FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
「私は、行かない」
目の前の、少女。
銀色の髪。
白皙の、雪のような肌。
赤い、瞳。
軽蔑に染まった、瞳。
「―――それが、遠坂の頭首たる貴方の決断かしら、リン」
声も。
声も、同じ色に、染まって。
「…もう、私は、頭首じゃあないわ。だから、頭首の意向には従う義務がある」
頭首は。
妹は。
桜は。
私と、この子に。
生き延びて、欲しいと。
なら。
「…そう。それが、貴方の決断なのね。なら、いいわ」
彼女は、無造作に立ち上がって。
興味を、失せたかのように。
「…私は、助けたい。死んでも、助けたい。例え無力でも、役に立たなくても、足手纏いでも、シロウを助けたい。絶対に死なせたくない。だから、行くわ。貴方はそこで待っていなさいな」
なんだ。
それは、何だ。
知っているさ。
私だって、そうだ。
助けたい。
一緒に、戦いたい。
死ぬときは、一緒に。
でも。
でも。
でも。
この子が。
アイツと、私の、赤ちゃんが。
「…事情も知らないで、勝手なこと、言わないで頂戴」
くすり、と。
篭もった、笑い声。
かちん、と。
私の中に、硬い感情が。
「…何が、おかしいの」
彼女は。
子供ではない。
女。
少女ではなく、女。
間違いない尊属の視線が、そこにあった。
「そうね。事情なら、私にもあった。それこそ、ありとあらゆる人に存在する。でも、貴方は私の頬を打ったわ。憶えている?」
それは。
城。
溢れ出す、蛇神。
泣き崩れた少女。
その腕の中の、私の想い人。
石くれになりつつあった、想い人。
あれ。
何時に間にか。
目の前に、人影。
襟元を。
捩じ上げられて。
「ふざけるな、トオサカ!そこで泣き崩れていれば、満足か!それで、シロウは救われるのか!」
その、台詞は。
糞。
畜生。
剽窃するんじゃ、ないわよ。
「もしそうなら、シロウを寄越しなさい!貴方はここで死ね!私は、弟を助ける!」
勝手なことを。
勝手なことを。
勝手な、ことを―――!
小さな手を、打ち払う。
すっくと立ち上がる。
あれほど堅かった膝が、柔らかに曲がり、伸びる。
何のために?
ただ、戦うために!
「アインツベルン!私も行くわ!連れて行って!」
そうだ。
そうだ。
もし、アイツが死んで。
私だけが、生き残って。
私だけが、逃げ隠れて、生き残って。
この子を、私だけで育てることになったとき。
私は、私を、誇ることが出来るだろうか。
戦わなかった私が、戦った彼の尊さを、教えることが出来るだろうか。
私の誇りを、彼の誇りを、皆の誇りを、この子に伝えてやることが、出来るだろうか。
「ふふ、いいじゃない、リン!ちょっと素敵よ!」
それに、この子は私と士郎の子供だから。
自分のせいで、私が戦えなかったと知ったら。
きっと、怒るだろう。
私と、誰よりも自分に。
ならば、少しくらいの危ない橋、一緒に渡るくらいでちょうどいい。
「ええ、イリヤ!貴方と同じくらいには、きっと素敵!」
袖で、頬を拭う。
もう、見ない。
きっと、涙でぐしょぐしょだ。
それでも、これが最後だと理解している。
情けない涙は、これで最後。
なら、切り捨てた。
弱い自分は、流しつくした。
だから、後は戦うために。
戦うため、だけに。
待ってなさい、士郎。
もう、何も無いけど。
魔術刻印も、切り札の宝石も、何もかも失ったけど。
きっと、貴方の重荷にしかならないけど。
私が、助けたいの。
誰の意見も、考えも、優しさも、どうでもいい。
私が貴方を助けたくて、私が貴方と一緒に戦いたい。
一番優先されるのは、私の感情。
だって、私が一番偉い。
私が、世界の真ん中だ。
だから、士郎、覚悟しなさい。
我侭な奥さんを選んだ、貴方の責任。
私が、貴方を助けるんだから。
◇
結論は、出た。
勝敗は、決したのだ。
何も、覆らず。
槍兵は、及ばなかった。
弓兵の心臓に、赤い槍は突き立っていない。
未だ無傷の鎧は、依然として煌びやかな輝きを誇っている。
そこに、髪の毛一本分の傷すら無く。
きらきらと、黄金色に煌く。
それは、男の自我のように強固で、絶対であった。
しかし、この瞬間に限って言うならば、それは鎧の頑強さが齎した結果ではない。
槍は、確かに鎧に傷一つ負わせることは出来なかった。
当たり前だ。
対象に触れ得ない穂先に、どうして傷を付けることが叶うだろうか。
「…何、しやがった、てめえ」
槍兵の呟きは、空しく虚空を満たしたのみ。
応える必要性を見出さなかったのか、英雄王は無言である。
そして、槍兵も求めなかった。
彼は、理解したのだ。
疑問を口に出した、その後に。
いや、疑問を口にした、その瞬間に。
「―――ああ、そういうことかよ。しくじったな、こりゃあ…」
彼の、疑問。
何故、穂先は心臓を貫かなかったのか。
何故、ゲイボルクが、発動しなかったのか。
因果の逆転。
如何なる防御も回避も意に介さず、ただ心臓を貫くという結果を齎す、不可避の魔槍。
彼の前に立ちはだかる敵にとって、それは冥府の王の呼び鈴に等しい。
しかし、それは絶対ではない。
事実、その発動が即ち敵の死に繋がらなかった事例も、稀ではあるが存在する。
例えば、剣の騎士と相対し、呪いがその幸運に及ばなかったとき。
例えば、鈍色の大巨人と相対し、呪いがその宝具の加護を貫きえなかったとき。
例えば、得体の知れない預言者と相対し、呪いがその不死を打ち破ることが出来なかったとき。
絶対ではない。
絶対など、存在しない。
それは、重々理解している彼である。
それでも、絶対であるもの。
彼の、宝具。
彼の、半身。
それは、彼を裏切らない。
力及ばず敵に敗れることがあっても、それが彼を裏切ることは無い。
その、絶対の信頼。
それが、打ち砕かれた。
何故なら、宝具は、敵の如何なる術理に敗れたのではない。
もっと単純に、そして明快に。
宝具が、発動しなかったのだ。
その真名を解放し、十分な魔力を込めたにも関わらず。
因果の逆転は、起きなかった。
それどころか、ただの突きを繰り出すことすら出来なかった。
何故。
一瞬の思考、しかし永遠ともいえる煩悶。
そして、槍兵は悟った。
己が、最も重要な錯誤を成していたことに。
「―――ああ、それじゃあ、勝てねえわ」
「そういうことだな。貴様は、見誤ったのだ」
その声は、無念と呼ぶには透き通っていて。
その声は、諦観というには明る過ぎて。
やはり、苦笑と。
そう呼ぶ以外、如何なる呼び方も相応しくない、そういう声だった。
槍兵が、見誤ったもの。
それは、敵の力量ではない。
彼は、敵の力量については、極めて正しい洞察をしていた。
曰く、自分よりも遥か高みにいる。
であれば、己が命を賭けて討ち果たすしかない。
死して生を勝ち取る。
それは決して間違えた選択肢ではなかった。
そして、成功した。
宝具の魔弾、その弾幕を潜り抜け。
絶対の死を司る、乖離剣を叩き落し。
丸腰となった敵の心臓に向けて、己が誇りを打ち放つ。
これで必勝といわず、何というか。
しかし。
ああ、しかし。
この敵の、真に恐るべきはそこにあらず。
そこにあらず、槍兵よ。
貴様は、見間違えたのだ。
絶対の物量、それを誇る英雄ならば、他にもいるだろう。
無限の如き破壊を齎す死の原典、それを越える宝具もあるやも知れぬ。
それでも。
ああ、それでも。
この男は、最強なのだ。
間違いなく、最強なのだ。
英雄である限り、この男には勝てないのだ。
何故なら。
何故なら。
「…その剣、どこでガメやがった」
「さてな、我が宝物庫にある数打ちの一つ。その由来など、とうに忘れたわ」
轟然と胸を逸らす、黄金の覇者。
その背後に浮かぶ、無数の切っ先の一つ。
そこにあったのは、稲光が如く、閃く魔剣。
白刃は、砥ぎ水に濡れたように怪しく照り光り。
豪奢さを省いた装いは、かえってその神々しさを高めるに至る。
剣の名は、硬き稲妻。
カラドボルグ。
神造の聖剣、エクスカリバーの原型とも言われる宝剣。
詳細こそ差異はあれ、英雄王が用意したその剣は、槍兵の親友たるフェルグス・マック・ロイの所有した魔剣そのものであった。
「てめえ、ウルスター縁の者か?いや、んなわけねえわな…」
「ふん、我は原初の王である。ならば、我が治世の後に生まれた雨後の筍が如き王朝の数々、悉く我が属国と言えような」
「―――ああ、なるほど」
この上なく、無茶な言い分ではあったが。
この男には、それが許される気がした。
魔剣、カラドボルグ。
誇り高きクー・フーリンは、一つにゲッシュを誓った。
『この剣を持つものがウルスターに縁の者であったならば、我が背を地に伏せること、一度限り許そうではないか』
哀れなるかな、光の皇子。
彼が生前誓ったゲッシュは、死後も彼を縛るのだ。
つまり、簡単なことであった。
ゲイボルグが発動しなかったのではない。
彼が、その魔性を発動させなかった。
発動させることが出来なかった。
何故なら、それは必勝の呪いであり。
それを成せば、勝利は彼のものとなる。
であれば、発動させれば誓いを挫くことになる。
故に、発動させることが出来なかった。
愛槍が彼を裏切ったのではなく。
彼が、その愛槍を、裏切ったのだった。
「―――天の鎖よ」
号令に応じる兵士のように、どこからか飛び来る鎖の束は、既に総身の力を使い果たした槍兵を拘束する。
荒々しくは無い。
寧ろ優しげに、最上の礼儀を保つように。
それは、敗残者を縛り付ける、黄金の手錠であった。
全身に絡みつき、彼の、片方しか残らなかった腕を引き絞るかのように。
がらりと、魔槍が足元で悲しげな音を立てる。
俯くようにそれを眺めた槍兵は、まるで観念したかのように、身動ぎ一つしない。
それは、鎖の所持者に対してある種の訝しさを憶えさせるに十分な光景であったが、同時に勝利を確信させるに十分な光景でもあった。
鎖は、彼を逃がさない。
仮に彼が万全だったとしても、その鎖を引きちぎることは不可能だろう。
かつて、神の使わした天の荒牛を捕獲した、鎖。
対神宝具。
光神ルーを父とする、半神クー・フーリンにとって、天敵とも呼べる宝具である。
「貴様は、そこで我が婚儀を祝福するがよい。然る後、相応しい死を下賜してやる」
英雄王の、真の強さ。
それは、絶対の物量を誇る魔弾でもなければ、絶対の破壊を齎す死の原典でもない。
彼の強さの本質は、彼が備える財の、千万無量たる性質である。
この世の全てを備えた宝物庫には、あらゆる伝説、逸話を飾る宝具の原点が眠る。
英雄譚の騎士、その武勇を彩る、魔剣聖剣。
御伽噺に登場する、魔女の秘薬、神秘の鏡、神々の財宝の数々。
そして、その中には、敵する英雄の、天敵も、必ず。
騎士王に対する、破竜の剣のように。
神の仔に対する、対神の鎖のように。
英雄である限り、彼には勝てない。
伝説を持つ限り、彼には勝てない。
それは、覆せざる、真理であった。
ならば、彼を倒し得るもの。
それは―――。
◇
歓声が起きた。
ついに、現れたのだ。
硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。
それは、天を突くような、巨躯の男であった。
太い腕、太い身体、太い笑み。
誰しもが思い描く、覇王としての王が、そこにいた。
私は、群集に混じって、その様子を見届けた。
そして、安堵の溜息を吐いた。
ああ、これで国が、救われた、と。
程なく、彼は王位を簒奪した。
彼は国中の諸侯を集め、大遠征に繰り出した。
地の果てを目指すような、大遠征。
当然、国中の男たちは、徴兵され。
国中の食料は、徴収され。
国は荒れ。
民は飢え。
冬が来て。
一片の小麦も無い、あばら家の中。
骨と皮だけになった私は、餓えて死んだ。
シロウのご飯が恋しいなと。
そう思ったのが、不思議だった。
◇
歓声が起きた。
ついに、現れたのだ。
硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。
それは、深い知性を瞳に湛えた、痩身の老人だった。
己の才覚に絶対の自信を持つ、挫折を味わったことの無い笑み。
誰しもが思い描く、賢王としての王が、そこにいた。
私は、群集に混じって、その様子を見届けた。
そして、安堵の溜息を吐いた。
ああ、これで国が、救われた、と。
まず、彼は法を整備した。
それは、万人に公平な、素晴らしい法であった。
故に、特権階級たる諸侯連中に受け入れられることは、無かった。
内戦が、起きた。
肉親が、血で血を洗う、凄惨な内戦だった。
それでも、彼は勝ち残った。
そして、王として君臨した。
だが、その瞳にかつての輝きは無く。
猜疑と妄執に塗れた、人を辞めた人の瞳だった。
そこに、安らぎは無く。
その治める国に、安らぎは無く。
私は、一人で死んだ。
病で、死んだ。
道端で野垂れ死ぬ、犬のように、誰に省みられることも無く、死んだ。
ああ、シロウの家だったら、私は、寂しくは無かったのに。
そう、思った。
◇
歓声が起きた。
ついに、現れたのだ。
硬き岩に深々と突き立てられた選定の剣を、堂々と引き抜いた者が。
それは、輝くような笑みを浮かべた、端整な若者だった。
天真爛漫に笑い、人の心を捕えて放さない、その笑顔。
誰しもが思い描く、名君としての王が、そこにいた。
私は、群集に混じって、その様子を見届けた。
そして、安堵の溜息を吐いた。
ああ、これで国が、救われた、と。
彼は、優しかった。
まず、民のことを第一に考え。
諸侯とも、対話をもって、誠意をもって接し。
いつしか、その心を打ち解けさせ。
一切の争い無く、国を統一した。
誰しもが、幸福だった。
笑顔に満ちた国。
誰も餓えず、誰も凍えず。誰も犬のように死なない、国。
ああ、これが、理想の国家だと。
私が、そう確信しかけた、その時。
海の向こうから、他国の軍隊が、やってきた。
争いに不慣れなその国の騎士は、無力であった。
王の笑顔も、血に狂った兵士の前に、無力であった。
国は、滅びた。
民は、奴隷となった。
私は、人の皮を被った獣どもに輪姦され、戯れに殺された。
これが、シロウと同じ人間だと、考えたくは無かった。
◇
色んな王がいた。
色んな国があった。
そして、その悉くが、滅びた。
滅びた。
死んだ。
民が、騎士が、王が、国が。
死んで死んで死んで。
その死体の上に、次の花が咲いていた。
その花も枯れ、その上に次の命が。
その、繰り返し。
繰り返し。
繰り返し。
誰も、止められない。
誰も、止められない。
憎しみの連鎖。
争いの無限環。
死の無始無終。
誰が王でも、一緒であった。
誰が王でも、滅びた。
誰が王でも、涙が在った。
止められなかった。
止められるはずが無かった。
王という役職を脱ぎ捨てた私は、どこまでも無力だった。
そして。
そして、そして、そして。
何故。
私は、こんなにも。
私の頬は、こんなにも。
『どうだい、ほっとしたかい?』
声が、した。
どろどろとした、黒い赤の中から、人のような、声?
『それがあんたの望みだろう?』
私の、望み?
『そうだ。あんたは、誰かに押し付けたかったのさ。自分が背負った、重すぎる荷物をな』
違う。断じて、違う。
『愉しかっただろ?他人がどう足掻いても、自分の治世を超える政治を為しえなかった、その滑稽な様は』
そんなことは無い。断じて、無い。
『そうかい?じゃあ、なんで今のあんた、そんなに晴れ晴れとした顔なんだい?』
顔。
『知っているのかい、騎士王』
私は、そんな、顔を。
『とっくに気付いてるんだろう、騎士王様よ』
民が、国が、そして私が滅びる様を、見せられて。
『わらってるぜ、あんた』
何故。
あああああ。
どうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
この、頬は。
こんなにも、醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く醜く歪んで。
嫌だ。
嫌。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!!!!!!!!!
私は、哂っていない違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない浅ましくない、私は、私は、私は、私浅哂っていないましくないは私は、違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は浅ましくない、浅ましくな浅ましくないい、私は、嗤浅ましく哂っていないないってなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は、浅ましくな哂っていないい、私は、嗤っ哂っていないてなどいない、私は、私は、私は、私は私は、違う、私は、浅浅ましくないましくない、私は、嗤ってなどいない、哂っていない私は、私浅ましくない浅ましくないは、私は、私は私は、違う、私は、浅ましくない、私は、嗤ってなどいない、私は浅ましくない、私は、私は、私はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
『けけっ、わかんないかなぁ?あんた、安心してるんだよ。誰がやっても同じなら、自分に責任は無いってね。ああ、いいなあ、今のあんた、犯してから喰らいてえなあ』
そんな。
違う。
私は、国を、民を、みんなを、救いたかった。
それだけ、なのに―――。
『ひひ、なら俺様にこう願いな。《神様、世界の皆を幸せにしてください》ってな。そうすりゃあ、誰も死なない、誰も泣かない、誰も不幸にならない、理想郷だ』
―――そうだ。
簡単な話だ。
最初から、そうすればよかった。
皆が幸せであれば、争いは生まれない。
争いが生まれなければ、人は死なない。
そうすれば、皆、幸せに。
そうだ。
私は、そう願うべきだった。
彼も、そう言っていた。
私は、馬鹿だった―――。
神様、みんなを、この世界から、争いを、苦しみを、無くして、みんなを、幸せに―――。
『―――聞き届けたぞ』
ぞくり。
ぞくり。
ぞくり。
―――わたし、は。
私は。
駄目だ。
決して、願ってはいけない、願いを。
願っては、いけない、対象に。
『救おう。世界の全ての人間を、悉く』
あなた、は―――。
『我は、怨天大聖、この世全ての悪。それでも、私は願望器である以上、そなたの願いを叶えよう』
アンリ、マユ―――。
聖杯の中に、潜む、もの。
それは、あらゆる願いを。
『簡単なことだ。人の争いを消したければ、人がいなければよい。人の苦しみを雪ぎたくば、人そのものを雪げばよい。騎士王よ、貴様の願いは正しく、かつ、その懊悩も正しい』
違う。
そんなの、私の、願いでは。
『違わないさ。人の争いは、苦しみは、外側からではなく内側から生じる。それは、罪とか穢れとかいうものよりも、もっと原始的な存在だ。ならば、人が人である以上、それは逃れ難い性である』
知っている。
そんなこと、貴様に言われるまでも―――。
『ならば、騎士王よ。貴様は、何故夢見た。誰もが笑いさざめく国を。それが夢物語であることを知りながら』
私は、―――かった。
私は、――たかっただけ。
それ、だけ、なのに。
どうして。
『解き放たれろ、騎士王。私は、君の咎を許そう。そして、全ての罪から解放しよう。そのための救世、そのための滅びである。死は、愛を完成させる。死こそ、最上の救いである』
ああ。
助けて。
誰か、助けて。
『さあ、殺そう、君を憎む、亡者の恩讐を。さあ、殺そう、君の国を滅ぼした、許されざる咎人の同胞を。さあ、殺そう、君を苦しめる、ありとあらゆる煩悩を。親しい人を、愛しい人を、憎しい人を。殺して殺して、殺し尽くそう。そうすれば、君は救われる』
違う。
そんなもの、私の望みではない。
助けて。
誰か、助けて。
誰か、私を。
お願い。
「何故泣く、騎士王」
何故?
決まっているでしょう。
悲しいからです。
苦しいからです。
「そうか。では、何故悲しいのだ?何故、苦しいのだ?」
重たいからです。
冷たいからです。
荷物が、重たくて、そして冷た過ぎるのです。
償え、償え、償え、と。
何度も、何度も、何度も。
もう、耳に馴染んで、聞こえないほどに。
鼓膜に張り付いて、固形化するほどに。
幾度も、幾度も、幾度も。
声が、声が、声が。
私の、私自身の、罪を。
暴き、糾弾し、弾劾し。
離れてくれない。
離れてくれないのです。
「耐え難いか、騎士王よ」
はい。
もう、耐えられない。
一秒だって、耐えられない。
だから、殺して。
お願いだから、私を、殺して―――!
「ならば、我のものとなれ」
―――。
「その荷物、その苦しみ、その悲しみ、全てを我に委ねよ」
―――。
ああ。
あなた、は―――。
「お前は何も考えずともよい。全てを委ね、我の足元に跪いていればよい。そうすれば、永遠の安心を与えてやろう。最上の安息を授けようではないか」
いいのですか?
いいのですか?
嘘を、言っていないですか?
だって、この荷物は。
こんなにも痛くて、こんなにも重たくて、こんなにも冷たくて。
それでも、貴方は、これを。
受け取ってくれる、と。
「むしろそれを寄越せ、騎士王よ。我はこの世の全てを手に入れるもの。そこに価値が在るならば、呪いであろうが苦しみであろうが、吝かではない。その全てが、我が愉悦なればこそ」
見上げる。
地面から、見上げる。
そこには。
私を、愛おしい、宝物のように、見つめる。
真紅の、美しい、瞳が。
ああ。
王が。
今まで、一度たりとも見出しえなかった。
真の、王が―――。
「愛しているぞ、騎士王」
ああ。
ああ。
英雄、王―――。
「我は、お前を愛している。だから、お前を、救わせろ。我が、他でもない我自身が、お前を、救いたいのだ」
ぎゅうと。
広い、暖かい、大きな、胸板が。
鎧を纏わぬ、暖かな、その肌が。
私の、小さな、冷えた、心臓を。
まるで、鋳溶かし、作り変えるような―――。
それは、なんと、なんと。
心地、良い。
「―――です」
声が、漏れ出した。
あらゆる打算を排除した、声。
それは、心の底からの、声、だった。
「何と言ったか、騎士王」
「私も、貴方を、愛します。貴方に、仕えます。貴方に、抱かれたい。貴方の、妻と、なりたい」
彼は、その一言に。
本当に、嬉しそうに。
少年のように、瞳を輝かして。
「後悔、せぬか?」
「―――後悔、します。きっと、間違いなく、後悔します。それでも、今、私は、貴方に抱かれたいのです―――」
「―――これより、普通の女ならば一生かかっても味わいきれぬ、女の肉としての悦びを、そなたに与えよう。覚悟はいいか、我が妻よ」
はい。
私は、貴方の、后なれば。
頤に、ほっそりとした指が、添えられて。
くいと、持ち上げられ。
そこには、優しげな、その顔が。
その、瞳が。
私は、目を瞑って。
彼を、受け入れ―――
「駄目だよ、セイバー」
◇
意外なほど、さっぱりとした目覚めだった。
徹夜明けに、思うが侭の惰眠を貪った、その直後のような目覚めだった。
気持ちがいい。
体が、思考が、きっと魂までもが、軽やかで爽やかだ。
頭の芯を締め付ける頭痛は、無い。
身体の各部を痛めつける疼痛は、無い。
あらゆる痛みから解放されて、あらゆる疼きから解放されて。
それは、きっと幻なのだと知る。
見た。
色んなものを、見た。
それは、美しいものだった。
ほとんどが、尊いものだった。
時折は醜かったが、大半は気高く、近付きがたく、泣けてくるほどに愛おしかった。
それは、人生だった。
きっと、俺ではない誰かの、人生。
衛宮士郎という存在でない誰かが送った、人生。
それとも、それとも。
あれが、衛宮士郎というものが、送るべき人生だったならば。
俺は―――。
まあ、いい。
今、それは瑣末事。
俺が、成すべきこと。
それは―――。
「駄目だよ、セイバー」
ふらりと。
夢見るように。
くすんだ金色の瞳をした、裸の少女は。
俺の方を、霞んだ、瞳で。
「俺、好きな人がいるからさ、お前に偉そうなこと、言えないけど。きっと、今のお前がそいつを選んだら、後悔すると思うから」
「―――雑種。王族の婚儀を邪魔立てするか」
そいつは、セイバーを抱き締めながら。
セイバーは、そいつに縋りつきながら。
その、噴出すような殺気は、冗談とかじゃあなくて。
その、迷い子のような信頼は、作り物じゃあなくて。
俺は、絶対に避けられない死を、確信したけど。
俺が、無粋な邪魔者なんだって、確信したけど。
でも、さ。
でも、だよ。
成すべきことが、あるんだ。
なら、戦わないと。
「うん。本当は、セイバーが選んだなら、お祝いしたいんだけど。今のセイバーは、何かおかしい気がするから」
「…雑種よ。貴様らがそんなだから、この小娘は苦しまねばならなかったのだ。何故、そのことに気付かぬか。この姿こそ、この少女の本来なのだ。貴様らが、これの存在を捻じ曲げたのだ」
うん、その考え方は大賛成。
だって、セイバーは強すぎたんだ。
だから、我慢をしすぎた。
硬い剣は、折れやすいけど。
折れることは、まだ、救いで。
刀身に、無数の罅を、刻まれて。
それでも耐える剣、その姿はどこまでも痛々しくて。
だから、誰かに縋りつくのは、大正解。
だから、きっと、これは只の嫉妬なんだろうな。
こんなに綺麗なセイバーを、こんな奴に、渡したくないだけなんだろうな。
「貴様程度の器では、騎士王を飲み下すことは叶わぬ。潔く身を引け、雑種。ここは婚儀の場ゆえな、下賤な血で汚したくない。これは、最後の慈悲である」
立ち上がる。
目の前には、何も無い。
何も無い、が、ある。
ならば、為せるさ。
何たって、この体は、そのためだけに特化した、魔術回路なのだから。
「…シ、ロウ…」
「…騎士王よ、お前は、まだ―――。…よかろう。セイバー、貴様の最後の未練であろうこの男、貴様の目の前にて八つ裂きにしてくれる。そうすれば、後顧の憂い無く、我が妻となることも出来るだろう」
己の深奥に、問いかける。
答えは、知っているけど。
「戯れである。なればこそ死力を振り絞れ。それが、死に行く者の、最低限の礼儀でり、義務である」
立ち上がった、奴の姿。
露になった上半身には、一切の隙も無くて。
それでも、どうやら、好き勝手させてくれるらしい。
はは、こいつは有難い。
今、アイツが本気を出せば、間違いなく俺は針鼠だ。
だから、感謝を。
あいつに、セイバーに、兄さんに、今まで出会った全ての人たちに。
感謝を。
「I am the bone of my sword.」
ぎちりと、脳の一部が軋みを上げた。
苦痛で、詠唱が止まりかけた。
「Steel is my body, and fire is my blood.」
ぶち、と、どこかで音が鳴った。
視界が、赤く染まった。
「I have created over a thousand blades.」
咽喉の奥から何かがせり上がって来たけど、飲み下したから何だったのか分からない。
鉄臭かったけど、トマトジュースかな。『どんなトマトジュースだよ、それって』
「Unknown to Death.」
警告音が、鳴り響く。『止めろ、止めろ』
一体、どこから?『お前の、内側から』
「Nor known to Life.」
警戒音が、鳴り響く。『辞めろ、辞めろ』
一体、誰が?『お前、自身が』
「Have withstood pain to create many weapons.」
脳のどこかが、拒否反応を示す。『それは、お前に許された呪文ではない』
知っている。『真似するな、真似するな』
知っているさ。『お前自身のために、真似をするな』
でも、俺には、これしかないから。『それは、正解』
これが、俺の出来る、唯一だから。『それも、正解』
なら、唱えるさ。『それは、いいんだけど』
これが、唯一の、衛宮士郎に許された、呪文、なんだ。『それが、大間違い』
「Yet, those hands will never hold anything.」
ぎちり、ぎちりと、悲しげに軋む。『おいおい、ちょっとは考えろよ』
軋みを上げる、脳味噌、身体、思考、魂。『何が、軋みを上げてるのか』
ぎちり、ぎちり。『歯車が、噛み合っていないんだろ』
何の、音、だろう?『単純だ。間違えたんだ』
間違えた?『うん、そう』
何を?『全てを』
いつから?『最初から』
最初?『そう、最初』
君は?『俺は、衛宮士郎』
僕は?『お前は―――
衛宮士郎
じゃあ、ない。』
「So as I pray, unlimited blade works.」