FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
切り殺されるのは、もう慣れた。
縊死は、思ったよりも心地いい。
墜落死には、快楽すら覚える。
焼死は、まだ少し辛い。
凍死は、懐かしい夢を見ることが出来るから、待ち遠しい。
餓死には、何の感慨も浮かばない。
病死は、ものによりけりか。
一番嫌なのは、枯死だろうか。己の小便すら啜りながら干乾びるのは、何度体験しても筆舌に尽くし難い苦しみだ。
それでも、粗方は、慣れた。
最初はその数も数えていたが、途中で疲れて止めてしまった。
だから、この死が幾度目の死なのか、良く分からない。
そもそも、人は60億という数を数えることが出来るのか。
ありとあらゆる死を、経験した。
鋭い矢尻が胸に突き立った。
巨大な歯車に巻き込まれた。
肺を海水が満たしていった。
硫酸の海に突き落とされた。
人柱として生埋めにされた。
愛されながら、殺された。
犯されながら、殺された。
憎まれながら、殺された。
蔑まれながら、殺された。
笑われながら、殺された。
物のように、壊された。
獣のように、屠された。
虫のように、潰された。
屑のように、貶された。
女のように、姦された。
塵みたいに、死んだ。
理のように、死んだ。
蛆が涌いて、死んだ。
骨が溶けて、死んだ。
無になって、死んだ。
狂喜の涙があった。
憤怒の涙があった。
後悔の涙があった。
快楽の涙があった。
恍惚の涙があった。
槍に、貫かれた。
剣に、削られた。
斧に、砕かれた。
槌に、潰された。
手に、縊られた。
目を潰された。
鼻を削がれた。
舌を抜かれた。
指を裁たれた。
膣を焼かれた。
苦しかった。
悲しかった。
寂しかった。
悔しかった。
厳しかった。
笑われた。
嗤われた。
哂われた。
嘲われた。
蔑われた。
尊厳死。
安楽死。
感電死。
轢断死。
圧搾死。
幻痛。
苦痛。
激痛。
鈍痛。
疼痛。
怖
痛
痒
辛
眠
い
ああ、辛かった。
ああ、苦しかった。
そして、それ以上に。
痛くて、痛かった。
辛いんだろうな。
苦しいんだろうな。
そして、それ以上に。
痛くて、痛いんだろうな。
死んだ。
何回も、死んだ。
死、その単語が軽くなる程度には、死んだ。
己の不死が疎ましくなって、でもそれが愛おしくなって、またそれが憎憎しくなるくらいには、死んだ。
死ぬのだろう。
何回も、死ぬのだろう。
死、その単語を忘れるほどには、死ぬのだろう。
己の不死すら無意味になって、それを憎むことすら忘れて、この上なく後悔するくらいには、死ぬのだろう。
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。
殺されるために、生き返って。
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。
辱められながら、生き返って。
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。
何の目的も無く、生き返って。
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。
それでも、ただ、生き返って。
いい加減、私が私であることに嫌気が差してきたとき。
世界に囚われた彼の気持ちが、欠片程度には理解できたとき。
声が、聞こえた。
「はろー、はろー、俺の声が聞こえてますかぁ?」
声。
それが声と呼べるものであることに、やっとの思いで気がついた。
「聞こえるなら返事してよ。無視されたら傷ついちまう。これでも、俺ってば、繊細なのよ?」
無茶を言う、と思う。
一体何回殺されたか知らないが、その間私の喉は、断末魔の叫び声を上げる以外の機能は放棄していたのだ。
人の言葉など、話せるはずが無いだろう。
「あ、なるほどね。そりゃあ百万回も殺されれば、言葉の一つも忘れるよねぇ」
そうか。
私は、百万回、殺されたか。
ひょっとしたら、絵本にある猫みたいに。
あと、一度殺されれば、私はこの苦痛から解放されるのかもしれない。
「ぶっぶー、外れでーす。俺がそんな簡単に許すと思う?あんたのせいで他の奴らを殺せなくなっちまったんだからさ、きっちりあと59億9千9百万回は死んでいってよ」
ずいぶんと軽く言ってくれる。
百万回の死、それだけで、私の自我はずいぶんと削り取られてしまった。
おそらく、あと十回も死ねば、もっと致命的な何かが砕け散るだろう。
「でもさ、正直言うと、ちょっと飽きちゃったんだよね、同じ人間を何回も殺すの」
なら、解放してくれればいいのに。
「やだよう、せっかく手に入れた玩具なんだから、骨の髄までしゃぶり尽くさないとねえ」
なら、さっさと殺せばいいでしょう。
「でもね、さっきも言ったように、ちょっとだけ飽きちゃったわけなのですよ、これが」
じゃあ、一体どうしたいのですか?これでも、暇ではないのですが。
「だから、提案です。俺と一緒に、ここで生きてよ」
―――。
「殺さないからさ。優しくするからさ。俺と一緒に、いてよ」
あなたは、寂しかったのですか。
「うん。寂しかったし、辛かったし、怖かったよ。だから、ここにいてくれよ」
あなたは、私と同じ苦痛を味わってきたのですね。
「多分、そう。でも、あんたがいてくれれば、救われる。だから、お願いだから、ここにいてください」
嫌です。
「―――」
私には、待ってくれてる人がいますから。
ここであなたを愛するわけには、いかないのです。
「じゃあ、一生ここから出さないぜ?」
それでも、です。
私には、待っていてくれる人がいます。
それだけで、私には生きる価値がある。
それだけで、人は生きていていいのです。
「じゃあ、俺には生きる価値無し?ちぇ。あんた、結構ひどい奴なんだなぁ」
今頃気付きましたか?
「もう、いいや。もう、いい。飽きた。飽きちゃったからさ、やっぱりあんた、外に出ていいよ」
…意外に、あっさり、なのですね。
「でもさ、外にいいことなんて、何一つないぜ。ここならあんたは諦められるだろ?でも、外は悔しいことばかりだ」
もう、慣れましたから。
「優しいことなんて何一つなくてさ。苦しいことばかりでさ。死ぬより、辛くてさ。それでも、外がいいのかい?」
きっと、そこが私の居場所ですから。
「世界に忘れられてても、かい?」
私は、覚えています。
それで、十分でしょう。
「くそ、じゃあ、とびっきりの悪夢をプレゼントだ。せいぜいのたうち回んなよ。腹を抱えて笑ってやる」
あなたは、結構、優しい人だったのですね。
「今頃気付きました?遅すぎるよ、あんた」
私は、待っていますよ。
「何を?誰を?救いを?ひょっとして、神様とか?」
貴方を、待っています。
「はあ?」
私が、貴方を待っています。
「…意味、わかんねえ」
だから、貴方も。
「…やめてくれ。下手な慰めは、踏み躙られるより残酷だ」
知っています。だから、貴方を待つのです。
「俺は、ゼロだ。無だ。もとから存在しないものは、どうやったって存在できない」
だが、貴方はこうして私と会話している。貴方が完全な無ならば、その矛盾をどう弁明しますか?
「それに、この世界は俺そのものだ。どうやったって、切り離せない」
ならば、貴方はこの世界ごと、外に出ればいい。
「…正気?それって、俺が生まれるって事だぜ?世界が滅びちゃうよ?」
その程度で滅びる世界なら、滅べばいい。
もっとも、世界は、そして人間は、それ程弱くはないでしょうが。
「…あんたは、それを止めるために、馬鹿みたいに殺され続けたんじゃないのかい?」
そうですね。あのように醜悪な貴方が人を殺すのは、母として流石に辛かった。
「じゃあ―――」
だから、私が貴方を生みましょう。
「―――」
私の子宮で貴方を慈しみ、この手で貴方を取り上げましょう。
「―――」
私の乳で貴方を育て、この手で貴方の頭を撫でてあげましょう。
「そんなこと、不可能だ」
まだ、パスは繋がっている。あとはやる気の問題です。
「…大聖杯も壊れちゃったんだからさ、世界を飛越えるようなもんだぜ、それって。やる気一つで何とかなるもんかなぁ」
私の息子なら、何とかしてみなさい。
「………はっ」
私の娘なら、何とかしてみせなさい。
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
泣き言など、許しません。もし、貴方が私と共にありたいのなら―――
「くくっ、わかったよ、あんたの覚悟は、よーくわかった」
幸いです。
「努力は、してみるよ。だからさ、あんたも―――」
ええ、精一杯、励みましょう。
「うわ、普通、女がそんなこと、言う?慎みってもん、覚えたほうがいいぜ?」
残念ながら、誰も教えてくれませんでした。
「じゃあ、俺がたっぷり教えてやるよ。覚悟しとけ」
ええ、覚悟しておきましょう。
「いい名前、考えておいてくれよ」
歯が溶けるくらい、大甘なものを用意しておきます。
「…程々がいいなあ」
この件について、貴方の意見は聞きません。
「ひでえ。人権侵害だ、それって」
親の特権です。
「そんなもんかなぁ」
そんなものです。
「それじゃあ」
ええ、それでは。
「また、会おうな、お母さん」
ええ、いずれ、また。―――アンリマユ。
◇
私は、今、生まれた。
今の私は誰なのだろう。
ヨハネか、それともシロウか。
おそらくは、両方が正解、全てが誤り。
昼間のように明るい闇の中で、自分の髪に触れてみる。
それは、紫がかった黒でもなく、
蒼穹のような蒼でもない。
燃えるような、血のような赤毛。
それは、彼の髪の色。
本当の、私の髪の色。
そして、私の大好きな色。
あの夜から、いったいどれくらいの時が流れたのか。
無限の死を味わった。
同じ数の生を授かった。
少なくとも短い時間ではなかったはずだ。
長い、長い、産道だった。
彼の名前すら思い出してしまうほどに。
私の、弟。
―――
まあ、いいか。
私が成すべき事は決まっている。
まずは遠坂をからかって。
あの子にただいまを言って。
ああ、それも、どうでもいい。
今はただ、
彼らに、
会いたい。
◇
月の綺麗な夜だった。
寺の夜は早い。いつもならとっくに布団に入っている時間である。
それでも、今日は眠れそうにない。
人が、多すぎる。
悲しげに俯いた人が、気丈に胸を張る人が、それでも物陰で嗚咽を堪える人が。
声が、多すぎる。
涙を堪える声が、涙を噛み殺す声が、地に伏し涙を垂れ流す声が。
そのいくつかは、おそらく私のものだ。
この職についてから、人の死に涙を流すことが少なくなった。
人の死を慰め、その魂が迷わぬように仏の御許に送り届けるのが、その職のあり方だから。
それでも、今日くらいは泣いてもいいと思った。
だから、一人で泣くことにした。
坊主が泣き顔を見られるのは、如何にも格好が悪い。
それに、かの人は仏の御許に旅立たれたのだ。
ならば、これは悲しいことではないはず。
だのに、この瞳からは涙が止まってくれない。
だから、私は一人で泣くことにしたのだ。
なんとなく、落ち着かずに、外に出た。
寺のすぐ裏手にある、鬱蒼とした森。
曽祖父の時代に出来たという、奈落のような大穴は埋め立てられて、今は綺麗なものだ、
覚束ない足元を気にしながら、瞳の熱さが癒えるのを待つ。
空を見上げる。
そこには、兎が戯れる、丸い月。
ひょっとしたら、あの方もあそこに旅立たれたのだろうか。
あそこで、兎と一緒に餅をついているのだろうか。
その無邪気な光景を幻想して、何時間か振りに笑みが生まれた。
苛烈な、あまりに苛烈な一生を送られた方だった。
ならば、死後とはいえ、その程度の余暇があってもいいのではないだろうか。
そんなことをつらつらと思考しながら、ぶらぶらと歩いた。
暗い、道である。
満月に照らされているとはいえ、灯り一つ持たぬ身で深夜の森を歩くのは、やはり愚行だったのだろう。
必然、何かに足を取られた。
おそらく、張り出した木の根か何かだろうか。
止まった呼吸と、前に崩れていく体。
咄嗟に手を出す。
きっと、擦り傷くらいは拵えるだろう。
その無様に、心中で苦笑したとき。
誰かが、私の肩を、掴んだ。
細い、小さな手。
それが、私を救ってくれた。
思わず振り返る。
木々の枝から、漏れ来る、月の光。
それに照らし出された、一角の荒地。
そこには、少女が、いた。
満月に誘われて森に立ち入ったのが私の気まぐれなら、そこに彼女がいたのは運命だろうか。
「―――かたじけない」
私の言葉に、少女はただ微笑むばかり。
その口元に湛えられた微笑に、人外の何かを感じ取ったのは、おそらく私の不徳の致すところだろう。
これほど穏やかに笑むことが出来る人など、私はかの人以外、知らぬというのに。
姿勢を正し、少女と対する。
「しかし、こんな時間にどうされた。女性が一人で出歩いてよい時間ではないぞ」
「…あなたは」
少女が、尋ねる。
初めて聞く、声。
擦れた、まるで初めて口にしたような彼女の声が、どこか懐かしい。
そして、その姿。
一糸纏わぬ裸体が、月光を従える。
女性のみが持ちうる、優美な曲線。
豊満な乳房。
腰まで届くような絹髪と、長い手足。
右の耳に、場違いな銀の装飾品。あれは、愛しい人からの贈り物だろうか。
しかし、何より目立っていたのは、その脹らんだ腹部だろう。
そこに、新しい命が宿っていること。
それは、誰の目にも明らかだった。
それでも、いや、それゆえに少女は美しかった。
夜魔。
男性を惑わし、その精の最後の一滴までを搾り取る、許されざる存在。
それとも、神の子を孕んだ聖女だろうか。
枯れたはずのこの身に潤いを覚えるほど、少女は美しかった。
「…私は柳洞一成。この寺の住職を務めている」
「―――りゅうどう、かずなり」
そう呟いて少女は瞑目した。炎のように赤い彼女の髪が、月の光を受けて神秘的な輝きを放つ。
彼女は、自らの時を止めたように動かない。
やはり化生の類かと考える。
沈黙。
なんとはなしに、気圧されて、自分の名の由来などを話す。
「おかしいかな。この名は、高僧と名高かった曽祖父から頂いたものなのだが」
「―――ええ、知ってます」
彼女は微笑む。
彼女は何を知っているのだろう。
おそらくは私の知らないこと。知ってはならないこと。
「…ここで出会ったのも何かの縁であろう。どうかな、茶など一杯。それに、この寒空にそんな格好では、お腹の子に悪かろう。暖かい着物と寝所程度なら用意できる。もれなく破戒坊主の説教が抱き合わせとなるがな」
「ええ、よろこんで。それに、あなたの曾お祖父さんのお話も伺いたいわ」
これはきっと夢。
朝、目覚めれば彼女の姿はないだろう。
「名前を、伺ってもよいだろうか」
「私は―――」
そこまで言って、彼女はその首を廻らした。
視線の先には、寺の明かり。
たくさんの人の気配と、そのざわめき。
それでも、その距離と、間に挟まれた闇が、人の匂いを消している。
「…今日は、お祭りですか?」
なるほど、事情を知らぬ人間が見れば、そうも思えるか。
「一人な。一人、偉大なお方が、逝かれたのだ」
ならば、祭りなのだ。
今は、祭りの準備をしている。
かの人の魂を、仏の御許に、無事に送り届けるための、祭り。
故人の話をして、泣いて、笑って、怒って、やはり泣いて。
それでも、今日のうちに、全ての涙を流してしまおう。
明日は、笑って故人を見送ることが出来るように。
誰よりも、他人の笑顔を作ることに尽力した彼だからこそ。
その門火には、さんざめくような笑い声こそが、相応しいはずだから。
「…一体、誰が、お亡くなりになられたのですか」
どこか、遠い声。
答を知りながら、それでもその答を求める、求道者の、声だ。
おそらく彼女が知りえないであろう、しかし、彼女が求める答を、口にする。
「…衛宮士郎という」
遠雷にも似た、その響き。
ほう、と、彼女の可憐な唇が、小さな溜息を漏らす。
「かの方は…、いや、やめておこう。功績の数などは、墓石にでも刻まれればいいのだ。我々が心に刻むべきは、かの方が、ただ偉大であったという、その一事でよかろうな」
我ながら、情けない。
後半は、涙に濡れていた。
一世代以上、歳の離れた、老人。
既に御伽噺としてしか知らぬ曽祖父と友人であったという、老人。
一体、あの方がどれ程の月日を生きたのか、正確に知る者は、少ない。
それでも。
たった数度の邂逅が、私の心に燦然と輝く。
幾度、その言葉に掬われたか知れぬ。
ならば、その涙も、当然か。
「…貴方は、彼の死に、涙を流してくれるのですか…」
その声も、泣いていた。
「…おうさ。あの方の死が悲しくなくて、何が悲しかろうか。今は、あの方を奪った仏が、ただ憎いよ」
「…それは、貴方が口にしていい言葉では、ありませんね」
頬を伝う涙が、歪んだ笑みに、その針路を変えていく。
何という声だったのだろうか、それは。
静かな、しかし沈痛な声だ。
何故だか、彼女の顔を見ることが、出来なかった。
多分、彼女がそれを望んでいるからだ。
意味もなく、そう思った。
「…そういう貴方も、泣いているのか」
だから、言葉で、確かめた。
きっと、彼女もそれを望んでいるから。
然り、少しほっとした声が返ってくる。
「はい、泣いています」
嗚咽を堪えた、だからこそ凛とした響き。
涙を誇るような響きが、そこにはあった。
何故だろう。
この人は、悲しくないのだろうか。
「悲しくないのか」
無粋な質問。
「はい、悲しくありません」
当然の返答。
「ならば、何故泣く」
恥死の質問。
「きっと、嬉しいから」
毅然の解答。
言葉は、無い。
ただ、隣に立つ。
空気が、薄い。
喘ぐような、呼吸。
痺れるような、寒気。
嗚咽と供に漏れ出した、歓喜。
「ただ、嬉しいのです。彼の死にこれほど多くの人が涙してくれる、その事実が」
ああ。
この人は。
世界で、一番。
今、悲しいのだ、と。
そう、理解した。
振り返る。
そこには、誰の姿も、無かった。
月に照らされた、老木だけが、あった。
やはり、狐にでも化かされたのだろか。
一抹の驚き、そしてそれ以上の納得と供に、踵を返す。
「―――そうそう、先程の質問に答えていませんでしたね」
ああ、しつこい狐だ。
それほどまでに、人恋しかったか。
背中にその声を背負いながら、歩き始める。
慎重に、慎重に。
一歩ずつ、一歩ずつ。
もう、転ぶわけには行くまい。
なぜなら、きっと彼女は、また助けてくれるから。
それほどに無粋なことをさせるわけには、いかないから。
「わたしの名前もね、士郎というのですよ」
びょう、と、風が吹いた。
彼女の匂いも、気配も、全てを掻き消していく、風。
空を、見上げた。
そこには、相も変わらず丸い月が在った。
彼女は、言った。
士郎、と。
私には、その名が、とても悲しくて、
この上なく、綺麗に思えた。
◇
月を見上げる。
いつか、あの暗い森で見た、あの月と変わらない。
完全な真円。
変わっていればよかったのに、と思う。
もし、あの月が欠けていれば、
きっと私は諦められた。
覚悟はしていたのに。
喜ぶべきことの、はずなのに。
しかし、突きつけられた事実は、
億の死に勝る鋭さで、
私の胸を貫いた。
もう、誰もいないという、事実。
もう、誰も私のことを知らないという、その事実。
まるで、星の無い大海を行く小船のように。
あたかも、蜃気楼に惑う旅人のように。
寄る辺無き、この世界。
朝が来る前にここを発とう。
彼が天に昇る様子を、見送りたかったけれど。
彼らの息吹を感じられる、この場所は。
今の私には、暖かすぎる。
「いかがなされた、主殿。その目、砂嵐にでも遭われたか」
在りうべからざる声がする。
懐かしいその声。
初めて聞くその声。
目の前に立つ長身の青年。
その姿は鮮烈で。
暗い、暗い、地の底で。
初めて、貴方と出会った。
例え、この身が何度地獄に落ちても、
例え、貴方が何度生まれ変わっても、
見紛うことはあるまい。
そう、思えたあの時と同じ。
視界は滲んで、顔が見えない。
何かが頬を濡らす。
これが、なみだ。
それは、まるで、あなたのように。
こんなにも、あたたかい。
「なんで」
あなたがいるのか。
「どうして」
あなたがいてくれるのか。
「主殿の生ある限り、付き従うと言った私の言葉、よもや忘れたとは言わさぬぞ」
ああ。
その言葉は覚えています。
その言葉を信じていました。
でも。
ああ、それでも。
英霊の座を破って。
輪廻の牢獄に飛び込んで。
生まれ変わってまで、私の傍にいてくれると。
信じることが、できませんでした。
ごめんなさい。
許してください。
でも。
ありがとうございます。
ありがとうございます、
ありがとうございます。
怖かったです。
辛かったです。
寂しかったです。
心細かったです。
世界に、捨てられたと思いました。
自分は、いらない人間なんだと思いました。
だから、さっきまで私は独りでした。
でも、今は貴方がいます。
それだけで、それだけでこんなにも。
それだけで、こんなにも私は。
「もちろ、ん、おぼえて、います。わたしからはなれる、なん、てぜったいに、ゆるさない」
嗚咽に震える無様な声が、
今は、この上なく誇らしい。
「ふむ、それでこそ我が主君」
稚気に溢れたその表情で。
はにかむような、綺麗な笑顔で。
満足げに頷く暗殺者。
「どうかな、久方ぶりの逢瀬は我等に似合いの、この森の中で、というのは」
森。
深い森。
貴方を失った森。
ならば、再び貴方と契るのも。
この森からが、相応しい。
本当に、何故だろう。
何故、貴方は、こんなにも。
私の欲しい言葉を、くれるのか。
ならば、私の答えなど。
百年前から、決まっている。
だから、涙を拭う。
だから、鼻を啜る。
だから、深呼吸を一回。
だから、今だけは、我慢しよう。
きっと、私は泣いていたから。
今から、もっと泣いてしまうから。
嬉しすぎて、もっともっと泣いてしまうだろうから。
だから、今だけは、涙を我慢しよう。
この言葉は、この言葉だけは。
貴方の褒めてくれた、この笑顔と共に。
「喜んで」
さあ、行こう。
彼と共に。
いざ、生こう。
彼を供に。
貴方が、私に手を差し出す。
私が、貴方の手を取る。
貴方は、私に偽りの生を預けてくれた。
ならば、私の残りの命は貴方に捧げようと思う。
◇
それは儀式。
これからも共にあらんという誓い。
夜の奥へと至る道は、煌々と輝く満月に祝福されている。
きっと、誰かの曾孫が戯れに打ち鳴らしたのだろう、浅い闇の中を響き渡る、荘厳な鐘の音。
ならば、欠けるたるは誓いの指輪くらいのものか。
しかし、それすら彼らには余計。
彼らは、ただ共にある、それだけで完成している。
絆の証など、不要なだけでなく無粋極まる。
だから、彼女の願いは、間違いなく叶ったのだ。
空には夜を従える月が一つ。
地には少女の従える影が二つ。
寄り添う影は一つになって。
暗い森の中に消えていく。