FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
暗い、道だった。
左に曲がり、右にくねり、上へ上り、下へ下り。
上下左右、東西南北、方向感覚の失調により胸苦しさが込み上げてきた頃合である。
鳴動、した。
まず、地震だと思ったが、それはあまりにも楽観が過ぎるというもの。
「リン」
「ええ、急ぎましょう」
そう、呟いた刹那。
何か、形容し難い悪寒が、私の触角を刺激した。
その、言葉にならない嫌な感覚は。
即座に、己が生命の存続に直結する、重大真摯なものであると悟る。
「伏せて!」
最後まで、言い切れたかどうか。
私の警鐘など聞くまでも無く、その場にいた全員が反射的にその身を地面の窪みに投げ込んだ。
直後、頭上を擦過した慮外の魔力波に、肘と硬い岩が擦れるざりざりという嫌な感触を忘れる。
もし、あれと正面からぶつかったら。
特急の電車に飛び込んだ自殺志願者よりも、更に悲惨な末路を迎えていたに違いない。
この先で何が起きているのか。
少なくとも、私如きでその趨勢を分けることの出来るような、生易しい闘争ではないことは明らかだ。
でも。
それでも。
これが、私の選んだ道なのだから。
奥へ。
這うように進む。
やがて、吐き気を催すほどに生々しかったマナは薄れ、清廉な空気が満ち満ちて。
それが、裏返しになった不愉快さを醸し出し。
そして。
大きな、地底にこれほどの空間があるとは信じ難い、それほどに大きな空間が。
「イリヤ…」
「ええ。ここが最初の約束の地、円環回廊テンノサカヅキ。ようこそ、それともお久しぶりと、そういえば良いのかしらね、トオサカの末裔よ」
何かが乗り移ったような声は、少女のそれとは思えないほどに重々しく、また落ち着いていた。
隣を見ることが出来なかったのは、恐ろしかったのと、それ以上に痛々しかったから。
だから私は世界を見渡す。
広大な大地は、地の底に出来た世界の縮図のようで。
その、中央に。
黒い、黒い塔と。
その、上空。
天と地の境。
裂け目。
マナが、吸い込まれている。
それは、『あちら側』の、入り口で。
そこから。
ぎょろり、と。
蕩けた、眼球と。
その、中央の。
漆黒の、瞳が。
ぞくり。
一目で確信に至る。
あれが、聖杯の中にいるものだと。
そして、触れてはいけない、知覚してはいけないものだと。
具現化した呪い。
物質化した呪い。
人類そのものに向けられた、呪い。
そこから目を逸らすように。
そして、私は見つけた。
倒れて、ぴくりとも動かない人影が二つ。
一つは、法衣を着た、大柄な男性。
もう一つは―――。
「桜!」
何だ。
どうして、この子が。
酷い。
こんなの。
「桜!桜、しっかりして!」
あの、美しかった桜が。
あの、綺麗な唇が。
あの、整った鼻梁が。
無惨にも。
「…ねえ、さん?」
裂けて、桃色の肉が見える唇から。
先端の千切れた舌が覗く。
前歯は、存在しない。
「わたし、こんなのに、なっちゃった…。ランサーに、きらわれちゃうかなあ…」
「喋らないで」
抱き締めようとして、躊躇した。
あの、嫉妬の対象だった、豊かな胸部の、片方が。
存在、しない。
「でも、わたし、がんばりました。ほめて、くれますか…?」
だから、手を。
掌を、精一杯の力を込めて握ってやる。
「…馬鹿。あんたは遠坂の当主なんだから、これくらい出来て当然でしょう?」
後半は、涙で濁って、我ながら何を言っているのか分からなかったが。
この子は、微笑ってくれた。
なら、よしとしよう。
「もう、ねむたいから、すこし、ねますね…」
「ええ。ぐっすり、眠りなさい。起きたら、何もかも元通りだから…」
妹は、糸が切れたように眠りに落ちた。
安心、したのだろうか。
ならば、私の気休めは、彼女に安心を与えることが出来たのだろうか。
せめて、それくらいは出来たのだろうか。
「…リズ、お願い。彼女を遠坂の家にまで運んであげて」
「―――でも、」
「リズ、リンの言うとおりにして」
主の言葉に、自動人形は頷く。
白い人影は、そっと、壊れ物を扱うように少女の体を抱き上げて、元来た闇の中に姿を消した。
「…リン、貴方のせいじゃあないわ」
「…ええ、分かってる。だからこそ、私のせいなのよ」
あれが、遠坂の当主たるものが負うべき定めだったのならば。
ここでズタ襤褸になっていたのは、きっと私の義務。
私は、それを桜に押し付けたのだ。
もう、私は一生かけても返しきれない大きな借りを作ってしまった。
そんなの、私の趣味じゃないのに。
借用書ぐらい作らせなさいよね、桜、と。
如何にも、卑怯者らしく、彼女に罪をなすりつけながら。
そう、思った。
「…行きましょう。急がないと」
「…ええ。それと、ありがと、イリヤ」
私は、物言わぬもう一つの人影、既に体温を失いつつある兄弟子だった物に、一瞥すら与えることなく走り去った。
ただ、心のどこかで、その男が立ち上がることを期待してしまったのは、私が薄情なゆえだろうか。
それとも―――。
そして。
黒い頂、その麓に。
割れ砕けた大地。
その裂け目に飲み込まれるように、幾つかの人影が。
隻腕の男。
彼が抱える、少女。
そして、そして。
そのすぐ傍で、倒れたまま、動かない。
赤い髪の、少年。
「しろう―――!」
◇
「起きて―――」
声が、する。
「起きて―――」
優しい、耳に馴染んだ声。
「起きてください」
もう、遠い昔にも、聞いたことのある、声。
「起きてください、衛宮士郎」
瞼を持ち上げる。
薄っすらと蒼ざめた空気、それを切り裂く曙光の熱。
背中が凝り固まっているのは、またしても硬い土蔵の床で眠ってしまったから。
がりがりと頭を掻き毟りながら起き上がると、そこには憮然とした兄さんの顔がある。
いつもの、朝。
俺は、大きく欠伸をした。
「全く、幾ら貴方が風邪をひかないとはいえ、態々ここまで起こしに来る私の身にもなってください。毎朝毎朝、私は貴方の母親ではないのですよ」
「ごめんごめん、でも、風邪をひかないって?」
それを貴方が聞くのかと、その錆び色の瞳で非難してから、彼女は愉快そうに微笑うのだ。
「凛も桜も、セイバーもランサーも、みんな貴方を待っている。さあ、行きましょう」
そうだ。
皆が、待っている。
きっと、楽しい食卓になるだろう。
最近、少しお腹が目立ってきた凛と。
それを羨ましそうに見つめる桜と。
相変わらず、何事にも飄々としたランサーと。
しゃんと背筋を伸ばし、しかしきっちり三杯はおかわりをするセイバーと。
時折、セイバーにちょっかいをかけに来るギルガメッシュと。
それを、可愛いものを見守るように見つめるイリヤと。
アーチャーと、キャスターと、アサシンと、リズと、セラと。
目も眩むほどに賑やかな食卓。
でも、何物にも変えがたい、幸福が。
きっと、微笑みながら、俺を待っていて。
代羽は、微笑いながら手を差し出して。
その手を、柔らかで暖かいその手を握りながら。
ああ、これは夢なんだなあ、と。
知りたくもない真実を、噛み締めた。
◇
「士郎、士郎、士郎、士郎、士郎!」
狂ったように、俺の名を叫び続ける少女。
額に降りかかる涙が、どうにも暖か過ぎて。
俺は、目を覚ました。
「…り、ん…?」
「分かる?私が分かる?」
頬に、手を添えられる。
柔らかくて、滑らかな感触。
ずっと、このままでいたくなる。
このまま、眠ってしまいたくなる。
でも、そうはさせじと。
少女は、その美しい唇を、俺の顔中に降らせてくれるのだ。
そうして、抱き締められた。
彼女の心音が、頭蓋を伝って鼓膜に響く。
その、優しい音色が。
まるで、母親に抱かれているような。
「ああ、士郎、士郎…」
「…大丈夫だよ、凛。俺、お前とその子を置いて、どっかに行ったりしたり、しないから」
泣き笑いを浮かべた、赤色がこの上なく似合う少女は。
その頬を、赤と呼ぶには、少し淡い色に染めながら。
馬鹿、と。
消え入りそうな声で、呟いたのだ。
「あーっと、お熱いのは結構なんだがよ」
少しうんざりした声が、俺達を現実に引き戻す。
直後俺を襲った、鈍い音と鋭い痛み。
ごつん、と。
地面と後頭部が、激しい接吻を交わしていた。
ああ、凛。
恥ずかしがり屋なお前も悪くはないけど、抱きかかえた恋人の頭を突然放すのはどうかと思うぞ。
「逃げるって…そうだ、兄さんは、代羽は!?」
槍兵は、顎をしゃくる。
その、先。
彼の背後に背負われた、赤髪の少女。
苦しそうに瞳を閉じているが、間違いなく生きている。
俺の瞳から、何か熱い液体が、ぽろりと落ちた。
「もう、ほとんど欠片しか残ってなかったんだけど…噂に聞く、死徒の復元呪詛だってここまでのレベルじゃあないでしょうに。全く、馬鹿げてるわ、この子」
「おそらく、私の鞘の加護もあるのでしょうが…。それにしても再生は不可能なレベルだったはずです。よほど、相性が良かったのでしょう」
何かを悟ったような、セイバーの瞳。
どこまでも優しい光に満ちている。
その先で、すやすやと眠る少女。
もう、彼女が傷つくことも無いだろう。
もう、彼女の不死が役立つことは、永遠に在り得ないのだ。
俺が、絶対にさせない。
そう、誓った。
誓ったのだ。
なのに―――。
「さっさと逃げようぜ。ここはもう危ない」
「…ええ、そうね」
逢瀬の残滓もない、その声。
見上げた、緊張に満ちた少女の顔。
その、視線の先に。
黒い、広げられた掌のようない、不吉な丘。
その、更に上。
折り畳まれた手足。
握られた、弱々しくも巨大な掌。
小さく曲げられた背中と、その体に比して大き過ぎる頭部。
そこに浮かんでいたのは、胎児だった。
黒い、黒い胎児。
その、瞼が持ち上がり。
とろりと、黄色く濁った白目と。
その中央に、染みのように浮かんだ。
黒い、奈落よりも黒い、瞳が。
俺達を映し出して。
そいつは、確かに、嗤ったのだ。
直感だ。
所詮、直感に過ぎない。
それでも、俺は確信した。
こいつは、絶対に生まれさせてはいけない、と。
それが、どれほど身勝手で、どれほど残酷なことでも。
こいつだけは、絶対に生まれさせてはいけない。
こいつは、生まれるべき存在ではない。
そう、確信した。
「さ、士郎。早く行きましょう」
凛の、必死の言葉にも、今は首を縦に振れない。
俺には、やるべきことがある。
親父から、一つの理想を受け継いだ。
赤い弓兵から、その果てを教わった。
それが、例え借り物でも。
俺が辿るべき未来じゃあなかったとしても。
それが、綺麗だと思ったなら。
それを、救いだと思ったなら。
俺には、為すべき事が、ある。
「駄目だ。まだ、一番の大物が残っている」
立ち上がる。
一番驚いたのは、俺自身だ。
どこにこんな力が残っていたのだろうか。
それとも、残っていないのか。
これは、何かの間違いなのか。
ならば、大歓迎だ。
「あれは存在してはいけないものだ。この世にも、多分あの世にも。だから、何とかしなくちゃ」
そう言った、直後。
ぱああん、と。
小気味のいい、音と痛みが。
じんじんとした感触に、思わず頬を撫でる。
目の前には、必死に涙を堪えながら、俺を睨みつける凛がいた。
「―――何とか出来るなら、最初からそうしてるわよ!でも、それが出来ないから逃げるって言ってるんでしょう!少しは私の言うことも聞きなさいよ、このへっぽこ!」
少女は、声を震わしながら。
ああ、その言葉。
ほんの数日前まで、毎日のように聞いたその言葉が、今は死ぬほどに懐かしく、愛おしい。
多分、それは幸福の成せる御業。
俺は、微笑ったのだろうか。
「でも、アレが生まれれば、たくさんの人が死ぬだろう?」
思い出すのは、あの赤い空。
兄さんに負われて生き延びた、呪われた夜。
それが、何百倍、何千倍の規模で拡大生産される。
何百人という、何千人という衛宮士郎とマキリ代羽が生まれる。
そんなの。
どうしても、嫌だから。
だから、少しだけ我侭を言わせてくれ、凛。
「じゃあ、どうするの!?教えてよ、何とかする方法を!」
知っている。
そんなこと、知っているさ。
あれは、人間が如き力で如何こう出来るものじゃあない。
せめて、可能性があるのはサーヴァントくらいのもの。
でも。
悔しそうなセイバーは、俺が見て分かるほどに疲弊していて。
憮然としたランサーは、満身創痍の身体のどこを探しても、一片の魔力も無く。
アーチャー、キャスター、アサシンはその役目を負えていて。
要するに、だ。
誰も、アレの誕生を止めうる者は、いないと。
簡単な話だった。
「だからって、だからって、諦められるか…!」
だって。
俺は。
きっと、出来損ないだけど。
未熟者で、無資格者で、役立たずだけど。
一応、正義の味方見習いのつもりだから。
「…大丈夫。士郎、安心して。アレは、絶対に生まれることは在り得ない」
凛の声に、現実に帰る。
その、まるで気休めとしか思えない言葉に、意外なほどの説得力がある。
「―――どうして、だ」
「あなたも魔術師なら聞いたことくらいあるでしょう、守護者のことを。あれは人類そのものに対する呪い。ならきっと、いえ、間違いなくアラヤが、抑止が動くわ」
アラヤ。
人類の統一的な意思。
何を犠牲にしても、例え世界を滅ぼしても生き残りたい、そう考える生き汚い霊長の、存在し続けることそのものへの欲求。
深海魚の、群れ。
その、どろどろとなった、その先に。
黒い、うねうねとした集合体が在って。
まるで、俺を癒すように。
誘うように。
それが、阿頼耶識で、もしくは蔵識と呼ばれ。
その尖兵が守護者である。
「でも、それは」
そう、守護者が現れるということは。
全てを。
災いの原因となった、或いは原因となりうる全てを、跡形も無く吹き飛ばすということであり。
「結局同じことじゃあないか」
守護者は人類全体の守り手ではあるが、個別の人間にとっての味方であるとはかぎらない。
むしろ、彼らは人類全体に幸福をもたらすため、個々の人間に災厄を撒き散らす。
あってはならなかった事柄を、無かったことにする存在。
それは、まるであの赤い騎士のように。
苦悶しながら。
苦悩しながら。
それでも、人類のために。
加害者と被害者を、平等に殺戮する。
「…そうね、あなたの言うとおりかもしれない。でも、運がよければこの山が吹き飛ぶくらいで済むかもしれない」
この山が、吹き飛ぶ。
凛が、山の住人を避難させるための手回しをしたのが、昨日の昼で。
それが成されるはずだったのが、今日の昼。
当然、寺に住む人々は、俺たちの頭上で安らかな寝息をたてているはずである。
つまり。
この山が吹き飛ぶということは、即ち、俺の数少ない友人の一人が確実にこの世から姿を消すことを意味している。
「…運が悪ければ?」
俺の、頭の悪い問いかけに。
凛は、無色の表情で応えた。
「この街、いいえ、日本という国が地図から姿を消すこともあるかもね」
「―――そんなのは許さない。きっとまだ何か方法があるはずだ」
俺と凛がそんなやり取りをしている間にも、穴の中の、黒い胎児は成長を続けている。
まるでサンショウウオのようだった四肢は、徐々に人間特有の形状に。
彼、或いは彼女は、進化の只中にいる。
生命が悠久の時を経て築いてきた道のりを、そのまま辿っているのだろう。
おそらくは、その全てを滅ぼすために。
そのとき、胎児は鳴動した。
きっと、嗤ったのだ。
愉快そうに、瞳が歪められる。
ぎょろり、と見開いたその目に、俺達はどのように映っているのだろうか。
「…許さない?あなたは何様のつもりよ。だれかを助けるとか、救うとかは、余裕のある人がすればいい。いえ、余裕のある人しかできない。もし、飢え死にしそうな人が同じ境遇の人に自分の食べ物を半分分け与えても、結果は餓死体が二つ生まれるだけでしょう」
悲痛な面持ちで、凛が言う。
まるで、聞き分けのない子供を諭すかのように。語勢は、先ほどとはうってかわって穏やかだ。
だからこそ、余計に堪えた。
何より、彼女は正し過ぎ、俺は捻じ曲がり過ぎている。
そう、理解できてしまうから。
「今、私たちは災厄の真っ只中にいる。私だって、止めれるものなら止めたい。だって、その為にここまで来たんだものね。でも、今の私にその力は無いわ。私がどう足掻いても結果は変わらない。ならば、せめて私は生き残りたい。どんなに少ない可能性でも、士郎と一緒に生き残りたい。どう?私の言ってることは間違えてるかしら。それとも、ここで殉死でも気取るのが正しいとでも言うつもり?」
凛の言っていることは正論だ。
非の打ち所がないくらい正しいと、百人が聞けば百人がそう答えるだろう。
でも。
でも、俺は。
また、自分だけが生き残って。
果たして生きていられるのか。
「あーあ、凛にはがっかりね。今代の遠坂の当主が、ここまで頭が悪いなんて」
場違いな、あまりに幼い声が虚空に響く。
血のように赤い瞳、雪のように白い髪。
太陽の下では可憐に見えるいつもの服も、地の底ではひどく滑稽に見える。
そして、如何にも悪戯っぽく。
俺に向けて、微笑みかけるのだ。
「…イリヤ、なんでここに―――」
「なんで?愚かな質問ね、士郎。私はアインツベルンよ。それ以上の理由がいるのかしら」
冷ややかな笑みを浮かべながらイリヤが答える。
アインツベルン。
聖杯に執りつかれた、妄執の一族。
その、千年に渡る、長過ぎる旅路の果て。
終着点たるこの地の底にて、彼らの悲願は達成されつつある。
魂の具現化、第三魔法、ヘブンズフィール。
負の方向にではあるが、聖杯がその奇跡を成しつつある今、雪の少女は何を思うのか。
俺如きでは、イリヤの表情からは、どんな種類の感情も読み取ることができなかった。
「リン、確かに、あれが生まれれば守護者は現れる。それは間違いないわ。でも、本来ならあれが生まれる可能性が生じた時点で守護者は現れていなければならない。なぜなら、あれは人類の滅びそのものだから。でも、あれは今も存在しているし、守護者はその姿を見せていない。何でだと思う?」
イリヤは凛にそう質問した。
凛の表情が魔術師としての、探求者としてのそれに変わる。
「…確かに。聖杯戦争という儀式そのものの特異性、だけでは説明がつかない。他にも何か理由があると?」
イリヤは、出来のいい生徒を見る教師のような視線で凛を見て、こう言った。
「例えば核兵器。人類は既に何百回も自身を滅ぼすだけの力を既に手に入れている。もし、あらゆる滅びの可能性に守護者が対処するならば、文明はここまで発達する事無く滅ぼされているはずでしょう」
確かにその通りだろう。
無限とも思えるような深い海の底、かつては憧れることしかできなかった夜空の月。今の人類の長すぎる腕は、容易にそれらを掴んでしまう。
高度に発達し過ぎた文明は、それ存在自体が人類という存在そのものの首筋に当てられた諸刃の刃なのだ。
「つまり、守護者が呼び出される条件は最低でも二つ。一つは、人類という存在そのものに対する危機が発生すること。もう一つは、その危機が、抑止力を用いて現世の人間を動かしても阻止できる限界を超えること。もし、どこかの大統領がとち狂って、核のスイッチを押そうとしても、抑止が一人の人間を動かしてその大統領を暗殺させれば事は片付くものね」
少しの間、自己の思考に埋没していた凛が、こう答えた。
「…イリヤ、つまり、あなたにはあれを止める術があるということね」
イリヤは、にこりと、本当に嬉しそうな表情で。
「だーいせーいかーい!凛、さっきの言葉は取り消すね。だって、この身は聖杯。それも、あの呪いが在ることを前提に作られた優れものだから。あんな汚いのはちゃちゃっとやっつけちゃうわ」
明るい、あるいは明るさを装った、声。
でも、あるいはだからこそ。
俺には、イリヤが。
「だから、士郎も凛もここを離れて。レディが戦ってるところなんて見るものじゃないでしょ」
泣いているようにしか、見えなかった。
「嘆かわしい、最近のレディは平然と人を偽って、恥も罪も感じないのですか」
静かな声が響く。
人を突き放すような、暖かく包み込むような、矛盾した声。
その場にいた全員の視線が、一点に集中する。
槍兵の背中から、むくりと起き上がった赤い頭。
少し不機嫌そうに、周りを見遣る。
「…代羽、起きたのか」
「怪我人を労わるつもりなら、もう少し静かにしなさい。あれだけ騒がれては、早く起きろと言っているようなものです」
彼女は軽く髪をかきあげながら、ゆっくりと体を起こす。
「…あの傷から、もう回復したの?相変わらず化け物みたいな再生力ね」
「お褒めの言葉、恐縮ですわ、遠坂先輩」
凛の呆れたような呟きに、代羽は満面の笑みで返す。
その、噛み付くような笑みが二つ。
何かを覚悟したような、笑みと笑みだった。
「シロウ、よくぞご無事で…」
「おかげさまでね。はい、これ、ありがとうございました」
代羽は、セイバーに何かを渡した。
セイバーは頷いて、それを受け取る。
一体なんだったのか、よくわからない。
ただ、二人とも、微笑っていたから。
それは、きっといいことなんだろう。
「…ちょっと、シロ。その言い方だと、まるで私が嘘吐きみたいじゃない」
イリヤが、むすっとした表情で代羽に噛み付く。
「あら、その言い方だと、まるであなたが正直者のように聞こえますが」
代羽は眉一つ動かさずに、そう切り返す。
「確かに、あなたは嘘を言っていないかもしれない。でも、意図的に真実を話していないわ。それを正直というならば、この世の詐欺師の多くは天国に召されるのでしょうね」
その言葉で、イリヤの表情が凍りついた。
「どういうことだ、代羽」
よくわからない。
どうやらイリヤは嘘を言っているわけではないらしい。
しかし、一番重要なところを隠している。
そういうことだろうか。
「衛宮士郎、人に尋ねる前に、まず自分で考えなさい。他者に依存するのが悪いことだとは言いませんが、度が過ぎれば自らの成長を阻害します」
代羽は、大きく溜息を吐いた。
まるで、いつもの彼女のように。
学校で朝の挨拶を交わして、棘の付いた言葉を吐き出すときのように。
でも、ほんの少しだけ、いつもよりも無表情に。
「しかし、状況が状況ですものね、今回は私が説明しましょう。正直に答えなさい、イリヤ。未完成のあなたが、あの穴を塞げる可能性はどれくらいなのですか?」
凍ったままだったイリヤの表情が驚愕に歪む。
「…どうして、あなたがそのことを」
「私も聖杯なのよ。今の貴方が未完成品であることくらい、容易にわかります」
今度はイリヤが大きく溜息を吐いた。
観念したようなと。
そう受け取ることも出来るような、達観した様子で。
「…そうね、なら仕方ないわ。天のドレスを装着しない私は、確かに聖杯としては未完成。その私が、あれだけ大きく開いた、しかも汚染された穴を閉じられる可能性は、良くて三割ってところかしら」
天のドレス?
聞きなれない単語だ。
でも、以前にイリヤが言っていた。
『天のドレスが失われた』って。
そのこと、なのだろうか。
「士郎、天のドレスっていうのはね、いわば外付けの魔術回路、バックパックみたいなものなの。本来、私はそれを身につけることで小聖杯としての機能を十全に発揮することが出来る。ぎりぎりまで、探してたんだけど見つからなかったわ。壊れた、ってことはないけど、掘り返す時間が無くて、今、手元にはない。それは失ったっていうのと同じ意味でしょう」
ということは、今のイリヤにはあの穴を閉じることはできない、と。
そういうことか。
「それでも命を賭けてやれば、もう少しはマシな確立になる。きっと大丈夫、任せて頂戴」
「…それでいいのか、イリヤ」
思わず、そう口走っていた。
それが、どれほどに残酷な台詞なのかを知りつつ。
それでも、言わずにいられなかった。
だって、こんなに小さくて、可愛らしい女の子が。
命を、賭けて。
戦うと。
そう、言っているのに。
俺は。
正義の味方のはずの、衛宮士郎は。
一体、何をやっているんだ。
「…私だって死にたくなんか無いわよ。もっと生きていたわよ!もっとシロウと一緒に生きていたいわよ!けど、シロウを助けることが出来るのは、私だけなんだもの。やるしかないじゃない…」
悲痛な顔で少女が叫び、そして呟く。
ちくしょう。
イリヤが、あの小さなイリヤが、あんなにも必死なのに、
俺には何にも出来ないのか。
このまま、蹲ったまま。
また、誰かの助けを、待ち望んで。
知っている。
弱いやつは、いつだってそうなのだ。
必死に戦っている振りをして、心のどこかで助けられるのを待っている。
それが、当然だと。
傲慢に、確信しながら。
ああ、お前に相応しい。
正義の味方の偽者よ。
お前に相応しい卑怯と怯懦じゃあないか。
全く、相応しい。
「呆れた。イリヤ、あなたには失望しました。アインツベルンの魔術師が、こんなに頭が悪いとは」
どこかで聞いたような台詞。
一瞬遅れてイリヤが憮然とし、凛が苦笑を浮かべた。
「たった三割、それを多少底上げした程度しか成功の見込みが無いのに抑止が働かない、そんな都合のいい話があるわけないでしょう。抑止が動かないのは、100パーセント破滅が起きない、そう既定したときだけです」
イリヤと凛が、息を呑んだ。おそらく俺もだろう。
気付いたのだ。
何かが、走り始めたと。
もう、取り返しのつかない方向に。
そう、確信した。
確信して、しまった。
「単純な話です。今、この場には聖杯は二つある。あれは聖杯でないと止められない。一つが未完成なら、もう一つの完成品を使えばいい」
この場に在る二つの聖杯。
未完成の一つがイリヤなら。
もう一つの完成品は。
その子宮に、もう一人の黒い胎児を宿した。
目の前で、微笑む。
「私が内側から穴を塞ぎます。あなた達は直にここから脱出しなさい」
沈黙が、場を支配する。
まるで、誰かが声を出したその瞬間に、事態は取り返しのつかないことになる、と。
そう、全員が確信しているかのように。
「 !!!」
声にならない声が響く。
それは歓喜の声。
もしくは、早過ぎる産声だ。
生まれいづる自らを祝福する声。
その声を聞いただけで確信した。
もし、こいつが生まれたら。
その姿を見ただけで、
考えられうる、最も惨い死が、俺を祝福するだろう。
「時間がありません。さあ、早く」
静かな調子で、兄さんが、そう言った。
「だめよ、あなたも来るの、代羽」
厳しい口調で、凛が、そう言った。
「あなたが、あの呪いの中に身を投じる。その意味がわかってるの?」
まるで、その言葉を、待ち望んでいたかのように。
兄さんの表情は全く変わらない。
ただただ、いつも通りに。
静かに、静かに。
まるで、聖母のように。
「あの呪いは人を殺すためだけに存在するもの。防ぐ術なんてないわ。それは、アンリマユとパスのつながったあなたでも、おそらく同じこと。でも、あなたはアンリマユから流れる魔力で復元し続けるから、死ぬことすら出来ない」
彼女の瞳に浮かんだもの。
それは、確信だった。
凛ならば、気付くだろう、と。
まるで、長い間共に戦場を歩いた、戦友のように。
或いは、恋人のように。
彼女のことを信頼しながら。
それでも、そのことを、何よりも悲しく想っている。
彼女の優しさを、何より悲しく想っているのだ。
「つまり、あなたはあの中で永遠に殺され続けることになるのよ」
頭の中が。
ふわり、と。
真っ白になった。
凛は今、何を言ったんだ。
兄さんが永遠に死に続ける。
あの、黒色の中で。
永遠に、一人きりで。
死に続ける。
殺され続ける。
安息という意味での死は訪れず。
ただただ、無限の苦痛を味わい続ける。
のた打ち回り、血反吐を吐き、断末魔の叫びを上げ続ける。
そういう、ことか。
「ええ、知っています」
微笑みながら、兄さんはそう言った。
毅然とした、声と表情。
でも、俺は見てしまった。
彼女の、その細い指が、
微かに、ほんの微かに、
震えて、いたのを。
「しかし、それは正確ではありませんね、凛。あれは60億を殺すための呪いが詰まった穴。ならば、殺し尽くせば枯れるが必定」
それは。
この世全ての悪を。
あなたが。
その細い肩に。
背負うということか。
「駄目だ」
声が掠れる。
「絶対に行かせない」
彼女の前に立ち、手を大きく広げる。
とおせんぼ、のポーズだ。
我ながら芸がない、と思う。
「そこをどきなさい、衛宮士郎」
そんなことを言われて。
はい、そうですか、と。
言う通りにする馬鹿が、どこにいる。
「私独りの犠牲で、全てが助かるのです」
「嫌だ」
「逆の立場なら、貴方だって、そうするでしょう?」
「嫌だ」
「私はね、あの弓兵に嫉妬していたのです。そして、憧れていた。だって、あれは望みを叶えた私だったから」
「嫌だ」
「お爺様もね、この世全ての悪、その根絶を目指していました。因果なこと、私は彼の望みも受け継いでしまいました」
「嫌だ」
「だからね。散々貴方にお説教をしておいて、なんなのですけれど。私も、ちょっとだけ、正義の味方を目指してみます」
「駄目だ」
「だから、お願い。私を、祝福してください」
「お断りだ」
「祝福しなさい、衛宮士郎」
「嫌だって言ってるだろう」
「私は、貴方の目指すものになるのです。それは、喜ぶべきことでしょう?」
「知らない。そんなの、知ったこっちゃ無い」
「だから、貴方には義務がある」
「嫌だ嫌だ嫌だ」
「我侭を、言わないで」
「だって、俺、我侭だもん」
「―――ええ、そういえば、そうでしたね。昔もよく、困らされました。私の服なんかをねだって…。腹いせに私の名前を書いてやったりもしましたけど、憶えていますか?」
「…憶えて、ない」
「ふふ、とにかく、貴方は昔から、頑固で我侭でした。でも、それが、とても愛おしかった。私は、貴方を愛していました。そして、それは今も」
「なら!だったら!」
「だから、私は貴方を守りたい。貴方の生きる世界を、守りたい。それは、罪でしょうか?」
罪である、と。
どうして、俺は。
そのとき。
声を、張り上げて。
言えなかった、のだろうか。
「ですから、衛宮士郎」
「あなたが正義の味方ならば」
「正義の味方を、を目指すのならば」
「貴方は」
「世界中の全てが私を罵っても、貴方だけは」
「せめて、貴方だけは、私を祝福しなさい」
「祝福、してください」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ!
絶対に、認めない。
それが、どれほど素晴らしいことでも。
それが、例え本当に世界を救う行いだったとしても。
俺は、嫌だ。
俺は、貴方に生きていてもらいたい。
だから、
だから!
「こんなのを!」
「こんなことを!」
「笑って見過ごすのが正義の味方なら!」
「笑って見過ごさなきゃ、正義の味方になれないなら!」
――俺は、正義の味方じゃなくて、いい!
そう叫んだ、俺を見て。
兄さんは。
少し、困った顔をした後で、
とても嬉しそうに。
でも、いつもみたいに、少し寂しそうに。
微笑ったんだ。
その瞬間、俺の視界の中で、青い髪が踊った。
視界が反転する。体が動かない。
「やめとけ、坊主。覚悟には相応の礼儀が必要だ。だから、ここはお前の出る幕じゃねえ。出る幕じゃねえんだ」
獣の声が、不思議なくらい沈痛に耳道に響いた。
「ありがとう、ランサー」
「礼を言われるようなことはしてねえよ。ほら、さっさと行っちまえ」
兄さんは、深く深く頭を下げた後、泣きそうな笑顔のまま、くるり、と背中を向けた。
後ろから凛とイリヤの声がする。
セイバーは、悲しそうに兄さんを見つめる。
ああ、駄目だ。
行ってしまう。
やっと、会えたのに。
やっと、ありがとう、と言えたのに。
また、手の届かないところにいってしまう。
視界が滲む。
背中が遠ざかる。
またか。
また、俺は救われるしかないのか。
動け。
動け、俺の体。
これから、ずっと動かなくていいから。
頼むから動いてくれ。
今だけでいい。
今だけでいいから。
せめて、今だけは。
行ってしまうんだ。
兄さんが、行ってしまうんだ。
唇を噛み切る。
歯を、噛み潰す。
なんだ、口は動くじゃあないか。
ならば、声の限り。
喉が、肺が裂けるまで。
俺は叫び続けてやる。
「なんでだっ!」
遠ざかる兄さんの背中に向かって、これ以上ないくらい声を張り上げる。
血を吐くような叫び。
「今まで、一番つらい思いをしてきた兄さんが、なんで!なんでっ!」
涙で詰まって、上手く声がでない。
もっと、もっと、言ってやりたい文句も、伝えたい想いもあるはずなのに。
それ以上が、声にならない。
言葉は無力だ。神が無力な様に。
一番大事なときに、役に立たない。
一番大事なときに、一番伝えたいことを、一番大切な人に、伝えることが出来ない。
凛も、イリヤも、ランサーもセイバーも、何も話さない。
石を噛むような沈黙。
火に炙られるような静寂。
それを破ったのは。
「増長するのもたいがいになさい」
静かな声が、崩壊しつつある大空洞を満たす。
それは、大聖堂に響く聖歌。
ひたすらに、ただ一心に、何かに対して祈る声。
「貴方に何がわかるのです。人は、人を理解することなど出来ません。ただ、思いやることができるだけ」
彼女は話す。
淡々と。
詠うように、詫びるように。
「私は、あの日、貴方を守ることが出来た。もしそれが事実ならば、私の人生は、それだけで誇ることができる。だから、一番辛い思いをしてきたのは、私ではありません」
それは、彼女には珍しく、怒りを孕んだ声。
「私ではなくて、それは」
貴方でしょう、と。
聴覚ではなく、心が聞き取った。
「でも、」
仮に、そうだとしても。
「でもさぁ!」
百万歩譲って、そうだったとしても!
「これ以上!兄さんが!聖杯戦争なんかの犠牲にならなくたって―――いいじゃないかよお!」
◇
ああ、ありがとう、
私の、大切な弟、
私にとって、この世の誰よりも優しい貴方。
貴方が生きる、この世界だから、
どんなに、私に優しくなくても、
命を賭ける、価値がある。
神様、はじめてあなたに祈ります。
どうか、もうすぐ私を忘れるこの世界が、
この子にとって、優しいものでありますように。
さようなら、最愛の弟。
名前も知らない、誰かさん。
◇
ゆっくりとした、しかし確かな足取りで、彼女は前へ歩み続ける。
涙が、止まらない。
嗚咽が、止まらない。
行かないで。
行かないで。
お願いだから。
ぼくを、ひとりに、しない、で。
「ああ、忘れるところでした」
立ち止まって、しかし振り返らず。
「最後に言っておきます」
最後、という言葉には、どんな意志がこめられているのか。
「貴方は、アンリマユを倒せなかった」
だから、あなたを救えません。
「貴方は、私を祝福できなかった」
ごめんなさい、無理でした。
「故に、貴方に正義の味方を名乗る資格など、無い」
そんなことは、知っています。
ですから士郎、と。
兄さんは、
きっと、いつものように、
優しく微笑んで、
こう言ったんだ。
「貴方は、貴方の人生をお歩きなさい」
彼岸と此岸を分ける黒い境界線。
彼女は、一度も振り返ることなく、
無造作に、それを超え、
無限の闇の中に、その姿を消した。