FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
interval1 IN THE DARK ROOM 1
暗い部屋。
単純に光度が足りないのではない。
例えるなら、空気が人の存在を拒否してしまっているような、そんな部屋。
その中央の座するは、矮小な老人。歳は既に百をいくつ越えているであろうか。
しかし、深く刻まれた皺の奥の濁った瞳の色には、枯れた、という言葉を拒絶する妄執が宿っていた。
「失礼します、お爺様」
静かに襖が開く。
「本日は、申し上げたき儀ありまして、まかりこしました」
畳に額を擦りつけながら、壮年の男が言う。仮に、相手が真実祖父ならば、その指が震えているのは何故か。
体格でいえば、男と老人のそれは、倍ほどの差がある。にもかかわらず、男は老人に対して怯えを隠すことが出来ないでいる。
老人にあるのは、目上としての威厳でも、尊属としての優越でもない。
ただただ、恐怖であった。
「お主の言わんとしていることはわかっておる。何故遠坂の娘を無傷で返してやるのか、その事についてであろう」
壮年の男が安心したように息をもらす。
「ご明察、恐れ入ります。
確かに、かの子供、器としては桜よりも優れておりましょう。
しかし、胎盤としての性能は未知数。それに対して、桜は名門の娘」
ゆえに、より良い跡継ぎを残すためには桜を胎盤とすべきではないか、と男は言った。
カカ、と乾いた笑いを漏らしながら、老怪が答える。
「いや、お主の言うこと、いちいち尤もよな」
その言葉に言外の嘲りを感じ取ったのは、男の神経が過敏なせいではあるまい。
「確かに、桜は名門、遠坂の娘。しかも、どうやらその属性は虚数。貴重といえばその価値は量り知れぬ」
虚数属性。魔術師の中でもその属性を持つものは極めて少なく、希少度でいえば、五大元素に勝るとも劣らない。
老人は続ける。
「跡継ぎに悩む魔術の家系など、掃いて捨てるほどある。それらにとって、あの胎盤は喉から手が出るほど欲しい素材であろうな。
であるに、なぜ時臣は、マキリ如きに桜を譲ったのだ?」
男が、声の震えを押さえながら答える。その質問は十分に予想されたものだったからだ。
「遠坂とマキリは古くからの盟友であります。また、魔術師に跡継ぎは一人で十分、不用品を廃棄した、その程度の認識なのでしょう」
沈黙。
さして広くない空間を、静寂が満たしていく。
男にはそれが耐えられない。
神経に鑢をかけられるがごとき一瞬。
喉が渇く。
額に嫌な汗が浮かぶ。
謝ってしまえ、きっと自分が間違えたのだ。
男がそう思った瞬間。
「例えマキリが断絶したとしても、聖杯戦争は続く。あれは既にシステムとして確立されておる」
男には無限とも思われた、その一瞬を打ち破ったのは、やはり彼の前に鎮座する老人だった。
「盟友とは名ばかりの血で血を洗う仇敵同士、遠坂にとってマキリなど何の利用価値も無いのだ。少なくとも、敵として存在するうちはな」
老人は続ける。
「此度、桜もかの子供も手に入れることが叶わなんだら、マキリは更なる弱体化を余儀なくされたであろう。あれほどの逸材をマキリに提供する家があるとは思えん。もし、遠坂がマキリを警戒するのであれば、今のまま放置するのが最上なのだ」
それはそうだろう。
没落がはっきりとした方向を定めるようになってから、弟子の一人すら門戸を叩いたことはなかったのだ。いわんや、貴重な取引材料ともなる、才能ある子供をマキリに提供するような家があろうはずも無い。
「更に言えば、不要であることと無価値であることは同義ではない。
あれほどの鬼才、跡継ぎに悩む名家に競わせれば、一体如何程の値がつくのであろうなぁ」
男は恐怖によってではなく、反駁が不可能なことによって沈黙を強制された。
「そうさな、例えばこんな条件ならどうかな。
我が子を譲る。
その代わり、マキリという家そのものを譲れ」
男が初めて顔を上げた。その表情には、ありありと驚愕が浮かんでいる。
「それは、時臣が桜によってマキリののっとりを図ったということですか。有り得ませぬ。桜には如何なる術もかかっていなかった。それは、他ならぬお爺様が確認なされたではありませんか」
男が早口で捲し立てるのを、侮蔑の視線で見守っていた老人が話す。
「確かに、儂が知る如何なる魔術もかかっていなかった。しかし、この世には儂の知らぬ魔術のほうが多いでな」
魔術とは秘するもの。
いかに親交の深い家系同士であっても、その奥義は必ず隠される。
さらに言えば、遠坂とマキリは仇敵同士。
どうして、秘伝の魔術がないと言い切れよう。
そして、その魔術が、桜を通してマキリを屈服させるような類のものだったら。
例えば、マキリの種を骨抜きにして、桜の言いなりにさせるような性魔術。
例えば、マキリの次代を遠坂の言いなりにさせるような、刷り込みの暗示。
それらが遠坂にあるならば。
そして、あの時臣ならば。
やる。
必ずやる。
なにせ、自らの娘を取引材料としか考えないような男だ。
右手で握手を交わして、左手で毒を盛る。
それくらいは涼しい顔でやってのける男なのだ。
老人は、そう考えていた。
「もしあれが手に入らなければ、多少の危険は冒してでも桜を胎盤としていたであろう。ゆえに、今の状況は、かの子供を拾ってきたお主の功績でもある」
「……わかりました。お爺様の深慮遠謀、私如きに測れるものではありませぬ」
しかし、と男が続ける。
「無傷で返す必要があるのでしょうか。桜は、順調に育てば、マキリの障害となるは必定。将来の禍根は小さいうちに断っておくべきでは」
老人の目に、僅かだが驚嘆の色が浮かんだ。
男がここまで老人に食い下がったのは初めてのことだ。なぜなら、男にとって老人は恐怖そのものなのだから。
男が老人に歯向かう。それは信徒が神に歯向かうことに等しい。
老人は、これで魔術の才があれば、と誰にも気づかれずため息を放つ。
「桜と、近い将来の遠坂の当主は姉妹。今、進んで遠坂の敵意を買うのは上策ではあるまい。むしろ、桜を無傷で帰すことで、貸しを作るべきであろう。
さらにいえば、仮に将来、桜が強大な力を持ったとしても、それが遠坂にとって有利に働くとは限らぬ。第三次のエーデルフェルトの例は、我らが倣うべき故事であろうな」
エーデルフェルト。
天秤の二つ名を持つ魔道の名門。
その当主には、必ず姉妹が選ばれる。
しかし、彼女達は姉妹ゆえに聖杯戦争に敗れた。
属性の近しいものは往々にして反発しあう。
蛇は蛙を喰らうのではない。
蛇は蛇をこそ喰らうのだ。
もし、妹と姉が反発しないなら、反目するように仕向ければよい。
どんなに良好な関係であっても、傷の一つや二つは必ずある。ならばそれを広げるだけでよい。
僅かな沈黙の後に、男が再び顔を下げてこう言った。
「わかりました、この件に関して私が申し上げることはございません。どうか、お爺様の御意志のままに事を進められますよう」
男が顔を上げる。
「その件とは別にご報告申し上げます。かの子供がもうすぐ目を覚まします。ご足労ですが、修練場まで来られますように」
その言葉を最後に、男は老人の前から退出した。
老人は考える。
かの子供を胎盤とするには、あまりに未知数。
しかし、それを補って余りある利点を備えている。
何せ、既に完成しているのだ。
微弱ながら、聖杯に潜むものとのパスも繋がっている。
仮に、桜を最高の状態に改造することが叶ったとしても、ああはいくまい。
名は何にしようか。
あの泥を被ったのだ、記憶などは残っていようはずも無い。
かの子供は、今まさにこの世に生を受けようとしているのだ。
そういえばあの子供、魘されて何か呟いていたな。
あやつにとって、失われた記憶など、前世の記憶に等しかろう。なにせ、奴は一度、劫火の中で死を経験しているのだから。
ならば、それに基づく名ならば強力な言霊を孕むであろう。
この身が脆弱な蛹から羽化し、永遠の命を得るための依代。
聖杯となることを定められた子供。
相応しいのは如何なる呪名か。