FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
深い眠りから、意識が浮かび上がる。
いや、その表現は正しくないか。
全身を覆う激痛。
それが、私の意識を引きずり起こす。
痛い。
体中が痛い。
これほどの痛み、いつ以来だろう。
思い出すのはあの日。
冬木を飲み込んだ大火
赤い空気の中で、弟を背負って彷徨った。
じくじくと、皮膚を炙る熱。
呼吸をするたびに、掻き毟られるように痛む呼吸器。
そうだ、あれは、痛かった。
もう、嫌、だな。
そう思う。
もう、見捨てたくないな。
痛みに犯される意識の中で、
そう、考えた。
ゆっくりと、目を開く。
まず最初に目にしたのは月。
闇夜を淡く照らすそれは、太陽の光よりも優しかった。
次に目にしたのは黄金。
太陽と同じくらい輝くそれは、私の醜い部分を照らし出すようで、ひどく退廃的だった。
「…愚か者に、誅罰は課した。これで満足かな?」
黄金が話す。
なるほど、ヨハネは敗れたらしい。
無限の魔力と不死を得たヨハネ。
それが、敗れた。
ああ、と、溜息を吐く。
狭い狭い、私の中。
空っぽの、私の中。
そこは、もう、伽藍堂で。
優しい守護者は、もういなかった。
ああ、彼は、死んだのだ。
きっと、最後に私だけを、助けて。
そうして、何も言わずに、消えていった。
せめて最後に一言だけ。
今まで、ありがとうございました、と。
どうして、お礼を言わせてくれなかったのか。
それとも、それが彼なりの気遣いだったのか。
ならば、彼は間違いだ。
だって、私は、こんなにも寂しい。
「ヨハネは…死にました…」
「そうか」
「でも、私は、生きています…」
「そうか」
今のうちに死んでおけ、と彼は言った。
時は夜。
死にたくても死ねなくなる、と彼は言った。
場所は門の前。
赤い瞳に浮かんだのは哀れみではなく嘲笑。
端正な唇を曲げていたのは、親愛の情ではなく傲岸の念ゆえに。
それでも彼は美しかった。
身に纏うのは黄金の覇気。
いや、それは違うか。
彼の覇気と同じ色を黄金と呼ぶのだ。
彼の覇気と同じ色だからこそ、ただの金属に高い価値が与えられたのだ。
そう確信できるほど、目の前の存在は気高かった。
我の手を煩わせるな、と彼は言ったのだ。
「…あなたの言った通りになりましたね。私の体は、こんなにも死から遠ざかってしまった」
アンリマユとのパスは、繋がっている。
ならば、私の不死が消え去ることは、あるまい。
それでも、もう、私は、一人だ。
私を守ってくれた彼は、いなくなってしまった。
私を守ってくれた彼は、いなくなってしまった。
それが、こんなにも、心細い、なんて。
涙が、零れそう。
でも、我慢。
泣けば、無様でしょう。
彼が、心配するでしょう。
だから、泣きません。
泣きませんとも。
私は彼を見上げる。
彼は私を見下ろす。
無表情の瞳。
孤独に歪んだ瞳。
位置関係がそのまま地位関係。
支配者と服従者。
極めて正しいその認識。
「もう、満足であろう。さあ、行くぞ」
冷厳に言い放つと、彼は虚空から一連の鎖を取り出した。
まるで、それ自体が意志を持つかのように、私に向かってくる鎖。
私は、それを飛びのいてかわした。
「ほう、まだ動けるか」
純粋な感嘆を含んだ、声。
だが、私にはそれに答える余裕など無かった。
痛い。
全身の細胞が、千切れかけているかのようだ。
動くだけで、塩細工のように、身体中が解れそう。
ひょっとしたら比喩ではなく、真実細切れにされたのかも知れない。
体が痛むのではなく、痛みで体が構成されているような錯覚すら覚える。
痛い。
無条件で、痛い。
ただ、こうしてみると、何も身に纏っていないのが好都合。
表皮を撫でる微風すら、死にたくなるような激痛をもたらすのだ。
衣擦れなど、考えるだけで恐ろしい。
「で、何をするつもりなのだ」
彼の問いはもっともだろう。
この身に武器は無く、魔力など最初から存在しない。
守護者はおらず、私一人。
勝機など無い。
そもそも、あのヨハネを正面から退ける相手に、私が敵う筈など無いではないか。
でも。
「私はあの時こう言ったはずです。『私の望みを妨げるのであれば、例え神でも食い殺してみせましょう』、と」
成すべき事は定まっている。
そのため成すべき事も明白だ。
さぁ、立ち上がって。
その、細い腕を持ち上げて。
それでも、精一杯の拳を作って。
相手を、睨みつけろ。
「ふむ、気概は勇ましい。しかし、賢明ではないか。まあ、よい。戯れである。先程の契約も、些かこちらに分がありすぎるものではあった。この程度の女の我侭、飲み込むのも男の度量よな」
殴りかかる。
体が動かない。
正確に言えば、意志と体の接続が可笑しい。
まるで、液体の中で戦っているような重い感覚。
腕がスローモーション。
足がコマ送り。
思考にいたっては一時停止か。
ははっ。
笑えてくる。
これが私か。
こんなもののために、幾たびも血の小便を流したか。
申し訳ない。
過去の自分に、申し訳ない。
貴方の努力を、貴方の苦痛を、生かしてやることが、できない。
もともと、勝てるはずのない相手なのに。
これじゃあ、戦いにすらなっていないじゃないか。
振り回すような、子供の喧嘩のような拳撃。
かわされる。
振り上げるだけの、無残な蹴り。
すかされる。
ならば、と体ごとタックルにいっても。
いなされる。
そのままバランスを崩して地面に倒れこむ。
直後に訪れた、地面との望まぬ抱擁と、小石への接吻。
無様な抱擁の代償は、砂利との摩擦による叫びだしたくなるような激痛。
へし折れそうなくらい歯を食い縛ってそれに耐え、なんとか仰向けになる。
大きく喘ぎながら、目を開く。
月が、あった。
真ん丸い、大きな、月だった。
今にも落ちてきそうな、そういう素敵な勘違いをしてしまう、そういう月だった。
「…話にならぬ。児戯とはいえ、それでも王をつき合わすのだ。程度というものが在ろうが」
ゆっくりと、立ち上がる。
身体の各部を、確かめる。
痛みは、消えてくれない。
それでも、痛みは実在感だ。
動く。
まだ、動く。
掌を、握って開く。
首を、左右に捻る。
全て、思い通り。
ならば、万全だ。
万全じゃあないか。
言い訳は、できない。
言い訳は、侮辱だ。
私が殺してきた人、私がお世話になった人。
私を守ってくれた人、私が守ろうという人。
その悉くに対する、侮辱だ。
ならば、立ち上がれ。
何でもないふうで、立ち上がれ。
これから鼻歌でも謡うように、立ち上がって。
そうして、不敵に笑え。
でないと、塵だ。
シロウよ。
お前は、塵になるぞ。
お前が、塵ならば。
お前が、無価値ならば。
お前が殺してきた人、お前がお世話になった人。
お前を守ってくれた人、お前が守ろうという人。
その悉くが無価値となる。
だから、戦わなければならない。
お前は、戦わなければならない。
大事な人が、大事であることを証明するために。
ああ、そうか。
なるほど。
少しだけ、理解できた。
彼も。
彼も、こういう気持ちで。
正義の味方なんていう、得体の知れないものを。
目指そうと、志したのかも、しれないな。
「コトミネ、あとは任せる。我は、もう飽いた」
「…よいのか?それは、既にお前の所有物であろうが」
「王の犬だからとて、その躾を王がせねばならぬ道理はあるまい。王には王の、調教師には調教師の役割がある」
いつの間にか、目の前に、男が立っていた。
神父服を着込んだ、まるで巌のような、男。
どこかで、見たな。
いつか、知っていたな。
私は、抱かれたな。
そうだ。
そうじゃあないか。
この人は。
私の、愛した、人だ。
「…貴様らしい言い方では在るが、それは一面、真理であるな。ならば、任されよう。その代わり、如何様に躾けようと、不満は聴かんぞ」
「くどい。我に二度同じことを言わせるな。殺すぞ」
あ、笑ってる。
嬉しそうに、笑ってる。
そうだ。
そういえば、そうだ。
この人に、抱き締められたことは、何度も合ったけど。
この人に、慰められたことは、何度も合ったけど。
この人に、抱かれたことは、一度だけ合ったけど。
殴りあったことは、今まで、一度も無かったな。
ああ、そうか。
今日か。
今日、この人と、私は。
「聴いたか、マキリ代羽よ。君は、私と戦わなければならない」
はい。
わかりました。
「君が取引を持ちかけておきながら、何故戦おうとするのか、それは知らん。だが、君が私に勝ち、そしてその様をあの男が気に入れば、或いは君の望む通りに事が運ぶやも知れぬ」
はい。
わかりました。
単純な、ことですね。
要するに。
要するに。
「貴方に勝たないと、先は無い」
「やはり聡明だ、君は」
interval20 役者は代わり、それでも劇は終らない
二人は、初めて向かい合った。
神父と信徒として、ではない。
抱く者と抱かれる者、でもない。
まして、夫と妻として、ではない。
ただ、敵として。
倒す者と倒される者。
未だ結果は定まらないが、不可避の未来として、彼らはそういう結末を辿る関係だった。
染み一つ、黒子一つ無い、世の男性の理想像を形にしたような美しい裸体を晒す、少女。
巨木のように揺ぎ無い、それでいて柳のようにしなやかな肉体を誇る、男。
身長差、40センチ。少女の実感としてみれば、己に倍する巨人と戦うに等しかろう。
体重差、40キロ。それは、事実として少女の体重に等しい。
大人と子供、そう評するのも馬鹿馬鹿しい、それほどの体格差である。もし、それが脂肪という無駄な重量を抱えてのそれであれば救いもあるが、神父の身体を構成するのは鍛え込まれて鋼と化した筋肉のみ。それに引き換え、少女はあくまで女らしい、丸みのある柔らかな肉体を保った上でのその体重である。単純に筋肉の量のみを比較するならば、三倍、下手をすればそれ以上の差があるかもしれなかった。
異常な差異である。
少なくとも格闘戦において、勝つとか負けるとかを論ずるような域ではない。
もしこれが試合であるならば、少女のセコンドは只管にこう願うだろう。
頼むから、死なないでくれ、と。
それでも、二人は並び立つ。少女は、自らの質量に倍する、しかし明らかにそれ以上の量感を備えた男の前で、なお哀れを誘わずに、ただじっと見据える。
「もし、手心を加えるというのであれば、私は一生貴方を軽蔑します」
神父は、無言でその法衣を脱ぎ捨てた。
照りつくような月光の元、露になった神父の上半身。
これ以上無い、そう確信できるほどに引き締まっている。筋肉が見事に隆起を造り、ごつごつとした印象でありながら、少しも堅くない。それは、見せるために作り上げた不自然で不要な筋肉ではなく、全てが実用的で実践的な柔らかい筋肉であることを示している。
それは、敵である少女が溜息を吐きたくなるほどに、見事な肉体だった。歳が40に近くなれば人の身体はどうしても緩みを憶えるもの。しかし、その男の体は、少女が彼と交わったあの夜と比べて、些かの見劣りもしないものであった。
神父は、首に手を当てながら、軽く前後に動かした。彼なりの準備運動なのかも知れない。
「君が手心を加えてくれと嘆願すれば、考えないでもなかった。しかし、その場合は君を軽蔑していただろうから…、そうだな、互いに望ましいといえるか」
彼は、法衣を放り投げた。
少女が、一瞬だけ身を固くする。
それでも、神父は動かなかった。それどころか、まるで今から寝床に入るかのようにその身体は弛緩している。
おや、と。
少女が思った、そのとき。
神父の身体が、更に一回り、脹らんだ。
「すうううぅぅぅぅぅ…」
具体的に言うならば、神父の上半身、その分厚い大胸筋に包まれた肺腑が、これ以上無いくらいに広がったのだ。
その場に存在する大気を、全て取り入れるかのような、大きな呼吸。
これ以上広がらない、これ以上脹らめば弾け飛ぶ。
そう、少女が思ったとき。
神父は、悠々と湛えられた空気を、吐き出していく。
「こおおおぉぉぉぉ…」
息吹。
日本の空手には、試合前に行う呼吸法の一つとしてそういう技法が存在する。戦う前ならばどんな上段者でもそれなりの緊張や恐怖を覚えるもの。それを取り除き心身をリラックスさせ、丹田に気を取り込むための手法である。
言峰綺礼が行ったのもその亜種の一つ、もしくは源流であろう。
少女の柔肌は、びりびりとした圧力が一層強まったのを敏感に感じ取った。目の前に立つ男の巨大な体が、更に一回り膨れ上がったようですらあった。
「…始めようか」
「もう、始まっていますとも」
少女は、自然立ち。
正中線を真っ直ぐに、両手はだらりと下げられている。
極限まで脱力されたその構えには、一切の余分な力が加わっていないようである。
風が吹けば倒れるような、しかし必ず元の形に戻ると確信させるような、構え。
物に例えるならば、柳、あるいは柔らかな羽毛だろうか。
神父の構えは、中国拳法のそれ。
腰が、低い。太腿のラインが地面と平行線を描くほどにその腰は落とされている。
そして、半身。肩口から少女を射抜くように、その視線を放つ。
両掌は虚空から何かを掴み取るように自然な形で開かれ、肘は軽く前方に曲げられる。
どっしりとした、巨岩のような構えであった。
微動だにしない。
二人の間に、たまらない緊張感が満ちていく。
ぽとり、ぽとりと、閉まりきらない蛇口をもって湯船に水を張るように。
少しずつ、ゆっくり。
のろのろと、蚯蚓が這うような速度で、ゆっくりと、しかし確実に。
それを眺めやる観客は、ただ一人。
先程戦いを終えて、なおこの戦いを楽しげに眺める、金色の男だけ。
その視線を受けながら、二人は微動だにしない。
じりじりと、焼け付くような緊張感だった。
それは、少女に限ったことではない。
男の、少女と比べれば鬼のような巨躯たる男の額にも、粒のような汗が浮かんでいる。
やがて、動き始めたのは、男のほうだった。
足の指で身体を動かしているかのように、少しずつ、少しずつ。
二人の間に存在する空間が、悲鳴をあげるかのように縮んでいく。
二人の間に存在する緩衝が、段々と用を為さなくなっていく。
それでも、少女は動かない。
一体、それがどれほどの胆力のなせる業であるのか。神父は内心に感嘆の念を禁じえなかった。
それでも、彼はじりじりと間合を盗んでいく。
じりじりと、地面をこそげ取るかのように。
気の遠くなるような時間と緊張感。
ついに、じわじわと縮まった二人の間合いが、それ以上縮まらなくなった。
それが、必殺の間合の一歩外であることは、互いに理解している。
故に、近づけない。
神父も、もちろん少女も。
まるで、透明な球体が浮かんでいるかのようだった。
それ以上、一歩でも踏み込めば割れて砕ける、透明な風船。
それが、二人の間に浮かんでいる。
それを割ることを、二人ともが恐れているかのようだった。
二人を満たす緊張感が、急激に嵩を増していく。
蛇口が、全開になる。
だばだばと、湯船に水が張られていく。
そして、それが一杯になったとき。
湯船の縁から、まさに最初の一滴が零れる、その瞬間。
風が、一陣、吹いた。
びょう、と。
それだけだった。
それが、合図だった。
その風に乗るかのように、神父の身体が動いた。
それは、ほとんど風と一体化していたと言っていい。
それほどに疾く、それほどに隙がなく、それほどに理解できない。
大地を踏み鳴らす震脚ではなく、大地を滑るような踏み込み。
間合を盗む、その表現が相応しい。
常人であれば、視界に映った彼が、突然巨大化したようにしか思えないだろう。
ほとんど予備動作のない、氷の上を歩むかのような踏み込み。
その一歩で、二人の間に存在した間合は、盾として用を為さないものに変貌した。
少女は、理解してる。
様子見は、無い。
これが、必殺の一撃。
拳法家は、連打を好まない。
初撃こそ、必殺。
初動こそ、必殺。
逆に言えば、その確信がなければ、彼は一時間だって一日だって動かないだろう。
その彼が動いたのだ。
ならば、彼は、この一撃で少女を葬り去る気概なのだ。
何が、来る?
少女は、刹那にも満たないような瞬間で、考える。
それは、脳の思考ではない。
そんなことでは、遅れる。殺される。
それは、眼の思考だ。
筋肉の思考だ。
身体の思考だ。
彼女の体に染み込んだ、闘争の歴史の思考だ。
それが、稲光のような速度で思考する。
彼の、視線。
腹部。
ならば、中段崩拳?
違う。
そんな体重の配置ではない。
右肩が、ピクリと。
上段突き?
違う、あれもフェイントだ。
ならば、本命は下段蹴りで脚を払うか?
それも、違う。
違う。
違う。
違う。
幾重にも張られた虚と、その中に必ず紛れ込んだ実。
それを取り違えれば、即ち死だ。
だから、少女は必死に。
考える。
否。
視る。
神父を、視る。
只管に、視る。
じい、と。
その一挙手一投足見逃さない。
そういう具合に。
そして。
彼女は確信した。
神父の、必殺の一撃は。
―――右足!
ぶうんと、彼女の耳に、風が叩きつけられる。
彼女はそれを幻覚であると理解していたが、それでもなお震えるほどの恐怖だった。
それほどの、猛烈な存在感と、殺気。
蛇のように地に沈み込んでいた男の身体が、それこそ蛇の鎌首のように、持ち上がる。
浮き上がった身体。
そして、膝が高く持ち上げられ。
その先、脛から爪先までが、白鳥の羽のように折りたたまれて。
それが、彼女のこめかみを狙って。
それは、一瞬早く、彼女が風を感じ取った、まさしくその箇所。
上段蹴り。
もちろん、神父の巨躯を支える体重、その一分も逃さぬ程に体重が乗っている。
樫の杖でもへし折るだろう。
少女の細首は、千切れて飛んでいくかもしれない。
それほどの、疾く、重たく、何より美しい蹴り。
それを、少女は。
来た。
蹴り。
上段。
疾い。
あの身体で。
嘘みたい。
しなやか。
疾い。
堅い。
当たれば。
死。
受けるか。
馬鹿か、私は。
受けた手。
折れる。
そのまま。
受け手ごと。
頭が。
砕ける。
駄目だ。
避ける。
後ろに。
スウェーで。
駄目。
避けても。
いずれ、当たる。
ならば。
ならば。
私の。
武器。
これだけ。
ならば。
こうする。
簡単な。
話だ。
上出来だ。
上出来の、踏み込みだった。
百のうちに二度やれと、そう言われて出来るかどうか、そういう初動だ、これは。
ならば、迎撃は不可能だろう。
それ程に上々の踏み込みだった。
事実、彼女の腕はだらりと下げられたまま。
しかし、視線は諦めたふうではない。
狙いは、後の先か。
いいだろう。
いいだろう。
ただし。
ただし、これを避けれたらだ。
避けれたら、それもいい。
受けるのは、許さない。
受ければ、死ぬぞ。
その細腕、何本束ねたところでへし折る。
そういう蹴りだ、これは。
そして、当たれば必死。
必ず、死ぬ。
死なざるを得ない。
刃物とか拳銃とか、そういうものと等しい蹴りだ。
凶器だ。
確実に、お前を殺せる武器だ。
それが、お前に頭に向かって、跳ね上がる。
まだか。
まだ、動かないか。
後ろに下がれば、避けれるぞ。
ただし、下がればその分私は前へ出る。
ならば、次は今よりも強烈な打撃だ。
その分加速するからな。
それでいいなら、後ろに下がれ。
あれ。
まだ、動かないか。
もう、膝はこれ以上無いくらい高く持ち上がって。
爪先が、そのこめかみを狙って、走り始めているのに。
まだか。
まだ、動いてくれないのか。
殺してしまうぞ。
このままでは、私はお前を殺してしまうぞ。
いいのか。
いいのか、マキリ代羽。
いや、マキリ代羽と呼ばれた者よ。
それ以前は、違う名前で呼ばれていた者よ。
おそらく、今と同じ発音で、呼ばれた者よ。
私は、殺すぞ。
認めよう、私は君を愛していた。
おそらく、昔、愛して、子を成した女と同じ程度には、愛していた。
それを、認めよう。
だが、今の私は凶器だ。
凶器は、人を愛するか。
愛するだろう。
きっと、愛するのだ。
しかし、凶器が人を愛したところで、凶器がその刃先を曲げることは、ない。
凶器は、悠々と、その愛した者を、貫くだろう。
凶器とは、そういうものだ。
いいのか。
私は、殺すぞ。
君が不死だろうがなんだろうが、関係ない。
私は、君を殺すぞ。
いいんだな。
殺して、いいんだな。
了解だ。
さあ、死ね。
ぞくり。
背筋を、何かが。
恐怖?
悲哀?
否。
歓喜。
快楽。
ならば。
死ね。
―――。
あれ。
感触が。
潰れる、肉の感触が。
拉げる、骨の感触が。
無い。
少女は、持ち上げた。
蹴りを。
自らの頭部を砕かんと襲い来る蹴り足を、荷物を担ぐように。
左側頭部を、真横から狙ってきた足を、その左手で、上方に。
それだけだ。
それだけで、蹴り足は、彼女の頭上の遥か上を通過して、何物も砕くことはなかった。
格闘技における打撃技は、どれも直線的なものである。
突き、蹴り、膝、肘打ち。
例え、その軌道が一つの平面から見れば曲線を描くものであっても、別の平面からみれば直線を描いている。
そして、直線的なものは横からの力に弱い。僅かな力が与えられただけで容易に軌道をずらされ、また、その威力は劇的に減じる。
事実、格闘技に存在する各種の受け技のほとんどは、正面から来る打撃を、横から力を加えることによって軌道を逸らし弾くもの。正面から受け止めるそれは受け技ではなく防御ということになろう。
彼女がしたことは正にそれ。別段変わったことではない。
しかし、理論だけで実践できるならば、この世はなんと容易に生きられることか。
ほとんど予備動作を殺し、悪夢のような速度をもって飛来する、爪先の形をした弾丸。それを空中で掴み取り、力の流れに逆らわぬままその方向だけを変える。
出来ない。
理屈で分かっても、実践できるはずが無い。
神業。
そう呼んでも、過言ではないだろう。
それを為さしめた要因は、三つ。
まず、彼女が潜り抜けた死線、その中で培った胆力。
次に、しなやかに極限まで脱力された、その構え。
最後に、彼女の中に宿った弓の英霊の、際立った動体視力とその経験。
いずれが欠けても、彼女の頭蓋は砕かれ、その脳漿は豆腐のように砕けていたであろう。
そういう、奇跡のような受け技。
当然、神父に予測しうるものではない。
神父は、必殺の意思でその蹴りを放った。
存分に体重の乗った一撃である。
ならば、それを崩されたときの反動は、大きい。
然り、彼は激しくバランスを崩した。
並みの、いや、熟練の拳士であっても、その軸足を浮き上がらせ、後頭部から地面に落下するだろう。
真剣の仕合、しかも剥きだしの地面での戦いならば、それは致死の隙だ。
しかし、彼の鍛え上げられた体躯は、その体中での重心を操るだけで最悪の事態を免れ得た。それどころか、猛烈な勢いで回転する身体の勢いそのままに、裏拳振り打ちによる追撃を可能とし。
正に、その拳を振り出そうとした、その刹那。
彼の、根を張った巨木のように頑健な左軸足は、少女の細足によって、綺麗に蹴り払われていた。
神父は、理解した。
なるほど、二段構え。
蹴り足の軌道を逸らすことでその重心を崩し、その浮き上がった軸足を刈り取る。
これでは、神父と少女の体重差など、無いに等しくなる。
当然、神父は倒れる。
無様に、後頭部から。
それでも、神父も百戦錬磨である。
後頭部と地面の衝突による脳震盪、それだけは避けようとする。
顎を引き、肩と背中で衝撃を吸収するよう落下。
そして、頭部に伝わる衝撃を、その太い首の筋肉が吸収する。
これならば、脳にダメージは無い。
脳にダメージは無いが、しかし。
立ち尽くす、少女。
地に転がった神父。
それは、絶対的で致命的な、隙だった。