FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
目を覚ます感覚というものは、不思議なものだと思う。
一体自分がどのタイミングで夢の世界から現実世界に回帰したのか、それすらも定かではないのに、自分は今覚醒したのだということが理解できるのだから。
それを支えるのは、何だろう。
布団の温もり、或いは重さ。
目を焼く、朝ぼらけの曙光。
鼻を擽る、朝餉の香り。
それとも、今から始まる今日への期待感、或いは憂鬱感?
色々あるだろうし、一定しているわけでもないのだろうと思う。
ただ、今日、俺が一番最初に認識したのは、滑らかな肌の感触と前髪を弄る心地よい吐息だった。
ゆっくりと、目を開ける。
ぼやけた視界を埋め尽くす、艶のある黒。
それが陽の光を反射して、宝石のように煌くのだ。
俺の隣には、まだ目を閉じた、この世で一番愛おしい人が、いた。
俺の、恋人。
すうすうと、安らかな吐息。
睫毛が、時折震える。
枕で波打つ、艶のある黒髪。
整った、鼻筋。
少しだけ開いた、可憐な唇。
両手が、祈るように口元で組まれている。
世界で一番守らなければならない、そう決意を抱かせるに相応しい、寝顔。
遠坂、凛
彼女が、俺と抱き合うように、眠っていた。
衣類と呼べるものは、一切身につけていない。
防寒具、そう呼んでいいものは、少しぶ厚めの布団と、互いの素肌から伝わる体温だけ。
想像以上に、暖かかった。
彼女の命が、暖かかった。
それが、どれ程に俺を暖めてくれたことか。
ゆっくりと、手を伸ばす。
彼女の額にかかった前髪を、払い除けてやる。
「ん…」
彼女は僅かに身動ぎしたが、それでもとても気持ちよさそうに微笑んでくれた。
その、口元に湛えられた微笑の、なんと優雅でなんと幼いこと。
ほとんど衝動的に、彼女を抱きしめる、
小さな額に、口付けをする。
「ん…し、ろう…?」
薄ぼんやりとした声。
そこには、目を擦りながら俺を見上げる、凛。
眠りを邪魔してしまったというかすかな罪悪感と、今日彼女が見た最初の人間が自分だという優越感。
どちらかといえば勝っているのは、後者だ。
「…おはよう、凛」
「…ん、おはよう、士郎」
彼女が、俺の首に手を回してくる。
引き寄せられる。
抵抗なんて、最初からするつもりは無い。
むしろ、俺も彼女を引き寄せる。
互いの顔が、これ以上無いというくらい間近にあって。
吐息が、重なって。
最後に、唇が、交わった。
信じられない位に柔らかな、彼女の唇。
軽く、啄ばむような、キス。
舌は、絡めない。
そんなことしたら、我慢できなくなることくらい、一目瞭然だ。
「ふふ、やっぱり、士郎だ…」
「それ以外の、なんだっていうんだ、俺は」
まるで子猫がじゃれあうような、逢瀬。
感じるのは、性欲ではなく、征服欲でもなく、ただただ、幸福。
肌と肌が触れ合う、それだけで人はここまで満たされるものなのだろうか。
きっと無骨な俺の手で、彼女の滑らかな背中を撫でてやる。
掌から感じる、心地いい心臓の拍動。
これは、最早魔法だと思う。
こんな単純なリズムが、人をここまで安らげてくれるのだ。
そんなこと、この世で彼女以外に、できるはずが無い。
「えへへー」
彼女は嬉しそうに微笑うと、きっと満身の力を込めて、俺に抱きついてきた。
密着する、身体と身体。
彼女の小振りな胸が、俺の胸板で潰れて形を変える。
ふわふわとしたそれは、極上のマシュマロみたいだと思う。
「…ん…?」
彼女が訝しそうに、布団の中を覗きやる。
視線は、俺の股間に。
そこには、いわゆる朝起ちをした、俺の分身が。
「…へえ、やっぱり男の子って、朝は堅くなるのね」
「…面目次第もありません」
不思議そうに覗き込んだ凛の瞳に、僅かばかりの羞恥心を感じる。
無粋かとも思ったが、少しだけ彼女から離れようとする。
折角、昨日は死ぬような思いで我慢したのだ。それなのに朝っぱらから獣になったのでは、色々なものに申し訳ないではないか。
そんな俺の心情を悟ったのだろうか、目の前のあかいあくまが、不敵に微笑った。
「んふふー、どうしたの、衛宮君、もう我慢できなくなってきた?」
鼻の頭に、噛み付くような皺を寄せながら、彼女は笑うのだ。
そうして、再び俺の唇に飛びついてきた。
啄ばむように、数回。
それから、顔中に、キスの雨を降らせてくれる。
全く、その度に俺の忍耐力が、加速度的に削られている事実に、こいつは気付いているのだろうか。
きっと、気付いている。
気付いていて、わざと俺を試しているのだろう。
俺の、何を?
知るか、そんなもん。
「………いない」
「えっ?なんて?」
視界一杯に広がった、凛の笑み。
まるで殻を剥いたゆで卵みたいに、滑らから肌。
俺の顔が映りこまないのが、不思議ですらある。
「何て言ったの、士郎?」
不思議そうに首を傾げる、その仕草。
ああ、起き抜けの頭には、その仕草は猛毒です。
「………って、言ったんだ」
「えっ?本当に聞こえないんだけど」
「一番好きな子にこんなことされて、我慢できる男なんていないって、そう言ったんだ、このバカ!」
一瞬、びっくりした、彼女の表情に。
ゆるゆると、湯船にお湯を張るみたいに、笑みが満ちていく。
その、あまりに幸福そうな視線と、紅潮した頬。
彼女の中で何かが決壊した瞬間、俺の顔は、柔らかな感触に埋もれていた。
「あー、士郎、あんた、反則!」
暖かで、柔らかで、ふわふわとした、それ。
感じる、二つの滑らかな隆起。
それは、間違いなく、凛の、おっぱいだ。
もう、指先一つだって動かせない。
動かせば、俺は、彼女の言うケダモノに変貌する自信があった。
それは駄目だ。
だって、誓ったのだ。
次に凛を抱くのは、この忌むべき大儀式に決着がついてから。
何の制約もない誓いだけど、だからこそ破るわけにはいかない。
そんな、必死の想い。
でも、こいつはそんなこと、気にしちゃあくれない。
わしゃわしゃと撫でられ続ける後頭部。
ぎゅうと、押し付けられて、ふにゃりと形を変える、おっぱい。
それが、悉く俺の理性を奪っていく。
もともと絶対量の少ないそれが、阻止限界点を突破する。
項を弄る冷たい風だって、そんなもの、止められない。
「凛…!」
柔らかな拘束を打ち破って、彼女を布団に押し倒す。
俺を見上げる、彼女の瞳。
金色の曙光に映えるそれは、熱っぽく濡れていた。
「士郎…」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
まるで、俺を受け入れる準備が整ったかのように。
そうして、俺は。
そして―――。
はたと、気付いたのだ。
なんで、冷たい、風?
確かに、家屋が培った歴史と、その建築年数は比例する。
当然、武家屋敷然としたこの家、それなり以上の建築年数は経過しているのは、純然たる事実。
だが、定期的な保守点検は怠ったことはないし、当然隙間風なんかが吹く余地は無い。
…まさか。
凛を組み敷いたまま、そろりと後ろを振り返る。
そこにあったのは、陽光を透過する、薄い障子紙。
それを支える、木枠。
そして、その中央。
僅かに開かれて、そこから差し込む、朝日。
そして、縦に並んだ、二つの瞳。
赤い瞳と、黒い瞳。
それが、同時にぱちくりと。
凍る時間。
やがて、レンジでチンされた、時間。
二つの視線と俺の視線が交差した瞬間、それらの瞳は、にやりと歪められて。
「衛宮士郎の、えっちー」
「リンの、えっちー」
そんな響きが、ピンク色の空気を、吹き飛ばしてくれた。
聞き覚えのある、それらの声。
その二つともが、いわば俺の姉と呼べる人達の口から放たれたものなんだから、性質が悪いよなあ、もう。
そして、俺の下で、硬直した、彼女の体。
それが、瞬時に爆ぜる。
吹き飛ばされる、俺。
転がっていく、俺。
「あ、あんたら、何覗いてんのよぉ!」
きゃーきゃーと、遠ざかる、二つの声。
誰にも見向きされない、俺。
なんだか悲しくなってきた。
「全くもう…って、士郎、あなた、そんな格好で何してるの?朝っぱらからバックドロップでも喰らった?」
もしそうだとしたら、喰らわせたのは、間違いなくあなたです、遠坂凛さん。
訝しそうに覗く込む、彼女。
逆さまになった彼女。
しゃがみこんだ、その姿勢。
天地逆さまになった、俺の姿勢。
薄暗い、それでも朝日に祝福された室内。
ならば、結果は明白だ。
「凛…」
「何、士郎?」
きっと、碌でもない事態になるのは理解しつつ、それでも言ってしまう、悲しい男の性。
「…丸見えだ」
ごす。
その日、少し寝汚かった我が家の住人を起こしたのは、肉が肉を打つ、衝突音だったはずである。
episode85 家族風景
「「「いただきまーす」」」
幾重にも幾重にも重なった、男女の声。
ただっ広い衛宮邸の居間、そこの人口密度が酷いことになっています。
臨時来客用のちゃぶ台が一つでは足りません。
ちらりと左を見れば、そこには凛、セイバー、桜、ランサー。
ちらりと右を見れば、そこにはイリヤ、リズ、セラ。
ちらりと正面を見れば、そこには代羽とアサシン。
本来、いがみ合い殺し合うが聖杯戦争の道理。
なら、三組のサーヴァントとマスターが一同に朝食を食べるこの状況というのも、初めて見られる光景なのではないだろうか?
のほほんとそんなことを考えていたら、隣からすごい声が聞こえた。
「おい、坊主、ぼさっとしてんな!おかわりだ!」
抵抗や抗議は無意味なので、唯々諾々と従った。
ああ、朝の空気はいいなあ、と。
のほほんとお茶碗にご飯を盛っていたら、やはり隣からすごい声が聞こえた。
「シロウ、こちらもおかわりです!」
それは、正しく鬨の声だった。
それは、正しく剣戟音だった。
剣の代わりに、お箸を構え。
名誉の代わりに、満腹を求め。
命の代わりに、おかずを奪い合う。
それは、正しく戦場だったのだ。
「ランサー、貴方は既に唐揚げを二つ食べている!ならば、それはリンの分のはずだ!」
「あー、セイバー、私なら、別にいいわよ。もともと朝ごはん、食べない主義だし」
「何を腑抜けたことを!いいですか、リン!そもそも朝食とは一日の活力であり…!」
「あーもー分かったわよ。私の食べなかった分はセイバーの分、それでいいんでしょう?」
「私が言いたいのはそういうことではありません!ですが、それはそれとしてご厚情は頂いておきましょう!というわけだ、ランサー!犠牲となった唐揚げの代わりに、シュウマイを二つ、寄越しなさい!」
「んー、それって勝ち過ぎじゃない、セイバー?」
「ああ、もう、そんなにがっつかないでください、恥ずかしい…」
「あん?何言ってんだ、桜。ここは戦場だぜ。古来より、兵は巧緻より拙速を尊ぶって言ってな、早飯、早風呂、早糞が基本だ」
「早…!もう、食事中ですよ!」
「あー、いちいちうるせえな。そんなだと、白髪が増えるぞ、白髪が」
「…人の気にしてることを…!…うふふ、いいでしょう、ランサー、いい機会といえばいい機会です。この際、これからの良好な主従関係を構築するためにも、仔に入り細を穿つまで、話し合おうじゃあありませんか…」
「おい、ちょっとまて、桜、その影は何だ、その影は!」
「あー、納豆だ。私、これきらいー」
「イリヤ、私の卵焼きと交換する?」
「ありがと、だから貴方って好きよ、リズ」
「いけません、お嬢様。如何に豆の腐ったような、未開の原始人でも食べないような、最早嫌がらせとしか思えないような下賤の料理でも、食卓に出された以上はきちんと平らげるのが貴族としての礼儀。それと、リズ。貴方はいつもお嬢様を甘やかし過ぎなのです。だいたい…」
「…セラのお説教、長いから、嫌い…」
「片手では、鯵の開きをほぐすのは難しいでしょう。貸してください」
「要らぬ世話だ。この程度のことで主殿の手を煩わせることもあるまい」
「私が望んでいるのです。それとも、既に令呪を使い尽くしたマスターの命令など、聞く余地はありませんか?」
「…主殿は、卑怯である。そのように言えば私の舌は黙らざるを得ないことを知って、なおそれを利用するとは」
「ふふ、毒婦を主に持った従者の悲哀、そう思って諦めてくださいな。…そうだ、あれ、一度やってみたかったのですけど、お付き合い頂けますか?」
「…あれ、とは?」
「はい、アサシン、あーん」
「…不愉快だ!席を立たせてもらう!」
「あーん、ほら、アサシン、あーん」
…カオスだ。
…フリーダム過ぎる。
これが、過去において、世界中に勇名を轟かせた英霊達の食卓なのだろうか。
ぎゃあぎゃあと、喧しいことこの上ない。中学生の修学旅行だって、もう少し秩序だったものであるはずだ。
そして、男の英霊達。
ランサーと、アサシン。
前者は、まさにお説教の真っ最中。正座して項垂れながら桜に怒られるその姿は、悪戯をして叱られる子犬を彷彿とさせる。
後者は、涙目で縋りつく代羽を振り払えなかったのか、大人しくされるがままとなっている。箸が差し出されるたびに無言で口を開けるその様は、親鳥に餌を与えられる雛鳥みたい。見よ、白い仮面の上に哀愁が漂っているではないか。
だいたい、過去の英雄が現代のマスターの尻に敷かれてるという状況は、一体どうだろう。ごく一部の地域を除けば、歴史上、世界的に男尊女卑の期間が長かったはず。その是非は置いておくとして、そんな時代に生きた英雄が現代の女性に頭が上がらないというのは少々情けない話なのではなかろうか。それとも、それだけ強くなった現代の女性を褒めるべき?
うーん、わからん。
そんなことを考えていたら、正面から声をかけられた。
「どうしましたか、衛宮士郎?」
ほくほくと満足気な顔の、代羽。
傍らに陣取っていた黒い人影は、逃げるように姿を消した。余程に恥ずかしかったと見える。
「…可哀想になあ…」
不思議と、もう、アサシンには負ける気がしない。例え、夜道であの仮面を見ても、怖くない。むしろ、噴き出してしまわないかどうかのほうが心配である。
「全く、たった一杯ですよ。たった、ご飯一杯。それだけで満足してしまうなんて、健啖をもって尊ぶべき武道家の風上にも置けない、そうは思いませんか?」
「ああ、いや、うん、そうだね、俺もそう思うよ…」
…それは、ご飯一杯しか食べられなかったんじゃなくて、そこが彼の羞恥心の限界だったんだよ、代羽。
そう教えてあげようかとも思ったが、そんなことは百も承知な気がして、止めた。
それでも、ぷりぷりと怒る、いや、怒るふうを装う、代羽。しかし、その頬は緩みっぱなしだ。余程、アサシンに『あーん』攻撃ができたのが嬉しかったと見える。
俺は、心底彼に同情した。まさか、戦争の道具として召喚されて、こんな形の敗北を味わうとは夢にも思わなかったに違いない。合掌。
まあ、ともかく、だ。
色んな意味で満足した代羽は、今度はその食欲を満足させるべく、目の前の料理の征服に乗り出した。
その細い体のどこに収まるのか、そういう勢いで姿を消していくおかずたち。ああ、藤村組の厨房を借りてまでたくさんの料理を準備しておいた甲斐があるというものである。
「あ、おい、小娘、それは俺の餃子だ!」
「代羽、その唐揚げは最後の楽しみに取っておいたもの、何と卑劣な…!」
「あー、シロ、その卵焼き、私のなのにー!」
「ほほひひへいふひほははふいほへふ、むぐむぐごくん、おほん、余所見している人が悪いのです。おかずは、然るべき時に然るべき人間の胃袋に納められるように出来ているもの。天に順う者は存し天に逆う者は亡ぶ、と言います。縁が無かったと諦めなさい」
…肉親の贔屓目で見ても、それは詭弁の域にさえ達していないです、兄さん。
正しく、盗人猛々しい。
そんな彼女を見て、他の連中が発奮しないはずが無い。
「おい、桜、飯だ、飯を持って来い!」
「シロウ、おかわりです!このような屈辱、雪がずにいられましょうか!」
「お兄ちゃん、シロがいじめるー!」
うちゅうの ほうそくが みだれる!
こんなににぎやかで愉快な衛宮邸は、有史以来初めてです。
もう、朝っぱらから俺の忍耐力と疲労度は、レッドゲージを突破しております。
だから、兄さん。
貴方の、そんなに楽しそうな顔が。
初めて見る、貴方の、楽しそうな顔が。
私は、嬉しいと。
そう、思ってしまうのです。
◇
家に着いたときには、東の空は白み始めていた。
いつもながら身分違いだと感じる、重厚な門。その先で、兄さんの背中から降りる。
「ありがとう、助かったよ」
その広い背中が、どれほどに俺を安心させてくれたか、目の前の少女は知り得るのだろうか。
やや間があって、それでも照れたような声が、聞こえた。
「…この程度では、何の罪滅ぼしにもなっていないでしょう。…それでは、失礼します」
勇んで帰ろうとする小さな肩を、強引に捕まえる。
もう、絶対に放さない、そういう決意を込めて。
「駄目だ。言っただろ、兄さん。まだ、イリヤと桜に謝ってないなら、謝っていけって。殺したなら別段、生きている人間に償うのに、一番大事なのは目の前で頭を下げることだと思う。だから、兄さん。逃げちゃ駄目だ」
泣きそうな表情で息を詰まらせた少女は、やがて諦めたように肩を落とした。
その小さな肩を、凛が支えてやっている。
「きっと許してくれる、なんて無責任なこと言えないけどね。でも、今しておかないと、明日後悔するわ。それだけは断言できるから。だから、代羽。もし貴方が許しを欲しいと思うなら、今、行かなくちゃ」
立ち尽くした兄さんは、力なく頷いた。
その様は、年齢相応と言うよりも、更に幼い少女の様子を思い起こさせた。
そう、例えば母親の宝物に悪戯して、しょげかえる小学生のように。
ひょっとしたら、兄さんの中にある一番大事な時計の針は、あの火事の日から一秒たりとも進んでいないのかもしれない。
そんな絶望的な想像を、頭を振って、追い出した。
「ただいまー」
「…失礼します」
兄さんは、慇懃に頭を下げてから敷居を跨いだ。
おずおずとした様子に、思わず苦笑してしまう。
「兄さん、今日からここは兄さんの家でもあるんだから、そんなに畏まらなくてもいいのに」
それに返すのも、少し苦笑したような声。
「それは違います。これからお世話になる家だからこそ、相応の礼儀が必要でしょう。それと、衛宮士郎。私と貴方が兄弟に戻るのであれば、それこそそういった畏まった口調は不要です。代羽、と、皆に話すのと同じように話しかけていただけると有難い」
なるほど、そういうものかも知れないと、俺は納得した。
「ああ、分かったよ、代羽。…これで、いいのか?」
目の前の少女は、花も恥らうような笑みを浮かべた。
こんな笑顔が見られるなら、呼び方の一つや二つ変えるくらい、安過ぎる仕事だろう。
そうして、三人が三人とも、どろどろの格好で玄関に上がる。
泥水で水浸しになった靴下が、板張りの廊下に歪な足跡を付けていく。
まあ、後で雑巾がけをすれば問題ないだろう。
そう思って、歩く。
まずは、一も二も無く、風呂である。冷えた体を温めないと、えらいことになる。
「ここが、先輩の家なんですね」
後ろから、謡うような声が、聞こえた。
振り返る。
そこには、柱に手を添えながら、ぼう、とした代羽が、いた。
「代羽…」
マキリ。
あの家は異常だった。
特に、あの修練場には怖気を通り越して、吐き気すら覚えた。あの部屋で代羽が受け続けた屈辱を思うと、怒りで目が眩む。
「…また、考えなくても良い事を考えているようですね。勘違いしないで、私はマキリの家になんら不満があったわけではありませんから。私は、確かにあの家に、救われたのです」
視線を柱に向けたまま、代羽が呟く。
それは、遠い過去に思いを馳せる視線ではなかったか。
「…ここは優しい家ですね」
目を細めながら、代羽が続ける。
「自然と人が集まる場所には相応の理由が在るものです。
ねえ、そうではありませんか、アインツベルン?」
「…なんでマキリの蟲女が、士郎の家に入ってきてるの」