FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

106 / 133
interval18 夜は始めり、緞帳は再び上がる

interval18 夜は始めり、緞帳は再び上がる

 

 夜だった。

 

 雲一つ無い夜空に、欠けるところの無い月が輝く、心地よい夜だった。

 贅沢を言うならば、平年に比べて少し冷え込みがきついかもしれない。それでも寒さは厚着すれば堪えることが出来る。それに比べれば、月を楽しむには眼鏡をどれだけ磨いても不可能な夜というものは確かにあるのだから、やはり心地よい、そして贅沢な夜といっていいだろう。

 そんな夜に、三人の男女が、歩いていた。

 冬木教会へと至る、だらだらと長い坂道。そこを、親密とは決して言い難い距離を開けながら、しかし無関係とは到底思えないような表情で、ゆっくりと下っていく。

 奇妙な、三人組だった。

 おおよそ、其処に共通項を見出すのが不可能なのではないか、そう思わせる一団。

 

 一人は、見目麗しい少女。

 整った、しかし幼いところを残すその顔立ちは、美女というよりはその単語の間に『少』の一文字を加えてやっと相応しいかという具合。光が滑り落ちるように艶のある長髪が、明る過ぎる月夜には些か相応しくないようである。

 上はざっくりとしたパーカーを羽織り、下は使い古したジーンズ。腰まで届く黒髪が無ければ、少年と見間違えても罪は無いような、そういう格好だ。

 もっと見栄えのする格好、例えば身体のラインの浮き出るようなドレスや、そこまでいかなくとも可愛げのあるワンピースでも身に纏えばよかろうものを、彼女はあくまで実用本位の姿を崩さない。

 ただ、その右耳に付けられた銀のピアスだけが、数ある装飾品の中から選ばれた勇者のように、誇り高く彼女を飾り付けていた。

 

 一人は、重々しい神父服を纏った、長身の男性。

 鍛えこまれたその身体はさながら神佑地に聳える巨木のようであり、今は後ろ手に組まれている拳は、自然石を砕けるほどにごつごつとして、かつ、菩薩のそれのようにまろやかである。

 口元には、常の彼と同じく、底の知れない笑みが湛えられている。少し長い髪の毛は、そうあるように整えられた髪型というよりは己への無関心が高じた結果のものなのかもしれない。

 分厚い筋肉に飾られた背筋は、一切の角度も作らない直線。それこそが、ある意味彼の生き方を最も如実に表しているのかもれなかった。

 

 そして、二人を楽しげに眺めやる、もう一人の男。

 金色の髪の毛は獅子の鬣のように逆立ち、形のいい卵形の輪郭に強烈なアクセントを加えている。そして、鳩の血液のように赤い瞳。そこには絶対の強者のみが持ちうる、優しさと残酷さがほぼ等分に同居していた。

 黒いシャツの上から、ファーのついた白いコートを引っかけるという身軽な出で立ちではあるが、その一つ一つにえもいわれぬ気品が存在する。値札が無くとも相当の高級品であることは間違いないだろう。

 それにしても、人目を引く男であった。

 ただ目立つというのであれば、彼の前を歩く二人、少女の美しさも神父の厳粛さも劣るものではないが、この男に宿った魅力にはまた格別のものがある。

 何もせず、ただそこにいるだけで場の中心がその男に移る、そういえば分かり易いだろうか。

 華。

 それも野に咲く可憐で弱弱しい花ではない。

 あらゆる人の奉仕を一身に受けそれでもまだ足りぬと嘲笑い、周囲の土を枯らし尽くしてもそれが当然と胸を逸らし、小賢しい虫など寄せ付けず、あらゆる犠牲をもって孤高に咲き誇り、かつそれを省みない。そういう華。

 ならば、その華を何と評すればいいだろうか。

 絶世の美男子ではあるのかもしれないが、そう表現すると軽薄に過ぎる。この上なく禍々しいものを纏ってはいるが、その瞳に邪気は無い。かといって、清廉潔白な聖人君子と評すれば、間違いなく彼の怒りが下るだろう。

 金色。

 そう、表現することが出来るだろうか。

 金という色の持つ、神々しさと邪悪さ。尊さと卑しさ。清らかさと穢れ。

 それらを、ほぼ等分に抱えて飲み込み、その矛盾を愉しむような、そういう男だった。

 金色の、華。

 その男を、そう表現することができるだろうか。

 

 そんな三人が、ただ歩いていた。

 

 人とすれ違うことは、全くといっていいほど無かった。

 皆、この冬木に訪れた季節はずれの大嵐を避ける為に、家に立て篭もっているのだ。その矮小さ、或いは賢明さは金色の男の侮蔑を買うに十分だったが、こうも気分のいい夜に雑種と侮るべき存在がその視界を汚さなかったことについてだけは、男は満足していた。

 風は、ほとんど吹いていていない。

 彼らの視界に広がる冬木の海も、きっと今夜は静かなものだろう。彼らの良好な視力をもってしても、彼我の距離とその間に横たわる闇を見通すのは不可能だったが、おそらく白い波頭は立っていない筈であった。

 しばらく、彼らは無言で歩いていた。

 小一時間も歩いた頃だろうか。

 やがて、彼らの前に大きな橋が姿を現した。

 冬木大橋。

 全長665メートルにおよぶアーチ形式の巨大な橋。新都と深山町を一つにつなぐ、重要な生活道路の一つである。

 その中頃に差し掛かった頃合に、さも退屈というふうに金色の男が口を開いた。

 

「女。いい加減、歩くのも飽いた。交渉をするにせよ、矛を交えるにせよ、具合の良い場所は幾つもあったであろうが。貴様、一体何を企むか」

「ふふ、貴方は私を手に入れるのでしょう?であれば、端女の我侭、笑って飲み込むのが殿方の度量と愚考しますが、如何?」

 

 そういわれると、男としては返す言葉も無い。

 少女は彼に背中を向けて歩いているのだ。逃げ出す算段を企てているなら別段、こうも無防備に晒された背中を襲っては、男子の沽券に関わろう。

 かといって今すぐにこの場所で少女を如何こうするようでは、それこそ堪え性の無い小人物として嘲笑されても致し方の無いところ。

 ならば、男としては彼女が目的地を見つけるまで、唯々諾々と歩く以外の選択肢が無いこととなる。

 金色の男も、当然それくらいのことは分かっている。分かっていて、敢えて口に出したのだ。それほど退屈であったといってしまえばそれまでだが、それでも彼の口元には、蜜を含んだような柔らかな笑みが絶えることは無かった。

 

「…嬉しそうですね」

 

 女は振り返ることも無く、そう言った。

 時と場所を金色の男の治世のそれに直せば、その行為は許しがたいほどの不敬である。いくら王の愛妾であったとしても、即刻の斬捨てを免れることは在り得ないに違いない。

 それでも、男は楽しげであった。紅い瞳が歪められ、口元に不吉な皺を作り出すほどには、彼は愉快だったのだ。

 

「ああ、嬉しいとも。この十年、退屈で退屈で、倦んで倦んで倦んで仕方なかったのだ。まこと滑稽、愚民には奢侈に過ぎる時代であったが、それでも我を満足させるには程遠い。それが、今宵は少しは紛れそうなのでな、雌猫が多少の砂をかける程度の非礼、笑って許そうではないか」

「ふふ、それは重畳。まっことめでたき儀、謹んでお慶び申し上げますわ」

「うむ、格別に許そう。今宵は月も美しい。よい宴になるであろうや」

 

 そのとき、彼は月を見上げたのか。

 少女には、知る術は無かった。

 そして、しばらく無言で歩いた。

 時折、ぽつりぽつりと会話らしきものを交わすのは、決まって少女と金色の男。巨躯の神父は、その様子を愉しむかのように会話に参加することは無い。

 それでも、しばらく、歩いた。

 やがて、冬木を二分する大きな川を渡り終えた、ちょうどその拍子。

 少しの不機嫌を孕んだ声で、金色の男が口を開いた。

 

「おお、そういえば忘れるところであった」

 

 聞く人が聞けば、その場で身を投げ出して地に伏せ、平身低頭で許しを乞うような、声。

 しかし、少女の表情に一切の乱れは無い。

 当然の如く聞き、当然の如く歩く、それだけだ。

 

「あの公園で、貴様は言ったな。我が、まるで卵を抱く竜のように、目を血走らせながら大聖杯を守っていると。あれは、如何なる意図があってのことか?」

 

 初めて、男の声に殺気らしきものが込められた。

 少女は項をちりちりと焼くそれに耐えながら、努めて冷静な声を出そうとする。それでも、その語尾が僅かに震えたのは、人の身ならば責めるには酷というものだろうか。

 

「…どういう、意味でしょうか?」

「惚けるな。当然、我があの場にいたこと、気付いていたのであろう?」

「ああ、やはり、ばれていましたか」

 

 そのとおりである。

 少女は、自身と最愛の弟を舐めるように観察する、一対の視線に感づいていた。

 餓えた虎の如き、危険な視線。

 ともすればその刹那に襲い掛かってきてもおかしくは無い、そういう視線。

 その鋭さが、まさに危険水域の最悪のところを突破しようとした、その拍子。

 彼女は、その視線の主を見つめながら、こう言ったのだ。

 

 貴方は、所詮は卵を抱いて目を血走らせた竜に過ぎない、と。

 

 荘厳で、巨大で、なにより偉大であるはずの竜が、卑屈にも、己の巣に篭もり卵を守る。

 その姿の、何と卑小なこと。

 彼女は矮小な虫の分際で、竜の眼前にてそれを嘲笑ったのだ。

 竜は、激怒した。

 当然、竜は身の程知らずの虫共に懲罰を加えようとした。八つ裂きにしても飽き足らぬ、そう思った。

 しかし、その瞬間に、虫共は同士討ちを始めた。竜のことなど忘れた素振りで、互いを傷つけ合い始めたのだ。

 虫が互いに争っているときに竜が怒りと共に姿を現したのでは、道化は竜のほうである。

 故に、彼は、身分知らずの愚か者を誅殺する機を逸した。

 少女は、弟を傷付けることで弟を危難より救ったのだ。

 

「さて、この場合の竜とは誰のことで、卵とは何のことかな?返答如何によってはそれなりの罰が下るやも知れぬが」

「…彼らは、そもそも勘違いしている。貴方達が大聖杯を死守しなければならない理由など、何一つ無いというのに」

 

 少女は、懸命に震えを隠しながら、そう応えた。

 そうなのだ。

 彼らに、大聖杯をそこまで必要とする理由は、そもそも無いのだ。

 英雄王がこの戦いに身を投じる理由は、主に三つ。

 

 一つ、騎士王の誇りをへし折り、彼女に泥を食らわせて己に跪かせること。

 一つ、聖杯という彼の宝物を、下賤の者の手に渡さないこと。

 一つ、純然たる暇つぶし。

 

 確かに、大聖杯を起動させることが叶えば、その全てを同時に満たすことは可能である。

 騎士王を堕落させるための泥は手中に収まり、宝物は本来在るべき主の下に還り、彼はその自尊心を満足させうるだけの豊かな時間を過ごすことが出来るだろう。

 確かに、それはそれで素晴らしい。

 では、万が一、彼の意図と反して、大聖杯の破壊が成れば?

 騎士王に孕ませるための泥、それが手に入ることはあるまい。厳密に言えば、マキリ桜の身体に組み込むはずだった刻印虫や言峰綺礼の心臓に潜む泥など、泥自体が存在しないわけではない。しかし、騎士王を汚染させるほどの量と質を兼ね備えた泥の入手は著しく困難といわざるを得ない。

 残りの二つの条件はどうだろうか。

 賊の目的はあくまで聖杯の破壊である以上、彼の宝物である偽りの聖杯が破壊されることはあれど余人の手に渡るということは無い。そもそもが彼の宝物庫に選ばれなかった程度の、偽りの器である。彼以外の者がその所有権を取得するということが無ければ、それほどに目くじらを立てるほどのことでも在るまい。

 暇つぶし、これについては、如何様に事態が転ぼうと問題は無いだろう。彼の思うままにことが運ぶならば良し。彼の思惑を超えて雑種共が奮闘するならばそれもまた良しだ。いずれにせよ彼の退屈は紛れるだろうし、現に紛れてもいる。

 要するに、騎士王が手に入るか否か、彼にとって聖杯を手に入れるということはそういうことなのだ。増え過ぎた人類を間引きするという目的がないこともないが、それもあくまで退屈しのぎ以外の何物でもない以上、さほど気にすることも無い。

 また、神父にとっても目的は、彼の生の価値を判別しうる、特別な存在を降臨させること。それについては、マキリ代羽という女性の卵子と子宮を使えば可能であるので、わざわざこの世全ての悪を呼び寄せる必要もないだろう。

 もちろん、叶うならばそれに越したことはない。

 逆に言えば、その程度のこと。

 この世全ての悪と宿命付けられた赤子が、悪として生まれた己にどのような価値を与えるのか、非常に興味深いところではあるが、神と悪魔の両方の資質を備えた赤子がこの世界に如何なる価値を見出すのかというのもまた、負けじと興味深い。どちらが叶ったとしても神父の暗い好奇心の器は、その縁から零れるほどに満たされるだろう。

 

「彼らは、己の戦略課題と敵の戦略課題を、常に相反するものであると勘違いしている。貴方にとって最も重要なのはその身を蝕む無聊を如何に慰めるか、そしてその威に沿って如何に振舞うかということであり、貴方が最も執着している騎士王の存在とてその延長線上にしかないというのに」

「慧眼だな。であれば、我が天空を羽撃き獲物を食む竜か、それとも巣に潜み卵を守る竜か、そのいずれであるかなど瞭然であろう。ということは、成程あれは我の気を引くための方便か。くく、愛い奴よな」

 

 金色の男は、くつくつと微笑った。

 男にとって最も重要なことは、財を手にすることではない。そもそも、この世の全ての価値あるものは、その悉くが彼の手中に納まっている。己の所有物であるのに、それを手にするために目の色を変えて騒ぎ立てる程の無様、この男が演じるはずが無いではないか。

 それよりも、何よりも。

 彼は、王なのだ。

 あらゆる時代、あらゆる地域に存在する王、皇帝、それを僭称する者共の遥か上に君臨する、原初の王。

 只管に支配して、只管に君臨して、只管に蹂躙した王である。

 彼は、誰よりも王なのだ。

 王たることを、義務付けられている。

 それは、宝物庫を守る番人としての王ではない。

 宝物庫に無限の財を放り込み、それでも飽き足らぬと嘯く王である。

 それが、たかが女の一人や二人のために、自らの誇りに泥を塗りこむような真似を、するとでも?

 その誇りと気概を、どうしてこのような瑣末ごとで捻じ曲げることができようや。

 何故なら、彼はどこまでも王なのだから。

 

「今日、間抜け面して出歩くマスターどもを、何組か見つけた。その中には騎士王の姿もあったのだがな、全く、煮え滾る欲望すら一息で凍りつくわ。我があの薄汚い穴倉に逼塞していると思い込んで、その背は無防備にも程があった。騎士王も地に堕ちたか、そう思わざるを得ぬ」

「…貴方のことだ。どうせ今夜当たり、鼠が巣に固まったところを一気に殲滅するつもりだったのでしょう?」

「くく、さてな。しかし、今日、貴様が現れることが無ければ、違った形で暇を潰していたことだけは確実だ。ついでに、跳ね回る蚤共の一匹や二匹、潰していたやもしれぬわな」

 

 金色の男は高らかに笑った。

 少女は、その言葉に一切の虚飾も虚言も無いことを悟っていた。

 

「やはり、今宵は気分がいい。女、名を教えろ。我にその名を明らかにする栄誉を授けてやる」

「…シロウと。そう呼んでいただければ、恐悦至極に存知まする」

「シロウか。なるほど、良い名だ。残念ながら正妻は腐っても騎士王と決まっておるでな、妾として可愛がってやろう」

「有難き幸せ」

 

 そんな、会話。

 その会話に熱がないことを悟っていたのは、片方か、それとも両方か。

 神父の頬を微妙に持ち上げる以外一切の価値を持たない会話は、無人の闇の中に吸い込まれていくかのようであった。

 

 彼らは歩き続ける。

 平坦だった舗装路は、やがてなだらかな上り坂に。

 なだらかな上り坂は、間もなく、急な、剥き出しの斜面に。

 そうして、彼らは踏み入った。

 森。

 名前は、無い。

 近隣の住民に聞けば、何かいわくの付いた名前でも教えてもらえるのかもしれないが、少なくとも公的な呼称は存在しない。

 例えば、近くに由緒正しき寺があるわけでもないし、その森の奥に御伽噺のような古城があるわけでもない。

 ただの、森だった。

 暗い、暗い、しかし満月に煌煌と照らされた、森だった。

 

「…さて、マキリ代羽よ。ここならばお前の希望を叶えるに十分な場所なのではないかな?」

「…ええ。こんなにも静かで、こんなにも穏やか。なんて素敵な空気、そう思いませんか?」

 

 少女は、振り返って微笑む。

 くるりと踊った黒髪が、魔法のように舞い散る。

 その、絹のような一本一本が擦れ合う、その音すらはっきりと聞き取れるような、静寂だった。

 やがて、少女は決意したように顔を強張らせる。

 一瞬、声を絞り出すまでに、間が空いたか否か。

 

「…アサシン」

 

 少女は、己の従者に呼びかける。

 

「…」

 

 従者は、無言で答える。

 少女の意図は、明白だ。

 ここで、戦おうというのだろう。

 それが、明確な勝機に基づくものなのか、それとも正気を失ってのことなのか、それは暗殺者にも分からない。しかし、数の有利を捨ててただ一人敵に立ちはだかるというのは、闇より目標を屠ることになれた彼に言わせれば、やはり正気とは言い難かった。

 そして、何より。

 彼が彼女の正気を疑ったのは、次に少女から吐き出された、言葉だった。

 

「今まで、ご苦労でした」

 

 暗殺者は、その耳を疑った。

 其は、如何なる意味を持つ単語か。

 一瞬、彼の冷徹な脳細胞を、焼けた石のような疑問が煮沸した。

 彼は、当然に、後ろに控えた主を見遣る。

 そこには、彼と視線を合わせようともしない、見たことも無い表情の主が、いたのだ。

 

「聞こえませんでしたか。ご苦労でしたと、そう言いました」

「…聞こえている。しかし、真意が掴めぬ。説明を求めたい」

「暇を出します。どこへなりと、消え失せなさい」

 

 暗殺者は、少女の視線を探った。

 まるで、そこに固定されたかのように微動だにしない、少女の瞳。

 気丈で、気丈で、しかし一瞬だけ揺れ動いた、瞳。

 彼は、数秒、それを見つめた。

 もう、それ以上問い詰めようとは、しなかった。

 

「…我らの契約はここまで、そういうことか」

「…衛宮士郎。彼ならば、貴方を雇い入れてくれるでしょう。まだ現世に未練があるというならば、彼を頼りなさい」

「承知した。主殿、いや、かつて主だったものよ。壮健であれ」

 

 彼らには、それで十分だった。

 いや、十分過ぎた。

 だから、そう言い残して、白い仮面は闇夜に消え失せた。

 一陣の風が吹いた気がしたが、それは気のせいだろう。

 

「…どういうつもりだ。例え闇夜に隠れて女子供を襲う以外、何の能も無い下等なサーヴァントとはいえ、戦力は戦力であろう。シロウ、貴様、何を考えている?」

「…取引を」

 

 少女は、目の前に立つ二人の男と、堂々と向かい合った。

 その瞳に、一切の脅えや怯懦は存在しない。

 煌くような意思が、そこにはあった。

 さわさわと、木々の葉の擦れる音がした。

 風も吹かぬのに、不思議なこともあるものだ。

 

「…取引と。一応は耳を貸そう。まず聞こうか。我は、その取引によって何を得るか?」

「聖杯を貴方の手に授けましょう。既に、私の身体には英霊の魂が四騎分。半神であるヘラクレスと、悪神に還ったメドゥーサの魂の質量を考えれば、既に聖杯を降霊させるだけの要素は足りている。多少狭隘な穴となるかもしれませんが、それでも泥を取り出すだけならば十分でしょう」

「…聖杯は元々が我の物だ。それを授けるいう表現は些か気に食わぬが…、まあ、いいだろう。それだけか?」

 

 少女は、淀みなく続ける。

 おそらく、考えに考え抜いての決断だったのだろう。

 彼女の漆黒の瞳に宿った決意を見れば、それは明々白々だ。

 

「騎士王の令呪を差し出しましょう」

「ほう…」

 

 金色の男の眉が、一度だけピクリと動いた。

 少女は、彼に一冊の本を差し出した。

 その本の名は、『偽臣の書』。

 こん睡状態にあった遠坂凛の令呪、その一角を奪い取って形としたものだ。

 

「騎士王のマスターである遠坂凛、彼女の片腕は私の分身です。彼女を操ってその身に宿った令呪を差し出させるくらい、造作もない」

 

 騎士王を律する、令呪。

 確かに、それは金色の男にとって魅力的な条件といえる。

 無論、その強制力を使って、まるで卑劣な脅迫者のように彼女を屈服させるという選択肢は、最初から彼の思考に存在しない。彼が騎士王を屈服させるのは、ただ彼の力をもって。そうして、騎士王を地に平伏させ、泣き叫ぶ彼女の口に穢れきった泥を含ませて嚥下させる。そうでなくては彼の征服欲が満足することはないだろう。

 しかし、もし彼が泥を含ませる前に、騎士王が舌を噛み切れば?

 そうでなくとも、彼女の行く先を憐れんだ無粋なマスターが、令呪の力をもって彼女を強制的に『座』へと送還することも考えられる。無論、そのような愚行をした者は英雄王の怒りによって八つ裂きにされるだろうが、それでも彼としては承服し難い結果であることに変わりはない。

 ならば、それらの不手際を防ぐ意味で、騎士王の令呪を抑えておくことは、必ずしも無意味ではない。

 

「…なるほど、それは面白い材料ではある。で、取引というからには、求めるものがあるのだろう?シロウよ、貴様は何を求めるか?」

「衛宮士郎、および彼に近しい人間の命の保障」

 

 少女は、何の衒いもなく、言い切った。

 それこそ、鉄のように堅い意志、鋼のように鋭い声で。

 

「貴方にとって、騎士王さえ手に入るならば、その他の人間は悉く無価値な雑種のはずだ。それが生きようが死のうが、貴方の興味の及ぶところではない。違いますか?」

「…いや、正しくその通りだ。しかし、その中に騎士王は含まれぬのか?」

「優先順位の問題です」

 

 きっぱりと。

 一顧だにせず。

 その声は、気高かった。

 故に、悲しかった。

 彼女は、いや、彼女である彼だったものは、今確かに一番大切な過去を切り捨てたのだから。

 

「今の私を生贄に捧げれば、聖杯の起動は可能でしょう。しかし、それでもサーヴァント五騎分程度の魂では大聖杯の起動は不可能。故に、アンリマユが現界することは無い」

「…なるほど、だからアサシンを引かせたか。貴様にこれ以上の魂が溜まることのないように」

「…貴方達が彼らを見逃してくれるならば。彼らの安全を保障してくれるならば。私は、それらの条件を必ず達成して見せましょう。如何ですか、この取引、飲んでいただくわけにはいかないでしょうか?」

「…なるほど、面白い取引だ。降りかかる火の粉は、吹き飛ばさねば炎が我が身を焼こう。しかし、そうでないのならば彼の者の命は保障する。それでよいか?」

「十分です」

 

 少女は、寂しげに微笑った。

 金色の男の表情は…果たして、どうであったか。

 満足のいく取引ではなかったのか。

 騎士王の令呪の一角を手に入れ、そして聖杯を手にした。それと引き換えに失ったのは、精々が無礼な雑種を誅殺する刃程度のもの。それも、その雑種が歯向かうようであれば、容赦ない鉄槌を下してやればよい。手段を選ばないならば、わざと雑種に諸刃の刃を与えてやっても良いのだ。ただし、その刃が切り裂くのは持ち手の頭蓋になるのだが。

 あとは、正々堂々と、騎士王を叩きのめすのみ。躾の行き届かない野犬が文字通りの横槍を入れるかもしれないが、その程度のことは彼の優位を揺るがすには至るまい。

 そうして、全てが彼のものだ。

 騎士王は泥に汚染されて悶え狂い、それでも彼を主人として仕えるだろう。至高の宝は、本来在るべき蔵に収められる。世に蔓延るつまらぬ雑種どもは、いずれ機会を見つけて間引けば良い。

 そうして、いつも通り。

 いつも通り、退屈で下らぬ日々が、始めるのだ。

 それは、なんとも残酷な―――。

 

「…一つ、お願いが」

「…許す。申してみよ」

 

 少女は、俯き加減に口を開く。

 その、口元。

 既に、彼女の所有物ですらない、その口元。

 それが、明らかに歪んでいた。

 それは、奇妙な角度だった。

 彼女の身柄は、契約が成った時点において金色の男の所有するところとなっている。

 なぜなら、彼女は聖杯そのものなのだから。

 ならば、その口元にへばりついた笑みの、なんと異様なこと。

 まるで今から獲物の頚骨を噛み砕く、虎のような笑み。

 まるで今から鼠を狙って急降下する、梟のような笑み。

 それは、肉食の笑みだった。

 断じて、奴隷商人に鎖で縛られた人形が、浮かべていい笑みでは、無かった。

 それを見て、金色の男は、微笑った。

 ああ、退屈が遠のいたと。

 彼は、心中で、満足の吐息をついたのだ。

 

「私の中には、もう一人の私がいます」

「ふむ」

 

 少女が、ゆるりと顔を上げる。

 顔にかかった前髪が、少女の細やかな表情を覆い隠している。

 しかし、それでも明白だ。

 彼女は、やはり微笑っていた。

 

「その彼が、叫ぶのです。ああ、何故自分よりも弱い者に対して卑屈とならなければならないのか、と」

「ほう、それは許しがたい」

 

 少女は、腰から一振りの短剣を取り出した。

 そしてそれを襟元に突っ込み、一気に引き下ろす。

 ビビィ、と、布の切り裂ける、悲しげな音が、森の中に木霊する。

 はらりはらりと、少女を包んでいた繊維が、舞い散る。

 降り注ぐ月光。

 その、おそらくは世界の中央で、裸体の少女は、満面の笑みを浮かべていた。

 

「私では、説得しきれません。王よ、どうかこの、身の程知らずの不忠者に、その罪に相応しい罰を下してくださいませ」

「おうよ、承知した。では、その不忠者をここへ呼んで参れ」

 

 全く、意味の無い会話だった。

 今まで、本当の巌のように黙って二人の会話を聞いていた神父も、流石に苦笑せざるを得ない。

 それでも、二人は微笑っていた。

 少女は、獰猛に。

 金色の男は、傲慢に。

 その笑みは、全くもって、その二人に相応しかった。

 神父は、速やかに踵を返した。

 最早、ここは人の立ち入ることの出来る場所ではなくなった。

 無意味な意地や義侠心は、この際命取りになるだろう。数多くの戦場を渡り歩いた者だけが持つ、美しいほどの判断力だった。

 そして、二人だけが、残された。

 男と女だけが、残された。

 裸の、女。

 しかし、その美しさを取り除けば、そこに宿るのは剣山のような獰猛さだけ。

 それを、何よりも男は愉しんだ。

 先程の取引のことなど、既に忘れてしまったかのようだ。

 彼は、間違いなく、今宵で一番幸福だった。

 

「では、一言だけ、忠告を」

「許す。申せ」

 

 少女の黒髪が、浮き上がった。

 風は、相変わらず吹いていなかったのに。

 

「良識ある人は逃げなさい。私の守護者は凶暴です」

「従えぬな。これほどに愉しいのだ」

 

 少女と男の頬が、これ以上無いくらいに歪んだ。

 それも、同時であった。

 

「Ego sum alpha et omega, primus et novissimus, principium et finis」

 

 ばりばりと、何かが裂ける音がする。

 ぶちぶちと、何かが千切れる音がする。

 音の源は、美しく、小柄な少女。

 彼女の名前は、代羽(シロウ)といった。

 

 変化したのは、まず骨格。

 小柄な少女の骨格は、少女の肉の中で、男性の中でもかなり大柄なそれに変化した。

 体の中で、存在を巨大化させたカルシウムの塊は、

 柔らかな皮膚を張り詰めさせ、

 ついには内部からそれを破壊した。

 膨張した頭蓋骨によって頭頂部の皮膚は裂け、

 突き出た骨は、筋肉を引き千切った。

 極限まで伸びきった皮膚は、まるで破裂寸前の風船だ。

 事実、体のあちこちから血が噴出している。

 

 次に変化したのが筋肉。

 まるで棒切れのようだった体の各部に、エーテルで出来た肉が巻きついてゆく。

 例えるなら、針金で作った人形の芯に、青銅の粘土を肉付けしていくかのように。

 上腕部に、溶けた青銅を一塊。

 大腿部に、溶けた青銅を二塊。

 そして、そこには、まるで人間のような彫像が完成していた。

 

 最後に変化したのが髪。

 黒絹のようにしなやかな髪は、はらりはらりと抜け落ちて、

 代わりに強い髪が、そこにはあった。

 天に歯向かうように逆立ったそれは、

 まるで蒼穹のように蒼かった。

 その色は、マキリと呼ばれた一族の髪の色。

 

 そこにいたのは一人の男。

 端正な顔立ち。

 鷹のように鋭い目つき。

 すっきりと通った鼻筋。

 形の整った唇。

 その瞳は極端に小さく、貌は四白眼の狂相。

 唇の両端が持ち上がっているのは皮肉からではなく、嘲笑ゆえに。

 背筋は曲がり、猫背気味の姿勢。

 視線は粘つき、見るものに不快を憶えさせる。

 全身を赤黒い呪刻で覆われた、その男。

 彼の名前は、代羽(ヨハネ)といった。

 

 

「二度目か、贋作者」

「いや、もっとたくさんだ、愚物」

 

「再会だな」

「ああ、再開だ」

 

「愉しいな」

「ああ、全くだ」

 

 次の瞬間、森が、爆ぜた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。