FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
咄嗟にあいた空隙の時間、どのように過ごしたものかと考えてしまうのは、俺がつまらない人間だからだろうか。
ぼうとした目で庭を見遣ると、そこには日光を跳ね返してきらきらと光る水溜りがあった。
空気は、驚くほどに暖かい。肌を切り裂くような寒気も、今はどこかに身を潜めているかのよう。
太陽は既に中天を越え、あとは重力に引かれて落ちていくのみ。抜けるような青空は少しずつその青みを増していき、いつしか赤く染まったそれは闇夜に領土を譲り渡すのだろう。
目を覚ましたとき、家には疎らな人影しかなかった。平時のそれと比べても少ないと感じるほどである。
唯一、そう言って語弊は無いだろう、唯一残って居間で緑茶なんかを啜っていた代羽に、話しかける。
「…みんな、どこ行ったんだ?」
「おはようございます、衛宮士郎。といっても、もう昼もとうに過ぎましたが」
彼女はこちらに一切視線を寄越さないまま、そう言った。
その顔に浮かんだ表情は、怒りのようでもあり、呆れのようでもあり、焦りのようでもある。
要するに、俺はまだ、彼女の感情の機微についていけていないのだ。それとも、これが現時点での、俺と彼女の器の違いなのかもしれないが。
「悪い、ほんの仮眠のつもりだったんだけど、まさかこんなに眠る破目になるとは…」
ずずっと、熱い液体を啜る音が、ただっ広い居間に響く。いつもの見慣れたいつもの居間だというのに、今朝の喧騒を懐かしく感じてしまう。
自分は、ここまで弱い人間だったのだろうか。いや、そもそもこれは弱さなのか?
「…昨日、私が貴方に何発の銃弾を打ち込んだか、何箇所の関節を破壊したか、教えてあげましょうか?私のような人間から言わせれば、貴方は今ここで起きて呼吸をしているほうが奇妙に思える」
「…もう、その事は忘れよう。俺だって、代羽の手首を…」
「はい、もう、忘れましょう。とにかく、貴方は自分では気付いていなかったかもしれませんが、相当に消耗している。だからこそ、遠坂先輩も貴方を起こさなかった。もし貴方が惰眠を貪っていると判断すれば、寝耳に熱湯を注ぎこんでも叩き起こす人です、あれは」
ああ、その評価は痛く同感。
でも、その人を愛したことに、後悔は無い。
だから、その厳しさだって、愛せる。
それは、どれほど幸運の女神に愛されたからこその結果なのだろうか。
俺と代羽の頬に、同じような笑みが浮かんだことを凛が知れば、怒るだろうか、拗ねるだろうか。
「遠坂先輩と桜は、この街の有力者に掛け合いに行きました。柳洞寺付近の住民を穏便に避難させる手筈を整える、とのことです。全く、こんなこと、本来は監督役の所管たる雑事なのでしょうけどね」
その監督役こそが、おそらくは最後の敵なのだ。
ほとんど詐欺染みた所業だとは思うが、この場合誰に文句を垂れるわけにも行かない。強いて言うならば、そんな不良神父を養ってきた聖堂教会に対してだが、それもこんな短期決戦では如何なる効果も期待できない。
おそらくは世界中に存在する愚痴の九割以上が迎える結末と同じように、俺はそれを飲み込むしかないのだろう。
最後は、自分の力で。この世の真理である。
「おそらく、不発弾処理を装うのではないでしょうか。実際に戦闘による爆発があっても、それなりに誤魔化しやすい」
「ランサーとセイバーも、それに同行しているのか?」
「ランサーはそうです。セイバーはイリヤ達に同行しています」
「なんだ、イリヤも出かけてるのか。一体、どこに?」
「アインツベルンの城、その跡地です。何やら探すものがあるとか無いとか言っていましたが、詳細は把握していません」
なるほど。
イリヤが足を運ぶ場所に御付きの二人が同行しないなんて、ありえる話ではない。ならば、今この家にいるのは―――。
「俺と、代羽だけか」
「後ろに、もう一人」
指を指されて、思わず後ろを振り返る。
そこには、枯れ枝のように細い巨体と、白い髑髏の仮面。
粉う事なき、アサシンがいた。
「…ああ、なるほど」
本来であれば飛び上がるほどに驚いても不思議ではないのだが、今は笑いを堪えるのに必死だ。
だって、この強面で、代羽には到底頭が上がらないのだ。それは今朝の食卓で、万人のしるところとなってしまったのだから。
涙目の代羽に縋りつかれて、渋々といった表情で浮かしかけた腰を落ち着けたその様子は、あたかも駄々っ子に手を焼く、それでも子供想いの父親のようで、大変に微笑ましかった。外見は人間から外れている風だが、それでもやはり人なのだと再認識した。まあ、そんなことを言われて暗殺者の英霊が喜ぶとは思えないが。
「…でも、無用心じゃあないか?相手は、ここにいる全員の力を合わせても勝てないようなサーヴァントなんだろう?なら、ここは一箇所に集まって…」
「一箇所に集まっても勝てませんよ、あれには。それに、相手がどこにいるか把握できているのですから、今は特に警戒する必要はないのではないでしょうか」
あくまで悠然とした様子の代羽。
その様子に、一抹の違和感を感じる。
なんというか、余裕がありすぎる。少なくとも、敵はこちら以上の戦力を抱えている以上、もう少し慌てふためくとか、そこまでいかなくても緊張するとかあってもよさそうなものだが。
もしかしたら、代羽にはギルガメッシュを倒す秘策のようなものがあるのだろうか。
それとも―――。
「衛宮士郎」
まるで、自分の考えを見透かされたような拍子で声をかけられた。
つつと、嫌な汗が流れる。これは、別に疚しいことを考えていたわけではないのだ、そんな意味の無い自己弁護をする自分に驚く。
「デート、しませんか?」
episode87 満月の夕暮れに
「昼食は、どうしたんだ?もう、冷蔵庫の中は空だったはずだけど」
「店屋物を。ふふ、あのときのセイバーとランサーの遠慮の無い食べっぷり、貴方にも見せてあげたかったくらいです。ツケにしておきましたから、あとでゼロの数を見て驚かないように」
「ああ、それは、何とも…」
きっと渋い顔を浮かべながら、午後の陽光の中を歩く。
歩幅を小さめに歩くのは、俺の左手を握り締めながら歩く少女のせい。
さらりと長い黒髪が、時折吹く風に遊ばれる。
その、極上のハープ奏者の手のように、優雅に流れる髪の毛。日の光を反射したそれが、神々しさすらを感じさせながら舞い踊るのだ。
その、女神ですら羨むような毛並みの少女は、微笑みながら俺の腕を抱き締めていた。
マキリ、代羽。
俺の、兄、だった少女。
彼女が、少し不服そうに、俺を見上げた。
「もう少しどぎまぎしてくれると、嬉しいのですけど」
「同性愛の気もないし、兄弟愛の気もないよ、俺は」
「ふふ、私が看病してあげた時は、あんなにも慌てふためいていたのに。あの可愛らしい弟はどこに逃げおおせてしまったのでしょうか?」
「ふん、涎を垂らしながら公園のベンチで鼾をかいていた兄さんよりは、マシだと思うけど」
他愛のない、咽喉元を擽るような会話が心地いい。
彼女もそうなのだろうか、まるで陽光に寝そべる猫のように、目を細めいている、
柔らかな三日月を描く、その黒い瞳。
俺の、錆び付いた銅のような色とは、全く違う。
それでも、鏡に映った自分の瞳とはそっくりだと思う。
それでも、黒い、瞳。
狂った魔術師の手によって捻じ曲げられた、その黒い瞳。
一体、今までどのような苦痛を、その小さな身体に刻んできたのだろうか。
もし、彼女がそれを嘆き悲しんでくれれば、怨み言の一つでも吐き捨ててくれれば、まだ救われると思う。
しかし、彼女は、あの薄暗い地の底をこそ、救いだったという。彼女の身体を弄繰り回し、性別を、その遺伝的な要素を捻じ曲げ、その身を凌辱し続け、人としての肉体すらを奪った祖父を愛していると、そう言うのだ。
ならば、彼女を甚振り続けているのは、どのような地獄なのか。俺には想像もつかないし、そもそも想像することなど許されないのだろう。
俺の、兄。
一体どんな名前だったのだろうか。
どうしても思い出すことが出来ない。
ほんの少しだけ、あの時言峰に見せられた戸籍謄本を破り捨てたことが悔やまれた。
「代羽、これから、どうするんだ?」
「どうするとは?」
「あの屋敷で、一人で暮らすのか?」
あの、屋敷。
腐臭漂う、蟲達の巣。
そこで、一人きり。
それは、あまりにも―――。
「私は、既にマキリの魔術師、そしてマキリの当主です。ならば、それが当然でしょう」
「…俺は、俺の家で一緒に暮らせればいいかなって、そう思ってるんだけど」
そんな、まるでプロポーズのような言葉。
するりと、考える前に口から滑りでた。
でも、一部の後悔もなかった。何故なら、その言葉はどこまでも本心だったから。
少女は、相も変わらず微笑ったまま、頷いた。
「ええ、それはきっと素敵でしょうね」
「藤ねえだって、話せばきっと分かってくれる。そうだ、イリヤも一緒に暮らせばいい。あいつは切嗣の本当の娘なんだから、誰よりもウチに住む資格がある」
「ふふ、藤村先生が叫びだしそうですね、『またこんなに女の子ばっかり連れ込んでー!』って」
その様子を想像して、やはり二人で吹き出した。その様子は既に確定した未来を思わせたからだ。
「代羽、料理得意だろ?これからは、桜と俺と代羽で、交代で料理を作れるな。俺は和食、桜は洋食、代羽は何が得意なんだ?」
「私は何でも。敢えて言うならば和食でしょうか」
「ああ、それはうかうかしていられない。そういえば、前に食べさせてもらった牡蠣雑炊、凄く美味しかった。また今度、レシピを教えて欲しい」
「あれは秘伝のレシピ、そう簡単に教えるわけにはいきません。それでも、そうですね、あとは遠坂先輩の中華料理を加えれば、如何にもにぎやかな食卓になりそうだ」
遠坂、凛。
彼女と一緒に住むということがどういうことか、それを再確認して赤面する。
ずっと憧れだった、少女。
俺が初めて抱いた、少女。
俺に初めて抱かれた、少女。
今日も、裸で抱き合って眠った、少女。
ずっと、彼女と一緒に生きたいと思う。彼女と一緒に歩いていきたいと思う。それが叶えば、どれ程に幸福だろうか。
それでも、それは―――。
「それでも、貴方は、正義の味方を選ぶのですか」
少女は、俺の腕に込める力を、少し強めたようだった。
まるで、縋りつくような力だった。
「ああ、もう、決めたから」
だから、俺も、歩いた。
もう、誰かに諭されて自分の道を変えるのは、嫌だった。
「頑固者。誰も、幸福にならない。私が保証します」
その声に含まれていたのは、幾らかの憐憫に、怒りを少々、あとは羨望と蔑み一匙。
その配合は、まさに彼女らしい。
「ああ、自分でも嫌になる」
「ならば、あらためなさい」
「ああ、ほんと、そう思うよ」
◇
少し疲れてたから、ベンチに、座った。
いつか、代羽と一緒にハンバーガーを齧った、あのベンチだった。
別に、探したわけじゃあない。公園の入り口から一番近いベンチがそこだったというだけの話だ。
まだ、日は高い。それでも東の空は赤く色づき始めているようだから、おそらくは四時過ぎといった頃合だろうか。
長い間、歩いたものだ。
ヴェルデのウインドショッピングから始まって、その足で冬木港までぶらぶらと。女の子とまともにデートしたことなんか無いから良くは分からなかったが、女性というのはあそこまで体力があるものなのだろうか。そう感心してしまうほどに引っ張りまわされた。
それでも、その疲れが少しも苦痛ではないのは、それが幸福の領域に属することだからだろう。
傍らに置いた缶ジュースを、一口飲む。
赤い背景に白のラインが数本描かれたラベルは、世界で一番有名な炭酸ジュースのそれだ。その濁った泥水色の液体が、細やかな爆発を起こしながら咽喉元を通過していく。
その、えもいえぬ快楽に、思わず目を瞑る。
きっと、一仕事終えた後に缶ビールを呷るお父さんというのはこういう具合なのだろうか。
「お待たせしました」
そこには、少女が立っていた。
いつもの、野暮ったい服装。
白いブラウスの上に、ざっくりとパーカーを羽織っている。
身体のラインのわかる、すっきりとしたジーンズ。
スニーカーだけ赤いというのは、彼女なりのこだわりだろうか。
そんな、いつもと変わらない、彼女。
その彼女の右の耳を、銀色のピアスが飾っていた。
目立った特徴の無いそれは、飾り物を好まない彼女が、珍しく俺にねだった物だった。
それが、沈み行く陽光を反射して、きらきらと輝いていたのだ。
「…そんなのでよかったのか。もっと高い物だって買えたのに」
「無粋なことを言うものではありません。値札についたゼロの数が物の価値を決めるわけではないでしょう」
そんなものかと、思う。
そうして、彼女は俺の隣に腰掛けた。
その手には、逆三角形の形をした、甘い香りのする包み。
彼女は、それを俺の鼻先に突きつける。
「ほら、あの時一緒に食べられなかった、フルールのクレープです。これのお返しというにはやや見劣りしますが、ゼロの数が物の価値を決めるわけではありませんので」
さも嬉しそうに悪戯っぽく笑われると、返す言葉も無い。
だから、苦笑いだけを浮かべて、その包みを受け取った。
代羽は、俺が受け取るのを確かめることも無く、既にクレープにかぶりついていた。その頬は、これこそが幸せと言わんばかりに、にこやかに歪められている。
そんな様子を横目に見ながら、俺も代羽に倣う。
ほんわかと暖かいクレープの皮、それと柔らかい甘さの生クリーム、各種苺の甘酸っぱいソースが口の中で絡み合う。なるほど、これなら五百円分の価値は十分過ぎるほどあるだろう。
しばらく、無言。
いい加減、口の中が甘ったるくなって、少し苦めのお茶でも欲しくなってきたとき、代羽が口を開いた。
「私は、たくさんの人を殺しました」
無言で、そのままクレープを食べ続けた。
胸を焼くような甘さが、今はありがたいと思った。
そうでなくては、きっと要らぬ言葉を吐いていただろうから。
「祖父を殺しました。兄を殺しました。見知らぬたくさんの人たちを、ライダーの生贄のために、或いは私自身の食料として喰い殺しました」
やがて、クレープは俺の手から姿を消していた。
最後に残った包み紙をくしゃくしゃに丸めて、屑篭に放り投げた。
「家族もいたでしょう。恋人がいると命乞いをした者もいました。人が生きるということは、それだけの数の繋がりが生まれるということ。私は、何の権利も無くそれらを断ち切って、それでものうのうと生きている」
「…人を殺す権利なんて、誰にも無いよ」
あるとしても、そう勘違いしているだけのこと。
人の命を断つ権利なんて、本人にすらないのだから。
「例えば、死刑の執行官などはどうでしょうか。彼らには、人を殺す権利があるのでは?」
「違うと思う。あの人たちには、人を殺す義務があるだけだ。権利なんて、誰にも無い」
さわさわと、皮膚を弄るような風が拭いた。
彼女の髪が、少しだけ舞い上がって、俺の鼻先を擽った。
えもいわれぬ、心地いい香りがした。
「…では、何の権利も無く人を殺めた私に、正義の味方たる貴方は、如何なる罰をもって応じますか?」
「…兄さんは、残酷だ」
心の底から、そう思う。
俺に、どんな答を期待しているのだろうか。
死をもって償えと。
無理だ。人を殺した罪は、自分を殺すくらいじゃあ消えてくれない。
では、どんな償い方が?
分からない。
例えば、それからの人生を、身を粉にして他人のために尽くすことだろうか?
しかし、それすらも犠牲者の家族からは偽善との謗りを免れ得ないだろう。
だから、俺は、思うのだ。
「…償い方を、探すこと。誠心誠意かけて、一生をかけても、自分が殺した人に、どういうふうに償えばいいのか、それを探すこと。それが、償いなんじゃあないだろうか」
それでも、自己満足の域を脱し得ない。
それは、百も承知だ。
それでも、何を為しえるのか、何を償え得るのか。
それを探すことは、価値は無くても、意味だけはあるような気がする。
きっと、錯覚だろうけど。
「…ならば、貴方にとってのそれが、正義の味方なのですか?」
「…どういう意味だ?」
ちらりと、隣を見る。
そこには、悲しげに空を眺める、代羽がいた。
俺も、空を眺めやる。
そこには、欠けるところの無い、月が在った。
「貴方は、あの火事の中で、多くの人を見殺しにした。それは事実とは異なりますが、貴方の主観でそう確信している以上、それは事実と異なるところは無い。そして、貴方は悔いている。己だけが生き残ったことを、誰よりも悔いている。違いますか?」
「…違わない」
炎。
物言わぬ、人だった物。
それを横目に見ながら、俺は生き残った。
今も、耳の奥に響く無限の怨嗟。
それは、絶え間なく俺を責め立てる。
仮に、俺が兄さんに背負われていたとしても、同じこと。
仮に、俺が誰かを助けることが出来ないほどの傷を負っていても、同じことだ。
要するに、俺は助けようとしなかった。
彼らと同じになりたくなかった。
彼らの救いを求める声を無視しても、自分だけは助かりたいと、そう思ってしまった。
ならば、結局は同じこと。
俺は、彼らを見捨てた。
そうして、今、生きている。
自惚れで無ければ、たくさんの人たちに愛されながら。
こんなにも、恵まれて。
駄目だ。
幸せが許せないんじゃあ、ない。
幸せであることで、彼らを忘れてしまうそうな自分が、怖い。
そうすれば、俺は心の底から笑えるだろう。
笑えてしまうだろう。
それだけは、許せない。
でも、違う。
それだけじゃあないんだ。
俺が正義の味方を目指すのは、それだけじゃあ、ない。
「…あの時、切嗣は、笑ってくれたんだ。傷だらけで、ぼろぼろで、きっと息をしているのも不思議な、焼死体一歩手前だった俺を見つけて、笑ってくれた。あの笑顔は、とても素敵だった。どんな影もない、幸福な笑顔だった。一度でいい。たった一度でも、あんな顔で笑えるなら…」
「全てを失っても、いや、切り捨てても構わない、そういうのですか、貴方は。それだけの覚悟が、あるのですか?」
全てを、切り捨てる。
凛の、愛も。
セイバーの、信頼も。
桜の、想いも。
みんな、みんな、切り捨てて。
誰かの涙を止めるために、人生を費やす。
あの笑顔だけを、求めて人生を、歩む。
その覚悟が―――。
「どうやら、あるみたいなんだ」
自分でも驚くほどに澄んだ声だった。
この咽喉が、自分の咽喉じゃあないみたいだった。
まるで、どこかの天使の声だった。
きっと、深海魚たちが、プレゼントしてくれたんだ。
ありがたいと、そう思った。
視界が、驚くほどに、クリアだった。
まるで、無彩色の世界が、突然に色づいたみたいだった。
その、空気を構成する粒子の一粒一粒すらも見渡せるような、美しい世界。
ああ、この世界の調和のためになら、死後を渡してもいいのではないだろうか。
そこが、あの乾いた世界でも、いいのではないだろうか。
ならば、それはなんと幸福な―――。
「幸福は、ありません」
隣で代羽が、そう言った。
無感動に、そう言った。
冷たい、声だった。
それは、どういう感情が篭もっていたのだろうか。
例えば、過去に人を殺して、そのことを悔いた人間がその瞬間を語るとき、そういう声で語るのかもしれなかった。
「貴方に、幸福はありません」
「そんなこと、分かってる」
「貴方の周りの人間にも、幸福はありません」
「それも、分かってる」
「貴方が助けようとする人間にも、幸福は無いでしょう」
「ああ、多分そうだろう」
彼女は、初めて俺のほうを見た。
その、瞳。
端から、透明な雫が、つうと流れ落ちた。
それでも、その声は嗚咽に濁ってはいなかったのだが
「誰も、誰も幸福にしないならば。貴方は、なぜその道を歩けるのですか。それは自己満足ではないですか」
「『自己満足、その言葉を使って他者を否定する人間は、真に自己を満足させたことの無い咎人です』、そう言ったのは、貴方だ、兄さん」
「ええ、その通り。そして、私は一度足りとて己を真に満足させたことの無い、咎人です。ですから、この言葉を使って貴方を非難する資格がある」
「兄さんは、卑怯だ」
「貴方より、ましでしょう」
苦笑する。
もう、笑うしかない、そういう笑みだ。
隣は、見ない。
きっと、彼女も笑っていると思った。
そうあってほしいと。
それは、独り善がりの願いだったのだろうか。
「誰かがしなければいけないんだと思う。誰もが笑っていられる世界なんて夢物語だけど、誰もがそれを嘲笑えば、それは夢物語のままだ。だから、俺は少し頑張ってみたい」
「それは、正義の味方に為せることではない。それは、魔法使いの所業です」
「ああ、きっとその通りだな。でも、俺、魔術の才能、無いみたいだからさ。とりあえず正義の味方、目指してみるよ。気が向いたら魔法使いを目指すのも、いいかもしれないな」
子供の笑い声が、聞こえた。
一つではない。重なり合う、二つの声だった。
母親に手を引かれる、子供の影が、見えた。
母親の右手と左手を、引っ張るように歩く、子供の影が見えた。
そうして、ふわりと消えた。
幻影だったのだろう。
「貴方は、大馬鹿です」
「理解してるよ」
「貴方は、恥知らずだ」
「お前の言うとおりだ」
「あの時、息の根を止めなかったことを、本気で後悔しています」
「ごめんな」
そのまま、しばらく座ったまま。
誰も、何も語らない。
風すら、吹かなかった。
空気が、凪いでいた。
星が、落ちてきそうだった。
月が、落ちてきそうだった。
そうして、太陽の最後の残滓が、西の空を染め上げたとき。
隣に座ってた人が、すっくと立ち上がった。
「用件を、思い出しました。先に帰っていてください」
そのまま、俺の返事を待たないまま、彼女は歩き出した。
「どこへ」
「貴方に告げる必要は、無いでしょう」
その背中には、絶対の拒絶があった。
ついてくるな。
少女は、背中でもってそう叫んでいた。
「戦いは、今日の夜半か、遅くとも明日の同じ頃合になるでしょう。それまでには必ず帰ります」
「危険だ。今は一人でいないほうがいい」
少女は、くすりと微笑った。
どこか影のある、微笑いだった。
言うなれば、彼女本来の、そして俺の大嫌いな、笑い方だった。
そのまま、明後日の方向を見遣った。
そこには、誰もいなかったのに。
「彼らは、きっと卵を抱く竜のように、目を血走らせながら大聖杯を守っているでしょう。ならば、どこにいたとて同じこと。それに、私にはアサシンがいる。サーヴァントを連れない貴方のほうが、危険といえば遥かに危険なのですよ」
だから、早く帰りなさい、と。
そう、背を向けたまま彼女は言うのだ。
俺は、ベンチから立ち上がる。
そうして、その背中に向けて、こう言った。
「…俺も、ついていくよ」
「許しません。また、全身の関節をへし折られたいのですか」
「あれは、たまたまだ。油断していた」
その瞬間、彼女の体が、激しくぶれた。
少なくとも、その瞬間はそう表現するしかなかった。
ぞくり。
背筋に、嫌なものが、走った。
ほとんど反射的に、背筋を反らせる。
鼻先を、何か硬いものが、とんでもない速度で通過していった。
それは、人を殺せる速度だった。
彼女の踵。
それが、さっきまで俺のこめかみがあった空間を、削り取っていた。
「しろ、止め―――」
「ちぇりゃあ!」
振り切った足を踏み足にして、飛び込んでくる。
その軸足が、外向きに。
蹴り。
膝の位置が、高い。
―――上段蹴り!
彼女の右足が、再び俺のこめかみを狙って、跳ね上がる!
左手を上げて、そこを庇う。
受けたら、そのまま軸足を刈って、転がす。
そのまま制圧すれば―――。
あれ。
何でだ。
足が、手にぶつかってこない。
あれ。
彼女の足が、空中で止められて。
そのまま、凄い勢いで、戻っていく。
その反動を使って。
彼女の身体が、回転して。
彼女の左拳が、俺の脇腹に。
どごん。
「うげえ!」
「貴方は、正直過ぎる」
肝臓。
衝撃が、突き抜ける。
息が、出来ない。
前のめりに。
涎が、垂れる。
膝から崩れ落ち―――ることが、出来ない。
頭を、つかまれた。
次は?
分かっている。
膝が、すっとんでくるはずだ。
ああ、避けないと。
せめて、受けないと。
でも、駄目だ。
身体が、動いて、くれな―――。
ごしゃ。
―――。
あ、凄い音が。
鼻の軟骨が、拉げる音が。
目の前に広がる、蒼い夜空。
どこまでも、深い。
背中に、冷え冷えとしたコンクリートの感触。
大の字で横たわる。
ああ、これは楽だわ。
くすくすと、笑い声が聞こえる。
俺の頭の隣に、微笑いながら覗き込む、彼女の顔が。
さも、嬉しそう。
「これで、三回目ですね。貴方は、弱い」
「…不意打ちは、卑怯だ」
ごぼごぼと音が鳴ったのは、鼻血が逆流しているからだろうか。
ひょっとしたら、いや、間違いなく鼻の骨が折れている。
「ああ、色男が台無し。ちょっと待ってくださいね、と」
「つう!」
彼女の手が、俺の鼻に触れたとたん、激痛が襲った。
思わず涙ぐんでしまうほどの、激痛。
こきんと、軽い音が、俺の中から聞こえた。
「とりあえず、元の形には治しておきました。あとは、鞘が何とかしてくれるでしょう。しばらく動かないことです」
「…最近、こんなのばっかだ」
彼女は、やはりからからと笑った。
そうして、立ち上がる。
もう、俺にはそれを追いかける資格が無いことなど、明白だったにも関わらず。
「…これから貴方が生きる戦場は、こういう場所です。前を走っていた味方が、突然に銃口を違えてくる。隣で談笑していた友人が、脇腹に刃物を突きつける。後ろで脅えていた守るべき人たちが、井戸に毒を投げ込んでいる。貴方が戦うのは、そういう場所です。それでも―――」
「ああ、俺は、戦うよ」
彼女は、無言で歩き始めた。
どこからか姿を現した彼女の従者も、それに倣う。
そうして、数歩、歩いた後で。
彼女は振り返らずに、こう言ったのだ。
「そうそう、衛宮士郎。一度聞きたかったのですが、貴方はまだ、あの服を持っていますか?」
服?
何のことだろうか。
「貴方が衛宮切嗣に拾われたときに着ていた、あの服です」
服。
そんなもの、憶えていない。
「…もう、焼けてしまってぼろぼろだったから、きっと捨てたんだと思う」
「そうですか、残念。思い出の品だったはずなんですけどね」
「…思い出?」
「ええ。一度、それが原因で大喧嘩しました」
少女は、くすりと笑った。
寂しげな、笑みだった。
もう、彼女は、何も言わなかった。
その背中は、徐々に遠ざかっていった。
その背中は、徐々に闇に紛れていった。
彼女は、一度も振り返らなかった。
ただ、彼女の従者である白い仮面が、一度だけ振り返った
何故だか、その白さだけが、頭の片隅にこびり付いて、離れなかった。
俺は、しばらくの間そこに寝そべって。
いい加減、瞼が重たくなってきた頃合に、起きて、家に帰った。
門を潜るときに、夕食の材料を買ってきていなかったことを、後悔した。
代羽は、まだ家に帰っていなかった。