FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
揚砲。
鉄山靠。
上歩衝掌。
連環腿。
裡門頂肘。
崩捶。
馬歩衝靠。
双掌打。
進歩里胯。
一方的な戦いだった。
片方の繰り出す攻撃の悉くはその敵に届かず、片方の繰り出す技の悉くはその敵を蹂躙する。
互いに、素手。
拳法家たる言峰綺礼と、クランの猛犬クー・フーリンの戦い。
しかし、圧倒的に優位なのは、常人たる綺礼の方であった。
かつて、己の本質を探究するために修めた拳法、その絶招の数々は、一切の容赦なく槍兵の体を破壊した。
幾度となく吹き飛ばされ、その度に硬い岩盤に叩きつけられたランサーは、身体中の皮膚を剥ぎ取られたが如き有様。既に、人が歩いているのか肉の塊が歩いているのか分からない程酸鼻を極めた容貌。
しかし、彼の口元から笑みが消えることは無い。
身体中を朱に染め、其処彼処に青黒い痣を作りつつ、それでも槍兵は立ち上がる。
まるで、それこそが戦士の誇りだと言わんばかりに。
「…呆れた頑丈さだ。常人なら、十は既に死んでいるが」
「はっ、俺を常人と比較するか…かは、げぼぉ!」
ランサーは、咳と共に赤黒い血液を吐き出した。
果たして、それが消化器系へのダメージによるものなのか、呼吸器系へのダメージによるものなのかは彼自身も分からなかった。
分かっているのは、既に使い物にならない己の体と。
敵と自分、その圧倒的なまでの実力差であった。
「ったく、くねくねと妙な動きをしやがって…。面倒くせえったらありゃしねえ…」
「それが、拳法というものだ。古来、拳法とは弱き者が力強き者に立ち向かうために編み出した術理の集大成故な。凡夫たる私が英雄たる君に挑むに、これほど相応しい武器も存在しない」
油断なく腰を落としたまま、言峰綺礼はそう言った。
満身創痍の半死人を相手に一切の手加減をしない。そういう意味での恥を、彼は一切覚えていない。
何せ、今この場において彼が相対しているのは、かのクランの猛犬。
僅か七歳の幼少時。
十人の戦士でも御するのに梃子摺る猛犬、それを絞め殺した、ケルトの怪物。
彼を相手取るに、たかが拳法を極めた人間如きが慢心していい道理は、存在しない。
「ああ、それはそれは、しゃらくせえ、な!」
口の端を歪めたまま、ランサーは突撃する。
それでも、ただ突っ込むだけ。
無理もあるまい。
彼は、それ以上の技を知らないのだ。
槍術については言えば、余人には見えざる程の高きにある峰、その頂を極めた彼であるが、それ故に体術についての造詣はそれほど深くない。
また、彼の生きた時代の闘技は、現代のそれ程に洗練されていなかった。
単純な話だ。
必要とされない技術は決して発達しない。
彼の時代においては、人を殺したければ刃物を用いればよかった。
ならば、誰が迂遠に、素手にて人を殺す術を修めたがるか。
何故なら、そんなもの、戦場においては糞の役にすら立たないのだ。
それは、現代においても同様であろう。
人を殺したければ、刃物で武装すればいい。日本刀という凶器の危険性は、鍛え上げられた空手家の拳のそれを、遥かに凌駕する。
人を脅したければ、銃器で武装すればいい。どれほど鍛え上げられた拳闘士でも、後頭部に銃口を突きつけられれば、大人しく財布を差し出すしかないのだ。
しかし、それらは間違いなく法に反する。
だから、人は己を鍛える。
許された範囲で、己を、そして大切な誰かを守る力を手に入れるため。
人を殺すことが重大な罪となり、しかし不当な暴力を制圧せねばならない。
そういった二律背反の要請が産んだ畸形児こそが、拳法いうものの正体であるのだ。
しかし、その畸形児は、今この場において、正統の嫡子たるランサーを強かに打ちのめした。
理由は二つ。
槍兵の体に刻まれた、英雄の宝具の爪跡。中でも、片腕を失ったのが致命的である。人の身体の部位は、その一つ一つが意外なほど重たく、突如としてそれを失えば致命的なほど重心が狂う。極端な話、直線に駆けるだけでも不可能事なのだ。
そして、彼の手から失われた魔槍。槍を持たぬ槍兵など、銃弾の装填されない拳銃に等しい。銃身による殴打さえ注意すれば、それは既に武器足り得ない。
だからこそ、神父は一見無謀ともいえる戦いを挑んだ。
そして、神父の予測は完全に正しかったのだ。
「しいいぃぃっ!」
神父の眼前にて、槍兵の体は捻じ曲がる。
まず軸足が外側を向き、次に蹴り足が跳ね上がり、腰が回転する。
中段蹴り。
かつて、鉄の少年を、広い庭の端から端まで吹き飛ばした、致死の蹴りである。
それを見て神父は。
鼻で、微笑った。
「―――未熟」
少年にとっては死神の鎌にも似た、その蹴りは。
八極拳の奥義を極めた神父にとっては、あまりにも。
溜めが甘い。
腰が軽い。
しなりが浅い。
力の伝達が不十分。
体重が乗り切っていない。
狙いが読み安過ぎる。
要するに、
要するに、
要するに―――。
「―――功夫が、練れていないな、ランサー」
然り、綺礼は、その蹴りをあっさりと捌くと。
バランスの崩した槍兵の胸元へ。
一歩、飛び込む。
常識で考えれば、些か近すぎる距離は。
八極拳という、近接戦闘に特化した武術の。
明らかに、必死の間合―――!
「―――またかよ」
「まただ、ランサー。―――飛べ」
震脚。たしかに、彼の靴底は、固いはずの岩肌を踏み抜いていた。
生み出された膨大なエネルギーは、そのまま膝を通って腰へ。
それは、身体の各部を伝わる過程において、倍化される。
膝の屈伸、腰の回転、肩の捻り、背筋のうねり。
そして、全ての功夫は、縦拳の、拳面に。
その様、雷管を打ち抜かれた銃弾にも似ていたかもしれない。
金剛八式、衝捶の一撃。
かつて、衛宮切嗣の心の臓を、一撃にて破壊せしめた絶技。
それが、槍兵の胸骨に叩き込まれた。
「がはあ!」
高々と舞い上がった槍兵の体は。
やがて、地面に叩きつけられ。
ざりざりと、岩肌に鑢掛けられ。
皮膚は剥がれ、肉が削れる。
彼の体の一部からは、白い骨すら露出していた。
「は、ぐぎぃ、が、…、ぐぅ」
地に伏せた獣は、身を捩り苦悶する。
声にならぬ声。
しかし、彼は立ち上がろうとする。
不撓不屈。
そう評して、更に足りない何かが、彼の瞳には存在した。
しかし。
「げぼ、ごええ!」
ばしゃばしゃと。
吐き出された血液の量は、膨大。
吐き出された血液の色は、鮮やかな紅色。
今までの吐血とは、その質、量、共に一線を画する。
明らかに、動脈が破れた故の吐血であった。
おそらく、肺に肋骨が刺さったのだろう。
それは、不死の身体でも持たない限り、明らかな致命傷である。
立ち上がれない。立ち上がってはならない。
それでも。
それでも、彼は。
「…ランサー、告解すればな、私は今、呆れや軽蔑を通り越して、君の姿に感動を覚えている。畏敬の念すら禁じえない。答えてはくれまいか。一体、何が君をそこまで動かそうとするのか。英雄としての誇りか、それとも、闘争こそが君の願いたる故か」
「―――ああ、そんなところなんだろうがよ…」
ふらりと。
まるで、幽鬼が如き立ち姿。
片腕は、最初から存在せず。
岩との摩擦によって、その皮鎧は破け散り。
露になった上半身、その一切が血に染まり。
それでも、彼は立ち上がるのだ。
「それだけでは、ないと、そういうことか」
「…惚れた女の手前だ。格好つけなきゃあ、男が廃る。だろ?」
槍兵の目に、仇敵を射抜くような暗さは、存在しなかった。
そんな不純な感情は、どこかに置き忘れてしまったかのようであった。
ただ、底抜けに明るい。
太陽の下で友と遊ぶ、少年のような、瞳と声。
その、愛の告白にも似たその言葉に、神父は苦笑した。
「…糞小便を漏らした小娘だ。今の貴様につりあうとは、到底思えぬが…。価値観の絶対を信じるほど、私も若くは無い」
「その通りだ。あれはな、いい女なんだ。具合だって最高なんだぜ。おまけに美人で、活きもいい。だから―――俺も、ちったあ頑張らねえと、つりあわねえんだよ。だからさ―――」
からからと微笑ったランサーの口の端からは、絶え間なく鮮血が滴り落ちる。
彼は、それを赤い舌で舐め取り。
ごくりと、飲み下すと。
「もう一丁、頼むわ」
「―――胸を貸そう」
獣が駆けた。
迎え撃つは神父。
結果の知れたる戦い。
その終劇を告げるベルは、未だ打ち鳴らされない。
◇
何で。
何で。
どうして。
貴方は。
知っているでしょう?
勝てないって。
もう、私達に勝ち目は無いって。
もし、その神父を倒しても。
絶対に、あの金色の男には、勝てないって。
分かっているでしょう?
なのに。
どうして?
貴方は、私を。
そんな、綺麗な瞳で。
知らない。
私は、知らない。
そんな瞳、知らない。
見えない。
聞こえない。
感じるのは、排泄物の臭いと、不快な感触。
足が冷たいのは、漏れた小便が冷えたから。
尻がべちゃべちゃするのは、漏れた大便がへばりついているから。
まるで、あの蟲倉のような―――。
それを、無様とすら思えない。
もう、立ち上がれない。
立ち上がろうとも、思わない。
でも。
何で、貴方は、私を。
そんなに、綺麗な、瞳で。
ただ、じっと、見るのですか。
嗤ってください。
蔑んでください。
私は、相応しくなかった。
貴方のマスターとして、貴方に抱かれる者として。
一切、資格を持たなかった。
なのに、貴方は、そんな瞳で。
私を。
嫌。
もう、立ち上がるつもりなんか、なかったのに。
このまま、土に還ってもいいと。
そう、思いながら。
なのに。
その、瞳は。
あの時の。
私が、キャスターを、裏切って。
貴方と、契約を交わしたとき。
ランサー。
つまり、貴方は。
生きろと。
戦えと。
そう。
何て、残酷な。
でも、何て、相応しい。
いいのですか。
私で、いいのですか。
貴方の隣にあるのが、私でいいのですか。
もし、いいなら。
こんな、汚物に塗れた、穢れた身体で。
こんな、脆弱な、心根で。
それでも、いいなら。
もう一度。
もう一度だけ。
―――。
ああ。
分かりました。
分かりましたとも。
捨てましょう。
この命、貴方に捧げましょう。
遠坂の頭首としてではなく。
魔術師としてですらなく。
遠坂、桜として。
だって、綺麗だったから。
私を見つめる、その瞳が。
一切の感情を殺した、その瞳が。
あまりにも、綺麗だったから。
私は。
私は。
◇
宴は続く。
血と、肉と、反吐の舞い踊る宴。
舞曲の曲目は、英雄の苦悶。
楽器は彼の身体、打ち鳴らされるのは、肉が潰れ骨が砕ける低い音。
それでも、宴は終らない。
舞台に演者のある限り、この宴に終わりは無いのだ。
「うらああぁ!」
振り回すような、槍兵の一撃。
残った左手を振り回して、神父の顔面を打ち抜こうとする。
綺礼は、襲い来るその拳を、手錠で縛られたが如き形の両手、その甲と手首の部位を用いて上方に逸らし。
無防備になったランサーの懐に、一歩、踏み込み。
当然、地を轟かす震脚。
手首を返しながら、両の掌底をもって、槍兵の腹部を。
「ぐぶっ」
虎撲手。
形意拳が天才、郭峪生の生み出したる攻防一体の神技。
練り込まれた気が、被害者の内臓を、蹂躙する。
今までのように、槍兵の体が後方に弾け飛ぶことはなかった。
それは、神父の放った全てのエネルギーがランサーの体に炸裂したことを意味している。
目から、鼻から、耳から。
彼の体に存在する、ありとあらゆる穴から、血が噴出した。
立ったまま、目を見開いたまま。
ランサーの瞳孔は、その機能を停止していた。
勝負あり。
神父は、そう確信した。
いかに英霊、いかにサーヴァントといえ、内臓を粉微塵にされて生きていられる道理が無い。
そして、彼の内臓は粉微塵だ。
ゆえに、彼は死んだ。
簡単な、三段論法としての体裁すら整えていない理屈であったが、彼は確信した
それが、この戦いにおいて、言峰綺礼の見せた、初めての隙であった。
すっくと、神父は膝を伸ばす。
その、刹那。
死体が、動いた。
がしりと。
その、顔面を。
巨大な、掌が。
「づ、がばえだぜ、ごどびでぇ…!」
如何にも楽しげに、微笑いながら。
ランサーは、大きく口を開いた。
底から覗く血に濡れた牙は、まるで悪夢のように。
ぬらぬらと、桃色の唾液が、糸を引く。
彼の意図は、単純明快。
腕を引き寄せ、獲物の頚動脈を食い千切ろうと。
それは、技ではない。
人ですらない。
獣が。
人の形をした、肉食の獣が。
しかし。
哀れなるかな、哀れなるかな。
一瞬、気を奪われた神父は。
直後、その意識を取り戻し。
自らの頭部を掴む、男の左手を、更に両手で掴み取りつつ。
それを支点にして、脚は地を蹴り。
中に浮いた神父の巨躯は、その両足を自由とし。
蜘蛛が如き精緻と残酷をもって、槍兵の首に絡みつき。
体を捻りながら、地に落ちる。
飛びつき裏十地。
神父の習得した八極拳の中に、このような技は存在しない。
ただ、経験と、発想である。
危機に陥った身体が、脳の命令を無視して動いた、輝くような反応。
それさえなければ、槍兵の牙は、神父の首を噛み裂いていただろうに。
「まいったかね…と問うのは、侮辱だな」
捕まえられた蝉のように、ばたつく槍兵の体を。
その両足で、御しながら。
神父は、その手に掴んだ腕を、大きく引き絞る。
背を逸らし、後背筋を万全に活用し。
めちりと。
残された、ただ一本の腕、そこから布を引き裂くような音が。
そのまま。
止まらない。
止まらない。
どんどん、本来曲がらざる角度に、槍兵の腕は。
めしめしと。
ぶちぶちと。
「くわああぁ!」
ランサーの口から、悲鳴が上がる。
血に濡れた唾液が弾け飛ぶ。
まるで、歓喜に悶える女のような、甲高い悲鳴。
神父はそれを心地よく聞きながら。
更に、折れ砕けた肘関節を、捻じ曲げて。
やがて、ぶちりと。
肘の関節、外側に向いたその内側から。
折れた、白い骨、その先端が、露出した。
綺礼は、それを満足気に眺めやると。
ようやく、その両手を離したのだ。
「ぐううぅぅぅ!」
地にて悶える、光の皇子。
立ち上がった神父は、それを見下す。
言峰綺礼は、この瞬間、確かに幸福だった。
己の命を狙う復讐者を、返り討ちにした。
しかも、凡百の輩ではない。
クー・フーリン。
伝説に謳われた、万夫不当の勇士を、である。
片手間とはいえ、武に時間を捧げた人間にとって、これが嬉しくない筈が無い。
あとは、地に伏せる敗者に、最後の慈悲を加えてやるだけ。
そう思った。
そして、気付いた。
彼を見下す視線が、己のものだけではないことに。
顔を上げる。
そこには。
白髪。
赤黒い瞳。
切れるような、笑み。
夜をそのまま形にしたような薄いドレスと、それに包まれた豊満な肢体。
本来は美しいであろうその白い足は、茶色く汚らしい液体に汚れている。
まるで亡霊のような少女。
それが、真紅の魔槍を片手に、微笑みながら己の従者を見下していた。
綺礼は、大きく後ろに飛び退いた。
距離をとり、そして構えを解く。
傍から見れば、不可解極まる行動である。
少女の手には、真紅の魔槍。
それが本来の担い手のもとに帰れば、彼の優位は失われる。
彼がランサーを圧倒し得たのは、あくまで互いが無手であるが故に。
如何に瀕死の重傷を負っているとはいえ、彼我は凡夫と英雄である。
宝具を手にした英雄を御しえると思えるほど、彼の思考回路は楽観的ではなかった。
ならば、仕留めるべきだ。
その槍が所有者の手に渡る前に、少女を仕留めるべきだ。
その行為に、如何なる困難も伴わないことは、誰よりも神父自身が熟知している。
彼が、腰を入れた突きを一撃叩き込めば、少女の顔面は陥没し、砕けた頭蓋骨から脳漿が飛び散るだろう。
彼が、その柔い腹に本気の前蹴りを叩き込めば、口と肛門から内臓を吐き出して、少女は悶死するはずだ。
それは、どちらもが確定した事実であり、当初の綺礼と桜の立ち位置は、それらを可能とする距離しか離れていなかった。
必殺の間合。
それを捨ててまで神父が欲したもの。
それは、この主従が織り成すであろう、喜劇の鑑賞に他ならない。
彼の顔に、深淵を覗いた者のみが浮かべる、豊かな笑みが浮かんだ。
彼は、内心で、このような場面に立ち合わせてくれた神に、感謝の祈りを捧げたのだ。
◇
「ランサー」
冷たい声が、聞こえた。
全く、火照った耳朶には心地いいくらいだ。
ははっ、桜よ。
声を聞いただけで分かるぜ。
お前は、お前になったんだ。
やっぱり、お前はそうじゃなくちゃあなあ。
「何をしているのですか。さっさと、立ち上がりなさい」
お前は、やっぱりいい女だ。
俺なんかには、二度も気に入った女を守れなかった俺なんかには、不釣合いな女だ。
だが、桜よ。
俺は、お前を手に入れるぞ。
絶対に、放さんぞ、桜。
覚悟して置けよ、桜。
猟犬は、しつこいんだ。
獲物の匂いは、決して忘れないし、逃さない。
お前は、最悪の猟犬に噛みつかれたんだ。
それを自覚しておけ、桜。
「無様な…それでも、英霊の端くれですか?」
はは。
このクー・フーリンをして、端くれと評するか。
その言葉を発したのがお前じゃなければ、その咽喉笛を噛み切ってやるところだ。
だが、無様というのには痛く同感。
だったら、立ちあがらねえとなぁ。
よっこいしょ。
声は出ないから、心の中で声を出す。
何とか、動いてくれた。
ああ、鍛えておいて良かった。
ここで立ち上がれなけりゃあ、男じゃあねえもんな。
「―――これを」
差し出されたのは、真紅の魔槍。
きっと、心地いい感触。
俺は、それを心行くまで堪能しようとして。
やっぱり、止めた。
そんな目で見るなよ。
言いたいことは、分かってんだ。
「…あい、げぼ、あいつとは、素手で決着をつけてえんだ…」
それは、意地だ。
あまりにも、醜く、誰も幸福にしない、意地。
きっと、正義の味方を目指す、あの坊主と、さして変わらない。
只の、意地。
視線の先には、黒い神父。
そのいけすかねえ笑みも、少しだけ見慣れてきた。
「このクー・フーリンが、ここまで虚仮にされて、黙ってられるか。だから、桜、その槍は―――」
その台詞は、最後まで言わせてもらえなかった。
ばかん、と。
思い切り、後頭部を叩かれた。
「ってえな、何すんだ!」
「貴方は、どれだけ怠け者なのですか。貴方の相手は、彼ではない」
桜は、屹っとした表情で。
一切の慈悲も無く。
もう一つの戦場を、指差した。
そこは、少女の苦悶の叫び轟く、残酷絵巻。
ギルガメッシュが、セイバーを、凌辱していた。
「英霊を倒せるのは、英霊のみ。であれば、貴方は彼女を助けに行きなさい」
一瞬、返す言葉が無かった。
この女は、言うのだ。
片手を失い。
残った片手をへし折られ。
全身を血に染めた己の従者に。
決して勝ち得ない、強大すぎる敵に挑んで来いと。
そして、倒して来いと。
ぶちのめして来いと。
勝利を、もぎ取って来い、と。
それは、なんと、無茶苦茶な―――。
「はい、だから、槍」
ぽんと投げ渡された、愛槍は。
俺の、折れ砕けた手の中に納まる。
身を引き裂くような激痛があったが、ここで泣き叫ぶようじゃあ、それこそ犬にも劣る。
だから。
だから、俺は。
「本気か、桜?」
「冗談を言っているように見えますか?」
首を傾けながら、満面の笑み。
白く脱色された髪の毛が、さらさらと泳ぐ。
「お前、自分がどれだけ無茶な命令をしてるか、自覚してるか?」
「嫌いですか、こういうの?」
その、瞳が。
先程の怯えなど、一縷とて残さぬ、勝気な瞳が。
優雅に歪められた口元が。
ああ、桜。
駄目だわ。
俺は、本気でお前にやられたらしい。
「いいや、大好物だ」
みしみしと、身体中の筋肉が膨れ上がる。
痛みが、遥か彼方に吹き飛んでいく。
全身を包み込む、高揚感。
ああ、今なら、万軍とて単身で討ち滅ぼそう―――!
「先程の質問の回答です」
投げ渡された、宝石。
彼女の魔力の詰まった、せめてもの手向け。
末期の水にも似たそれを、噛み砕いて飲み下す。
全身に、更なる力が漲る。
「共にいてくれるだけでは、傍で慰めてもらうだけでは、私は満足できません」
その言葉に、迷いは無い。
であれば、俺の為すべきことは、ただ一つだ。
「私は、貴方と共にありたい。私から、共にありたい。それを、許してくれますか?」
ならば、言葉は要らない。
一度だけ、笑って。
俺は、もう、振り返らない。
目標は、もう見失わない。
心臓を。
あの、金色の、気にきわねえ野郎の心臓を。
桜、お前にこそ捧げよう。
◇
「―――失望したよ、遠坂桜」
「―――何故、でしょうか」
「あの日、姉を殺すと言い切った時の、底の知らぬほど暗い光を湛えた瞳、あれは相応に美しかったのだがな。今の君の瞳は、些か陳腐だ。失望を禁じえない」
「…それは、貴方にとって眩し過ぎるだけでしょう。貴方は、空っぽの洞穴だから、自分に飲み込めないものを拒絶してる。食わず嫌いの子供と一緒です」
「…成程な。或いは、それが真実やも知れぬ」
「私はあの時、貴方も殺すと誓った。今が、その約定を果たす時でしょう」
「ふむ、私『も』、か。であれば、君は今まで、誰を殺したのだ?それとも、これから誰を殺すのだ?」
「たくさんの、たくさんの人を。大事な人を。そして―――」
深呼吸。
大丈夫。
今の私は、強い。
今の私は、目の前の男よりも、強い。
だって、失うものが多過ぎる。
先輩、姉さん、そしてあの人も。
失いたくない、大切なものが、多過ぎる。
失うものがある。
それは強さだ。
失うものが無い強さ、捨て身の強さ。
そんなもの、蟲にでも任せておけばいい。
失うものがある。
その、幸福。
それがあれば、私は何時だって最強のはず。
「そして、何だね?」
「弱い、弱かった、自分を」
「―――いいだろう。君に価値を認めよう。遠坂桜、かつてのマキリ桜よ。君は確かに美しい」
「光栄です、言峰綺礼」
思えば、私は初めて、彼の名を。
この時に、呼んだのかも知れなかった。