流れでその組織に所属した。計算さえできれば後は全てが不要。典型的なサヴァン症候群。
いま彼女が導き出そうとしているのは、既存の社会構造を崩壊させる計算問題。しかも、邪悪存在が机上の空論で終わらせず、実現しようとしている。「狂気の問題ほど面白い」博士は狂っている?否。至って冷静だ。冷静に、世界を滅ぼそうとしている。ガリガリガリガリ!ガリガリガリ!ペンに力が篭る。
理論上は30秒で地球をマップタツ。世に絶望していたとき、彼女はそういう計算もしていた。その才能をロート・シュトルムボックが拾っていれば恐るべき悲劇を生み出していただろう。所属先がヨーロッパアンダーグラウンドでも同じだった。
ターン。障子戸を開けてしめやかに入室したのはオーカミ・ニンジャ。手にはスシとチャの乗ったシルバートレイ。給仕の真似事か?ペプチド博士に期待を寄せるがゆえの、差し入れだ。「首尾はどうか」「アー?ボチボチな」博士は顔をしかめた。至高の一時が妨げられたからだ。
彼女は計算しているとき、食事のひとときすら厭う。「そんな顔をするな。計算が終わる前に死なれては困る」オーカミ・ニンジャは卓上にシルバートレイを置こうとしたが、そんなスペースは無かった。シルバートレイをコンマ2秒、中空に放置。
その間に部屋の片隅に転がる折り畳みチャブテーブルを開き、その上に掴み直したシルバートレイを置いた。ワザマエ!ペプチド博士は嫌々ながら計算問題を切り上げ、チェアから降りてチャブ・テーブル前にガール・シットダウン。無造作にスシセットのタマゴを口に放り込んだ。
食事こそを至高概念と考えるオーカミ・ニンジャにとって、他者の食事の面倒を見ると言うことは相当な敬意の表れである。つまり、それだけペプチド博士の計算に期待していると言うことだ。「1bitを最低8つ」博士はおもむろに言った。
首尾はどうか?という質問に答えているのだ。彼女は会話のリズムが常人とは違った。「カイセキキカンってケイオス乱数式は誤作動要因でしょ?しかたがないから規定値で算出にしてあげたよ。4bit1グループ扱いで16進数にしてね。FF式でインターネット。ノロイプロキシな」意味不明。
その脳裏に構築された独自数式、独自言語を語らずとも共通認識だと思い込んでいるのだ。コミニュケーション能力に不足。「……」オーカミ・ニンジャは無言で卓上の羊皮紙の一枚……1ページ目に書き込んだと思われるもの……を手に取り目を通した。「翻訳家がいるな」すぐさま読み解くのを諦めた。
「キッヒヒヒヒヒ!馬鹿だなあ!」ペプチド博士はニンジャ存在を恐れず笑った。頭の螺子が何本も外れ、修正されなかった者は、本能に刻まれたニンジャ恐怖に過敏反応しない。幾人ものテンサイ級、ヤバイ級を保護したオーカミ・ニンジャはそのことを経験則で知っている。「クッチャクッチャ」
咀嚼音が汚い。ペプチド博士はイクラ、マグロといった自分が食べられるスシだけ食べ、雑にチャで流し込み、後は残した。なんたる好き嫌いか!食事で好き嫌いする者は人間関係でも好き嫌いしてしまうぞ!だがペプチド博士は他人という他人すべてが嫌いなので実質ノーデメリット。
食べ残しはオーカミ・ニンジャが残らず食べた。ペプチド博士はチェアに座りなおし、計算に戻る。ガリガリガリガリ。「東西南北。シホー。シータ軸に45°傾けた点も含めてハッポー」センド・ニンジャの導きよりはじまるヒャッキ・ヤギョ。オーカミ・ニンジャは伝説の断片を知る。
ゲート、ゲート、パラゲート、パラサムゲート、ボジ・スバハ。21世紀ではペロケッパカルトにそのチャントが残るばかりで、本質を失伝してしまうマントラ接続法。その応用。「1bitを8つ集める。これを1byteとする。でもこの公式そのままは使いたくない、でしょ?」「そうだ」
「だからウチは1bit4桁を16進数で示すことにした。1byteの中には16進数が2つ並ぶ。故にFF式。それはハッポーでありながらハッポーではないハッポーの重ね合わせ。Fとはファンタジー(訳注・幻想)のイニシャルであり、フェアリーテイル(訳注・メルヘン)のイニシャル」
数学からポエットな文学じみた。ガリガリガリガリ。しかしそれもまた計算式だ。「FF式を経由してインターネット接続する。そのままだとFF式虚数領域どまりだけど、ノロイ変換式によるノロイプロキシを挟めばオヒガンに至る」またもや未知の公式だ。
もしも大学でかような意味不明を黒板に書き込まれようものなら眠りに誘われよう。眠りに誘われず、中途半端に理解しかけるものは発狂するに違いない。こんな計算式が実在してよいわけが無いと。もはやルーシュチャ方程式じみている。だが別物だ。
確かなことは一つ。ニンジャ真実を、この世からオヒガンへ数学的に至るルート計算を詳細に知りたくないのならば、それを理解しては、いけない。だが全くの意味不明では話にならぬ。例題を出そう。
代表的なノロイ変換式を例にあげるならば、藁人形を憎き相手とみたて、ゴスンクギを打ち込むことで憎き相手を間接的に痛めつけるウシミツアワー・カースは有名であろう。この場合、藁人形と憎き相手の間にはノロイプロキシバイパスが通っている。
このノロイを成立させるためには藁人形に憎き相手の体毛――大抵の場合、髪の毛――を埋め込む必要がある。つまり、代替物と本来の目標間になんらかの共通点を通して、ノロイバイパスが通るのだ。このあたりはモータルのノロイ伝説にも残る伝承の通り。
今回の数式に代入するなら、カイセキキカンをダイアルアップ接続にてFF式虚数領域――メルヘンやファンタジー領域――に至り、FF式虚数領域からヒャッキ・ヤギョ式応用のノロイ変換式を挟み、ノロイバイパス経由でオヒガンに繋ぐことになろう。
FF式虚数領域とは?その領域には以下の特徴がある。改変しやすく、修正しやすく、それこそコトダマ空間やユメミル次元めいて……ノロイ変換式が馴染み、組み込みやすく……詳細を知れば知るほどあたまがばくはつするリスクが高まる、危険性を考慮し、ここまでだ。
ともあれ、彼女の計算はヒャッキ・ヤギョ式を活用し、応用し、逸脱した、全てのニンジャ関数を過去にするモータルならではのバックドアなのだ!「賢い!素晴らしい公式だ!」オーカミ・ニンジャは絶賛した。「それで?ヨーロッパのどこへどのようにインターネットを密にすれば良いのだ?そこが肝心だ」
「どこでも」「なんだと?」オーカミ・ニンジャはあやうくペプチド博士を凝視しかけた。危険だ。そのザクロめいて脆い肉体、頭脳には早々に換えの利かぬ叡智が詰まっている。「ダイジョブ。ウチの計算式だよ?それ単体でゲートウェイ。電子ネットワーク飽和なんてナンセンス。局所次元震動で十分な」
「やはりモータルはすばらしい」オーカミ・ニンジャは興奮にうち震えた。「フンス。素晴らしいのはウチだよ。そこらへんにいるモータルとは一緒にしないでよね」ペプチド博士は平坦な胸を張った。増上慢、とは言いきれまい。その叡知、二十一世紀でさえ至るものが居るかどうか……ガリガリガリガリ!
計算は続く。確実にヤバイ級。ヤバイ級の中のヤバイ級。ガリガリガリガリ。「何か欲しいものは?」オーカミ・ニンジャは訊ねた。報いる何かを差し出したかった。「紙とインク。世の中には余白が少なすぎる」オーカミ・ニンジャはしめやかに退室し、紙とインクを持って戻ってきた。
チックタックチックタック。秒針が時を告げている。ペプチド博士は卓上にうつ伏せに倒れていた。目を離したのは、僅かな時間だったはずだ。「おい」オーカミ・ニンジャはチャブテーブルに紙とインクを置き、すみやかに頸動脈へ指を当てた。ニンジャ感知力。不整脈。「まさか……毒か!」
毒はオーカミ・ニンジャが最も忌み嫌うものであった。食べられるものが食べられなくなるからだ。許せぬ。ペプチド博士は死んだように眠っている……眠っている?「驚かせおって」オーカミ・ニンジャは嘆息した。計算を継続すべく、最大効率で脳内整理しているだけだったのだ。
医者の必要性。しかし、医者で人生ドロップアウトするものは実際少ない。落ちぶれたものは、たいてい能力が無い者だからだ。EUヨーロッパアンダーグラウンドに名医無し。医療の助けを、外部から得ておかねば、ヤバイ級の頭脳を持つ生活不能者が突然死してしまう。
ガリ、ガリ、ガリ。ペプチド博士のペン先は同じところをぐるぐるしている。無意識に書いたのか、その余白多き羊皮紙にはオコサマフォントめいたヨーロッパ地図輪郭が描かれていた。ペプチド博士が眠りながら円を描く地名は、ベルリン。
(予言というやつか。直に見るのは初めてだが)ベルリンに何かあるのか、ベルリンこそが最大効率なのか、博士の脳内を知らぬオーカミ・ニンジャには分かろうはずもなし。だがそこに何かを見出だすのが、ジプシー占いだ。「ベルリンがイチバンなのだな?信じるぞ」
オーカミ・ニンジャはそっとペプチド博士を抱え、隣の寝室へと運び込み、寝かせた。そして自らのニューロンを働かせた。ベルリンにどう干渉すべきか。計略ポップアップが無数に浮かぶ。だが、それよりも先に憂慮すべき事柄があった。
「カイセキキカンは作り直しだな」カイセキキカンは二進方式ではない。課題は山積。だが確実にビジョン達成に進んでいる。オーカミ・ニンジャはサイノカワラめいて半ばまで進んだカイセキキカンを打壊し、より良く再生成させる手法の考案に意識を注力した。
【サイバースペース・アナライズ】終わり
◆忍殺◆登場人物#071【ペプチド・ペンテンス】◆少女◆
この世のすべては計算できると豪語して憚らぬ、ヤバイ級の邪悪算術士。19世紀に立ち枯れの時代らしからぬオヒガンからのエテル流入、ニンジャソウル憑依多発の原因を算出した。邪悪なる公式の構築を励むある日、不摂生が祟り突然死した。