FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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Last epilogue FATE/IN THE DARK FOREST

 切り殺されるのは、もう慣れた。

 

 縊死は、思ったよりも心地いい。

 

 墜落死には、快楽すら覚える。

 

 焼死は、まだ少し辛い。

 

 凍死は、懐かしい夢を見ることが出来るから、待ち遠しい。

 

 餓死には、何の感慨も浮かばない。

 

 病死は、ものによりけりか。

 

 一番嫌なのは、枯死だろうか。己の小便すら啜りながら干乾びるのは、何度体験しても筆舌に尽くし難い苦しみだ。

 

 それでも、粗方は、慣れた。

 

 最初はその数も数えていたが、途中で疲れて止めてしまった。

 

 だから、この死が幾度目の死なのか、良く分からない。

 

 そもそも、人は60億という数を数えることが出来るのか。

 

 ありとあらゆる死を、経験した。

 

 

 鋭い矢尻が胸に突き立った。

 

 巨大な歯車に巻き込まれた。

 

 肺を海水が満たしていった。

 

 硫酸の海に突き落とされた。

 

 人柱として生埋めにされた。

 

 

 愛されながら、殺された。

 

 犯されながら、殺された。

 

 憎まれながら、殺された。

 

 蔑まれながら、殺された。

 

 笑われながら、殺された。

 

 

 物のように、壊された。

 

 獣のように、屠された。

 

 虫のように、潰された。

 

 屑のように、貶された。

 

 女のように、姦された。

 

 

 塵みたいに、死んだ。

 

 理のように、死んだ。

 

 蛆が涌いて、死んだ。

 

 骨が溶けて、死んだ。

 

 無になって、死んだ。

 

 

 狂喜の涙があった。

 

 憤怒の涙があった。

 

 後悔の涙があった。

 

 快楽の涙があった。

 

 恍惚の涙があった。

 

 

 槍に、貫かれた。

 

 剣に、削られた。

 

 斧に、砕かれた。

 

 槌に、潰された。

 

 手に、縊られた。

 

 

 目を潰された。

 

 鼻を削がれた。

 

 舌を抜かれた。

 

 指を裁たれた。

 

 膣を焼かれた。

 

 

 苦しかった。

 

 悲しかった。

 

 寂しかった。

 

 悔しかった。

 

 厳しかった。

 

 

 笑われた。

 

 嗤われた。

 

 哂われた。

 

 嘲われた。

 

 蔑われた。

 

 

 尊厳死。

 

 安楽死。

 

 感電死。

 

 轢断死。

 

 圧搾死。

 

 

 幻痛。

 

 苦痛。

 

 激痛。

 

 鈍痛。

 

 疼痛。

 

 

 怖

 

 痛

 

 痒

 

 辛

 

 眠

 

 い

 

 

 ああ、辛かった。

 ああ、苦しかった。

 そして、それ以上に。

 痛くて、痛かった。

 

 辛いんだろうな。

 苦しいんだろうな。

 そして、それ以上に。

 痛くて、痛いんだろうな。

 

 

 死んだ。

 何回も、死んだ。

 死、その単語が軽くなる程度には、死んだ。

 己の不死が疎ましくなって、でもそれが愛おしくなって、またそれが憎憎しくなるくらいには、死んだ。

 

 死ぬのだろう。

 何回も、死ぬのだろう。

 死、その単語を忘れるほどには、死ぬのだろう。

 己の不死すら無意味になって、それを憎むことすら忘れて、この上なく後悔するくらいには、死ぬのだろう。

 

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 殺されるために、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 辱められながら、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 何の目的も無く、生き返って。

 

 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。

 

 それでも、ただ、生き返って。

 

 

 いい加減、私が私であることに嫌気が差してきたとき。

 世界に囚われた彼の気持ちが、欠片程度には理解できたとき。

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

「はろー、はろー、俺の声が聞こえてますかぁ?」

 

 声。

 

 それが声と呼べるものであることに、やっとの思いで気がついた。

 

「聞こえるなら返事してよ。無視されたら傷ついちまう。これでも、俺ってば、繊細なのよ?」

 

 無茶を言う、と思う。

 

 一体何回殺されたか知らないが、その間私の喉は、断末魔の叫び声を上げる以外の機能は放棄していたのだ。

 

 人の言葉など、話せるはずが無いだろう。

 

「あ、なるほどね。そりゃあ百万回も殺されれば、言葉の一つも忘れるよねぇ」

 

 そうか。

 

 私は、百万回、殺されたか。

 

 ひょっとしたら、絵本にある猫みたいに。

 

 あと、一度殺されれば、私はこの苦痛から解放されるのかもしれない。

 

「ぶっぶー、外れでーす。俺がそんな簡単に許すと思う?あんたのせいで他の奴らを殺せなくなっちまったんだからさ、きっちりあと59億9千9百万回は死んでいってよ」

 

 ずいぶんと軽く言ってくれる。

  

 百万回の死、それだけで、私の自我はずいぶんと削り取られてしまった。

 

 おそらく、あと十回も死ねば、もっと致命的な何かが砕け散るだろう。

 

「でもさ、正直言うと、ちょっと飽きちゃったんだよね、同じ人間を何回も殺すの」

 

 なら、解放してくれればいいのに。

 

「やだよう、せっかく手に入れた玩具なんだから、骨の髄までしゃぶり尽くさないとねえ」

 

 なら、さっさと殺せばいいでしょう。

 

「でもね、さっきも言ったように、ちょっとだけ飽きちゃったわけなのですよ、これが」

 

 じゃあ、一体どうしたいのですか?これでも、暇ではないのですが。

 

「だから、提案です。俺と一緒に、ここで生きてよ」

 

 ―――。

 

「殺さないからさ。優しくするからさ。俺と一緒に、いてよ」

 

 あなたは、寂しかったのですか。

 

「うん。寂しかったし、辛かったし、怖かったよ。だから、ここにいてくれよ」

 

 あなたは、私と同じ苦痛を味わってきたのですね。

 

「多分、そう。でも、あんたがいてくれれば、救われる。だから、お願いだから、ここにいてください」

 

 嫌です。

 

「―――」

 

 私には、待ってくれてる人がいますから。

 

 ここであなたを愛するわけには、いかないのです。

 

「じゃあ、一生ここから出さないぜ?」

 

 それでも、です。

 

 私には、待っていてくれる人がいます。

 

 それだけで、私には生きる価値がある。

 

 それだけで、人は生きていていいのです。

 

「じゃあ、俺には生きる価値無し?ちぇ。あんた、結構ひどい奴なんだなぁ」

 

 今頃気付きましたか?

 

「もう、いいや。もう、いい。飽きた。飽きちゃったからさ、やっぱりあんた、外に出ていいよ」

 

 …意外に、あっさり、なのですね。

 

「でもさ、外にいいことなんて、何一つないぜ。ここならあんたは諦められるだろ?でも、外は悔しいことばかりだ」

 

 もう、慣れましたから。

 

「優しいことなんて何一つなくてさ。苦しいことばかりでさ。死ぬより、辛くてさ。それでも、外がいいのかい?」

 

 きっと、そこが私の居場所ですから。

 

「世界に忘れられてても、かい?」

 

 私は、覚えています。

 

 それで、十分でしょう。

 

「くそ、じゃあ、とびっきりの悪夢をプレゼントだ。せいぜいのたうち回んなよ。腹を抱えて笑ってやる」

 

 あなたは、結構、優しい人だったのですね。

 

「今頃気付きました?遅すぎるよ、あんた」

 

 私は、待っていますよ。

 

「何を?誰を?救いを?ひょっとして、神様とか?」

 

 貴方を、待っています。

 

「はあ?」

 

 私が、貴方を待っています。

 

「…意味、わかんねえ」

 

 だから、貴方も。

 

「…やめてくれ。下手な慰めは、踏み躙られるより残酷だ」

 

 知っています。だから、貴方を待つのです。

 

「俺は、ゼロだ。無だ。もとから存在しないものは、どうやったって存在できない」

 

 だが、貴方はこうして私と会話している。貴方が完全な無ならば、その矛盾をどう弁明しますか?

 

「それに、この世界は俺そのものだ。どうやったって、切り離せない」

 

 ならば、貴方はこの世界ごと、外に出ればいい。

 

「…正気?それって、俺が生まれるって事だぜ?世界が滅びちゃうよ?」

 

 その程度で滅びる世界なら、滅べばいい。

 

 もっとも、世界は、そして人間は、それ程弱くはないでしょうが。

 

「…あんたは、それを止めるために、馬鹿みたいに殺され続けたんじゃないのかい?」

 

 そうですね。あのように醜悪な貴方が人を殺すのは、母として流石に辛かった。

 

「じゃあ―――」

 

 だから、私が貴方を生みましょう。

 

「―――」

 

 私の子宮で貴方を慈しみ、この手で貴方を取り上げましょう。

 

「―――」

 

 私の乳で貴方を育て、この手で貴方の頭を撫でてあげましょう。

 

「そんなこと、不可能だ」

 

 まだ、パスは繋がっている。あとはやる気の問題です。

 

「…大聖杯も壊れちゃったんだからさ、世界を飛越えるようなもんだぜ、それって。やる気一つで何とかなるもんかなぁ」

 

 私の息子なら、何とかしてみなさい。

 

「………はっ」

 

 私の娘なら、何とかしてみせなさい。

 

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

 

 泣き言など、許しません。もし、貴方が私と共にありたいのなら―――

 

「くくっ、わかったよ、あんたの覚悟は、よーくわかった」

 

 幸いです。

 

「努力は、してみるよ。だからさ、あんたも―――」

 

 ええ、精一杯、励みましょう。

 

「うわ、普通、女がそんなこと、言う?慎みってもん、覚えたほうがいいぜ?」

 

 残念ながら、誰も教えてくれませんでした。

 

「じゃあ、俺がたっぷり教えてやるよ。覚悟しとけ」

 

 ええ、覚悟しておきましょう。

 

「いい名前、考えておいてくれよ」

 

 歯が溶けるくらい、大甘なものを用意しておきます。

 

「…程々がいいなあ」

 

 この件について、貴方の意見は聞きません。

 

「ひでえ。人権侵害だ、それって」

 

 親の特権です。

 

「そんなもんかなぁ」

 

 そんなものです。

 

「それじゃあ」

 

 ええ、それでは。

 

「また、会おうな、お母さん」

 

 ええ、いずれ、また。―――アンリマユ。

 

◇ 

 

 私は、今、生まれた。

 

 今の私は誰なのだろう。

 

 ヨハネか、それともシロウか。

 

 おそらくは、両方が正解、全てが誤り。

 

 昼間のように明るい闇の中で、自分の髪に触れてみる。

 

 それは、紫がかった黒でもなく、

 

 蒼穹のような蒼でもない。

 

 燃えるような、血のような赤毛。

 

 それは、彼の髪の色。

 

 本当の、私の髪の色。

 

 そして、私の大好きな色。

 

 あの夜から、いったいどれくらいの時が流れたのか。

 

 無限の死を味わった。

 

 同じ数の生を授かった。

 

 少なくとも短い時間ではなかったはずだ。

 

 長い、長い、産道だった。

 

 彼の名前すら思い出してしまうほどに。

 

 私の、弟。

 

 ――― (やしろ) 。

 

 まあ、いいか。

 

 私が成すべき事は決まっている。

 

 まずは遠坂をからかって。

 

 あの子にただいまを言って。

 

 ああ、それも、どうでもいい。

 

 今はただ、

 

 彼らに、

 

 会いたい。

 

 

 月の綺麗な夜だった。

 寺の夜は早い。いつもならとっくに布団に入っている時間である。

 それでも、今日は眠れそうにない。

 

 人が、多すぎる。

 

 悲しげに俯いた人が、気丈に胸を張る人が、それでも物陰で嗚咽を堪える人が。

 

 声が、多すぎる。

 

 涙を堪える声が、涙を噛み殺す声が、地に伏し涙を垂れ流す声が。

 

 そのいくつかは、おそらく私のものだ。

 この職についてから、人の死に涙を流すことが少なくなった。

 人の死を慰め、その魂が迷わぬように仏の御許に送り届けるのが、その職のあり方だから。

 それでも、今日くらいは泣いてもいいと思った。

 だから、一人で泣くことにした。

 坊主が泣き顔を見られるのは、如何にも格好が悪い。

 それに、かの人は仏の御許に旅立たれたのだ。

 ならば、これは悲しいことではないはず。

 だのに、この瞳からは涙が止まってくれない。

 だから、私は一人で泣くことにしたのだ。

 

 なんとなく、落ち着かずに、外に出た。

 

 寺のすぐ裏手にある、鬱蒼とした森。

 曽祖父の時代に出来たという、奈落のような大穴は埋め立てられて、今は綺麗なものだ、

 覚束ない足元を気にしながら、瞳の熱さが癒えるのを待つ。

 

 空を見上げる。

 

 そこには、兎が戯れる、丸い月。

 ひょっとしたら、あの方もあそこに旅立たれたのだろうか。

 あそこで、兎と一緒に餅をついているのだろうか。

 その無邪気な光景を幻想して、何時間か振りに笑みが生まれた。

 苛烈な、あまりに苛烈な一生を送られた方だった。

 ならば、死後とはいえ、その程度の余暇があってもいいのではないだろうか。

 そんなことをつらつらと思考しながら、ぶらぶらと歩いた。

 

 暗い、道である。

 

 満月に照らされているとはいえ、灯り一つ持たぬ身で深夜の森を歩くのは、やはり愚行だったのだろう。

 必然、何かに足を取られた。

 おそらく、張り出した木の根か何かだろうか。

 止まった呼吸と、前に崩れていく体。

 咄嗟に手を出す。

 きっと、擦り傷くらいは拵えるだろう。

 その無様に、心中で苦笑したとき。

 誰かが、私の肩を、掴んだ。

 細い、小さな手。

 それが、私を救ってくれた。

 思わず振り返る。

 木々の枝から、漏れ来る、月の光。

 それに照らし出された、一角の荒地。

 

 そこには、少女が、いた。

 

 満月に誘われて森に立ち入ったのが私の気まぐれなら、そこに彼女がいたのは運命だろうか。

 

「―――かたじけない」

 

 私の言葉に、少女はただ微笑むばかり。

 その口元に湛えられた微笑に、人外の何かを感じ取ったのは、おそらく私の不徳の致すところだろう。

 これほど穏やかに笑むことが出来る人など、私はかの人以外、知らぬというのに。

 姿勢を正し、少女と対する。

 

「しかし、こんな時間にどうされた。女性が一人で出歩いてよい時間ではないぞ」

「…あなたは」

 

 少女が、尋ねる。

 初めて聞く、声。

 擦れた、まるで初めて口にしたような彼女の声が、どこか懐かしい。

 そして、その姿。

 一糸纏わぬ裸体が、月光を従える。

 女性のみが持ちうる、優美な曲線。 

 豊満な乳房。

 腰まで届くような絹髪と、長い手足。

 右の耳に、場違いな銀の装飾品。あれは、愛しい人からの贈り物だろうか。

 しかし、何より目立っていたのは、その脹らんだ腹部だろう。

 そこに、新しい命が宿っていること。

 それは、誰の目にも明らかだった。

 それでも、いや、それゆえに少女は美しかった。

 夜魔。

 男性を惑わし、その精の最後の一滴までを搾り取る、許されざる存在。

 それとも、神の子を孕んだ聖女だろうか。

 枯れたはずのこの身に潤いを覚えるほど、少女は美しかった。

 

「…私は柳洞一成。この寺の住職を務めている」

 

「―――りゅうどう、かずなり」

 

 そう呟いて少女は瞑目した。炎のように赤い彼女の髪が、月の光を受けて神秘的な輝きを放つ。

 彼女は、自らの時を止めたように動かない。

 やはり化生の類かと考える。

 沈黙。

 なんとはなしに、気圧されて、自分の名の由来などを話す。

 

「おかしいかな。この名は、高僧と名高かった曽祖父から頂いたものなのだが」

「―――ええ、知ってます」

 

 彼女は微笑む。

 彼女は何を知っているのだろう。

 おそらくは私の知らないこと。知ってはならないこと。

 

「…ここで出会ったのも何かの縁であろう。どうかな、茶など一杯。それに、この寒空にそんな格好では、お腹の子に悪かろう。暖かい着物と寝所程度なら用意できる。もれなく破戒坊主の説教が抱き合わせとなるがな」

「ええ、よろこんで。それに、あなたの曾お祖父さんのお話も伺いたいわ」

 

 これはきっと夢。

 

 朝、目覚めれば彼女の姿はないだろう。

 

「名前を、伺ってもよいだろうか」

「私は―――」

 

 そこまで言って、彼女はその首を廻らした。

 視線の先には、寺の明かり。

 たくさんの人の気配と、そのざわめき。

 それでも、その距離と、間に挟まれた闇が、人の匂いを消している。

 

「…今日は、お祭りですか?」

 

 なるほど、事情を知らぬ人間が見れば、そうも思えるか。

 

「一人な。一人、偉大なお方が、逝かれたのだ」

 

 ならば、祭りなのだ。

 今は、祭りの準備をしている。

 かの人の魂を、仏の御許に、無事に送り届けるための、祭り。

 故人の話をして、泣いて、笑って、怒って、やはり泣いて。

 それでも、今日のうちに、全ての涙を流してしまおう。

 明日は、笑って故人を見送ることが出来るように。

 誰よりも、他人の笑顔を作ることに尽力した彼だからこそ。

 その門火には、さんざめくような笑い声こそが、相応しいはずだから。

 

「…一体、誰が、お亡くなりになられたのですか」

 

 どこか、遠い声。

 答を知りながら、それでもその答を求める、求道者の、声だ。

 おそらく彼女が知りえないであろう、しかし、彼女が求める答を、口にする。

 

「…衛宮士郎という」

 

 遠雷にも似た、その響き。

 ほう、と、彼女の可憐な唇が、小さな溜息を漏らす。

 

「かの方は…、いや、やめておこう。功績の数などは、墓石にでも刻まれればいいのだ。我々が心に刻むべきは、かの方が、ただ偉大であったという、その一事でよかろうな」

 

 我ながら、情けない。

 後半は、涙に濡れていた。

 一世代以上、歳の離れた、老人。

 既に御伽噺としてしか知らぬ曽祖父と友人であったという、老人。

 一体、あの方がどれ程の月日を生きたのか、正確に知る者は、少ない。

 それでも。

 たった数度の邂逅が、私の心に燦然と輝く。

 幾度、その言葉に掬われたか知れぬ。

 ならば、その涙も、当然か。

 

「…貴方は、彼の死に、涙を流してくれるのですか…」

 

 その声も、泣いていた。

 

「…おうさ。あの方の死が悲しくなくて、何が悲しかろうか。今は、あの方を奪った仏が、ただ憎いよ」

 

「…それは、貴方が口にしていい言葉では、ありませんね」

 

 頬を伝う涙が、歪んだ笑みに、その針路を変えていく。

 何という声だったのだろうか、それは。

 静かな、しかし沈痛な声だ。

 何故だか、彼女の顔を見ることが、出来なかった。

 多分、彼女がそれを望んでいるからだ。

 意味もなく、そう思った。

 

「…そういう貴方も、泣いているのか」

 

 だから、言葉で、確かめた。

 きっと、彼女もそれを望んでいるから。

 然り、少しほっとした声が返ってくる。

 

「はい、泣いています」

 

 嗚咽を堪えた、だからこそ凛とした響き。

 涙を誇るような響きが、そこにはあった。

 何故だろう。

 この人は、悲しくないのだろうか。

 

「悲しくないのか」

 

 無粋な質問。

 

「はい、悲しくありません」

 

 当然の返答。

 

「ならば、何故泣く」

 

 恥死の質問。

 

「きっと、嬉しいから」

 

 毅然の解答。

 

 言葉は、無い。

 ただ、隣に立つ。

 空気が、薄い。

 喘ぐような、呼吸。

 痺れるような、寒気。

 嗚咽と供に漏れ出した、歓喜。

 

「ただ、嬉しいのです。彼の死にこれほど多くの人が涙してくれる、その事実が」

 

 ああ。

 この人は。

 世界で、一番。

 今、悲しいのだ、と。

 そう、理解した。

 

 振り返る。

 

 そこには、誰の姿も、無かった。

 月に照らされた、老木だけが、あった。

 やはり、狐にでも化かされたのだろか。

 一抹の驚き、そしてそれ以上の納得と供に、踵を返す。

 

「―――そうそう、先程の質問に答えていませんでしたね」

 

 ああ、しつこい狐だ。

 それほどまでに、人恋しかったか。

 背中にその声を背負いながら、歩き始める。

 慎重に、慎重に。

 一歩ずつ、一歩ずつ。

 もう、転ぶわけには行くまい。

 なぜなら、きっと彼女は、また助けてくれるから。

 それほどに無粋なことをさせるわけには、いかないから。

 

「わたしの名前もね、士郎というのですよ」

 

 びょう、と、風が吹いた。

 

 彼女の匂いも、気配も、全てを掻き消していく、風。

 

 空を、見上げた。

 

 そこには、相も変わらず丸い月が在った。

 

 彼女は、言った。

 

 士郎、と。

 

 私には、その名が、とても悲しくて、

 

 この上なく、綺麗に思えた。

 

 

 月を見上げる。

 

 いつか、あの暗い森で見た、あの月と変わらない。

 

 完全な真円。

 

 変わっていればよかったのに、と思う。

 

 もし、あの月が欠けていれば、

 

 きっと私は諦められた。

 

 覚悟はしていたのに。

 

 喜ぶべきことの、はずなのに。

 

 しかし、突きつけられた事実は、

 

 億の死に勝る鋭さで、

 

 私の胸を貫いた。

 

 もう、誰もいないという、事実。

 

 もう、誰も私のことを知らないという、その事実。

 

 まるで、星の無い大海を行く小船のように。

 

 あたかも、蜃気楼に惑う旅人のように。

 

 寄る辺無き、この世界。

 

 朝が来る前にここを発とう。

 

 彼が天に昇る様子を、見送りたかったけれど。

 

 彼らの息吹を感じられる、この場所は。

 

 今の私には、暖かすぎる。

 

「いかがなされた、主殿。その目、砂嵐にでも遭われたか」

 

 在りうべからざる声がする。

 

 懐かしいその声。

 

 初めて聞くその声。

 

 目の前に立つ長身の青年。

 

 その姿は鮮烈で。

 

 暗い、暗い、地の底で。

 

 初めて、貴方と出会った。

 

 例え、この身が何度地獄に落ちても、

 

 例え、貴方が何度生まれ変わっても、

 

 見紛うことはあるまい。

 

 そう、思えたあの時と同じ。

 

 視界は滲んで、顔が見えない。

 

 何かが頬を濡らす。

 

 これが、なみだ。

 

 それは、まるで、あなたのように。

 

 こんなにも、あたたかい。

 

「なんで」

 

 あなたがいるのか。

 

「どうして」

 

 あなたがいてくれるのか。

 

「主殿の生ある限り、付き従うと言った私の言葉、よもや忘れたとは言わさぬぞ」

 

 ああ。

 

 その言葉は覚えています。

 

 その言葉を信じていました。

 

 でも。

 

 ああ、それでも。

 

 英霊の座を破って。

 

 輪廻の牢獄に飛び込んで。

 

 生まれ変わってまで、私の傍にいてくれると。

 

 信じることが、できませんでした。

 

 ごめんなさい。

 

 許してください。

 

 でも。

 

 ありがとうございます。

 

 ありがとうございます、

 

 ありがとうございます。

 

 怖かったです。

 

 辛かったです。

 

 寂しかったです。

 

 心細かったです。

 

 世界に、捨てられたと思いました。

 

 自分は、いらない人間なんだと思いました。

 

 だから、さっきまで私は独りでした。

 

 でも、今は貴方がいます。

 

 それだけで、それだけでこんなにも。

 

 それだけで、こんなにも私は。

 

「もちろ、ん、おぼえて、います。わたしからはなれる、なん、てぜったいに、ゆるさない」

 

 嗚咽に震える無様な声が、

 

 今は、この上なく誇らしい。

 

「ふむ、それでこそ我が主君」

 

 稚気に溢れたその表情で。

 

 はにかむような、綺麗な笑顔で。

 

 満足げに頷く暗殺者。

 

「どうかな、久方ぶりの逢瀬は我等に似合いの、この森の中で、というのは」

 

 森。

 

 深い森。

 

 貴方を失った森。

 

 ならば、再び貴方と契るのも。

 

 この森からが、相応しい。

 

 本当に、何故だろう。

 

 何故、貴方は、こんなにも。

 

 私の欲しい言葉を、くれるのか。

 

 ならば、私の答えなど。

 

 百年前から、決まっている。

 

 だから、涙を拭う。

 

 だから、鼻を啜る。

 

 だから、深呼吸を一回。

 

 だから、今だけは、我慢しよう。

 

 きっと、私は泣いていたから。

 

 今から、もっと泣いてしまうから。

 

 嬉しすぎて、もっともっと泣いてしまうだろうから。

 

 だから、今だけは、涙を我慢しよう。

 

 この言葉は、この言葉だけは。

 

 貴方の褒めてくれた、この笑顔と共に。

 

「喜んで」

 

 さあ、行こう。

 

 彼と共に。

 

 いざ、生こう。

 

 彼を供に。

 

 貴方が、私に手を差し出す。

 

 私が、貴方の手を取る。

 

 貴方は、私に偽りの生を預けてくれた。

 

 ならば、私の残りの命は貴方に捧げようと思う。

 

 

 それは儀式。

 

 これからも共にあらんという誓い。

 

 夜の奥へと至る道は、煌々と輝く満月に祝福されている。

 

 きっと、誰かの曾孫が戯れに打ち鳴らしたのだろう、浅い闇の中を響き渡る、荘厳な鐘の音。

 

 ならば、欠けるたるは誓いの指輪くらいのものか。

 

 しかし、それすら彼らには余計。

 

 彼らは、ただ共にある、それだけで完成している。

 

 絆の証など、不要なだけでなく無粋極まる。

 

 だから、彼女の願いは、間違いなく叶ったのだ。

 

 

 空には夜を従える月が一つ。

 

 地には少女の従える影が二つ。

 

 寄り添う影は一つになって。

 

 暗い森の中に消えていく。

 

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