FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
「…それでは失礼します」
「ああ、言峰神父には良しなに伝えておいてくれたまえ」
その言葉を遮るように、玄関のドアを閉めてやる。
悪趣味な扉。全く、これを見れば住んでいる人間の程度など知れようというものだが、それにしても予測できる限界を極めていた。
ああ、何でこの家に聖杯が降臨してくれないのかしら。もしここが戦場になれば、誰に気兼ねするでもなくこの家の敷地を、見渡す限りの荒野に変えてやれるのに。
「くそったれ、足元見やがって…」
「姉さん、地が出てますよ」
隣から苦笑する声が聞こえる。
全く、この子を連れてきて正解だった。
この子がいなければ、最低三回はあの親父を殺していただろう。
「…桜、あんた、あれだけのことをされてよく笑っていられるわね」
確かに、あの男は地元の有力者であり、裏の事情にも精通していて、色々な方面に顔が利く。それは十分に利用する価値を有するものだ。
しかし、その価値に相応しく、いやそれ以上に度を越して、傲慢で鼻持ちならない男だった。あの不快な体臭は、今まで他人に傅かれ、苦労を知らず、この上なく甘やかされた人間だけが醸し出す、精神の腐臭だ。
それでも、それが男の実力によって得た地位であるならばまだ納得も出来よう。だが、それが親からの遺産を受け継いだだけのものであるならば話は別。
何の努力も無く、最初から何もかもを与えられ、スタートラインからして人の上に立ち、しかも人を見下すこと以外の如何なる能力も持たない人間に、果たしてどのような価値を求めろというのか。
「言うに事欠いて、『魔術師やめて愛人になれ』、だあ?何様のつもりだ、あの豚親父!こちとら、もう操捧げる相手は見つけてるっての!」
「でも、柳洞寺の人達を穏便に避難させるためには、あの人の力添えが無いと…」
「だからって!あんたもアイツにお尻撫でられたでしょうが!それで、なんでそんなに冷静でいられるのよ!」
ダニだ。
あれは、社会に寄生するダニの類だ。
税務署とか税務署とか税務署とかは、ああいう連中から税金を搾り取るべきなんだ。
よし、決めた。
ちくってやる。
あの男の家にどれくらいの財産があるかは把握してるんだ。
ああいう男は、絶対に脱税とかしてるに違いない。
この戦いが終ったら、絶対に密告してやる。
「はあ、確かに怖気がするほどに許せませんでしたけど…」
「けど、何よ?」
「私の代わりに、姉さんが怒ってくれますから。それに―――楽しいじゃあありませんか」
桜は、これ以上無いというくらい、爽やかな笑みで―――。
「あの豚が、一体どんな泣き声で命乞いするのか、それを考えただけで、わくわくしちゃいます」
―――真っ黒だった。
これが私の妹か?
なんか、私との戦い以来、遠慮がなくなってきた気がする。
まあ、だからってあの男に同情はしない。罪には、正当な罰が下されるべきなのだ。そしてあの下衆はそれだけの罪人である。
だって、私達を怒らした。
それだけで、万死に値する。
「―――なんなら、今から殺してきてやろうか、マスター」
無垢の空間に、人の気配が生まれる。
いつの間にか私たちと並び立つように歩いていた、この男。
青い皮鎧。まだ巣立ちをしたばかりの若い獣のような、邪気の無い笑み。
ランサー、クー・フーリン。
「駄目です。貴方は、私の楽しみを横取りするつもりですか?」
「そう言うと思った。だけどまあ、あんまり気にしないことだ。花が美しけりゃあ、虫は寄ってくる。益虫も、毒虫もだ。ま、芳しい花に生まれた身の悲しさだわな」
「黙りなさい殺しますよ」
黙った。
私も、黙った。
それほどに、桜の殺気は凄まじかった。
我が妹ながら恐るべし。
だけど、私は知っている。
あの豚が桜にちょっかいかけるたびに、誰もいないはずの空間から刺し殺すような殺気が漏れ出していたことを。
ま、なんだかんだ言って、いい主従関係をやっているようである。
「…それにしても、少し残念でしたね。不発弾処理を装えば、戦闘に気兼ねする必要が無くなったのに。全く、達者なのは口だけで、この上なく無能。酸素を消費する資格も無い…」
「…でも、冷静に考えれば不発弾処理は派手過ぎるわ。関係してくる機関の数も並みじゃないし、騒ぎになりすぎる。その点、地盤の緩みによる崩落の危機を装った方が動く人員も少ないし、目立たない。結果オーライかもしれないわね」
何はともあれ、これで最低限の準備は整った。私たちがどれだけ暴れまわっても、少なくとも直接的な戦闘の被害を受けて死ぬ人間はいなくなったはずである。
決戦は、今日、できれば明日。正直、万全の準備を整えるには時間が欲しい。
沈み行く夕日。
何となく、隣を見遣る。
その白皙の肌を夕日の色に染めた、私の妹。
黒い髪の毛に、サファイア色の瞳。
私と同じ、髪の色で、瞳の色。
それらが、この上なく尊く、美しい。
「…私は、貴方が帰ってきてくれて、救われたわ」
びくりと、彼女の肩が震えた。
それでもこちらを見ないのは、罪悪感が邪魔をするからだろうか。
「…代羽、辛そうにしてた。きっと、私でもそうだと思う。あれだけ無視されるなら、罵倒されて殴られたほうが、マシだな」
「…なら、私の復讐方法は、間違えていなかったんですね」
妹は、微笑った。
いかにも力ない声で。
「…桜。貴方が代羽に引け目を感じる気持ちも、キャスターを殺された気持ちも、私なんかには分からない。軽々しく分かるなんて言えない。でも―――」
「それ以上言わないで下さい。それ以上言われたら私、姉さんのこと、嫌いになっちゃいます」
私の口に蓋をしたのは、その言葉ではなく彼女の瞳。
まるで迷い子のような、不安定な瞳の輝きだった。
それでも、彼女は微笑いながら続けるのだ。
「分かっています。分かっているんです。でも、理屈じゃあない。私は、そんなに強くない。だから、時間が欲しいんです」
ああ、その感覚は共感できる。
「…その言葉、代羽に伝えて、いい?」
「お好きに」
相変わらず、町を歩く。
冬木の町を一望できる、高台を。
傍から見れば二人で、本当は三人で。
夕日に照らされたその風景は、涙が出そうなくらいに美しかった。
きっと、切り取った瞬間に色褪せて、何の価値も無くなる風景画。
それが、今、この一瞬だけは、涙が出そうなくらいに神々しかったのだ。
ああ、私は、この土地の管理人でよかったなあ、と。
心の底から、そう思った。
「桜、相談があるの」
「…はい、何でしょう?」
「貴方、この土地の管理人になるつもり、ない?」
流石に、桜が足を止めた。
まあ、これは当然だろう。
むしろ、聞き流されたら流石にショックだ。
「…姉さん、意味が分からない…。私、姉さんみたいに頭が良くないから、ちゃんと説明してもらわないと…」
「言葉通りよ。貴方が遠坂の当主になって、私が眷属になる、そういうこと」
言葉を呑む空気が伝わってきた。
私だって、きっと緊張している。少なくともこんな話題、緊張の一つもせずに話せる魔術師がいたら、お目にかかりたいものだ。
まあ、私と桜以外にこの場所にいる人間みたいな存在は、楽しげな瞳で私たちを見つめていたわけだが。
「…意味は、分かりました。でも、意図が分かりません」
「遠坂がどうでもよくなったわけでも、魔術師に飽きたわけでもないの。そんなの、今までの自分の全否定だから、できっこないわ。でもね、それ以上に大事なものが出来ちゃったわけなのよ、これが」
「大事な―――、もしかして、先輩?」
「それもなんだけど…それ以外にもね」
私は、自分の下腹部を優しく撫でた。
桜の瞳が驚愕に凍りつく。そして、それは彼女の隣に立つ、アイルランドの光の皇子も。
ああ、愉快。この二人の目を丸くさせるなんて、神様にだって出来やしない。
「姉さん、もしかして…」
「…間違いなくあの夜にね。散々、膣内で出されたから。全く、ゴムくらい用意するのが男のマナーだと思わない?」
まだ、一週間と経っていない、あの日の交わり。
それでも、私は魔術師だ。
自分の中に、自分以外の生命が宿っていることくらい、次の日に気付いていた。
だから、代羽に捕まったときは、本当に怖かった。
私以外の命が私のせいでいなくなるなんて、絶対に嫌だった。
「あーあ、この歳で子持ちか。きっと学校も中退ねー。ま、どちらにしても倫敦には留学するつもりだし、魔術師に学歴はいらないから、別にいいんだけ―――」
「本当ですか!おめ、おめでとうございます!」
飛びついてきた桜。
彼女は、精一杯の力で私の両手を握り締めた。
人間の瞳はこんなに輝くことができるのか、そういわんばかりに瞳を輝かせながら。
ちょっと、驚いた。
だって、この子、今でも士郎のこと、愛しているはずだから。
「…うんとね、今、ちょっとだけ、ううん、凄く、びっくりした」
そう言うと、桜は微笑った。
私の考えていることくらい全てお見通し、そういう微笑で。
まるで、天使みたいに。
「私の大好きな人が、私の大好きな人の赤ちゃんを産んでくれるんです。これが嬉しくないはず、無いじゃあありませんか。ああ、今日はいい日です!あの豚さんの狼藉も、少しだけ許してあげちゃいます!」
飛び跳ねて喜ぶ桜。
その、如何にも嬉しそうな背中と、万歳された腕。
でも、それを額面どおりに受け取れるほど、私は子供じゃあない。
だって、嬉しそうに、本当に嬉しそうに私を祝福してくれた桜の瞳には、うっすらとした涙が浮かんでいたから。
でも、いくら唯我独尊の私だって、彼女に謝れるほどに恥知らずじゃあない。
それは、他のどんな罵声なんかよりも、彼女の誇りを踏み躙るだろうから。
だから、こう言うのだ。
他に言葉なんて、ありはしない。
「ありがとう、桜。私、絶対にこの子を幸せにするから」
彼女は、目元を拭いながら微笑んでくれた。
それで、十分だった。
最高の妹だった。
そして―――。
「ええ、お願いします。でも、先輩のこと、諦めたわけじゃあありませんよ。その子を幸せにする権利は姉さんにしかなくても、先輩を幸せにする権利は私にだってあるはずですもの」
―――強敵だった。
まさか、幸せ一杯妊婦さんの前で、こうまであっさりと略奪愛を宣言されるとは。
でも、ここまで開けっ広げだと、逆に清々しい。
そして、ここまで煽られて、燃え上がらない炎のあろうことか。
「―――はっ。何言ってんのよ。私と士郎の間に、貴方が立ち入るような隙があると思ってんの?」
「狭ければ、こじ開けます。無ければ、作るまでです。覚悟しておいてくださいね、少しでも油断したら、あっという間ですから」
好戦的な笑み。
それは、きっと私の頬にも刻まれているだろう。
『ふふ、でも、油断しないことです。彼、意外ともてますよ。桜以外にもライバルは多い。手綱を離したら、あっというまです。絶対に、放さないでいてあげてください』
そんな代羽の言葉を、今更ながらに思い出す。
あれ、冗談じゃあなかったんだ。
しかし、桜以外のライバルって誰だろう。
そう考えた私の脳裏に、青いのとか金髪のとか縦ロールのとかが浮かんだ。
はて、一体誰のことかしら。
いや、そもそも何でそんなことを代羽が知ってるのか。
まあ、いい。
とにかく、今、あのへっぽこは私にぞっこんなんだ。
この状態を、アイツと私のどちらかがくたばる瞬間まで、継続させるだけのこと。ぶっちぎりのスタートダッシュで後続を周回遅れにするのは、私の最も好むところである。
「ま、それは楽しみにしておくとして…。少し話が逸れたけど、私の言いたいこと、理解してくれたかしら?」
「はい」
桜は、真剣な面持ちで頷いた。
頭のいい彼女のことだ。私の言いたいことくらい、一から百まで理解してくれているに違いない。
魔術師は、根源を目指すもの。
それ以外の全てを切り捨てて、根源への到達を目指す。そうでなくては魔術師とは言えない。
そしてその切り捨てるべきものの中には、当然の如く、配偶者や親、そして子供も含まれる。
そもそも、魔術師にとっての配偶者は子を為すための道具であり、子供は己の血を次代に引き継ぐための道具。いや、己すらも、その家系が根源へと到達するための歯車と考えるものだ。
己の代で魔法に到達出来なければ、次の代。次の代が無理なら、次の次。それでも駄目ならその次へ。それが、魔術師の思考である。
そう割り切るだけの覚悟が無ければ、魔術師なんてとてもじゃないがやってられない。
「私は、もう駄目だと思う。もう、怖くなってしまったから。少なくとも、ぎりぎりのところで一歩退いてしまう。そんなの、もう魔術師じゃあない。並みの魔術師にはなれても、遠坂の魔術師として大成は出来ないでしょうね」
これは、見切りだ。
もう、私は私を見切ってしまったのだ。
そして、そのことが。
こんなにも、誇り高くて、こんなにも爽快で、こんなにも心地よい。
「だから、貴方に任せたい。駄目かしら?」
「…姉さんは、残酷です。卑怯です。身勝手です」
「ええ、貴方の言うとおり。きっと、残酷で、卑怯で、身勝手。返す言葉も無いわ」
その通りだ。
苦しいこと、辛いこと、重たいこと。
その全てを妹に任せて、私は己の幸福だけを追いかける。
その、何と卑劣なこと。
私は、それを理解してない。もし理解していれば、こんなこと、素面で頼めるものか。
「貴方しかいないの。こんなこと頼めるのは、貴方だけ」
「…もし嫌だと、そう言ったらどうしますか?」
「多分、遠坂は潰えるわ。私の代が何とか面目を保っても、次、その次はもう駄目でしょう。だって、こんな半端な覚悟の親を目にした子供だもの。そんなの、魔術師を目指せるはずが無い」
人の心を、情をもった魔術師なんて、半端ものだ。
そんな半端な気概で根源へなんて到達できるはずが無い。
ならば、やるだけ無駄だ。
そんなもの、潰してしまったほうが、後腐れが無くていい。
「…きっと、お父様、泣くでしょうね」
「ええ、きっと泣いてるわ。娘がこんな不良に育ってね」
「いいのですか?」
「あ、桜、言ったことなかった?私ね、実はお父様のこと、大嫌いなの!」
何せ、私の愛する妹を、あんな人でなしどもの家に渡したのだ。
それだけで、唾棄に値する。
今頃、地獄の極卒に鞭打たれているに違いない。
いい気味である。
「あ、そうですか?実は、私もだったんです!」
そう言って、桜は笑った。
私も、笑った。
それを、楽しそうに眺める奴が、いた。
そんな、どうでもいい夕暮れ。
でも、きっと、最後の瞬間まで忘れることの叶わない、夕暮れ。
「分かりました。謹んで遠坂の家督、引き継がせて頂きます」
「ええ、お願い」
くすりと、桜は微笑った。
それは、沈み行く太陽の、最後の残滓のような笑みだった。
「だって、私、姉さんと契約しちゃいましたから。先輩が正義の味方なんていう訳の分からないものを忘れるくらい、ハッピーにさせるって。そのためなら、仕方ないです」
「ふふ、そんな契約もあったかしら。でも、その言い方だと…」
「ええ。先輩にとって、姉さんと一緒にいるよりも私と一緒にいたほうが幸せだと判断したら、ぱくりと食べちゃいますから、そのつもりで」
最後の一言は、完全に本気だった。
あちゃあ、あの契約は諸刃の剣だったらしい。
妹に、この上ない強敵に、格好の口実を与えてしまったか。
参った。
そして、何より参ったのが。
そんな彼女を頼もしいと思ってしまう、自分の不甲斐なさだろうか。
episode88 午後七時
「ただいまー」
「ただいま戻りました、先輩」
そんな元気のいい声が、玄関から響く。
時計の短針は七の文字を指す、少し前。冬の太陽は、その仕事を早々と切り上げて、山の向こうに引っ込んでしまった。もう少しくらいは残業をしてくれても罰は当たらないと思うのだが。
「ただいまー、って、代羽は?」
最初に顔を見せたのは、凛。
「ただいま戻りました、って先輩!その顔、どうしたんですか?」
次に顔を見せたのが、桜。
二人とも、ほっぺたが赤い。きっと、それだけ外は寒いのだろう。
「…代羽は、まだ帰ってきてない」
「まだ帰ってきてないって…。士郎、貴方と一緒にいたんじゃないの?」
至極最もな意見である。
真実は情けない限りだが、嘘を吐くわけにもいかない。
「…途中で分かれた。公園で、大体五時くらいまでは一緒だったんだけど」
「分かれたって、あんた…!今、代羽がどれだけ危ない立場か、分かってるの?あの似非神父と金ぴかが狙うとしたら、間違いなくあの子なのよ!」
つかみ掛かるような勢いで俺を罵る凛。
ああ、その思いは痛く同感。
「リン、あまりシロウを責めないでやってほしい」
「セイバー…」
「シロウは、可能な限り彼女と一緒にあろうとした。しかし、彼女がシロウの手を振り払ったのです」
振り払ったという表現は正しくない。
正確に表現するならば、ぶん殴って、顔に膝蹴りを叩き込んで、ぶちのめしたのだ。
あまりにも手加減の無い攻撃だったから、逆に清々しい程であったが。
「…じゃあ、その鼻も?」
「ああ。もう骨はくっついてるみたいだけど、流石にまだ赤いだろ?」
「…はぁ。で?」
「で、って…?」
「わかるでしょ!あの子、どこ行ったのよ!」
その声は、初めて聞く声だった。
凛は、真剣に怒っていた。
それは、俺に対して怒っていたのだろうか。
それとも、この時期に勝手な行動を取った彼女に対して怒っていたのだろうか。
「…悪い。何も、聞いて無いんだ」
「…やっぱり…!」
彼女は、天を仰いだ。
それは、まるで自分が手痛い失敗をしたみたいに。
そのことを、天にまします父に詫びるかのように。
「…間違いないわ。あの子、自分だけで決着をつけに行ったのよ」
「え、でも、明日まで準備を整えてって、皆で決めたじゃあないか」
「その、根拠は!?」
「…あいつらが、大聖杯を守って、動けないから」
「その大前提が間違いなのよ!」
どくり、と。
心臓が、一度、大声を上げた。
それは、俺が、俺自身を罵る声だった。
今頃気付いたのか、と。
いや、違うか。
あの時、俺は気付いていた。
何か、違和感のようなものを感じ取っていた。
それを、どうでもいいものと見逃した。
そのこと。
それに対する、侮蔑の声だった。
「私も、そう思った。あいつらが大聖杯を守って動かないなら、明日までは大丈夫だろうって。でも、それならあの子がこんな無謀なことするはずがない。きっと、その大前提が間違えていた。そう考えると…そうか、そうだ、あの子、確かに言ってた!」
凛は、凄まじい剣幕で、顎に手を当てている。
きっと、その頭の中では、暴走したコンピュータのように演算式が展開されているのだろう。
その様を、ただ、見つめる。
なんと、情け無い我が身であることだろう。
「すまない、凛、教えてくれ。何が何だか、ちんぷんかんぷんだ」
「…ああ、御免なさい。一言で言うとね、あいつらに大聖杯は、必ずしも必要じゃあないってこと」
大聖杯が、必要、ない?
「あの子、言ってたでしょう?綺礼の望みは、マキリ代羽という身体を通して、神と悪魔の両属性をもった子供を産ませることだって」
「あ、ああ」
「この場合の神っていうのが何のことなのか分からないわ。でも、悪魔っていう言葉が表すものは、はっきりしている」
「アンリマユ―――」
「ええ。だからこそ綺礼には、アンリマユを現界させるために聖杯を手にする必要があるかと思ってたんだけど。でも…そうだ。あの子、言ってた。『私は、もうまともな子供を孕むことも出来ない』って。きっとそれは、あの子が生むことが出来るのは、アンリマユだけ、そういう意味だったんだ!」
代羽が、アンリマユを、この世全ての悪を、産む?
「あれは、自分の子宮が蟲で形作られてることを卑下しての発言だと思ったけど…あれは、そういう意味じゃあなかった!じゃあ、やっぱり綺礼に聖杯は必要じゃあない!」
「リン、理論の飛躍が大き過ぎる。説明を求めたい」
「…セイバー、マスターとサーヴァントに繋がれたラインがどういうものか、貴方なら分かるわよね」
「はい。これは、私達と現世を繋ぐ、楔のようなものです。これが無くなっては、我々は限界することすら難しい」
「逆に言えば、そのラインがあれば限界することが叶う、そういうことにならない?」
「逆は必ずしも真ならずですが…。何が言いたいのですか、凛。落ち着いて話して欲しい」
凛の表情は、もうすぐ泣き出しそうな女の子のそれだった。
何を、そんなに悲しんでいるのか。
何を、そんなに恐れているのだろうか。
「…あの子、元は男の子だった、それがマキリ臓硯の手で女の体に改造された、そのことは知ってる?」
「…いえ、初耳です。まさか、そんなことが…いえ、可能でしょう。事実、私もそれに近しい秘術によって性別を隠していたのですから」
「でもね、そう考えるとおかしいのよ。男から女の体に近づけることは出来ても、完全に女の体にするためには、大きな壁がある。そればかりは短期間ではどうしようもない。でも、あの子がマキリの胎盤としての役目を果たそうとすれば、それは必ず必要となる」
「凛、それは?」
「簡単な話よ。女性器、具体的に言うと、卵巣と子宮。外性器に近いものをでっちあげることは出来ても、遥かに複雑な機能を持つ内性器を男性の体内に一から作り上げるのは、不可能に近い」
「…確かに。私も王であったとき、男性器の形をした器官を魔術によって形成させました。それは男女の営みを可能とするものではありましたが、子を為せるほどに精緻なものではなかった。故に私は、私の細胞から育てたホムンクルスを子供と偽ったのです」
それは、あの、カムランの丘で戦った―――。
遠坂は、深く頷いた。
「この時代より遥かに神秘の濃度の深かったセイバーの治世ですらそうだったのよ。如何に人体の改造に詳しいマキリとはいえ、それ以上の魔術を引き継いでこれたとは考えにくい。だからね、私は思うの。代羽の体に宿った女性器は、別の女性の細胞から培養した女性器なんじゃあないかって」
「別の…?」
「ええ、別の、そして、彼女の体に、この上なく馴染む、別の、ね」
「それは、代羽の、母親の?」
それは、つまり、俺の―――。
「違うわ。子供と親では、その遺伝子は半分も違う。生体肝移植なんかを考えれば女性器の移植も可能なのかもしれないけど、私が言いたいのは遺伝的な意味で馴染む物のことじゃあない。むしろ、逆方向。魔術的な要素で馴染む物が、あったのよ」
「魔術、的―――」
「聞いた限り、彼女は、いえ、その時点ではまだ彼だったのか、とにかく、代羽が臓硯に保護されたとき、その体はアンリマユの残した泥に、深く汚染されていた。つまり、その時点であの子の体には、アンリマユの要素が色濃く刻み込まれてしまった。しかも、彼女の起源は『白』なんて出鱈目なものだからね。ここまではいい?」
俺は、頷いた。
辺りを見ると、全員が同じタイミングで頷いていた。
それは、まるで穴から顔を出す、プレーリードッグみたいだった。
「なら、アンリマユの要素を色濃く引き継いだ別の女性の細胞、それから作り上げた女性器ならば、少なくとも魔術的には代羽の体に適合する。魔術的な相性さえ合致するなら、それを移植するのはさして難しいことじゃあないはずよ。事実、マキリ臓硯自身の体だって、そうやって自分のものに改造した他人の肉だったはずだし」
他人の体を、蟲に喰らわせる。
そして、その肉を己のものとして、再構築する。
それが、既にこの世に存在しない、堕ちた魔術師、マキリ臓硯の秘術だったはず。
ならば、凛の理屈は必ずしも飛躍し過ぎたものとはいえないだろう。
「…嬢ちゃん、言いたいことは分かるがよ。そんなもん、存在するのかい?アンリマユなんて、規格外の化け物、しかもあっち側にしか存在できないものの属性を色濃く受け継いだ、そんな女が」
「…女性そのものは、いないでしょうね。ただ、女性の細胞なら、存在したのよ。ううん、存在しないとおかしいの」
「…よく、わからんな。つまり、女の身体自体にアンリマユは憑いちゃあいないが、その細胞とやらにだけは憑いた。そういうことか?」
凛は、頷いた。
「あの時、マキリの家に攻め込んだ時に見つけた、臓硯の研究日誌。それを解読すると、臓硯は代羽を入手する前は、桜にアンリマユの泥から作った刻印蟲を埋め込むことで、アンリマユとパスの繋がった胎盤を作り上げるつもりだったことがわかったわ」
「…!おい、凛!お前―――」
「いいんです、先輩!」
桜が、叫び声に近い声を、上げた。
「桜…」
「ここまで来て蚊帳の外に置かれるなんて、耐えられません。それに、この痛みは乗り越えるべき痛みです。少なくとも、遠坂の当主はそんなに弱くては務まらない!」
「…そうこなくちゃ。それでこそ、私の妹、私の仕える遠坂の当主。仕える側が誇りを持てるような当主でないと、やりがいが無いってもんよね。だから、もし嫌がっても聞かせるつもりだったわ。それこそ、その耳たぶを引き千切ってでもね」
俺にはよくわからないことを言い合って。
姉妹は、噛み付くような笑みで、お互いを見遣ったのだ。
「続けるわよ。だから、臓硯は泥を手に入れていたはずなのよ。おそらくは、前回の聖杯戦争、その終結の場所で。でも、それはどこにも無かった。もちろん桜には移植されて無いし、あの屋敷で最も秘された部屋であるはずの例の書斎にもそんなものは無かった。それ以外の場所にあるというのは少し考えにくい。だから、私は思うの。もう、その泥は使われた後なんじゃあないかって」
「…それが、代羽の子宮?でも、それは只の泥だろう?そんなものをいくら培養しても、女性器にすることが出来るのか?」
「無理でしょうね。でも、もしも泥自体に、その形となる方向性があれば、話は別」
「方向性…。その泥が、ただの泥じゃあなかったと、そういうことか」
凛は、再び頷いた。
「マキリの魔術は、蟲を使役してその術と為す。つまり、泥も当然刻印蟲の形で保存されたはず。でも、この世全てといわれる極大の呪いを、そのまま蟲の形にして使役するなんて、不可能でしょう?なら、もともと存在した蟲にその泥を飲み込ませて使役すれば話は早い。もし私が臓硯なら必ずそうするわ。でも、そんな呪いを飲み込むだけの器、普通の蟲では些か心もとない。だから、桜自身の細胞を使って作り上げた、特製の蟲を用意するでしょうね」
「特製の、蟲?」
「桜、女魔術師の体で、特別に魔力が宿るのは、どこ?」
「…髪の毛。乳房。そして―――女性器」
「正解。特に、破瓜の血は特別に強力な魔力が宿るって言うわね。だから、きっと桜に埋め込むはずだった刻印蟲も、女性器周辺の細胞を餌として育てた、もしくはそれを直接変化させて作り上げたものである可能性が、非常に高い」
「じゃあ、じゃあ、じゃあ…」
「代羽の子宮を形作っている蟲の正体は、十中八九、マキリ臓硯がアンリマユの泥から作り上げた刻印蟲。そして、その刻印蟲は、桜の女性器の細胞から培養されたもの。そういうことよ」
ああ。
なんで、そんなことが。
「士郎、重要なのはここから。つまりね、代羽の子宮は、アンリマユそのもので出来てるの。そして、あの子の身体はアンリマユの色に染め上げられてて、この上ないくらいに太いパスが繋がっている。それこそ、アンリマユから無限に近い魔力を汲み上げられるくらいには、ね。どうかしら、セイバー、これだけの要素が揃っていれば、アンリマユのほうから代羽にアクセスすることが可能なんじゃあないの?」
俺は、一縷の望みを込めて、セイバーを見る。
きっと、縋るような視線。
しかし、彼女は。
「…正確なことは分かりません。そして、私は魔術師ではない。だが、あくまで直感でいうならば、可能なのではないかと思います。話に聞くところのアンリマユも、元を辿れば我々のようなサーヴァントだったとのこと。いわば、魂に近しい形のはずです。憑依や降霊のような魔術式を使えば、彼女に宿った未熟な生命に己の分身を映し込むことは、必ずしも不可能とはいえない、そんな気がします」
「もちろん、私もそう思うわ。話に聞く転生無限者なんかも、未熟な胎児の魂を書き換えることで転生を図ってる節があるし。だとしたら第三魔法の成功例、魂を物質化させて現世に直接干渉できるアンリマユに似たようなことが出来てもおかしくはない…!」
「そのことを、言峰は知っているのか?」
「代羽は、幼い頃に、全てを打ち明けた上でアイツに抱かれたって言ってたから…。知っているものと考えて、間違いないでしょうね。だから、少なくともあの似非神父の望みを叶えるのに聖杯は必ずしも必要ではないのよ」
しん、と、静まる。
「…じゃあ、ギルガメッシュは?あいつの望みを叶えるのに、聖杯は必要なんじゃあ?」
「…彼の狙いは、おそらく私です」
「…セイバーが?」
こくりと、頷く。
「彼とは前回の聖杯戦争のときから因縁がある。そして、彼と矛を交えたときに、宣言されました。我が妻となれ、と」
「はあ?それって、プロポーズ?」
「その通りです、リン。ただ、この時代でいうならばそういうことですが、少なくとも彼の中のイメージでは、対等の伴侶を得るための結婚ということではないでしょうね。自分を愉しませる為の玩具として、私を欲したのだと思います」
「…悪趣味」
桜の一言に、俺も深く同意する。
人を物扱いする奴なんて、碌なもんじゃあない。
それは、臓硯然り、慎二然りだ。
「じゃあ、あの時言ってた『返事』って…」
「求婚の返答のことでしょう。無論、受けるつもりなどありませんが」
「でしょうね。じゃあ、アイツ、セイバーを自分のものにするために聖杯を欲しがってるってこと?」
遠坂の表情に、明らかな侮蔑が浮かんだ。
それは、例えば強姦で捕まった犯人なんかをテレビで見たときと同じ表情だった。
俺は、少し苦笑した。
「いえ、彼を庇うわけではありませんが、それはないでしょう。彼は、純然たる力と力の勝負にて私を屈服させようとしているはずですから。ただ、彼は完全に受肉していた。もし私に関して聖杯を必要とするならば、おそらくは私を受肉させ完全な形で手中に収めるために必要とするのではないでしょうか」
受肉させるために、聖杯を?
そんなこと、可能なのだろうか。
いや、あの男は確かに肉の体を備えていた以上、それは可能なのだ。
「しかし、それらの事情を総合的に勘案しても、彼の気質からして専守防衛というのは考えにくい。むしろ、敵の陣地へ討って出るのが当然という気がします」
「私も、その点だけが引っかかってたの。あの、見るからに高慢ちきな金ピカが、宝物庫の番人みたいな真似して大人しくしていられるのかなって。でも、あれでも一応はサーヴァントだから綺礼の意向には従うものかと思ったんだけど…。綺礼にはそもそもその必要すらなかった。だから、彼らは地下洞窟にいない可能性もある」
じゃあ、代羽は、やっぱり―――。
「彼女が向かったのは、おそらく、教会でしょうね。そこにあいつらがいるかどうか分からないけど、多分―――」
立ち上がる。
そのまま、玄関に―――!
「待て、坊主」
肩を、捕まれた。
「どこ行くつもりだ」
「決まってるだろう、教会だ!」
助けないと。
兄さんを、助けないと!
「阿呆。今から俺たちが向かうべきなのは、そんなところじゃあない」
「じゃあ、どこに?一体、どこに?」
「決まってんだろ。大聖杯のある地下洞窟。そこ以外、どこがある。せっかくあの嬢ちゃんが敵を引きつけてくれているなら、今すぐそこに向かうべきだ」
それは、それは。
確かに、その通りかもしれない。
でも、俺は。
「感服した。槍兵よ。貴殿は、やはり生粋の英雄であらせられるな」
声がした。
庭のほうから。
消え入りそうな、それでもはっきりと耳に残る、独特な声。
障子を開ける。
漆黒の、庭。
そこに、白い仮面が、浮かんでいた。