FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
だらだらと続く長い坂道を、登っていた。
横にくねり、時折下りとなり、幾度も切り返しながら、そうしてやっとの思いで上りきる、そういう坂道だ。
自然、足が疲れてきた。足が重く、上手く膝が上がらなくなってくる。
身体の奥から響く、不平不満の声。人のそれの場合は筋肉の漏らす声だが、私の場合は蟲の漏らす、聞くに堪えない愚痴なのだ。
『おい、頭の部分のやつら。俺たち、足の部分にだけ酷い労働をさせておいて、お前らは考える振りをするだけか。不公平にも程があるだろう』
そう言って、重たい痺れを味合わせてくれる。全く、可愛らしいにも程があるというものではないか。
そんな埒もない思考が、頬を持ち上げる。
おそらく坂の中腹辺りで、息をつく。道端のガードレールの支柱に腰をかける。
ふう、と、大きく息を一つ。何とは無しにジーンズのポケットを弄ったが、そこに煙草とライターは無かった。ああ、そういえば昨日、水浸しになったから捨てたのだった。
もう一度、大きく溜息を吐いた。新しい煙草を用意していなかった自分に対する失望なのか、それとも紫煙を胸いっぱい吸い込むかわりに排気ガスを吸い込みたくなったのか。それは私にも不分明だ。
そうして、海を、見つめた。
冬木港を眼前に広がる、内海。快晴の日などは、目が清められるほどの美しい青と、奥に浮かぶ小さな島の緑とのコントラストが楽しめるのだが、今はのっぺりとした黒い空間が広がっているだけ。辛うじてポツリポツリと輝くのは、漁船の灯火か、それとも街のネオンか。
しばらくの間それを眺めていたが、少し身体が冷えてきたので歩くことにした。
杖が欲しいな、そう思うほどの急坂。それでも、歩き続けさえすればいつかは到着する。それは何と気楽な道行きではないか。
そう考えると、鼻歌の一つも歌いたくなる。
何が、いいだろう。
そう考えて、苦笑した。
「―――ああ、もう少し、歌を知っていたらよかった」
自分の呟きに絶望しつつ、それでも歩いた。
徐々に近付いてくる、黒い影。
黒くて、厳しくて、恐ろしい。
なるほど、ドン・キホーテならずとも、恐怖に負けて突撃したくなるというもの。
そうして、私はたどり着いた。
冬木教会。
石造りの、如何にも寒々しい外観。玄関の花壇も、いつの間にか枯れ果てて、うらびれた空気を醸し出している。
正面玄関のやや上、二階に設置された小さな窓からは、如何なる灯りも漏れ出していない。
まさか、本当に留守なのだろうか。それとも。
「…まあ、中に入れば分かるでしょう」
…独り言は、不安の表れだ。
それは紛れもない事実であり、私は不安だった。
だって、あの重厚な扉を開けたそこに、彼の巌のような背中があったら。
私は、心の中で誓った、最も崇高な約定を違えることになるから。
踊る心臓を押えつけつつ、樫の古めかしい扉に、手をかける。
ぎちぎちと、蝶番の軋る音が、闇夜に響く。
ただでさえ濃厚な死の気配を纏わりつかせた空間、そこに、更に不吉な何かが満ちていく。
私は、知っている。
いや、思い出した。
ここは、神の家だ。
それでも、いや、だからこそ。
ここは、死者がその怨嗟を思う様に吐き出すことの認められた、法廷なのだと。
穢れの無い魂は、存在しない。
罪の無い魂も、ある筈が無い。
ならば、ここはあらゆる魂が無条件に地獄へと送られる、弁護人の存在しない法廷で。
彼こそが、愉悦をもって魂を地獄へ送り出す、検察官だ。
無慈悲な天使が、裁判長。
誰も、助からない。
誰も、救われない。
ここは、そういう場所だった。
やがて開かれた扉の奥に、漆黒の空間が広がる。
それでも、ステンドグラスを通して、月の光が差し込まれる。
きらきらと、まるで雪のように降りそそぐ。
礼拝用の、長椅子。
目の前の十字架、その下には、いつも彼が構えていた説教台が。
祭壇には、誰の姿も、無かった。
かつて私が愛した、底の深い微笑は、無かった。
そのことに、私は深く深く安堵したのだ。
そうして、足を踏み入れる。
硬質な床と、ゴムの靴底が、こんこんと軽い音を立てる。全く、革靴でも履いてくるべきだっただろうか。あの、かつかつと堅い響きならばもう少し興もあっただろうに。
ゆっくりと、歩く。辺りに人の気配は無いし、あったとしたら私は失望を禁じえなかっただろう。もし、そこに、蹲りながら、ぎらついた目で私を狙う彼の視線があったとしたら、おそらく私は突っ伏して泣き叫んでいたはずだ。
広い室内は、それでも十数秒も歩けば突き当たりにぶち当たる。
奥にあった、入り口に比べれば質素なつくりの、小さな扉。
月明かりに照らされたそのドアノブを、掴んで回す。
そこを開けて、中庭へと向かうザザッ
『たしか、言峰の部屋は』
ザザザッ。
何、だ、これは
意識に、何かが割り込んでくる。
自分が自分でなくなるような、濃厚な予感。
自分以外の言葉が、自分の口から飛び出す、悪寒。
意味の分からないそれらに、猛烈な吐き気を覚えた。
「ぐぼえ!」
石畳の脇、昨日の大雨でできた水溜りに、吐き戻した。
生クリームとベリーソースで彩られたザザー胃液は、絵の具のようなピンク色だった。
荒く続く息を無視して、口の端ザーを拭う。全く、不法侵入をしておいて汚物まで残す。神でなくても怒るだろうな、これは。
ふらつきザザながら、歩く。
『教会の内部は入り組んでいて、言峰の部屋が何処にあるかなど判らない。一度だけの記憶は曖昧で、正直、自分でも辿り着けないと分かっていた。』
ザザザッ。
また、ノイズ。
そして、猛ザザザ烈なザ吐き気。
「ぐ、え、え、え…」
咽喉を解放して、嘔吐く。ちょろりと、残り少ないザザシャンプーのノズルを押したときみたいに、可愛らしい反吐ザザーが、飛び出た。
それでも、歩いた。
ノイズは、どんどん強くなる。
『なぜ声を殺して歩いているのか、なぜこんなにも心臓が動悸するのか。なぜここで、厭な予感などしているのか』
ザザザッ。
ザーッ
『こういう時、自分の悪寒は正しい。“身の危険”を察する感覚は、半人前の魔術師としては上出来だ。だから、足が止まらない言峰は留守だ。ならばここに用はない。一人なんだから家に帰れ。おまえの選択は間違いだ。おまえの行動は間違いだ。おまえの悪寒は間違いだ。戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。悪いことは言わない。悪いことは何もない。ここには、教会には何もないから家に帰れ』
ザザザッ。そう
ザザザッ、それが
ザザザッ。正解
ザザザッ、だって
ザザザッ。知っている、
ザザザッ、そこには
ザザザッ、あるんでしょう
ザザザッ、いやな
ザザザッ。ものが
白まった、視界が、
ザザザッ意味不明の縦線でぶった切られて、
ざらざらとした音が聞こえるザザザッ以外のすべてを奪いつつも、
したいだふらりとした地面が
少しザーッずつ垂直に持ち上がシタイダってル気がする、
壁ザザザッ絵の上を歩いている自分がいて、
髪の毛が横向きの重力に引かれてちくちくと抜けていく、
石畳がシタイダ目の前の死体を覆い隠して、
涎が前に落ちながら私はその上に蹲って
頭が割れるように痛くて喉の奥に指を突っシタイダ込んで汚らしい何かを吐き出シタイダそうとして
黄色ザーッい液体が指の先だけを汚してそれでも這いずるように上へと進んで
それでもその先に何があるのか私は知っているしている死体だ
死体だ死体だシタイダ死体だ死体だ死体だし
たいだ死体だ死体だ死体だ死体だシタイダ死体だ死
体したいだだザーッ死体だ死体だシタイダ死体
だ死体だ死シタイダ体だ死ザザザッ体
だ死体だ死
体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ死体だ
死体だ死体だ死体したいだだ死体だ死体だ死体だ死
体だしたザザザッいだ死体だ死体シタイダだ死体だ死体だ
シタイダ。
奈落のような奈落のような奈落のような奈落のような、黒。
そこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへ。
そこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへそこへ。
這いず這いず這いず這いず這いず這いず這いずって、一歩一歩。
どん、どん、どん、どん、どさり。
転がって、跳ね回って、揺さぶられて、叩きつけられて。
階段から、落っこちたみたい。
黒よりなお黒い、闇。
ぐるぐると視界が回ってる気がするぞう。
それでも、それすら分かりません。
ああ、ここは地面でしょうか、空でしょうか。
指が、おかしな方向に捻じ曲がっていたので、引き千切りました。
うねうねとしたそれが、やがて私の中に、舞い戻る。
這いずる。
這いずる。
這いずる。
『そこに言峰はいない。そこには誰もいない。そこに などない。そこにシ どない。そこに イなどない。そこに タ などない。 そこに踏み入ってはいけ』
あるんだ。
知っている。
そのために、私は来たんだから。
そうして、這いずる。
足が、歪に捻じ曲がっている。
でも、引き千切れないから、這いずる。
鼠のように、這いずる。
ゴキブリのように、這いずる。
ナメクジみたいに、ゾウリムシみたいに、アメーバみたいに、這いずる。
どろどろと溶けていくイメージ。
私は、俺は、ここにいては、いけない、気がする、???
ああ、どうでもいい。
早く、終わらしてくれ。終わりにしてくれ。
もう、どうでもいいから。
私を、助けて。
神様、見捨てないで。
俺は、俺は、俺は。
マキリ代羽なんかじゃあ、ない。
かつかつと、足音が聞こえる。
これは、自分の分。
そう思って、這いずる。
涙で視界が濁っている気がするが、そんなことは無かった。
濁っているのは、空間自体が。
ふわふわとした濃厚な埃。
それは、怨念とも、望郷ともとれる、濃密な思念の塊。
かつかつと、音が響く。
後ろから、私が私を追いかける。
早く、早く、早く!
ハリーハリーハリー!
尻を蹴られる感触。
爪先が肛門にねじ込まれる錯覚。
肛門が裂けて、そこから大便が漏れ出す幻覚。
圧迫された内容物が、口から飛び出る幻痛。
待って、待って、待って。
まだ、まだ、まだ。
私は、私は、私は。
臭いが、臭いが、臭いが。
薬品の、ホルマリンの、つんとした。
ぽとり、ぽとり、ぽとり。
垂れる、垂れる、垂れる。
それは、命の、水の音。
命を、繋ぐ、残酷な音。
生きている、生きている、生きている。
生かされて、生かされて、生かされて。
死ねない、死ねない、死ねない。
死にたい、死にたい、死にたい。
生きていたくない、生きていたくない、生きていたくない。
私なら、絶対に、生きていたくない。
そう、確信させる、死体の、群れが、鎮座、ましまして、いました。
私には、見えない。
見えない、見えません。
だって、私は、這い蹲っているから。
なのに。
『ぽたりぽたりと落ちる水は、死体たちの唇へ伝っているだらしなく開かれた口は水滴を受け入れもう何年もそのままだろう唇はふやけ腐り中にはアゴの肉が腐乱したモノまであった』
この、鮮烈なイメージは。
どうして、水の滴る音と、その映像が、被さるように。
寸分の、ずれも無く。
『そんなコト一目で気づいたこれほどの亡骸があるというのにここには死者など一人もいないというコトに生きていた』
息遣いが、聞こえる。
はあはあと、荒々しくは無い。
規則正しく、落ち着いた拍子で。
それは、取り乱すことも無く、冷静に、異形と化した己を確信しながら。
『死体はそのどれもが奇形であまりにもヒトとして欠損が多すぎた手足がない断ち斬られたもの末端から腐敗し骨だけを残したものすり潰され石畳の床の隙間に落ち込んだもの壁に打ち付けられ虫たちの苗床になったものその経緯はどうあれ彼らには胴と頭しか存在せずそれすらも枯れ木のようにボロボロだった』
臭いが、鼻をつく。
それは、私には馴染みの深い、腐敗臭。
人の肉が腐った、臭い。
肉が腐って、蛆が湧いて、骨に絡みついた肉までを食い尽くして。
その蛆のさなぎが、白い骨の周りに、びっしりと。
さなぎから生まれたニクバエが、新たな生を謳歌する。
その苗床は、これらの生きている死体だ。
何故、私には、そんな映像が。
知っている。
知っている。
だって。
私は。
私は。私は。
私は。私は。私は。
衛宮、士郎、なのだから。
声を上げては、いけない。
足音をたてては、いけない。
だって、死体が、振り向くでしょう。
振り向いたら、零れ落ちるでしょう。
その眼窩から、蕩けた眼球が、ごぼりと。
それは、気持ち悪いでしょう。
見たくないでしょう。
だから、だから。
べちゃり。
しめった、おとが。
なにか、にくかいが、へばりついた。
それは、ころりと、ころがって。
きいろい、しろめと、とびいろの、ひとみで。
わたしを、じっくりと、なめまわす、のです。
――ここ
――どこ
ああ。
あああ。
狂う。
私は、狂う。
狂って、壊れて、駆け出すだろう。
全身に刺青を入れられた、罪人。
断頭台の刑吏。
遠くで啼く、鴉。
曇った空。
白い土煙。
湧き上がる、歓声。
笑顔、笑顔、笑顔。
人は、微笑いながら、人を殺せるのです。
海豚は、海豚を強姦する。
笑いながら、同族を殺す、壊れた世界。
神の、愛が、愛が。
愛が、壊れて、いる。
「ふむ。意外―――では、あるのだろうな。最初にここに来る人間、それは衛宮士郎で間違いはない、そう確信していたのだが」
びくん、と、身体が震えた。
背中が、海老のように曲がっている。
額に、何か堅いものが押し当てられている。
膝が、これ以上無いくらいに折り曲げられている。
要するに、要するに。
私は、許しを乞うていた。
知っていたの。
知っていたのに。
この地の獄に、どんな世界が広がっているか。
どんな臭いがして、どんな声が聞こえて、どんな物が安置されているのか。
その全てを、私は知っていたはずなのに。
だからこそ、彼を連れてきてはいけない、全ては私が処分しなければならない、そう覚悟してきたのに。
いつの間にか、私は、涎を垂れ流しを、同じ分量の涙と鼻水を垂れ流しながら。
堅い石造り床に額を擦りつけ、許しを乞うていた。
「御免なさい、許してください、許してください」
「マキリ代羽よ、それは誰に対して許しを乞うているのかな?」
二種類の呟きが聞こえて、そのいずれもが自分の声では無かった。
ただ、無様に震えた、生贄子山羊の鳴き声と。
それを解体する、喜びに満ちた、神父の声と。
それを、冷たそうに見つめる、一組の視線と。
それらを、つまらなそうに見つめる、私の意識が、あった。
「もうしません、もうしませんから、もう、こんなところに、面白半分で近付きませんから、許して…」
「それは酷い話だな。君は、純粋なる興味の対象としてこの場所を訪れ、そして彼らを見つけたのかね。だとすれば、それは重大なる冒涜だ。軽蔑の対象だ」
髪の毛を、ぐいと捕まれた。
引き起こされる。
ぶちぶちと、何本かの髪の毛のちぎれる音が、した。
そして、暗い、闇の中。
よく見知った、厳かな神父の顔が、怒りと共に其処にあったのだ。
怖い。
怖い。
身体が、動かない。
怖いよう。
助けて。
助けて、■■■。
「答えろ。君は、何をするためにここに来たのだ」
「―――ひいっ!」
その顔を見て、息を呑んだ。
初めて見る、顔だった。
怒りに満ちた、顔だった。
真剣に怒っていた。
地獄の獄卒の顔の方が、幾分マシだった。
それは、きっと天使が怒った顔だった。
「彼らを殺すために来たのか?それとも、彼らを助けるため?ああ、もしかしたら我らを待ち伏せして仕留めるためか?ならば、如何にも君らしい。私は感服するだろう」
「ゆる、ひっく、ゆるして…」
「それとも、まさかとは思うが。」
――きみは、あやまりに、きたのかね?
「うわ、うわああああ!」
掻き毟る。
石の床を、掻き毟る。
かりかり、かりかり。
まず、床の表面が、軽くこそげて。
そして、べりと、肉の裂ける音が、聞こえて。
焼け付くような、痛み。
肉が直接鑢かけられる、掻痒感。
それでも、掻き毟る。
爪など、最初の一掻きで失った。
それでもだ。
早く、骨が露出してくれ。
逃げなければ。
この男から、逃げたい。
「まさか、恥知らずにも謝るためにここに来たのか?自分達だけ助かって悪かった、そう言って頭を下げるつもりだったのか?もう苦しまなくてもいい、そう言い訳をして彼らの胸に短剣を突きたてる、まさか、そのつもりだったのではないだろな?」
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、ひっ、」
後ろから、声が追いかけて来る。
ゆっくりと、ゆっくりと。
逃げないと、逃げないと。
殺される。殺される。
ここで、私は、あの男に。
身体と、精神と、魂の、悉くを。
完膚なきまでに、殺される。
『痛い 痛い 痛い 痛い』
知っています。貴方達がどれほど痛く、苦しかったのか。
私も、それなりに痛くて苦しかったから。
肉が腐って、自分の身体が自分のものではなくなる、その感覚は、共感できる。
『助けて 助けて 助けて 助けて』
無理でした。私の背中には、重た過ぎる、荷物が。貴方達よりも、ずっとずっと大切な、荷物が。
正直に言いましょうか。
私は、貴方達など、どうでもいいのです。
貴方達が如何なる地獄を味わおうと、どうでもいい。
そんなことは、善悪の彼岸にある。
興味なんて、ある筈が無い。
あっては、ならない。
ただ、苦しいのです。
苦しい。
これが、彼の味わうはずだった苦痛だと思うと。
身も引き絞られるように、痛いのです。
『待って 待って 待って 待って』
だから、許してください。
貴方達に、貴方達のその姿に心痛めない私が、ここにいることを。
どうか、許してください。
貴方達を、心底どうでもいいと思う私が、貴方達に最後の別れを告げることを。
『返して 返して 返して 返して』
あの火事で、私が罪だと思ったことは、唯一つ。
私が、私の愛する人を、見捨てたこと。
それだけなのです。
それ以外は、背負っていないのです。
重た過ぎて、背負えなかったのです。
許してください、許してください。
貴方達の苦痛を、背負ってこなかった、私を、許して。
『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』
「マキリ代羽よ、君はいつか言ったな。『己のいない世界を観察したい。それが唯一にして無二の、自分の願いである』、と」
ゆっくりと。
振り返る。
そこには。
いつもの表情を湛えた、神父が。
ああ。
安心した。
彼は。
一度も。
怒って、いなかったんだ。
『ねえ ねえ ねえ ねえ』
「だが、この現実はどうだ。君の願い、ただ君のいない世界を観察しただけでは救われない人間が、現にこれだけ存在する。断言しよう。君がいようがいまいが、彼らはここに縛られる運命だったことを」
知っている。
人一人の価値など、塵芥。
故に、蝶は羽ばたかない。
羽ばたかない蝶の羽は、嵐を起こすことは叶わないのだ。
『お願い お願い お願い お願い……!』
「ならば、君は願うべきではないだろうか。彼らの幸福を、そして己の幸福を。君にはその義務と資格があると思うのだが、如何?」
ゆっくりと。
立ち上がる。
まだ、足元は、覚束ないけど。
それでも、そこには歪んでいない地面があった。
ならば、立てるさ。
人の足は、そういうふうに出来ているのだから。
『戻して 戻して 戻して 戻して』
そうして、初めて、彼らの顔を、見た。
そこには、記憶とぴたり合致する、顔だけが、あった。
まるで、テレビで見た有名人を、街中で見かけたときみたいに。
少し、心臓が、ときめいた。
それだけだった。
『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』
ゆっくりと、腰に、手を回した。
そこに、備え付けてあったホルスタから、拳銃を抜き取って。
殊更、見せ付けるように、それを構えた。
「…ああ、なるほど。君は、衛宮士郎の、英霊としての彼の、双子の兄弟だったな。ならば、その魂を飲み込んだ結果として、逆に取り込まれたとしても不思議は無い。それほどに英霊の魂というものは純度が高過ぎるのだ。しかし―――興醒めだ」
声が、五月蝿い。
知っている。
知っているさ。
この記憶は、俺のものじゃあない。
それでも。
この身体は、俺のものならば。
この記憶だって、俺のものだ。
そう考えて、何の問題がある?
そうして、俺は狙いを定めて。
『戻して 戻して 戻して 戻して』
一気に、引き金を十回。
引き搾ったのだ。
暗闇を、閃光が切り裂いて。
硝煙の臭いが、地下聖堂を、埋め尽くして。
やがて、その煙が晴れたとき。
そこに、怨嗟の声は、無かった。
物言わぬ、死体と化した死体が幾つか、転がっていた。
私は、顔を拭った。
鼻水と反吐と涎はあったけど。
涙は、一滴たりとも、流れていなかった。
つまり、そういうことなのだろう。
「…罪無き者を、躊躇いもなく殺めるか。それが英霊の在り方、そういうことかな?」
「…罪なら、ありますとも。ええ、彼らは大変に罪深い」
「ほう、ならば言ってみろ!何故、彼らは君に殺されなければならなかった!如何なる罪が、彼らに裁きの銃弾を課したのか!?」
「彼らが生きていたこと。それが、彼らの罪です」
一瞬、空気が漂白された。
その直後、私の後方から、篭もる様な笑い声が、聞こえたのだ。
そして、目の前の神父も、微笑っていた。
そこに神を見つけたかのように、感動の笑みを浮かべていた。
「…それは、どういうことだ?」
「彼らが生きていれば、そのことはいずれ、私の最も大切なものの知る所となるでしょう?そうすれば、彼は悶え苦しむでしょう?だから、殺したのです。彼らが物言わぬ死体となってくれれば、私の最も大切なものが苦しまずに済む。だから、殺しました。なにか、問題でも?」
「あっはっは!聞いたか、コトミネ!人は、ここまで傲慢になれるものなのか!?ああ、これはいい女だ!貴様には我のモノとなる価値がある、それを認めてやろう!」
「…そうだな。君は、今でも君のままだ。一切変わったところは無い。先程の非礼、詫びようではないか」
血の臭いは、ほとんどしなかった。
もう、流れ出る血液も、残っていなかったのかもしれない。
ただ、枯れ木の腐ったような、懐かしい香りが、胸を梳いた。
それが、彼らの残した最後の息吹だと思って、悲しいといえば、悲しかったのかもしれない。
「では、場所を変えようか。ここは、君と語らうには少し陰気臭くて敵わない」
「ええ、そうですね」
「どこがいいかな?」
「暗い、暗い森の中、など如何でしょうか?」
interval17 森へ