FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode96 それでも牙、未だ折れず

 最初に気付いたのは、槍兵であった。

 何が彼に、その異変を気付かせたのか、それは彼自身にも分からなかった。

 ただ、違和感である。

 尻の穴がむず痒くなるような、掻痒感。

 項の毛をちりちりと焼くような、恐怖感。

 今、駆け出さねば全てが手遅れになるという、焦慮感。

 それらを綯い交ぜにした感覚が、槍兵に一つの確信を与えた。

 

 敵は、まだ健在である。

 

 何故、彼がそれに気付き、騎士王がそれに気付かなかったのか。

 距離、もあったのかもしれない。

 最前列にて恐るべき英雄王と相対したのは、正に槍兵である。

 戦場における第六感といえど、それが人の感覚であれば距離の暴虐からは逃れよう筈も無い。

 

 また、己の奥の手に対する気の置き所の隔たりもあったはずだ。

 騎士王も、彼も、己の宝具に対して揺ぎ無い信頼を置いている。

 その点において、二人の在り様には一切異なるところは無い。

 しかし、そのもう一歩先。

 その頂点において、二人の姿勢には若干の差異が見られた。

 騎士王は、己の宝具に絶対の信頼を置いてはいるが、それは最早信仰と呼んで差し支えないものとなっていた。

 至高の威力を誇るが故に、未だ敗れざる聖剣。

 その極光の前に、狂った騎乗兵の操る天馬も、征服王の操る神威の車輪も敗れ去った。

 故に、彼女は己の勝利を疑うことは無かったのだ。

 対して、槍兵は違う。

 確かに、影の国で賜った真紅の魔槍、その威力は熟知している。

 熟知しているが故に、その限界も弁えていた。

 強大である力は、より強大である力には歯向かい難い。

 それはどうしても覆し得ない、この世に真理。

 であればこそ、己の槍に貫かれ、微小の破片となって四散して、それでもなお不死を誇った預言者を前にしても、彼は平静だった。

 畏怖することはあっても狼狽することはなかった。

 ただ、冷静であった。

 であればこそ、此度もその心根が揺るぐはずが無い。

 

 今まで、約束された勝利しか得てこなかった者と、地を這い蹲り泥水を啜りながら勝利を積み重ねた者の違い。

 

 それが、騎士王をして絶対の直感を鈍らせた。

 それが、槍兵をして電光が如き思考を可能とした。

 槍兵の身体は、その主たる脳髄の思考速度よりも早く、次の行動を開始していたのだ。

 

 その時点において、槍兵の傍らには、彼の主たる影の少女の姿があった。

 息を荒げ、それでも凛と立つ、白髪の少女である。

 

 彼女は、鉄の少年が圧倒的な怒りに駆られて駆け出した、次の瞬間に彼を追う様に駆け出していた。

 無論、少女は魔術師である。

 斬った張ったの荒事は、むしろ彼女の最も苦手とするところ。

 それでも、彼女は駆け出していた。

 眼前にて展開される、人智を超越した戦い。

 それに巻き込まれ、いや、己から飛び込み、一瞬で襤褸切れの如く変貌した己の想い人。

 それでも、彼女は少年に縋りつくことを良しとしなかった。

 きっと、誰よりも彼自身がそれを是としないだろうから。

 だから、彼女は、彼の傍らを走りぬけ、己の従者たる槍兵のもとへと駆け寄った。

 何故だろうか。

 後から考えて、彼女は幾度となく困惑することになる。

 そして、赤面するのだ。

 自身を、少女から女とした槍兵。

 遥か幼き昔に失われた、少女の処女膜を貫いた、槍兵。

 己がもがき苦しむ有様を、ただ抱き締めて、じっと耐えてくれていた、槍兵。

 もしかしたら、彼女は、本当に彼を。

 もちろん、その時点において、そのような余分な思考を良しとする彼女ではない。

 彼女は、自身の従者の背中に労いの声を掛けようとして、次の瞬間にその甘えた考えをいち早く捨て去る。

 理由は明白だ。

 彼女の従者、青の槍兵、その背中が震えていたからだ。

 心細そうに、震えていた。

 夜の風に脅えるように、震えていた。 

 そして何より、来るべき戦いの昂揚を堪えるように、震えていたのだ。

 彼女は、身に纏った影のドレスの袖から、きらきらと光る小石を幾つか、取り出していた。

 無論、戦いの準備のためである。

 

「中々、愉しませる」 

 

 濛々とした土煙、その境界を易々と飛越えた声が、槍兵の鼓膜を震わせる。

 確固とした疑念を揺るがない確信へと変貌させたその声は、しかし槍兵の口元を急激に吊り上げさせる。

 そして、彼の肌を焼く、無遠慮な魔力の渦。

 それは最悪を極めた展開を、槍兵に確信させるに至る。

 まず、彼は逃げようとした。

 無論、敵に背を向けるという意味ではない。

 しかし、自分が敵の攻撃、それも圧倒的に致死の、その射線に立っておきながらそれを受け止めようとするのは、蛮勇ですらなく世の理を知らぬ愚者の行動。

 どれほど慮外の宝具であったとしても、それが指向性を持つ攻撃性宝具であるかぎり、その射線を免れれば劇的に損害を減じることが出来るのは道理である。

 

 故に、彼は己の背後にいるマスターを抱えて、大きく横に跳ぼうとした。

 そして、振り返る。

 

 故に、それは出来なかった。

 

 彼の視線の先に、あまりにも呆けた様子の、騎士王。

 彼は、歯噛みした。

 見捨てようと思った。

 戦場では間抜けな奴から死んでいく。

 だから、彼は同情しない。

 もしも、彼の視線の先にいる騎士が、今にも泣きそうな少女の瞳をしていなけれれば、だ。

 神経質な舌打ちの音が、一度だけ響き。

 彼は、その覚悟を飲み込んだ。

 その瞬間の彼は、正しく神速であった。

 地面に、空間に、彼自身の体に、ありったけのルーン文字を書き込んでいく。

 影の国、その女王スカハサ。

 彼女から授けられた、愛槍と、もう一つの宝。

 原初のルーン。

 その全てを、ただ己と、己の大切な者を守るために書き刻む。

 筆は、真紅の魔槍。

 彼の全方位に展開された輝ける文字の防壁は、瞬間的ながら神代の魔女の作り出した神殿の堅固さを凌駕する。

 それでも無力に過ぎないことを、槍兵は確信した。

 この程度の結界は、英雄王の暴虐の前に、まるで紙か布切れのごとく破れ散るだろう。

 彼は、死を覚悟した。

 ならば、せめて己の主だけでも。

 せめて、己が女とした、少女だけでも。

 その思考を、彼は後悔する。

 何故なら、少女は微笑んでいたから。

 彼は、勘違いをしていた。

 そこにいたのは、守られるべき可憐で脆弱な偶像ではなく。

 その手に槍と軍旗を掴み、最前線にて民衆を鼓舞し導く、秀麗な戦女神がいたのだ。

 彼は、少女の誇りを穢すところであった。

 無言の安堵を漏らす槍兵、彼を見つめる少女の瞳は、全てを了解しているかのように三日月型。

 従者の非礼には如何なる罵声も飛ばさず、ただ呪文を口ずさむ。

 

|「Ueber die zwoelfte Stunde!Die Streitkräfte des Schattens!Seine Haut so teuer wie moeglich verkaufen!」《湯水の如く!我が眷属よ!防げ守れ耐え凌げ!》

 

 高速詠唱は、神代の魔女には及ばずとも、その一番弟子と名乗るに相応しい手並みである。

 姉に倣って、少女が己の魔力を十年間溜めに溜めた、秘石の数々。

 その全てを、まるで惜しげもなく投入する気概は、彼女が戦闘者としても一流たる資質を秘めていることを明らかにしたといえる。

 槍兵の、上級宝具の一撃ですら退ける文字の城壁、それを補強し、なお高く聳え立たせた虚数の鉄壁。

 影という共通の概念で括られた主従の相性は、他のどの主従にも勝るだろう。

 ならば、互いの死力を尽くした侵されざる神盾は、難攻不落を越えて、ほとんど『遮断』の概念に辿り着くに至り。

 例え騎士王の聖剣の極光でも阻むであろう、硬度という価値観を無視した堅牢さ。

 少女は、その絶対を確信し。

 槍兵は、少女の柔い体を抱えて、一目散に飛び退いた。

 彼の判断は、どこまでも正しく、どこまでも残酷だった。

 その瞳を絶望に染めながら、それでも生き残る道を選んだ。

 

「ほれ、もう一度、気張ってみせい」 

 

 少女は、己の従者の肩越しに、見つめるのだ。

 吹き飛ばされた、山のような土砂が成す土埃の壁。

 吹き飛ばされたその先に、悠々と佇む、英雄王。

 その、円柱型の魔剣。

 そこから噴出す、魔力の異様。

 確信した。

 己が、間違えていた。

 涙が溢れる。

 絶望に満ちた瞳を、涙が彩る。

 勝てない。

 私たちは、絶対に、あの男に勝てない―――!

 

「天地乖離す開闢の星」

 

 一瞬であった。

 一蹴であった。

 パリンと、乾いた音を立てることすらなかった。

 絶対のはずであった防壁は、残酷な太陽の前に溶け去る薄氷が如く、姿を消した。

 それは、きっと少女の敵愾心も。

 そして、彼女の意識は闇へと溶け去る。

 痛みは、感じなかった。

 それが、せめて神に愛された証なのだろうか、と。

 自身を包み込む、暖かな筋肉の存在を心地よく感じながら、少女は意識を失った。

 

 

 心地いい。

 ふわふわとしてる。

 ぬくぬくして、柔らかい。

 雲の上?

 ならば、天国だろうか。

 穢れた私でも、神様は受け入れてくれたのだろうか。

 何という安心感。

 まるで、父に抱かれたような。

 ぎゅうと、力強い。

 まさか、本当に、お父様だろうか。

 貴方、なのでしょうか。

 貴方が、一度は見捨てた私を。

 もう、いいと。

 頑張らなくて、いいと。

 そう言いながら、私を抱き締めてくださるのでしょうか。

 ならば。

 ああ、ならば―――。

 

 反吐が、出る。

 

 死んだ?

 先輩を、見捨てて? 

 姉さんを、見捨てて?

 そして、私が死ぬならば。

 死ぬならば。

 消える。

 私の大切な人も。

 逃げるのか。

 自分を見捨てた、父を頼って。

 重たい瞼を、そのまま下ろして。

 全ての現実を、遮断するのか。

 それは、なんと安楽に満ちて。

 どれほど、汚名に満ちた。

 駄目だ。

 私は、駄目だ。

 昨日までの私には許されたが、今日からの私には絶対に許されない。

 何故なら。

 簡単な話だ。

 何故なら。

 私は。

 背負った。

 全てを、背負った。

 姉さんを、凶刃に倒れた父を、現実を忘れた母を、彼らの祖父を、その父と母と無限に分岐する人々を。

 私は、遠坂の頭首だ。

 ならば、私に後退の文字は無い。

 

『どんな時でも余裕を持って優雅たれ』

『勝負は何でも手を抜かない』 

 

 それが、我が家の家訓ならば。

 私の代で、もう一つの誓いを加えよう。

 

『やられたら、やりかえせ』

 

 いずれ生れ落ちる、私の愛し子。

 その子に、胸を張ってこの家訓を伝えるために。

 さあ、立ち上がろう。

 そして、ぶん殴るのだ。

 相手は?

 決まっているだろう。

 言うまでも、無いことだ。

 なのに。

 どうして、私は。

 私は。

 

 

 ―――ン。

 

 ―――キン。

 

 ―――ドゴン。

 

 ―――キン、ギン、ベキャリ。

 

 音。

 

 遠く、遠く、聞こえる、音。

 

 耳に優しくない、その音。

 

 ああ、私は生きているんだ。

 

 そうだ、私は―――。

 

「ア―――、と、す…まねえが、どいて…くれる…かい?」

 

 不思議と、体が痛くない。

 いや、痛いには痛いのだが、その絶対量が少な過ぎる。

 あの一撃を喰らったのだ。

 天を割り、地を裂くが如き一撃。

 死ななかっただけでも僥倖。

 腕の一本や二本、もっていかれてもおかしくは無い、むしろ当然なのに、何で?

 その疑問は、私が寝転がっていた地面を見て、氷解した。

 

「ランサー!」

「やっ…と…、きづ…いたか…。いま…のおれに…は、しょうしょ…う、おもた…いんでな、どいて…くれ…ると、あ…りがて…ぇ…」

 

 いつもの、噛み付くような笑みにも力が無い。

 片目が塞がっているのは、ウインクではなく血糊によって。

 蒼天を思わせる髪の毛は、まるで夕焼けのように。

 

「ランサー、ランサー!」

「ったく…、う…るせえ…なぁ、きこえ…てるよ…」

 

 鉄よりも硬い皮鎧は、ずたずたに切り裂かれて見る影も無い。

 そして。

 彼の象徴とも言える、紅い魔槍。

 それは、彼の手に握られたままだったのだが。

 

「わるい…が、やり…、とって…く…れるかい…?」

 

 しかし、その手が、彼の意思のもとに無かった。

 槍と腕だけが、遥か後方に。

 肩口から、綺麗に千切れ飛んでいる。

 そこから、どくどくと、赤い血が。

 溢れる。

 止まらない。

 わかった。

 全て、分かった。

 何で、私はほとんど無傷で。

 どうして、彼はこんなにぼろぼろなのか。

 庇ってくれた。

 あの、津波に飲み込まれた藻屑よりも激しく弄ばれる、意識の中で。

 彼は、私を守ってくれのだ。

 当然といえば当然である。

 サーヴァントは、マスター無しに現界は出来ない。

 それくらいは、分かっている。

 理解している。

 しかし、例え私がマスターでなかったとしても、彼は私を守ってくれただろう。

 己の身を省みず、私を守ってくれただろう。

 そのことも、理解してしまった。

 ああ。

 駄目だ。

 どうしよう。

 私は、どうしたらいいんだろう。

 

「どうしよう、ランサー、血が止まらない…!」

「つば…つけときゃ…あ、なおる…さ」

 

 駄目だ。

 死んでしまう。

 また、いなくなる。

 私の前から、いなくなる。

 お父様みたいに。

 お母様みたいに。

 キャスター、みたいに。

 また、いなくなる。

 私だけ。

 きっと、最後に私だけ。

 姉さんも、いなくなって。

 先輩もいなくなって。

 セイバーさんも、イリヤちゃんも、みんなみんないなくなって。 

 この人も、いなくなって。

 最後に、私だけ。

 私だけ、生き残る。

 そんなの。

 そんなの。

 

「どうしよう、どうしよう、ランサー、血が、血が、止まらないよう…!」

 

 どくどく。

 この音は、なんだろう。

 五月蝿いなあ。

 今、私は大変なのに。

 きっと、それどころじゃあないのに。

 なんで、こんなに五月蝿いんだろう。

 どこから?

 ああ、そこから。

 私の、胸の、真ん中から。

 どくどく、五月蝿い音が。

 こんなの、邪魔ですね。

 止めて、しまいましょうか。

 

「だい…じょうぶ…だって…、いって…んだろう…が…!」

「でも、血が、血が止まらないのよう…!」

 

 抑える。

 傷口を、手で押さえる。

 これで、安心。

 もう、漏れ出さない。

 なのに。

 何で?

 指の間から、赤い泥が。

 とろり、とろりと。

 ぬるぬるしてる。

 止まらない。

 止まってくれない。

 嫌だ。

 嫌だよう。

 なんで。 

 嘘だ。 

 こんなの、駄目。

 嫌。

 誰か、助けて。

 助けて、誰か。

 

「死、死なないで、死なないでよう、ランサー、私、耐えられない、もう、耐えられないのよう、だから、お願いだから、死なないでよう…!」

 

 涙で濁った視界。 

 その中で、ゆらゆらとぼやける彼の顔。

 それが、一回、とても嬉しそうに歪んで。

 そして。

 

 ぱあん、と。

 

 私の頬が。

 

 痛くて。

 

 驚いて。

 

 情けなくて。

 

 悔しくて。

 

 もう、死んでしまいたくて。

 

「…ゲホッ、かんちがい…するなよ、桜」

 

 その、顔は。

 

 烈火の如き、万物を焼き尽くさずにおかない、怒りに冒された、その顔は。

 

 まるで、忌むべき敵を貫くような、その、初めて向けられた視線が。

 

 ただ、怖くて。

 

「俺は、お前の飼い犬か?それとも、お前のサーヴァントか、どちらだ!?」

 

 質問の趣旨が、分からないくて。

 

 彼の求める正答が何なのか、分からなくて。

 

 そもそも、私の聴覚は、彼の声を、聞き取ることすら出来なくて。

 

 私は、只管に曖昧な笑みを、浮かべて。

 

 媚びるような、諂うような笑みを、浮かべて。

 

 彼は、もう一度、私の頬を、思い切り張り倒したのだ。

 

「…もう、逃げようよう…。死なないで、一緒にいて、何もしなくてもいいから、一緒にいて…!」

「共にいて欲しいだけか?傍で、慰めてやれば満足か?ならば、あの時のお前の覚悟は、偽モンか?ああ、アレがハッタリなら、それはそれで大したもんだ!」

「忙しないところ申し訳ないが、少しだけいいだろうか」

 

 声が。

 

 聞き覚えのある。

 

 最近も、聞いた。

 

 心の奥底を切開するような、鋭利で容赦ない。

 

 それでいて、心の奥底を優しく愛撫するような、何もかもを許すような。

 

「…言峰、てめえ…」

「ランサーよ、君は中々に手厳しいな。ほれ、そこに転がっているのは只の小娘だ。圧倒的な実力差に取り乱すのは、寧ろ当然だろう。優しく慰めるが男の役割では無いのか?」

 

 こつこつと。

 

 無思慮に、無分別に、無造作に。

 

 まるで、神などいないかのように。

 

 ゆるゆると、揺らぎなく。

 

 私は。

 

 あまりの恐怖に。

 

 失禁し、脱糞して、いた。

 

「あ、あ、あ、あ、あ、あ………」

「…そうだな、お前の言うとおりだ、言峰。ここにいるのは、只の小娘。ははっ、少し大人気無かったかもしれねえわ」

「そのとおり。そこにいるのは、まだ襁褓も取れないような、弱々しい赤子に過ぎん。それは庇護の対象以外、何物でもなかろうよ」

 

 彼は、立ち上がる。

 

 いまだ鮮血の噴出す片腕を、そのままに。

 

 その手に、己を象徴する赤い魔槍を握ることなく。

 

 ゆらりと、無関心に。

 

 もう、私など見ないかのように。

 

 私など、いないかのように。

 

 手を、伸ばす。

 

 行かないでと、手を伸ばす。

 

 それでも、その手は空を切って。

 

 誰の温もりも、掴めなかった。

 

「で、だ。てめえ、何しに来たんだい?」

「何、大したことはない。少し、因果の掃除を。これでも、臆病な気質ゆえ、君に命を狙われて以来、枕を高くして眠れた夜が無い。故に最近は少し寝不足気味でな、そろそろ深い眠りが恋しくなってしまったのだよ」

 

 彼は、微笑っていた。

 

 もう、私なんて忘れたように、微笑っていた。

 

 その瞬間、彼は私を愛していなかった。

 

 彼は、目の前に立つ、神父だけを愛していた。

 

「そりゃあ、ちょうどいい。俺もな、てめえを寝かしつけてやりたかったところだ。安心していいぜ、言峰。お前はこれから、不眠症の心配をする必要は、なくなる。一生だ。なにせ、お前は一生目覚めないのだから」

「それはいい。死こそ永遠の安息であると、果たして誰が言ったのか。死によってこそ愛は完成されると、果たして誰が言ったのか。ならば、私は君を愛そう。君のかつての主、彼女を愛したように」

 

 神父は、微笑っていた。

 

 本当に、私を忘れたかのように微笑っていた。

 

 その瞬間、彼は私を知らなかった。

 

「…単身、英雄に挑むとは、過信も極まったか、人間」

「何、冷静に彼我の戦力を分析した結果だ」

 

 二人とも、私を知らなかった。

 

「ほう。ならば、その結果は如何?」

「今の君では私に勝ち得ない」

 

 この世界で、誰も私を知らなかった。

 

「…お前は、後悔はしないだろう。ならば、存分に来い。クー・フーリンが相手をしよう」

「私は、君の後悔が欲しい。君の絶望が欲しい。さあ、いい声で泣き叫べ、クランの猛犬。君の苦悶は、我が糧となり我が血肉となる。君の仮初の生は、無駄ではなかった」

 

 誰もいない、この世界で。

 

 私は、私自身の排泄物の臭いに塗れて。

 

 唯、一人だった。

 

 涙が、つうと頬を伝った。

 

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