FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
空を一面覆いつくす厚い雲を切り裂いて、暖かな日差しがカーテンに突き刺さる。
三日前から続いた豪雨も、明け方には止んでいたようだ。
雲の上に出てしまえば地上の天気など気にもならないが、旅立ちの朝は、やはり晴天のほうが望ましい。
まして、日本で見る太陽はしばらくの間、これで見納め。太陽など、地球のどこから見てもさして変化のあるものでもないが、少しだけ神様に感謝したくなる。
「そろそろ時間だぞ、凛」
ドアの向こうから、聞きなれた声がする。
衛宮士郎。
魔術師としての私の不肖の弟子にして、女としての私のかけがえのない人であり、そして、私の隣で眠る小さな双子の優しいパパ。
「ええ。ありがと、士郎」
今日、私は彼と一緒に、日本を離れる。
epilogue1 未来航路
戦いが終わって一週間、士郎はまるで抜け殻だった。
いや、まさに、といったほうが正しい。
ろくに食事は摂らず、夜もほとんど眠らない。
突然泣き始めたと思ったら、何時間もマネキンのように動かない。
頬はこけ、目は落ち窪み、幽鬼の如き鬼気迫る表情で、ただじっと一点を見つめる。
もちろんそんな状態の士郎を、無事に退院した藤村先生に見せるわけにもいかず、適当な理由をつけて私の家に匿った。
このままでは、士郎が壊れる。
もともと、責任感と使命感の人一倍強い士郎に、目の前で兄を失ったという現実は重すぎた。
なす術も無く、ただ、守られた。
その自責の念が、彼を絶え間なく責め苛むのだ。
しかも、その兄は、おそらくは今も死に続けている。
暗い、暗い闇の中で、たった一人で。
だからこそ、士郎はこのままではいけない。
彼女が味わい続けている地獄の分だけでも、幸せにならないと嘘だ。
過去を忘れることは出来ない、いや、してはならない。
ならば、せめて先のことに目を向けさせるべきだろう。
「士郎、あなたはこれからどうするの?」
テーブルに頬杖をつきながら、向かいに座った彼に話しかける。
部屋を満たすのは、私が拙い技術と狭隘な知識を総動員して淹れた、珠玉の紅茶。
その優しい香りすら、彼の意識には胡乱過ぎるようだ。
壊れた玩具を思わせる緩慢な動きで、それでも何とか私の方に顔を向けると、うつろな表情のまま士郎は呟いた。
「…これ……から…」
駄目だ。
こんなの士郎じゃない。
こんなモノのために、彼女は苦しみ続けているんじゃない。
叫び出しそうになるのを堪えて、私は続ける。
「…ええ、これから。私は、この戦争の処理が終って落ち着いたら、倫敦にいくわ。そこでしばらくの間、魔術の研究をすることになる。ねえ、士郎。もし、あなたが魔術の世界に生きるつもりなら、一緒に行かない?」
倫敦。
時計塔。
魔術師の総本山。
本来なら士郎程度の半端者に門戸を開けているほど懐の広いところではないが、彼が望むなら、如何なる手段を使ってもその扉を開かせるつもりだ。
「…いや、遠慮しとくよ」
光のない瞳で私を映しながら、彼はそう答えた。
「そう、残念ね。じゃあ、士郎は何かしたいことがあるの?」
彼は、疲れた顔のまま、心底嬉しそうに笑いながら。
ほんの少しも、嬉しくなさそうに。
己を、痛めつけて。
「…決まってるだろ、この街で兄さんを待ち続けるよ。だって、兄さんが帰ってきたときに、俺がいなかったら、兄さん、きっと悲しむから…」
私は、腰を上げようとした。
立ち去ろうとした。
辛過ぎた。
この場所にいるのは、ほとんど拷問だった。
だから。
なのに。
彼は、続けるのだ。
「…そうだ、凛。もし、死徒化の秘術を発見したら教えて欲しい。…だって兄さんはいつ帰ってくるか判らないんだし、その時まで俺は死ぬわけにはいかないから」
ぷちん、と。
小気味いい、音を立てて。
切れた。
私の中の、何か大事な物が切れた。
もともと弾性に乏しい理性をしているのは自覚しているが、ここまで見事に弾け飛んだのは初めてだ。
胸の奥で生まれた強烈なトルクが、問答無用で私の体を突き動かす。
椅子から腰を浮かせる。
手を大きく振りかぶる。
足を捻ってエネルギーを蓄え、
それを足から腰へ、腰から肩へ、倍加させながら伝える。
目標は、目の前の大馬鹿野郎の左頬。
掌なんて、生易しい場所は当ててやらない。
当てるのは掌の付け根。手首との接合箇所。
掌底。
奥歯の十本や二十本くらいは砕けるかもしれないけど、
そんなことは知ったことか。
だって、お前は私を怒らせた。
腕が鞭のようにしなる。
きっと、私の手は音速を超えた。
彼は呆けた表情のまま。
よしよし、そのまま動くなよ。
ゴキッ
手首に最高の手ごたえが伝わる。
視界に映る彼の顔が大きく歪む。
それは衝撃のせい。
私の涙のせいじゃないぞ、うん。
振りぬいた私の手と同じ方向に、彼の体がすっ飛んでいく。
ついでにカップとソーサーも。
あちゃあ、あれ高かったのよね。
ま、後で直せばいっか。
「―――ふざけるなっ!」
叫び声は、どこか間の抜けた音階で、室内を満たした。
仰向けに倒れた士郎、そのガラス玉の瞳が、天井から吊るされた照明器具を見つめる。
ぼんやりと、そこに違うものが映りこんでいるかのように。
「死徒になりたいなら、私は止めない!でも、その方法くらい自分で見つけろっ!」
つかつかと、彼の前まで歩いていって、襟首掴んで引き起こす。
ぐねんと、一切の抵抗も無く。
人形のように、力なく、そして薄っぺらな体重は。
「―――士郎、あなた、何か勘違いしてない?」
彼を、後ろの壁に叩きつける。
どごん、と、屋敷が揺れた。
同時に、何かが落ちた音がした。
きっと、二階の絵画が外れて落ちたんだろう。
「ごめんなさい、おにいちゃん、あなたをたすけられなかったむりょくなぼくをゆるちて、とでも言いたいの?―――甘えるのもいい加減にしなさい!」
彼の表情は虚ろなまま。
何を言っても、彼の感情は動かずに。
そしてそのまま、緩慢な死を迎えるのだろうか。
彼女は、彼の魂までも、無限の闇の中に連れ去ってしまったのか。
違う。
そんなの、違う。
それは、絶対に、彼女の望みなんかでは、ない。
「あれは仕方がなかったことなの!あなたが何百回やり直しても!絶対に結果は変わらない!それなのに、それなのに、今のあなたは―――!」
排出しきれない感情が胸で飽和している。
言葉が、咽喉のところで詰まって、破裂しそうな錯覚。
言葉が、咽喉の奥で化学変化を起こして、しょっぱい液体に化けそうな感覚。
あの時の、代羽の背中に向けて叫び続けた士郎も、もしかしたら同じような感じだったのかな。
「…出て行きなさい…!今のあなたの存在は、それだけで代羽を侮辱してるわ」
「―――お前に、何がわかる」
床に倒れた士郎は。
ゆっくりと、体を起こしながら。
血走った白目と、錆び色の瞳で、私を射抜きながら。
呪詛の、言葉を。
いいじゃないか。
のぞむところだ。
ここ一週間で、初めて士郎が見せた本当の感情。
それが私への敵意ってのは、大歓迎だ。
「…ええ、私には何もわからない。だって、代羽も言ってたものね。人は人を理解なんてできっこないって」
やっと生まれた士郎の表情に影がさす。
彼女の最後の姿を思い出したのだろう。
それでも、のそりと立ち上がって。
私の前に立ち。
ああ、こいつ。
知らない間に、背が伸びている。
少しだけ、大きくなっている。
私は、嬉しくなった。
そっと、手を伸ばす。
自分でも、何がしたいのかは、分からなかった。
「…兄さんは、人類全てに向けられた呪いを一人で背負ったんだ。あの小さな肩でだぞ。そんなことできるわけないじゃないか!その役目は、俺が代わってやるべきだったんだ!」
彼は、そんな私の手を振り払って、私の胸を突き飛ばした。
後ろによろけて、尻餅をつく。
「俺には、それが出来なかった。だから、俺は兄さんを待つんだ。それしかできないから…。それの、どこが悪い!」
―――ああ。
なるほど。
こいつは本当の大馬鹿だ。
そんなくだらない勘違いをしていたなんて。
「…士郎。多分、代羽が背負ったのは、そんなつまらないものじゃないと思う」
私の口から出たのは、今まで自分自身聞いたことがないってくらい優しい声。
自分で自分が気持ち悪い。
「きっとね、代羽が背負ったのは、たった一つだけの呪いよ」
びっくりしたような士郎の顔。
それを見上げながら、私は続ける。
「ねえ、士郎。代羽の最後の言葉、覚えてる?」
『貴方は、貴方の人生をお歩きなさい』
私は、あんなに尊い言葉を聞いたことはなかった。
おそらく、これからもないだろう。
「…死んだって忘れてやるものか」
「じゃあ、聞くけど、士郎。あなたは今まで、自分の人生を歩いてきたの?」
士郎の表情が凍りつく。
いや、表情だけじゃない。
まるで、彼の周りだけ時間が止まったみたいに、微動だにしない。
「もし、そうなら、きっと彼女はそんな言葉を残したりしないと思う。どうなの。答えなくていいから、真剣に考えてみて」
「俺は―――」
そう言って、士郎はまた動かなくなった。
発条のきれた、からくり人形みたいだった。
「あなたは以前、正義の味方になりたい、って言ってたわよね。それって、あなたが自分で目指した道なの?」
やはり士郎は動かない。
ただ、その視線は、遠い過去を思い出すかのように、或いは失った誰かを悼むように、彼方へと向けられている。
「衛宮切嗣が持った人の手に余る望み、それを引き継いだあなた。きっと、代羽にはそれが我慢できなかった」
驚愕の表情で、士郎が私を見る。
こいつ、こんな顔もできたんだ。
「…なんでそれを」
「ごめんなさい、代羽に、きいたの。―――ねえ、しろおぉ。せいぎの、みかたって、そんなに、いいもの、なのかなぁ…」
駄目だ、涙が堪えられない。
こんなのは魔術師として失格だ。
ぐすぐすと、誰かが鼻を啜る音が、空しく響いて。
彼はそのまま立ち尽くし。
私は、服の袖で涙を拭い続け。
それが落ち着いた頃合、私は大きく鼻を啜って、そして言った。
「…自分を省みないで、困った人を助けて悪を討つ。それは素晴らしいことよね。きっと、みんなが褒めてくれるわ。代羽の行為もまさにそれ。自分を犠牲にして、世界を救った」
まるで、本当の正義の味方みたいに。
彼女が、正義の味方になるべき運命だったみたいに。
「でも、今のあなたに、代羽を褒めてあげることができる?よくやった、って言える?」
士郎は、私から目を逸らす。
それは、億の言葉よりも、遥かに雄弁で。
その、苦悶の表情は。
まるで、呪いに魘される、罪人のようで。
「私の目を見て、士郎。正義の味方の行いは、きっと人類全体から見れば素晴らしいことよ。幸せな人が増えるんだもの。でも、正義の味方に近しい人達にしたら、それは酷い裏切りなんじゃないかな。だって、自分達の幸せよりも、愛情よりも、他の、顔も知らない誰かの幸せのほうが大事だ、って言ってるのと変わらないから」
だから、ほら、あなたはそんなにも苦しんでいる。
自ら犠牲になったものは知りえないのだ。
残されたものの苦しみは、悲しみは、怒りは、絶対に、絶対に―――。
「しかも、その歪んだ憧れは、あなた自身が生み出したものじゃなかった。だから、彼女にはそれが許せなかった」
「…それじゃあ何か、自分で作ったオリジナルじゃないと、理想の一つも持ったらいけないのか」
私は首を振る。
きっと、涙が飛沫となって舞い散った。
「そうじゃないわ、士郎、そうじゃない。彼女はね、あなたが、自分がどんなものに憧れているかも知らずに、ただ、それに憧れているのが我慢できなかったのよ。だから、その身をもってあなたに教えたの、正義の味方がどんなものかを」
「…勝手な推論を並べないでくれ。それは、凛がそう感じただけじゃないか」
苦しそうに、士郎が言った。
御免なさい、士郎。
でも、止める訳にはいかない。
「ええ、その通りね。気に入らないなら聞かなくていい。すぐにここから立ち去りなさい」
冷厳と言い放つ。
でも、きっと今の私の顔は、涙でぐしゃぐしゃで、威厳もへったくれもないだろう。
なのに、彼は動かない。
神の前で審判を待つ罪人のように、頭を垂れて、じっとしている。
「人の想いというものは大きな力を持つわ。それは、比喩じゃなくて魔術と一緒。プラスの方向に働けば、それは祝いになり、マイナスに働けば、呪いになる。そして、代羽はあなたが受け継いだ想いを、呪いと判断した」
「…切嗣の、切嗣の想いが、呪いだっていうのか。切嗣を貶めるなら、いくら凛でも許さない」
勇ましい台詞だ。もしも、表情と内容が合致してるなら。
ねえ、士郎、気づいてる?
今、あなた、ね。
きっと、代羽を、憎んでる。
「切嗣氏を貶めるつもりなんて、毛頭ないわ。彼の想いも、それはそれで尊いものだと思う。ただ、今重要なのは、それがあなたに呪いとして作用したと代羽が判断した、それだけ」
私は酷い人間だ。この上なく傷ついて、ぼろぼろの士郎の心にハンマーを振り下ろそうとしている。
それは、あの歪んだ神父の行いと、何が違うというのだろう。
「だからね、代羽にとって、人類なんてどうでもよかった。アンリマユなんてどうでもよかった。正義の味方なんて、どうでもよかったの。大切だったのは、唯一つ。だって、あの子、いつだってそうだったじゃない」
そうだ。
いつだって。
彼女は、代羽は。
ただ、一人。
ただ一人だけの幸せを、考えて―――。
「なら彼女が背負った呪いが何なのかなんて、考えるまでもないでしょう。それは―――あなたが、衛宮切嗣から受け継いだ呪いだけなの」
士郎の瞳から涙が零れる。
それは、ここ数日続いた狂乱の涙ではなく、ただただ、静かに流れる滂沱の涙。
「でも、もしあなたが今のまま、立ち止まったままなら、あなたは新たな呪いを受けたことになってしまう。他ならぬ、代羽からの呪いを」
私は、知っている。
これが止め。
きっと士郎は私を許さない。
「さあ、士郎、選びなさい」
それでも、言わないわけには、いかないじゃあないか。
「あなたは、あの尊い言葉を」
だって、私は遠坂凛で。
「かけがえのない想いを」
私は、代羽に託されたんだ。
だから。
さようなら、士郎。
「―――醜い呪いにしてしまうの?」
彼は、私の家を飛び出した。
彼はきっと、戻ってこない。
「うあああああああぁぁぁぁぁっっっ!!」
クッションに顔を埋め、声を殺す。
私は、泣いた。大泣きした。
桜が家にいなくて良かった、心の底からそう思う。
だって、今の自分を見たら、桜は必ず抱きしめて、一緒に泣いて、慰めてくれるから。
そんなのは、ミスパーフェクトのプライドが許さないわ。
泣いて、泣いて、泣きつかれて、眠って。
起きたら。
玄関の前に。
あの馬鹿が突っ立っていやがりました。
「…どの面下げて帰ってきたのよ、この馬鹿」
ウサギみたいに赤い目をした私が言う。
「…あれから、一晩考えたんだ。凛の言葉と、兄さんの言葉を」
幽霊みたいな顔色の士郎が答える。
目は落ち窪んで、クマも酷い。頬もこけたままだ。
でも、その瞳には、確かな力強さがあった。
よかった、士郎が帰ってきた。
「もしかしたら、いや、多分、凛の考えと兄さんの考えは違うと思う」
それはそうだ。
昨日の私の話が、全部代羽の想いと一致してる可能性など、砂漠の中から一枚の金貨を探し当てるそれと、ほとんど変わらないはずだ。
もしも、昨日の私の話が、全部代羽の想いと一致してるなら。私と彼女は分かり合えていた、そういうことになってしまう。
そんなのは、多分綺麗じゃないから。
すれ違うくらいで、ちょうどいい。
「―――でも、俺は、凛の言っていることが正しいんじゃないかって、そう思うんだ」
恥ずかしそうに、士郎が言う。
あらら、他ならぬ弟君からのお墨付きをもらってしまった。
「だから、兄さんの言ったとおり、俺は俺の生き方を探してみる。だから、凛。俺を時計塔に連れて行ってくれ」
私の頭の中で、色々な言葉がダンスを踊る。
―――ふざけんじゃないわよ、この遠坂凛を、あれだけ泣かせておいて。
―――あれだけ人を心配させておいて、ごめんなさいの一言も無し?
―――時計塔にアンタみたいなへっぽこを捻りこむ、それがどれだけ難しいか、分かってる?
そんな、不平不満の声に混じって。
一番大きな、声が。
―――士郎、私、貴方を愛してる。貴方が大好き。一生、離さないで!
その声が、私の本心だと。
そう、自覚して。
顔が、目と同じくらいに真っ赤になって。
私は、確信した。
今、はっきりわかった。
こいつは私の天敵だ。
ここまで私の心を乱す存在が現れるなんて、一ヶ月前までは思ってもみなかった。
この恨み、晴らさでおくべきか。
でも、笑顔と一緒に、私の口から飛び出した言葉は。
「ええ、歓迎するわ、士郎!」
ぐうっと、士郎のお腹から喜びの声がした。
私の目と同じくらい顔を赤くする士郎。
「食欲が出てきたのね、感心感心。あがって。何か簡単なものを作ってあげる」
「ありがとう。でも、辛いものは勘弁してくれ、昨日のビンタで、奥歯が二本やられてるんだ」
少し腫れた左の頬をさすりながら、彼が言う。
「あら、たったそれだけだったの。二十本くらいはやっつけるつもりだったのに」
奥歯はそんなにないぞ、と苦笑しながら彼がついてくる。
代羽、私にあなたみたいな真似はできないけど、
きっと彼を幸せにしてみせる。
いつか、あなたと再会したときに、
胸を張ってこう言えるように。
代羽、賭けは私の勝ちね、って。
◇
ぼんやりとした思考が、深い眠りの底から浮かびあがる。
夢を、見ていたようだ。
不思議な夢だった気がする。
そして、何より、暖かい夢だった。
内容は全く覚えていないが、それだけは間違いないだろう。
頬の辺りにむず痒さを感じて、手を当ててみる。
少しだけ、濡れていた。
どうやら、夢を見ながら、涙を流していたらしい。
ならば、きっと兄さんの夢を見たんだ。
少しだけ、嬉しくなった。
そんな、夢を見た。
ゆっくりと、目を開ける。
薄暗い明かりに、人工的な空間が照らされている。
ごうごうと、低く機械が唸る声。
そうだ、俺は今、倫敦へ向かう飛行機の中にいるんだった。
さっきまで見ていた夢を思い出す。
夢の中で兄さんの夢を見る、そんな不思議な夢だった。
もしかしたら本当に涙を流しているんじゃないか。
そう思って頬に手を当てようとしたが、右手も、左手も動かない。
不思議に思って、右を見る。
そこには、俺の手を握ったまま眠る、遠坂がいた。
彼女の胸の中には、すやすやと眠る、一人の赤子が。
もしやと思って、左を見る。
やっぱり、俺の手を抱きしめて眠る、セイバーがいた。
彼女の胸の中には、すやすやと眠る、一人の赤子が
幸せそうに。
本当に、幸せそうに。
頬の辺りにむず痒さを感じるけど、これじゃあ確かめられない。
だから、きっと涙は流れていない。
だって、俺がそう決めたんだ。
◇
聖杯戦争が終わった後の一週間、俺は抜け殻だった。
俺が立ち直れたのは、完全に凛のおかげだ。もしもあの時のビンタがなければと思うと、背筋を冷たいものが走り抜ける。奥歯の一本や二本くらい、安いものだろう。
ただ、奥歯をへし折った次の日の朝に、泰山級の麻婆豆腐を食べさせるのはどうかと思うぞ、凛。
その日のうちに、俺と凛は、柳洞寺へと向かった。
立ち入り禁止の黄色いテープを乗り越えて、森に分け入った俺達の目に映ったのは、まるで巨大な隕石でも落ちたかのように陥没した裏山だった。
「…どうだ、大聖杯の気配を感じるか」
自然と声が小さくなる。
凛は首を横に振って、やはり小さな声で答えた。
「…いいえ、大崩落の直後と一緒。やっぱり、魔術的な気配は全く感じない。ここであれだけの大儀式が行われたなんて信じられないくらい、マナの気配が薄いわ」
これだけの規模の陥没だ。
あの大空洞に降り注いだ土砂は、おそらく数万トンを超えるだろう。
総じて、魔術の装置はデリケートなもの。まして、魔法に近い奇跡を成そうとしたほどの大魔術の装置が、それだけの圧力を受けて正常に作動するとは思えない。
きっと、もう二度と聖杯戦争は起きない。
これは、只の勘だが、俺はそう確信した。
「…呆気ないものね」
遠坂が、そう呟いた。
きっと、俺と同じことを考えたのだろう。
◇
その二日後、病院から桜が帰ってきた。
綺礼にやられた傷は決して浅いものではなかったが、そこは刻印を受け継いだ魔術師。一般人とは比較にならないほどの回復力だ。
顔に多少の腫れが残っているものの、ほとんどの傷は完治している。
ただ、一目で異常に気付く。
彼女の自慢だった、豊かな胸。
その片方が、姿を消していた。
「…私の宝具で、元に戻ると言ったのですが…」
セイバーの呟きに、桜は苦笑で返す。
「ランサーは、そのままでも綺麗だと、そう言ってくれました。それに、この傷は遠坂の当主として初めて負った傷ですから、私の誇りなのです。治すとしても、私の力で治癒させたい」
その声は、どこまでも誇り高く、冒し難く。
彼女の成長を窺わせるのに、十分過ぎる程だった。
大空洞での死闘の決着と、兄さんとの別れ。
目を閉じたまま、桜はじっと俺の話を聞いてくれた。
桜は結局、最後まで代羽と和解をすることは出来なかった。
果たして、そのことを悔やんでいるのか、否か。
静謐に満ちた少女の顔からは、一切の感情は読み取れない。
それでも、全てを聞き終わったあとで、桜はこう言った。
にこりと、全てを許すかのように。
「―――でも、先輩が生きててくれて、私は救われました」
その言葉を聞いて、不覚にも涙が溢れた。
涙もろくなったと思う。
でも、それが不快じゃない。
その後で、凛と桜の喧嘩が始まった。
俺が熱い日本茶を飲めないのを訝しんだ桜に、凛が俺の奥歯を叩き折ったことがばれたのだ。
「ひどい、姉さん!」
「あれは仕方なったのよ!」
はじめはそんな言葉のやりとりだったのが、
「ずるい、姉さん!」
「アレは私のものよ。…って、だいたいあんたにはランサーがいるじゃない!」
「それはそれ、これはこれです!」
に変わっていったのはきっと気のせい、多分気のせい。
凛の妊娠と、出産への覚悟。
予定日は在学期間中であるため、当然、俺と凛は学園を退学しなければならない。
だから、出産が終って少し落ち着いたら、俺たちは一緒に時計塔へ留学するつもりだ。
その話を聞いた桜は、
「そんなの、抜け駆けは絶対に許しませんっ!」
と、どこかの虎のように吼えまくった。
しかし、代羽の想いと俺の決意を聞いた桜は、一年後に自分も合流することを条件にしぶしぶ引き下がった。
桜の魔術属性は虚数。それは戦闘よりも、むしろ研究方面で貴重な戦力となるだろう。五大元素の凛との相性は最高のはずだ。
凛は嫌そうに顔を歪めようとして、失敗していた。どうしても笑みがこぼれてしまうらしい。
きっと、この二人はいつまでもぶつかりながら、仲良くやっていくのだろう。
俺達の話を、如何にも興味がないといった素振りで聞いていたランサーが、大きく欠伸をした。
◇
半年後にイリヤが倒れた。
もともと、短命というホムンクルスの宿命を持っているうえに、無茶な改造によって魔術回路を増やされていたのだから、体にガタが来るのは当然といえた。
あらゆる手を施したが、イリヤの体は一向に回復の兆しを見せない。
もはやこれまで、誰もが諦めかけたその時にセイバーが持ってきたのが、とある芸術展のパンフレットだった。
後になって思う。セイバーが幸運A+で、本当に良かったと。
「最後に、士郎とデートがしたい」
安静にしていることを主張する俺に、イリヤはこう言った。
「…私だけ、何にも持たないであっちに行くのは嫌」
その言葉で、俺は折れたのだ。
結局、デートのコースは、セイバーの持ってきたパンフレットに載っていた芸術展にすることにした。遊園地なども考えたが、子供っぽいとイリヤが嫌がったのだ。
無名の作者が多いゆえか、人も疎らな館内。
剣以外の芸術にはとんと疎い俺だが、素人目にもこの芸術展は素晴らしいものだった。一人として聞き知った名前の無い作者、その造詣したあらゆる作品が、美、あるいは醜を体現していた。
それらは、俺よりもはるかに芸術に慣れ親しんだイリヤにも大きな感銘を与えたらしく、家での衰弱した様子が嘘のように、明るく元気だった。
そんな俺達が、思わず足を止めてしまったのが、やはり無名の作者が作った人形、そのケースの前だった。
すごい、俺はそう思った。
剣を構えた古代ギリシャ石像風の人形は、まるで今まさにメデューサの束縛を打ち破り動き出さんとしているかのように、生気に満ち溢れていた。
イリヤも俺も食い入るように、その人形を眺めていた。だから、後ろから人が近づいてくるのには気づけなかった。
「―――気に入って頂けましたか」
驚いて振り向いた俺の前に立っていたのは、全身を黒一色の服装で包んだ、優しげな青年だった。
年の頃は俺よりも幾つか上だろう。少し眺めの前髪で、片方の目を隠しているのが印象的である。
「すみません、驚かすつもりはなかったんです。それは、うちの所長が半年ぶりに作った作品でして、私としても、感慨深い作品なんです。気に入って頂けたようでしたら、とても嬉しいです」
遠い目をする青年。きっと彼も苦労が多いんだろう。
どんな人がこの作品を作ったんだろう。興味を覚えた俺は、彼に尋ねた。
「あの、これを作った人って」
「ああ、それは」
「―――私だ、魔術師の少年」
ぎょっとして、声のした方向に体を向ける。
そこにいたのは、鮮血を思い起こさせる緋色の髪をした、綺麗な女性だった。
「ふむ、自分の作品の展示会など、めったに来ることなど無いのだが、今日は見事にはずれらしい」
ふぅっと、煙をふきだすと、彼女は持っていたタバコで空中に不思議な文字を書き始めた。
まるで、それと感じさせることがないくらいに流麗な魔術行使。
それだけで、目の前の女性が超一流の魔術師であることが分かる。
そして、その冷たい殺意も。
「ああ、心配をする必要はない。すでに遮音結界も張っているし、人払いも完了済みだ。これからお前達がどんなに泣き叫んでも、助かる術はない」
だから、と、彼女は言った。
「楽に死にたければ、さっさと吐いてしまうことだ。誰に頼まれてここに来た」
戦慄が、体を走り抜ける。
これは、あの灼熱の二週間で、嫌というほど味わった、あの感覚。
死。
「投影、開―――」
「駄目、逃げて、士郎」
イリヤが俺の前に出る。
痩せ細った小さな肩が、やはり小さく震えていた。
「ほう、ホムンクルスとは、また懐かしいものを見る日だな」
魔術師が軽く目をみはる。
一目でイリヤがホムンクルスだと見抜いたのか。
「しかし、惜しいな。素材は申し分ないが、工程がお粗末過ぎる。私なら、はるかに素晴らしい作品に仕上げることが出来るのだがな」
「…へえ、アインツベルンの魔術の粋である私を見て、不良品というのね。流石に、封印指定の人形師は言うことが違うわね、蒼崎橙子」
イリヤは魔術師を睨みつけながら、そう言った。
アオザキトウコと呼ばれた女性が、苦笑する。
「ふむ、やはり追手か。依頼主は教会か?それとも協会か?」
アオザキ、あおざき、蒼崎。
どこかで聞いた名前だ。
そう、あれは遠坂の講義のときに―――。
「…あんたが、あの蒼崎橙子なのか」
俺は、彼女にそう尋ねた。
蒼崎橙子は、全く感情を浮かべない瞳で、俺を射抜く。
それだけで心臓を鷲掴みにされたような圧迫感を憶える。
「わざとらしいな、少年。しかし、質問には答えよう。その通り、私がその蒼崎橙子だよ」
その言葉で、俺の理性は弾けとんだ。
「駄目、士郎っ」
イリヤの制止の声を振り切って、
呆気に取られていた、黒衣の青年の脇を走り抜けて、
緋色の髪の魔術師の前に立ち、
額を地面に擦りつけた。
「頼む、イリヤを助けてくれ!」
◇
一頻り腹を抱えて笑った後、橙子さんは言った。
「なるほど、これは謝罪をしなければならないらしい。訂正しよう、君達は追手などではないな。なぜなら、追手はその対象の目の前で、突然土下座などはしないものだ」
くつくつ、となおも彼女は笑い続ける。
橙子さんの後ろできょとんとした表情を浮かべる幹也さんが、少し印象的だった。
「しかし、彼女を助けるとはどういうことかな。よければ話してみろ」
◇
「―――なるほど、確かに私なら彼女を助けることが可能だな」
事も無げに、橙子さんは呟いた。
「本当ですか!それじゃあ―――」
「まあ待て。これはビジネスの話だ。確かに私は彼女を助けることが出来るが、それはただではないぞ。魔術だろうが、ビジネスだろうが、等価交換が世界の原則だ」
橙子さんが出した条件は3つ。
一つ、単純に金銭。ゼロが八つもついていたこと意外は単純といえる。
一つ、聖杯戦争に関する克明なデータ。
一つ、英霊であるセイバーとランサーの身体を調査する権利。
これらが、イリヤの新しい身体の対価として要求されたものだ。
金銭に関しては、凛が何とかしてくれた。
といっても、その金銭はもともと凛のものではない。
断絶したマキリの財産を凛が取得したものだ。どうやらこれはセカンドオーナーとしての正当な権利らしく、凛はほくほく顔で『当然の権利よ!』と言っていたが、俺は少し怪しいと思っている。
それでも、本家と縁の切れたイリヤが助かるためには凛の力が必要だったことは間違いない。
すまない、そういう俺を一通りいじった後で、凛はこう言った。
「代羽も、こういう使い方なら納得するはずよ」
苦笑しながらそういった凛の横顔はとても綺麗だった。
◇
二つ目の条件である聖杯戦争のデータに関しても、協会に知らせないことを条件に凛が提供した。協会には俺と代羽を存在しないものとして偽造したデータを提出しているので、それがばれると査問される恐れがあるのだ。
ただ、それでも俺の能力に関する事項だけは隠していたが。
それを受け取った橙子さんは、一通り目を通してから、忌々しげにこう言った。
「…私を馬鹿にしているのか。なるほど、どうやら本気で妹を助けるつもりは無いらしいな」
彼女にしてみれば、俺の能力が隠されたままの内容になっていることなど一目瞭然だったようだ。
俺は、真摯に謝罪した後、凛、桜とイリヤの制止を無視して、こう唱えた。
「投影、開始」
◇
「何か、異常な能力を持っていることは気づいてたけど、まさか固有結界持ちとはねえ…。あなたの調査も条件に加えておけばよかったわ」
眼鏡をかけた橙子さんが、悔しそうに溜息を吐く。
凛、桜とイリヤは、俺のことが協会にばれることを心配していたようだが、橙子さんはその心配を一笑に付す。
「私だって封印指定を受けてるのに、あなたのことを密告してどうするのよ。いまさらポイント稼ぎしたってもう遅いでしょう」
よく分からないが、どうやら、俺のことは見逃してくれるらしい。
◇
最後の条件であるセイバーとランサーの身体の調査に関しては、精神的、肉体的な苦痛を伴う調査をしないという条件をつけて、認めることになった。
ランサーは面倒臭そうに頭を掻き、『しゃあねえな』と、そう呟いた。
セイバーは、『イリヤスフィールが助かるなら、どんな苦難でも耐えて見せます』と、言ってくれたが、セイバーが良くても、俺が良くない。
しかし、橙子さんは、すんなりとその条件を飲んでくれた。
そもそも、橙子さんレベルになると、解剖や洗脳といった下種な手段を使わなくても精緻な検査は可能らしい。
「ありがとう、これで新しい人形のためのデータが揃ったわ!」
二人のサーヴァントの手を取る彼女の顔は、正しく喜色満面といった風情。
もしかしたら、サーヴァントクラスの戦闘能力を持つ人形を作るつもりなのだろうか。ありえないことと思いつつ、彼女ならやりかねない、とも思う。
「予想外の成果、貴方たちのおかげよ。だから、これはサービス。売り払うなり実験材料にするなり、好きになさい」
猫のように機嫌のいい橙子さん、からの素体をイリヤの分以外に、更に一体を寄越してくれた。
果たしてどうしようか、そう腕を組む俺たち。
しかし、桜が猛烈にその所有権を主張する。
俺と凛は、その迫力に飲まれて、なんだか分からないうちに首を縦に振っていたのだ。
「ふふふ、これさえあれば、私も…」
彼女は下腹を摩りながら、嬉しそうに呟いた。
ランサーが、少し青い顔をしていた。
◇
ともあれ、イリヤは助かった。
歪なまでの魔術回路の数と引き換えに、人並みの寿命と成長する体を手に入れた。
まるで魂の成長に新しい身体が追いつこうとするかのように、イリヤは急激に成長した。あんなに小さかった体も、今では俺の身長に追いつこうとしている程だ。
「これで名実共にシロウのお姉ちゃんね」
完成された女性の色香を身に纏わせながらイリヤは微笑んだ。
もとの、子供の身体の時でさえ不可思議な妖艶さを漂わせていたイリヤである。身体が心に追いついた今、その破壊力は計り知れない。
凛は成長したイリヤの姿、特に胸部を見ながら『あの時、成長にリミットのかかる特殊な人形を頼んでおけば…』などと不穏なことを呟いていたのだが。
「イリヤはこれからどうするんだ」
季節は既に真冬。
相変わらず寒さに弱いイリヤはコタツの住人となっていた。
うつ伏せに寝転がり、雑誌を読みながらミカンを食べているその姿はお世辞にもレディとは言いがたいが、それでもどこかに気品のようなものが感じられる。
「もしよければ、凛や俺と一緒にロンドンに行かないか。凛も口ではああ言ってるけど、本当はイリヤのことを心配してる」
イリヤは勢いよく体を起こし、向かいに座った俺を正面から見据えてこう言った。
「ありがと、シロウ。でも、とりあえず時計塔に行くつもりはないわ。あそこは実家に近いから、どんな揉め事に巻き込まれるか分かったもんじゃないし」
コタツに肘をつきながらイリヤは続ける。
「それに、せっかくの凛とシロウの新婚生活を邪魔するつもりはないわ。ええっと、なんていったかしら、そう、他人の恋路を邪魔して馬に蹴られるのは遠慮したいから」
それはそれで楽しそうだけど、と付け加えてイリヤはニタリ、と笑った。
それは、本当に蠱惑的で、何かの間違いがあれば二重の不義を犯してしまう様な笑みである。
「あまり先のことはわからないけど、当分の間は橙子のところで世話になるつもり。だから、シロウの恋路の邪魔をするのはサクラとセイバーに任せるわ」
少し残念ではあったが、それは十分に予想された返答だった。
イリヤは新しい体を手に入れてから、幾度となく[伽藍の堂]に足を運んでいた。
主な理由は体の調整であり、事実、橙子さんからも一月に一度は診察を受けるように言われていたのだが、イリヤは週に2・3回は[伽藍の堂]を訪れるようになっていた。
どうやら、[伽藍の堂]の事務員である黒桐さんをめぐって特殊な三角関係が形成されており、それを混ぜっ返すのが楽しくて仕方ないらしい。この点、先ほどの『他人の恋路』のくだりの発言と矛盾していないこともない。
自分勝手な寂寥感を憶えてしまうが、イリヤも自分の歩くべき道を探し始めているのかもしれない。
「とにかく、私はもう大丈夫。安心して行ってらっしゃい。でも、絶対帰ってきてね」
今まで見た中で、一番暖かく、一番大人びた微笑を浮かべたイリヤはそう言った。
◇
「―――起きなさい、そろそろ着陸よ」
左肩を揺すられて、俺は目を覚ました。
ぼやける視界に映るのは俺の最愛の人。
ああ、そうか、俺は。
「―――夢を、見ていたよ、凛」
ほんの少しだけ怪訝そうな表情を浮かべた彼女は、労るように、優しく微笑む。
彼女の手には、新しい、小さな命。
すやすやと、安らかな寝息をたてる。
それは、俺の右側に座ったセイバーの胸の中でも、同じように。
俺と凛、二人の存在を受け継ぐ、新しい命。
この子達の出産には、嫌がる凛を押し切って、立会わせてもらうの許可をもらった。
苦悶の叫びを上げる凛の手を握り締め、それを励まし続ける。
都合半日以上に及んだ初産の末、火がついたような泣き声を聞いたときは涙が止まらなかった。
そんな、命達。
つい二ヶ月前まで、この子が凛のお腹の中にいたなんて、正直信じられない。
「…ユキも、サチも、ご機嫌だな。これから違う国に行くっていうのに」
「頭のいい子達だから。きっと、自分たちが守られてるって気付いてるのよ」
親馬鹿と、そう受け取ることも出来る、凛の言葉。
彼女は、自分のお腹を痛めて産んだ二人の女の子に、一つの文字から分かたれた異なる読み方の名前を与えた。
幸。
ただ、幸福であってほしいと。
人の親ならば誰でも願う、それは切たる想い。
魔術とか、起源とか、そういうくだらないことを全て振り払った、純粋なる願い。
それは、やはり祝福と。
そう呼べるものなのではないだろうか。
父親になった実感も伴わない俺は、シートに深く身を沈める。
そんな俺を見て、俺の奥さんは苦笑した。
「…きっといい夢だったのね。幸せそうな顔をしてたわ」
自分の寝顔を見られていたことに軽い羞恥を憶えつつ、俺は答えた。
「…あの二週間のこと、それからのことの夢を見てた」
凛は微笑を浮かべたまま、形のいい眉を寄せた。
「…代羽のことを思い出してたの?」
俺のことを気遣う表情。
勝気な表情が一番美しい凛だが、こういうのも悪くない、と思う。
「―――ああ、兄さんのことも、思い出してた」
凛の瞳から視線をはずし、正面の座席を見つめる。
思い出すのは最後のとき。
しゃんと背筋を伸ばし、一歩一歩絶望へと歩を進める背中。
「…兄さんはあの時、いつもみたいに笑ってたのかな」
「そうに決まっています」
呟くような問いに答えたのは、凛ではなく、俺の右側で座っていたセイバーだった。
その小さな手で、それよりも更に小さな命をあやしながら、それでも毅然と言い切る。
「彼は、いえ、彼女は誇り高い。私の知る高名な騎士たちと同じく。そして、誇り高い騎士たちは自らが死地に赴くとき、必ず不敵な笑みを浮かべていたものです。だから、代羽もきっと笑っていた。私は確信しています」
凛は、大きく頷いた。
「ええ、私もそう思う。悲壮な顔を浮かべた代羽なんて想像もつかない。怯えた顔は言わずもがな、ね」
「―――そっか」
短く呟いてから、俺は目を瞑った。
大きく息を吐き出して、そして思う。
兄さんがあの時微笑っていた。
それは間違いない。
誰が否定しても、俺は知っている。
ただ、凛が、そしてセイバーが同じ考えでいてくれたことに、安堵した。
兄さん。
私はこの素晴らしい恋人と、最高の友人と一緒に、あなたの生きた場所を訪れてみます。
優しい世界が待っているとは思っていません。
上り坂ばかりかもしれない。
傷つき、倒れることもあるでしょう。
もしかしたら、これはあなたの望む生き方とは、違う道なのかもしれません。
でも、あなたが最後に示してくれた通り、私は私の人生を歩いてみようと思います。
だから、少しの間。
ほんの少しの間だけ。
あなたの影に縋ることを、どうか赦してください。
兄さん。
私を助けてくれた兄さん。
私だけの味方だった兄さん。
おそらくは今も殺され続けている兄さん。
あなたがいたから私は生きている。
あなたのおかげで私は歩いてゆける。
だから、兄さん。
あなたが残してくれた祝福は。
確かに、私の中に息づいています。
『間もなく当機は着陸態勢に入ります』
安全確認の機内放送が流れる。
もうすぐ俺は異国の地に降り立つ。
俺は、これからどういう道を歩くのだろうか。
凛たちと共に、魔術師として一生を送るのか。
やはり正義の味方として、不毛の野に水を撒き続けるのか。
それとも、それ以外の生き方を見つけるのか。
先のことなど、わからない。
ただ、俺は自分を救ってくれた人達に恥じない生き方を選びたい。
「士郎、いよいよね」
遥かに開けた前途に興奮気味の凛。
「……」
着陸の瞬間に備えて心もち緊張したセイバー。
俺は少し苦笑して、シートベルトを締めた。