FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode86 黄金の湯霧

「…なんでマキリの蟲女が、士郎の家に入ってきてるの」

 

 絶対零度の声が廊下に響き渡る。

 おそらく、それは人の発声しうる、最も冷たい声。

 屠殺場の家畜にだって、もっと優しい声がかけられるはずだ。

 あらためて、廊下の奥を、見遣る。

 そこには、氷よりもなお冷たい視線と気配を纏った、冬の少女が、立っていた。

 

「イリヤ…」

「出て行きなさい、ここは貴方が存在することを許された空間ではないわ。貴方には貴方に似合いの部屋があるでしょう」

 

 それは、あの穢れきった。

 蟲が、這い回る。

 彼女の肢体を、貪り尽す。

 

「イリヤっ!」

「…ふふ、つれないですね、イリヤスフィール。あの日、私のことはこれからシロと呼ぶと、そう、親愛を込めて言ってくれたではないのですか」

 

episode86 黄金の湯霧 

 

 あの日。

 昼下がり。

 住宅街の、公園。

 そのベンチで、初めて出会った二人。

 ほんの少し剣呑な空気と、その後の和やかなそれ。

 二人で、情けない俺の姿を肴にしながら、それでも楽しそうに話していた。

 

「…あの時、貴方が蟲の集合体だと気付けなかったのは、一生ものの醜態だわ」

「そうですね、白い聖杯よ。貴方にしては、些かお粗末だった。私の身体を調べるのに、魔術的な精査は不向きなのです。そちらに関しては、私は普通の人間で変わるところは一切無い。なぜなら、そのように擬態しているのですから」

  

 あの日、イリヤはこう言った。

『……驚いた、本当に違うのね、お姉ちゃんは』、と。

 しっかりと、代羽の身体の検査をした上で、そう言った。

 つまり、イリヤの魔術をもってしても、代羽の身体の特異性を見破ることはできなかったと、そういうことだ。

 少なくとも、あの時点においてイリヤは代羽に敗北していたのだ。

 おそらく、凛や桜が、代羽の真実を見抜くことができなかったのと同じように。

 それを思い出したのか、口惜しそうなイリヤの視線。

 明らかな殺気に塗れたそれを、何食わぬ顔で、代羽が受け止める。

 二人の距離は、僅かに五メートルほど。

 彼女たちに挟まれた無垢の空間が、悲しい声で軋み声を上げる。

 憎悪が帯電するような、空気。

 一触即発、そんな言葉では些か安穏に過ぎる。

 

「簡単なのですよ、ほら」

 

 代羽は、その濡れた髪の毛の一部を、力任せに引き千切った。

 ブチブチと、毛穴から毛根が引き抜かれる、嫌な音が聞こえるようだ。

 そして、彼女の右手に鷲掴みにされた、一房以上の髪の毛。

 それをにこやかに見つめる代羽自身の額から、一筋の血液が流れる。

 よく見れば、引き千切られた髪の毛の先端に、赤黒い何かが付着している。

 頭皮の肉ごと、剥ぎ取ったのか。

 思わず現実感の遠のくような、異常な光景。

 しかし、そんな常識の範疇の異常よりも遥かに外れていたのが、彼女が引き抜いた、無残な髪の毛の様子だった。

 苦悶していた。

 炭に炙られる烏賊の足みたいだった。

 苦痛に、身を捩っていた。

 釣り針を噛まされた多毛類のようだった。

 物言わぬはずの毛髪の一本一本が、怨嗟の声を上げながら、悶え狂っていた。

 やがて、毛髪の形をした蟲達は、その先端を代羽の身体に突き刺す。

 唇に、鼻の頭に、そして眼球に。

 その様子は、黒い針金が彼女を貫くようであり、或いはこの世で最も性質の悪い寄生虫が獲物に喰らい付いた瞬間のようでもあった。

 ずるずると、彼女の体に侵入を果たす蟲達。

 しかし、その本質は、ただ逸れた仲間が群れとの合一を果たしたに過ぎない。

 結局のところ、どれほど人の形が相応しくても、彼女は蟲の群体であるという事実は消えてくれないのだから。

 

「こうすれば、私が人でないことは一目瞭然だったのに。全く、口惜しいですね」

「…もっと早く気付くべきだったわ。そうすれば…」

「そうすれば、バーサーカーも死ぬことはなかった、そう言いたいのですか?」

「…そんなに死にたいの、貴方?」

 

 イリヤの紅い瞳が、その紅色を強めていく。

 白金の頭髪が、溢れ出す憎悪に巻かれて舞い上がる。

 際限を知らないように高まっていく彼女の魔力。

 不味い。

 このままでは、殺し合いになる。

 そう、思った瞬間。

 

「私は、謝りませんよ、イリヤスフィール」

 

 間の抜けた声が、廊下に響いた。

 それでも、毅然とした声であった。

 己の非を認めない、確固とした意志があった。

 しかし、同時に弱弱しくもあった。

 例えば、学級会で吊るし上げを喰らった、それでも己の正しさを主張する小学生のように。

 俺は、彼女の瞳を覗くことができなかった。

 そこに涙が溜まっていれば、俺は平静でいることが出来なかっただろうから。

 

「私の従者メドゥーサと、貴方の従者ヘラクレスは、正々堂々と、正面から渡り合った。私は、自分が如何に罪深いか、その一端程度は理解しているつもりです。しかし、私の謝罪が従者の誇りに泥を塗るのであれば、私は死んでも頭を下げるわけにはいかない」

「…、だからって…!」

「それに、故無き勝者の謝罪は、何よりも敗者の誇りを傷付けるでしょう。それでも、貴方は私如きの謝罪が欲しいとでも?」

 

 イリヤは、悔しそうに俯いた。

 俯いたまま固まってしまった。

 唇を噛み締めている。

 手を、握り締めている。

 俺は、動けない。

 俺の肩に置かれた、誰かの暖かい手にも、気付けない。

 

「そして、私は、ヘラクレスに謝罪するつもりが無いのと同時に、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンに謝罪するつもりも無い。何故なら、彼女は貴族だから。貴族は、戦う者だから。戦いを生業としたものが、何を求めて何を失うか、その全てを了解した上で参戦した大儀式。そこで敗れ去った弱き者に対して、どうして同情の言葉が必要なのですか?」

「…うるさい、黙れ…」

 

 雪の少女は、苦しそうに反駁した。

 目の前にたった蟲の少女を睨みつけながら、反駁した。

 それは、感情の塊だった。

 もう、理屈とか、敵とか、筋とか、そういうものではなかった。

 ただ、許せない。

 ただ、悔しい。

 ただ、悲しい。

 そういう、他者には到底伝えきることの出来ない感情の塊、それが彼女の中を、きっと荒れ狂っているのだろう。

 そう、思った。

 

「ただ、イリヤ」

 

 代羽は、そっと、歩き出した。

 たったの。数歩。

 べしゃりと、濡れた足音。

 それすらも、間抜けに響く距離。

 やがて、対峙する、雪の少女と蟲の少女。

 白い聖杯と、黒い聖杯。

 俺の、姉と、兄。

 そこに、人一人が立ち入るだけのスペースは、既に無い。

 

「私は、貴方にだけは謝罪したいと思います」

 

 彼女は、その場に膝を折って、床に直接坐り。

 両手をイリヤの爪先の前に揃えて、そのまま額を地面に擦り付けた。

 

「申し訳ありませんでした、イリヤ。私は、貴方の家族を、奪った。貴方の最も大切な人を殺した。その罪、万死に値します」

「…そのまま、『ハラキリ』でも見せてくれるの?」

「お望みと在らば。もっとも、その程度で死ぬことなど出来ませんが」

 

 じりじりと、どこかで音が鳴った。

 ひょっとしたら、冷蔵庫のモーター音かもしれないし。

 蛍光灯の、焼ける音かもしれないし。

 正直、どうでもよかった。

 ただ、目の前で土下座して許しを乞う代羽が、兄さんが、少し悲しかった。

 

「…私を殺そうとした貴方が、どうして私の許しを欲するの?」

「…確かに、私は貴方を殺そうとした。ありとあらゆる恥辱と凌辱の果てに、殺そうとしました。それでも、私は許して欲しい。イリヤ、貴方には、赦して欲しい」

「…あの時、貴方、言ったわね。私が罪深いって。それ、何のこと?少なくとも、直接的に貴方に恨みを買った覚えなんて、無いのだけれど」

 

 代羽を見下すイリヤの瞳に、既に怒りは無かった。

 そこにあったのは、憐憫だった。

 それが、年端もいかない少女、その前で膝を折る代羽の姿を憐れんでのことなのか、それ以外のものを憐れんでのことなのか、それは分からなかったが。

 

「…貴方の罪は、死んだことです。貴方にもっとも救いを求めていた者を見捨てて、安楽に満ちた違う次元に旅立ったこと。それが、貴方の赦されざる罪です」

「…私、まだ生きてるんだけど」

「はい、知っています。ですから、お願いします。心から、お願いします」

 

 ごつんと、低い音が、鳴った。

 それは、少女の額が、堅く冷たい廊下と正面からぶつかった、乾いた音だった。

 兄さんは、真実額を廊下に擦りつけながら、涙に滲んだ声で、こう言った。

 

「生きてください。生きてください。お願い、イリヤ、死なないで。みっともなくても、醜くても、どんなに苦痛でも。お願いだから、生きてください。彼を、見捨てないで下さい。お願いします、私には、お願いすることしか、出来ないの。だから、お願い。どうか、生きて、お願いだから、生きて…!」

 

 しばらく、誰も動かなかった。

 俺も、凛も、そしてイリヤも。

 ただ、蹲った代羽の背中だけが、寒さに耐えるように、ガタガタと震えていた。

 泣いているのだろうか、と。 

 俺は、残酷なことを思った。

 

「…つまんない。もう一回、寝直すわ、私」

 

 やがて、雪の少女は、その踵を返した。

 とたとたと、軽快に、それでも無遠慮に響く、少女の足音。

 それを遠くに聞きながら、代羽は額を廊下に押し当てたままだった。

 

「しろ…」

 

 彼女の背中、震えたままの小さな背中に伸ばしかけた、俺の腕。

 それを、誰かの小さな手が、制する。

 ゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは、少し厳しい瞳で俺を見つめる、俺の恋人だった。

 彼女は、ゆっくりと頭を振ってから、そっと歩き出す。

 そして、小さくなった代羽の背中を摩りながら、彼女を優しく立ち上がらせてやった。

 うう、と、低くくぐもった声が、聞こえた木がした。

 嗚咽、だったのかもしれない。

 

「…さ、代羽、お風呂、入りましょう。大丈夫、私も一緒に入ってあげるから…」

「…ふ…っぐ…す、みません、おねがい、します…」

 

 よろよろと歩き出す代羽。

 その背中は、ついさっきまで俺と戦っていたことが信じられないくらいに、弱弱しいものだった。

 

「ほら、何ぼさっとしてんの、士郎。あんたも来るの!」

「え、俺?」

「あんた以外、士郎なんてどこにいるのよ?あんただってたっぷり雨に打たれたんだから、油断してると風邪引くわよ」

 

 …そりゃあ、そうかもしれないけど。

 

「ほら、早く来る!今更、知らない仲じゃあないでしょう!」

 

 いつもより高めの大声は、きっと少し緊張しているから。

 女の子にそこまで言わせたんだ。これでびびってたら男じゃあない。

 そんな、きっと言い訳を頭の中で聞きながら、俺の足はのったりと動き出したのだ。

 

 

「あー、極楽、極楽…」

 

 朝の光が、小さめの窓から差し込んでくる。

 その光は、湯気に満たされた狭い浴室を、鮮烈に照らし出すのだ。

 俺は、今、湯船に浸かっている。

 しっかり肩まで浸かって、あと百秒数えたらあがっていいよ、そんな状態だ。

 皆が使った後の残り湯だから、自然とその量は減っている。

 それでも、今、その水位は決壊寸前、しっかりと俺の肩までひたひたに温めてくれる。

 理由は、簡単。

 俺を含めて、三人分の体積が、湯船に沈んでいるからだ。

 

「んー、檜の湯船っていいわね。何度浸かっても飽きないわ」

「ええ、全く。この、胸を梳くような香りが、たまらない」

「…」

 

 俺の両サイドに、二人の人影。

 遠坂凛と、マキリ代羽。

 ここは日本の風呂、しかも個人の風呂なんだから、当然の如く二人とも一糸纏わぬ艶姿である。

 煌くような朝日の中、浮かび上がった二人分のシルエット。

 白く、艶かしい肌が、二人分。

 当然、いくら広めとはいえ、個人の家にある湯船がそれほど広いはずは無い。

 そこに三人分の肉体を詰め込めば、然るべくしてあれやこれやがぶつかるわけで…。

 

「ちょ、士郎、どこさわってんのよ、エッチ!」

「あん、士郎、そんな、大胆な…。こんな場所では…それに、凛の前では、少し恥ずかしいです…」

「な、士郎、あんた、もしかしてシスコン?いや、この場合はブラコン?それとも同性愛?」

「もう、ちゃんと言ってくれれば、私は何でもしてあげますよ?言ったでしょう、娼婦にでも奴隷にでもなると…」

「…士郎!あんた、代羽に何したのよー!」

「ふふ、激しかったわ…」

 

 …すみません、もう、勘弁してください。

 怒りに満ちた凛の声と、明らかに嗜虐に歪んだ代羽の声。振り返れば、凛からは見えない角度で小さな舌をだしている。少し眼が赤い気がするが、その様子はいつもの代羽だ。

 ああ、これ以上ここにいたら、殺されるな。

 そう確信して、心の中で白旗を振り回して、すっかり温まった身体を湯船から引き上げようとした、そのとき。

 

「…ん…?」

 

 磨りガラス越しに、誰かの影が、見えた。

 小さい。

 そして、長い髪の毛と、曇った視界でもわかるほどの、白い身体。

 これは―――。

 

「入るね、お兄ちゃん」

「イリヤ―――!」

「駄目、見るな―――!」

 

 がらがらと開いた、浴室の扉。

 その瞬間に俺の目の上から覆いをしたのは、きっと凛の掌だろう。

 

「これ以上、私の恋人に変態属性を噛ませるわけにはいかないの!お願いだから、見ないで!」

 

 …うーん、これでも一応はイリヤの身内だし、家族に欲情するほど、ケダモノじゃあないぞ、凛。

 そんな俺達なんていないふうに、イリヤの気配が室内に入ってくる。

 軽い、足取り。まるで体重なんて無いかのよう。

 

「…イリヤ」

「…少し、寝汗掻いちゃったから」

 

 風呂椅子を手繰り寄せる、音が聞こえた。

 きっと、それに腰掛けたのだろう。

 

「誰か、背中、流してくれると、嬉しいな」

「イリヤ…」

 

 ゆっくりと、目隠しが外れる。

 優しい戒めから解き放たれた視界には、無数の宝石が踊っていた。

 きらきらと輝く朝の光を、湯気が反射している。

 ダイヤモンドダストみたいだと、思った。

 そうして、それを従える彼女は、まるで雪の女王。

 その白い背中が、限りなく尊かった。

 

「…私でも、いいですか、イリヤスフィール」

「…イリヤ、そう呼んでくれたら、貴方でもいいわ、シロ」

 

 隣で、ばしゃりと湯から上がる音が、聞こえた。

 俺と凛も、無言でそれに倣う。

 ただ、違ったこと。

 俺と凛は、そのまま浴室を後にしたけど。

 もう一つの音の主は、其処に残って、雪の少女の背中を、労ったのだろう。

 それだけが、違うこと。

 三人が同時に浸かったあとの湯船だから、お湯の量が心配だけど。

 二人が同時に入るなら、それでも肩まで浸かれるだろう。

 それでいいと思った。

 ふかふかのタオルで、手早く身体を拭いて。

 下着を身につけて、パジャマを着て。

 そうして、ほかほかと湯気を身に纏ったまま、俺と凛は、同じ布団に、入った。

 布団の中で、さっき身につけたばかりの衣類を、全て脱がせあって。

 そのまま、優しい気持ちのまま、抱き合うようにして眠ったのだ。

 ほんの一時間少しの、短い眠りだったけど。

 それでも、一番深いところで眠れたのを、憶えている。

 

 

 朝食が終った後の、気怠い食卓。

 そこを、張り詰めた静寂が支配する。

 

「…以上が、この聖杯戦争の舞台裏。どう?少しは驚いてくれたかしら?」

 

 イリヤは、出来のいい手品を成功させたマジシャンみたいに、得意げに笑った。

 大変なのは、それを聞いたほうだ。

 凛、桜、ランサーは言うに及ばず、魔術の世界には疎い、俺やセイバーなんかも驚きを隠せない表情のまま固まっている。

 平静なのは、或いは平静を装えているのは、おそらく全てを承知していたセラとリズ、あとは代羽とアサシンくらいのものだろうか。

 

「…第三魔法、ヘブンズフィール、か。まさか、私のご先祖様が、第二だけじゃなくて第三魔法にまで関わってたなんて、ね…」

「ふふ、そういう意味では、貴方は自分の出自を誇ってもいいんじゃないかしら、リン」

 

 二百年前。

 集まった魔道の大家は、三つ。

 表の聖杯戦争と、裏の聖杯戦争。

 内を改変するのではなく、外に至る試み。

 そうして、第三回、聖杯戦争。

 アインツベルンの呼び出した、反英雄。

 アベンジャー、アンリマユ。

 この世全ての悪。

 ただ、悪であれと、そう望まれた存在。

 それが、聖杯に潜むものの、正体。

 

「代羽は、そんな奴と、パスが繋がっているのか…」

「ええ。私の子宮、黒い聖杯とアンリマユは、最早不可分なほどの強い結びつきがある。おそらく、今回の聖杯戦争においてイリヤの心臓に只の一つも英霊の魂が収められていないのは、そういうことでしょう」

 

 代羽は、事も無げに言い切った。

 おそらく、この程度のこと、彼女にとっては既定の事実だったのだろう。

 何せ、彼女が彼女として生まれたときから、そのくそったれな契は、そこにあったのだ。今更嘆き悲しめというほうが酷に過ぎるのかもしれない。

 だからこそ、その様子が、俺の目には限りなく残酷に映った。

 

「…貴方が受け入れているなら、話が早くていいわ。もし、今回の聖杯戦争で『穴』が開くなら、それはアンリマユがこの世に生誕することを意味している。今までみたいにアインツベルンの鋳造した聖杯ならばいざ知らず、今回は、いわばアンリマユの作り出した聖杯が道しるべなんだから、中にいる者が這いずり出てこない筈が無い」

 

 …つまり、代羽の存在は、アンリマユにとって闇夜を照らし出す灯台のようなものだということだろうか。

 今まではその出口が分からなかったから、泥なんていう迂遠な手段をもって外界に働きかけるしか出来なかった魔が、今回はその本体を受胎させることを狙っている、と。

 

「…では、この地の聖杯では、私の願いは…」

 

 ぎしりと、歯を軋らせる音が、聞こえた。

 そこにいたのは、かつての俺の従者で、今の俺の戦友。

 聖緑の瞳をした少女が、射殺すような視線で、己の膝を、見つめていた。

 

「…そうね。あなた方、招かれた人達には申し訳ないけど、既に冬木の聖杯は、あらゆる願いを『人を呪う』という方向性で叶えることしか出来なくなってしまっている。セイバー、貴方の願いが何なのか、私は知らないけど、貴方のような人が望む願いは、きっと叶えられない」

「…それでは、詐欺でないか…」

 

 血を吐くような、台詞。

 飲み込んだ石を吐き出すような、一言だった。

 彼女が、気高い彼女が、一体どんな願いを持っているのか、情けないことに俺は知らない。

 それでも、己の死後を預けても構わないと思うほどの願い。

 それが叶う機会が、後一歩のところで断たれた。その怒り、口惜しさ、歯がゆさは筆舌に尽くし難いほどだろう。

 

「…すまない、セイバー…」

「…何故、貴方が頭を下げるのですか、シロウ。貴方は、何一つ悪いことをしていない。悪いのは…」

「私も謝罪させて、セイバー。かつてアンリマユを呼び出し、かつて貴方を使役したものの子孫として、私には貴方の怒りを受ける義務があると思うの。だから、御免なさい。許して、なんて口が裂けても言えないけど…、でも、御免なさい」

「…頭を上げてください、シロウ、イリヤ。確かに、謀られた怒りは容易に消えてくれそうにはありません。しかし、今、我々には成すべきことがあるはずだ。これ以上民草の血を流さないためにも、我々はくだらないことで仲違いをすべきではない。故に、今回の件については、全てが終わるまで棚上げにさせて頂きたい」

 

 己の膝を見つめていた視線は、いつしか前のみを見据えていた。

 そこに、後悔や逡巡は、無かった。

 ただ、決意が。

 無辜の民、その涙と血を流させないという、真に誇り高い、彼女の決意が、あった。

 その光が、俺たちをどれだけ安堵させてくれるか、昂ぶらせてくれるか。彼女はそのことを理解しているのだろうか。

 

「…思えば、あのときの切嗣も、それを理解していたのでしょうか…。であれば、私は彼に所以の無い恨みを抱いていたことになる。ならば、この戦、彼に報いるためにも、負けるわけにはいかない」

「ま、俺は戦うために召喚に応じたんだ。別に、そこらへんはどうでもいいさ」

「…」

 

 三者三様の、サーヴァント達の反応。

 その中で、アサシンだけ、如何なる感情も発露させなかった。

 その笑った仮面の下で、何を考えているのか、少なくとも今の俺には窺い知ることは、できなかった。

 

「…そういえば、言峰は、この戦いで何を望んでいるの?」

 

 凛が口にした、余りにも当然の疑問。

 言峰綺礼と、そのサーヴァント、英雄王ギルガメッシュ。

 最後の、そしておそらくは最強の敵。

 

「…言峰神父の目的は、私の子宮を通じて、アンリマユをこの世に現界させること。英雄王の目的は…どうもはっきりしませんね」

「…子宮を通じてって…」

 

 くすりと、代羽は、笑った。

 己の下腹部を摩りながら、さも幸せそうに。

 

「彼はね、己の精子と私の卵子で、原初の人を、神を生み出そうとしているのです。そんなこと、成功するはずが無いのに。全く、馬鹿な人だ…」

「…とにかく、そういうことなら、私たちが為すべきは、何?」

 

 凛の疑問に、イリヤが答える。

 

「まず、サーヴァントを守護すること。これが第一よ。サーヴァントの魂が『座』に還ろうとする力をもって大聖杯は起動するのだから、その魂を小聖杯に取り込ませないこと。小聖杯の起動だけなら英霊の魂五つ分もあれば問題ないけど、大聖杯の起動には、普通の英霊ならきっちり六個分の魂が必要になる。今、シロの心臓に取り込まれた魂は、アーチャー、バーサーカー、ライダー、キャスターの四騎分。半神たるヘラクレスの魂を仮に二騎分と見積もっても、まだ余裕はある」

「あちらさんがこちらのサーヴァントを仕留める、その前に柳洞寺の地下にある大聖杯の起動式を破壊する。それが私達の勝利条件ってわけね」

「流石リンね、理解が早くて助かるわ」

「じゃあ、今すぐに行こう」

 

 息せき切って、腰を上げようとする。

 敵の目的も、目指すべき目的地も分かったんだ。

 なら、行動は早いほうがいい。

 

「待ちなさい、士郎。セイバー、貴方の意見を聞きたいの。言峰は、前回のアーチャーのマスターは、この真実に気付いていると思う?」

「…切嗣が気付いたのですから、おそらくは同じような立場にいたはずのアーチャーのマスターが気付いたとして、さほど不思議は無いでしょう。少なくとも、気付いているものとして、我々は行動すべきだと思います」

「そう。なら、言峰が従える前回のアーチャー、ギルガメッシュ。この場にいる全員が正面からぶつかったとして、勝ち目はある?」

「…彼には、他者を見下す悪癖があった。故に、前回の聖杯戦争では、ほぼ五分の戦いに持ち込むことが出来ましたが…。もし、彼が万全の準備を備えて我々を迎撃するというのであれば、私を含めて、今ここにいる面子では些か心もとないでしょう」

「な!?」

 

 この場にいる、全員でも、歯が立たない?

 サーヴァントが三騎と、それと同じ位の力量をもつ、ヨハネ。

 その力を束ねても、なお勝てないと、そういうことか?

 

「正確な状況把握、感服しました、騎士王」

「…代羽、貴方も同じ意見ということですか?」

「ええ。あれは、大嵐だ。いわば、自然災害の類。力のスケールが違い過ぎる。そもそも、人間の力をもってして押しとどめようというのが、どだい無理な話なのです。正面から挑むのは、愚策に過ぎる。搦め手を用意すべきでしょうね」

 

 しん、と静まった室内。

 誰も言葉を発しない。

 一人、ランサーだけが妙に承服し難い表情でそっぽを向いているのだけが印象的だった。

 

「…じゃあ、どうするんだ?」

「…敵も、守るべき場所がはっきりしている以上はそこを離れることは無いでしょうね。なら、時間的有利はこちらにある。ここは腰を据えて、じっくりとかかった方がいいと思うわ。さしあたって、戦場となるであろう柳洞寺、その付近の住人の避難と保護。あとは、セイバーを始めとして、疲弊した戦力の回復を待つ。動き出すのはそれからでも遅くないと思うんだけど、どうかしら?」

 

 またしても、誰も声を上げなかった。

 否定する意見が無いかわりに、積極的に賛同する意見も無い。

 確かに、正答は凛の意見で間違いないのだろうけれど、何かを見落としているような、小骨が咽喉に突き刺さったような不快感があるのは、隠すことが出来なかった。

 そうして、その場は解散となった。

 誰もが、その表情に承服し難い何かを抱えたまま。

 

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