FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
「落ち着いた?」
中国製の可愛らしい茶器。そこから香るジャスミンの香り。
情けない話だが、どうやら俺は少しの間意識を失っていたらしい。
頭がガンガンする。
何か、物凄く大事なことを考えていたはずなのだ。
それに手が掛かりかけたはずなのだ。
それが、まるで虹のように、手が届かない。
蜃気楼を追いかける旅人というのは、きっとこんな気持ちなのだろうか。
「ああ、大丈夫……、桜は?」
俺の隣のソファで眠っていたはずの桜がいない。
「あの子、今シャワーを使ってる」
「……そうか」
桜があんな辛い記憶を抱えていたなんて、全く知らなかった。
考えてみれば、俺は桜にどれだけ救われたのだろう。
バイトが終わって家に帰ったとき、灯りのついた玄関で出迎えてくれた。
無機質な電子音じゃなくて、優しい声で起してくれた。
あの、無闇に広かった家が、ほんの少しだけ狭くなった。
そして、とても暖かくなった。
なのに。
なのに、俺は桜に何かをしてあげたことがあるんだろうか。
俺は。
「士郎。難しいと思うけど、あの子に気を使おうとしないで。きっと、それは何よりも辛いと思うから。出来るだけ今までどおりに接してあげて」
凛は、その端整な顔に隠しきれない後悔の色を浮かべながらそう呟いた。
わかっている。
それが、桜にとって最も望ましいことだというのはわかっている。
しかし、人間はそれほど単純ではない。
痛い場所に触られれば涙を流すし、壊れそうな場所には上手に触れられない。
だから、きっと、俺は、桜を……。
「……ん?」
どたどたと、なんか凄い音が聞こえた。
その音は明らかに近づいてきている。
これもドップラー効果というのだろうか、音が少しずつ不吉なものに聞こえてくる。
……何か、嫌な予感がする。
「せんぱいいいい―――っ!」
バン、と。
本来、有り得ないほどの勢いで、扉が開く。
きっと、あの扉に挟まれたら、漫画みたいにぺらぺらになってしまうのではないか、そんな勢い。
声の主は、桜。
ゆったりとした部屋着に着替え、長い髪の毛はポニーテールの要領で一つに括られている。
風呂上りだからだろうか、少し朱の差した頬が妙に色っぽい。
普段と違うその姿に、心ならずもドキリとしてしまう。
でも。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ」
扉を開けたまま固まった彼女。
両手を広げて、まるで通せんぼするみたいな姿勢。
きっと全力疾走してきたのだろう。
風呂場と居間とは、およそ二十メートル。余程の勢いで走らなければ息の切れるような距離ではない。
だから、桜は余程の勢いで走ってきたのだと思う。
「ど、どうしたの、桜?」
流石の凛も、少し及び腰だ。
それもそのはず、桜の赤く泣き腫らした目には、俺なんかでもそれとわかる欲望の光が灯っている。
「せ、せんぱい、さ、さっきの、ムードは、まだ、きげん、ぎれじゃ、ありませんよね?」
ぜえぜえと喘ぎながら、息も絶え絶えにそう言った桜。
さっきの約束。
『ねえ、先輩。ひとつ、お願いがあります』
『……いいぞ、オッケーだ』
『……ふふ、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?』
『ああ、知ってる。でも、オッケーだ』
短い会話と、そこに込めた愛情。
ああ、我ながらよくやったと思うよ。
だから桜、その何かを期待したぎらついた瞳、止めてくんない?
「ねえ、先輩。もうひとつ、お願いがあります」
「……駄目。断る」
「……あの、私、まだ、どんなお願いするか、言ってませんよ?」
「ああ、知ってる。でも、アウト」
がっくりと、桜は地に伏せた。
まるで、KOパンチを喰らったボクサーみたいに、そりゃあもうがっくりと。
「うふ、うふふ、私の馬鹿……あんな美味しいシチュエーションで、何であんなにつまらない約束を……」
ぶつぶつと呟く桜。
恋人とか、結婚とか、奴隷とか、サーヴァントとか、いやんな台詞が聞こえてきたのは気のせいったら気のせいだ。
これは、桜なりの努力に違いない。
俺との間に不自然な継ぎ目を作らないために、わざわざ無理をしているのだ。
そうに決まっている、俺にはわかるぞ、桜。
俺にはわかってるから。
くすくす笑いながら影を広げるのは止めなさい。
「大丈夫よ、桜、チャンスはまだまだあるわ」
崩れ落ちた桜に優しく語り掛けるキャスター。
「男なんて単純だもの、いくらでも落としようはある。この私が付いてるのよ、アルゴー船に乗ったつもりでまかせなさい」
「キャスター……」
きらきらとした瞳で見つめあい、手を硬く握りかわした主従。
美しい光景だと思う。
ただ、俺が当事者でなければ。
そんな、馬鹿げた、でも優しい会話をしていたら、ぴんぽーんとチャイムが鳴ったのだ。
「はーい、ちょっと待ってくださーい」
桜はすっくと立ち上がった。
来客は誰か、予想はついている。
きっと、代羽だ。
そう考えてから。
やっぱり、少しだけ、頭が痛くなった。
episode25 Scissorman
今日の夕食は凛が作った。
彼女が負傷したのは昨日の今日だったので、いかに当番制とはいえ交代を申し出たのだが、『これ以上負けてられるか』という気合の篭もった一言で俺の思いやりは封殺された。
凛が作ったのは中華料理。
本格中華料理店も顔負けの超強力な火力で作られたそれは、びっくりするほど美味しかった。そして、食卓を彩る多彩な料理が全て食べごろの温度で出されたのには、脅威すら覚えた。
「ああ、満足です……」
蕩けるような忘我の表情を浮かべたセイバー。
「むぅ……この味、オレを凌駕するか……」
俺の料理にはいちいち批評を忘れないアーチャーも、どうやらぐうの音も出ないらしい。
「うーん、これはポイント高いわね……。桜を鍛えないと……」
ぶつぶつとよく分からないことを呟くキャスター。なにかよくない予感がした。
代羽はただ無言。
でも、時々思い出したように溜息をしたり、驚きに目を見開くのは、きっと降参のサインだと思う。
うんうんと頷く凛は勝者の表情だ。
とりあえず、俺の表情は敗者のそれだったと思う。
◇
風呂から上がり、楽しそうな声に誘われて居間に戻ると、そこにはパラダイスが広がっていた。
テーブルは取り払われ、かなり広いスペースが確保されている。
そこに引かれたタオルケットと、その上に並べられたお菓子とグラスと酒瓶。
それらを囲むのは色取り取りの美しい花々。
凛、桜、代羽、セイバー、キャスター。
「あ、士郎、もうお風呂はいいの?」
普段はツーテールに纏めた髪を下ろし、猫柄プリントのパジャマを着た凛。
「先輩は早いですよ、カラスの行水です」
酒精に頬を赤らめ、緩んだ顔の桜。
「へえ、そんなことまではやいのですか、あなたは」
腰まで届く長髪を結い上げ、灰色の地味なスウェットの上下を着た代羽。
「ほうほう、これがブリテンのエールですか、中々味わい深い……」
代羽とは逆に、普段は結い上げた髪を下ろしたセイバー。いつもの凛々しさはどこへやら、妙に幼く見える。
「んー、もう少し強いのはないのかしら?こんなジュースじゃ酔えないわ」
普段はぶ厚いローブに隠した大人の色香漂う素顔を衆目に晒し、ネグリジェを纏った完全武装のキャスター。
所狭しと並べられた酒。
見たことのあるラベルもあれば、初めて見るものもある。
コンビニで売っているような缶ビールから、如何にも高級酒ですと言わんばかりに凝った造りの酒瓶まで、より取り見取りだ。
パジャマパーティーまではわかるが、なんで酒盛りを始めてんだ、君達は。
「衛宮先輩、一杯いかがですか?」
しなだれかかるように酒を勧めてきたのは代羽。
ほんのり赤くなった頬が、結い上げられた項とあいまって、とんでもなく色っぽい。
「へえ、代羽、それカミュのナポレオン?結構いいの持ってきたわね」
凛の言葉ににやりと笑った代羽。
「お爺様の秘蔵の一品です。せいぜい盛大に飲んでやりましょう」
「そりゃあいいわ。寄越しなさい、鯨みたいに飲んでやる」
まるで敵を見るような目つきで酒瓶を傾けた凛は、コップになみなみと注がれたブランデーを一気に乾かした。
「流石、遠坂先輩、最高の飲みっぷりです」
「当たり前でしょ、怪奇バグ爺さんがなんぼのもんだってのよ!」
「ええ、全くです!お爺様のコレクション、全て空にしてやりましょう!」
「乗った、代羽!」
……駄目だ。完璧に出来上がってる。
いくら快楽主義者を自称する凛でも、この時期にここまで飲むのはどうかと思うぞ。今は戦争中、なんて言っても聞かないだろうなあ。
アルコールに弱い俺は、そんなことを考えながらワインをジュースで割ったものをちびちびと飲んでいる。こんなの、今の凛に見つかったらなんて言われるかわかったもんじゃない。
そういえば、凛の従者は何をしているのだろうか。
ちらりと周りを見る。
アーチャーは喧騒の輪から一歩引いたところで静かにグラスを傾けていた。その姿は嫉妬すら覚えないくらい様になっているが、その表情が妙に緩んでいるのは男の性だろう。
だって、ここにいるのは揃いも揃って絶世の美女。しかも、酒にやられて隙だらけの姿を見せているのだ。
ああ、サーヴァントだって男だもんな、そんなことを考えていると、奴と目が合った。
奴は、その鷹のように鋭い瞳に、圧倒的な意志を込めて語りかけてくる。
『衛宮士郎、これが我らのアヴァロンだ』
『オーケー、把握した』
びっ、と親指を立てる。
あいつはそれを見て少し笑った後。
グラスを握ったその手で、ほんの少しだけ親指を立てた。
ああ、この想いは、間違いなんかじゃない。
「……あんた達、何目と目で通じ合ってんのよ、気持ち悪い」
「先輩、同性愛なんて非生産的な真似、私が許しません!」
「あら、私は祝福しますよ、先輩」
「むう、シロウ、私よりもアーチャーを選ぶというのですか、あなたは」
「ふふ、私達の時代なら男同士なんて珍しいものじゃなかったわ。いいじゃない、醜くて」
……女が三人寄れば姦しいとはよく言う言葉だが、五人集まると収拾のつけようが無い。
ぎゃあぎゃあと喚く美しい花達。
俺とアーチャーは、それに食べられる哀れな虫。
合掌。
◇
宴もたけなわ。
乱立する空の酒瓶、食い散らかされたお菓子。
既に桜は眠りの国の住人となっている。これは単純にお酒に弱いのではなく、度数の高い酒を飲みすぎたせいだ。
そろそろお開きだろうか、そんな時、今までほとんど口を開かなかったアーチャーが、代羽に話しかけた。
「そういえば、以前の礼を言っていなかったな」
「以前とは?」
桜と同じくらいは飲んだはずなのに全く顔色を変えないアーチャーと、俺に似てあまり酒が強くないのか、ほとんど飲んでいないはずなのに顔が真っ赤な代羽。
「私が君達の学校を訪れた際、君の弓を借りただろう。その礼を言ってなかったはずだ。ありがとう」
ああ、と機嫌のいい猫みたいな表情で頷いた代羽。
「礼を言われるほどのことではありません。あれは本当に素晴らしかった。あんなに純粋な射を、私は見たことがない。本来、私の方こそ礼を言わなければならないところです」
「そうか、それは光栄だ。なるほど、君は私を認めてくれるわけだ」
皮肉げな笑みを浮かべたアーチャー。
「しかし、そうすると少し妙ではあるな。少々気になっていることがあるのだが、答えてくれるかね?」
「どうぞ、私に答えられることでしたら何でも」
空気が、色を変えた。
何だろう。
にこやかに会話する二人が、奇妙なほど歪んで見える。
「私には少し変わった特技があってね。人よりも視力がいいせいか、読唇術の心得がある」
「……それが、どうかしましたか?」
二人の間に奇妙な緊張感が生まれていく。
もやもやとして、それでいて触れたら弾けるガラスの繊維のような空気。
俺も凛も、セイバーやキャスターですらその雰囲気に飲まれていくようだ。
「あの時、君はこう言ったな。『なんて醜い』と」
あの時。
歓声に沸きかえる道場。
賞賛の渦。
その端から、アーチャーを眺める代羽。
その口は、微かに動き。
その視線は、限りなく冷たかった。
『なんて、醜い』
彼女は、そう言っていたのか。
「……そんなこと、言ったかしら」
「ああ、間違いなく。しかし、今君は私の射が純粋であると褒めてくれた。どうも納得がいかないのだ。説明がもらえるとありがたい」
罪を暴くようなアーチャーの言葉。
その言葉に。
しかし代羽は、破顔した。
本当に愉快そうに、お腹を抱えながら笑った。
「ええ、ええ、確かに私はそう言いました。聞こえないように言ったつもりだったのに。認めましょう、私は嘘吐きです。あなたの射を素晴らしいとは思いません。でも、ああ、あなたは本当に意地が悪いわ」
息も絶え絶えに笑う彼女。
あはは、と笑い。
うふふ、と微笑み。
いひひ、と嗤う。
その様は。
手を叩き、髪を振り乱しながら哂う、その姿は。
「……何がそんなにおかしい?」
「ああ、わかりませんか?」
目の端に浮かんだ涙を、ギリシャ彫刻のように美しい指で拭い取ると、なおも笑みを浮かべながらだは言った。
「私の言が気に入らないなら、最初からそう言えばいい。それを、わざわざ言質をとった上で、さも鬼の首でも取ったかのように言うあなたが可笑しかったのです。
アーチャーさん、あなたは意外とかわいらしいのですね」
「……光栄だよ、心からな」
剣呑な雰囲気に、しかし代羽は笑みを絶やさない。
「でも、私が嘘を吐いたのは『本当に素晴らしかった』と言った部分だけです。あなたの射が純粋だと思ったのは事実ですよ」
その言葉とは裏腹に、彼女の顔色から侮蔑の色は消えない。むしろ、その臭気を強めているとさえ言える。
「あなたの射は確かに純粋。しかし、純粋であることなど、この世界においては何の価値も無い。純粋であればあるほど、汚れ、傷つき、磨耗していく。この世の真理は混和。故にあなたの射など、私は認めない」
アーチャーの眉が、ピクリ、と動いた。
その時、一瞬だけ。
背筋が凍るほどの殺気が溢れたのを。
俺は見逃さなかった。
「……貴様」
「世界は純粋を嫌います。増大し続けるエントロピーは、いずれ逆転するにしても、その時はあまりに遠い。少なくとも、この世界やあなたや私には遠すぎる。老いた赤子が子宮に帰り、そこで死を迎えるとき、私は初めてあなたの弓を評価しましょう」
その言葉にアーチャーは眉根を寄せて、冷笑を浮かべた。
「たかが射如きに、貴様の言はいちいち誇大なのだ。聞いていて疲れる」
「ええ、私もそう思います。きっと飲みなれないお酒のせい。子供の戯言、笑って忘れてくださいな」
す、と代羽は立ち上げり、一度だけ頭を下げると、笑顔のまま部屋から出て行った。
俺も含めて、みんな呆然として彼女を見送った。
ただ一人、それを憎憎しげに見送ったアーチャーが呟いた。
「……ふん、私も大人気なかったか。
しかし、凛。あの女に気を許すな。あれは、おそらく蛇蝎の類だ」
凛は何も答えない。
残されたのは静寂。
すやすやと眠る、桜の寝息だけが響いた。
◇
代羽の部屋は俺に割り当てられた部屋の斜め向かいになる。
普段では考えられない彼女の様子。
流石に少し心配になったので、一応様子を確かめようと、彼女の部屋の前に立つ。
扉をノックしようとした俺の手は、しかしその寸前で動きを止めた。
歌が、聞こえたからだ。
調子は少しずれている。
日本で言えば童謡のような、イギリスで言えばマザーグースのような、懐かしいメロディ。まるで胸の奥に刺さった棘を優しく溶かすかのようなそれは、聞くだけで涙が溢れそうだ。
ほんの少しだけ安定しないメロディは、それが機械から奏でられたものでないことを教えてくれる。しかし、今まで聞いたどんな歌声よりも、美しかった。
――A kind father plays with a little John. Clip,clip,he dumps his name,name.
A grandfather plays with a little John.Snip,snip,he loses his flail,flail.
Little John plays with kind father. Munch,munch, gets tall,tall.
Little John plays with grandfather. Chomp,chomp,lets play doll,doll――
……全く意味はわからない。英語だというのが辛うじてわかる程度。
繰り返し刻まれる同じフレーズ。
A kind father plays with a little John. Clip,clip,he dumps his name,name.
A grandfather plays with a little John.Snip,snip,he loses his flail,flail.
繰り返し、繰り返し。
Little John plays with kind father. Munch,munch, gets tall,tall.
Little John plays with grandfather. Chomp,chomp,lets play doll,doll――
でも、俺は立ち尽くした。
扉を叩くことは、出来なかった。
それが、許されない罪を犯しているみたいで。
居た堪れなくなって、自分の部屋に帰った。
◇
夜。
梟の鳴かない、しかし、梟の鳴き声が相応しい深夜。
古びれた洋館の二階、その片隅のドアがぎしりと鳴いた。
「……?誰ですか?」
誰何の声は柔らかい。
さもありなん、この家は元々からして要塞、今は神殿だ。外敵の侵入など許すはずが無い。
故に、今扉を開けたのは自分の家族でしかあり得ない。ならば、何故神経を昂ぶらせる必要があるだろうか。
「桜、私よ」
答える声には、どこか緊張の色があった。
「キャスター、どうしたの?」
「本当は話すかどうか迷ったのだけれど……」
再び、扉はぎしりと鳴いて、二つの人影を飲み込んだ。
その後、屋敷には完全な静寂が訪れた。