FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
火事があった。
たくさんの人が死んだ。
それだけのこと。
一年間に一回は、世界のどこかで起きて、
十年後には世界のどこかで、そんなこともあったね、といわれる。
そんな出来事。
ただ、私は死ななかった。
ただ、それだけのこと。
夢をみた。
不思議な夢だった気がする。
それ以上のことは覚えていない。
この思考自体も、一時間後には失われているだろう。
夢の記憶とはそういうもの。
いつもはそれがありがたい。
なぜなら、私が見る夢の大部分は悪夢に分類されるからだ。
原因はわかっている。
それは常にこの身を蝕む罪悪感。
あの子は本当に死ぬべきだったのか。
あの子を助けることができたのは、私だけだったのに。
ならば、死ぬべきだったのは私なのではないか。
自分は生きる価値のある人間なのか。
あの子を助けることができなかった、私なのに。
ならば、私に生きる価値などないのではないか。
この考えを聞けばほとんどの人はそれを否定するだろう。
もしかしたら、その自分勝手な考えに怒りを覚える人もいるかもしれない。
姉代わりだったあの人は間違いなく激怒する。
激怒して、暴れて、説教をして、
最後には優しく抱きしめてくれるだろう。
私にはそれが許せない。
もちろん、優しい姉代わりの人がではない。
そんな甘えに満ちた妄想を心地よく思ってしまう自分が、である。
耳を閉ざせ。
決意が鈍る。
目を開くな。
惑わされるぞ。
この身は罪の具現。
この生は贖罪。
穢れに満ちた人生ならば、
せめて誰かの人生の露払いに。
それだけが私の願い。
episode1 日常風景
夢を見ている。
これは夢だ。それ以外では在り得ない。
だって、何も聞こえない。
建物が崩れていく音も、燃え盛る炎の音も、断末魔の悲鳴も。
きっと、あの時の夢。
死んでゆく街を、あても無く歩いて、やがて正義の味方と出会う。
俺の人生が彼と出会ったことで始まったとするならば、これは多分前世の記憶。
空気は肺を焼き、光は目を焼いた。
動かない体。主人を失った四肢。
だからだろうか、感覚が酷くあやふやだ。
まるで、自分が自分じゃないような感覚。
夢だから仕方ない、そう言ってしまえばそれまでなのだが。
体が動かないのに、風景だけが動いていく。
自分の後ろから、自分を見ている、そんな感覚。
無音声の映画のように流れていく風景の中で、一度だけ、名前を呼ばれた。
そんな、気がした。
多分、気のせい。
夢を見ている。
これは夢だ。それ以外では在り得ない。
だって、世界が漂白されている。
白いシーツ、白い壁紙。窓の外は白い青空、話しかけてくる白い看護婦。
無彩色の世界の中、ただ一つ色を持った存在が語りかけてくる。
よれよれのダークグリーンのコート。
しわくちゃのスーツ。
ぼさぼさの黒髪。
ところどころ剃り残しのある無精髭面。
誰よりも知っている、見知らぬ男が問いかける。
「やぁ、士郎君、思ってたより元気そうだね、よかった」
ああ、それは、ぼくの、なまえ。
「あらためて、はじめまして、士郎君」
しろう?シロウ。士郎。
ああ、そういえばそうだ。
思い出した。
全部、何もかも、自分の名前すら忘れてしまったのだ。
なにせひどい火事だった。
幼子は命の代わりに己を忘れた。
失われた記憶。戻らぬ家族。
その事実を思い出した。
でも、大丈夫。
彼が名前を呼んでくれるなら。
そして、幼子は救われる。
切嗣の言葉に救われる。
「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」
夢を見ている。
これは夢だ。それ以外では在り得ない。
だって、目の前に切嗣がいる。
彼は、なんだか疲れたような顔で、月を見上げている。
彼の視線の先には満月。
本当はどうだったのか、わからない。
「僕は正義の味方になりたかったんだ」
知ってるよ、爺さん。
「でも、だめだった。正義の味方は期間限定で、大人になると、名乗るのが難しい」
そんなことはない。
あなたは、いつだって、俺の理想だった。
だから。
あなたの理想は、俺が。
「ああ、安心した」
彼は、静かに、眠るように息をひきとった。
縁側から見上げる月。
それは、涙で滲んで。
酷く歪な真円だった。
ぼんやりとした思考が深い眠りから浮かびあがる。
遠くから聞こえるカブのエンジン音。
近くから聞こえる小鳥の囀り。
ああ、もう朝が来たんだな。
胡乱な意識の中で、ぼんやりと思考する。
睡眠と覚醒の狭間の一瞬。至福のとき。
土蔵の小さな窓から差し込む優しい曙光。
例年に比べ暖かいとはいえ、それでもやはり身を縮こませるような空気。
首筋に纏わりつく冷気に顔を顰め、毛布を顔までたくしあげる。
もう少し寝てしまおうか。別に部活をやっているわけではないし、時間にはまだ余裕があるはずだ。
ただ、何か忘れている気がする……。
………。
……。
…。
あ。
その瞬間、背骨にツララを突っ込まれたような悪寒がヒュプノスの優しい手を振り払った。
今日は桜が来る日だ。
脳は睡眠を、体は休息を求めているようだが、これ以上寝ていると桜に起こされることになるだろう。それだけは避けなければ、冗談抜きで命にかかわる。主に精神的な意味で。
「あの時はひどかった……」
急いで毛布を片付けながら、そうひとりごちた。
あれは去年の春先のことだったか。
自らの不注意で片腕に怪我をしたあの日。
炊事、洗濯、虎の世話。
短くはないだろう、しばらくの間の片腕生活を思って途方に暮れていたとき。
「私がお手伝いに行きますよ」
そういってくれた桜には後光が差して見えた。
彼女が新人歓迎合宿の昼食に作ってくれたシチューは絶品であり、彼女が掃除当番の翌日の道場には塵ひとつなく、他のどの部員よりも細かいことに気がついた。
性格は暖かく、学業の成績も上々。
そして何より彼女は美しい。ミスパーフェクトといわれる学園一の才女。遠坂凛と並んでもおさおさ見劣りはしないほどだ。
しかも、それはいまだ発展途上にあり、来年にはミスパーフェクトの『非公認、穂群原学園彼女にしたいランキング』三年連続一位の快挙を阻むのではないか、と噂されている。
桜に世話をされる幸運を男子部員の誰もが羨んだ。かくいう俺も、その時は怪我をしたことに感謝さえしたものだった。
桜が家にやってくるまでは。
細かい事は思い出したくない。
簡潔に結果だけを書き記そう。
彼女が初めて家にやってきた、その日のうちに、俺の女性に対する嗜好の詰まったパンドラの箱は暴かれ、本、DVD、その他もろもろの災厄、全てがぶちまけられた。神話との違いは唯一つ、箱の中には一片の希望も残っていなかったことだけだろう。
ちゃぶ台の上に堆く積まれたコレクション。
桜は、奉行所で裁きを待つ罪人よろしく正座の姿勢で固まる俺の前で、じっくりと、1ページ1ページそれらを吟味して、最後に一言。
「先輩って、かわいい趣味をお持ちなんですね」
不潔と罵られるなら耐えられた。
気にしません、と気を使ってくれるならどれだけ有難かったか。
かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。
頭の中で、悪魔が踊る。男としての矜持、覚悟、先輩としての誇り、威厳。それらをなんとなくなぎ倒しながら。
ああ、神様。おれは確かに罪深い人間です。しかし、ここまでの報いを受けなければいけないほどの罪を犯してしまったのですか。
目の前で、あくまが哂う。
くすくす笑ってごーごー。
そんな幻聴を耳にしながら、俺は見えない鎖が首に巻きついていることを自覚した。
「失礼します、先輩」
まだ薄暗い朝の光とともに、優しい響きの声が土蔵の中に飛び込んできた。
「おはよう、桜」
「なんだ、もう起きてたんですね。もう少しゆっくり寝ていていいんですよ。時間にはちゃんと私が起こしてあげますから」
最上級の笑顔を浮かべながら、桜が言った。何も知らない人が見れば天使の微笑みにしか見えないだろう。
起きたばかりの太陽に照らされる、彼女の黒髪。俺を映し出す、青玉の瞳。
「じゃあ一つ聞くけど、あと一時間俺が起きるのが遅かったら桜は何をするつもりだったのかな」
俺に許された最大限の抵抗である小さな皮肉に対して、うーん、と腕を組みながら、少し目線を遠くにむけて桜は考える。
「聞きたいですか」
にやり、と。
先ほどの天使の微笑みに、余人でもはっきりとわかる『堕』の文字を加えて桜が哂う。
ああ、親父、俺の行動は間違いじゃなかったよ。
「いや、いいです」
自分の死に方を好き好んで聞きたがる奴はいないからな。
◇
「おっはよー、しろー、お姉ちゃんが朝ごはんを食べにきてあげたよー。今日のおかずはなっにかっしらー♪」
玄関からいろんな意味でありえない叫びが聞こえる。
朝早く、教壇に立ついい歳をした聖職者、しかも女性が、年下の男性、しかも教え子に対してこんな台詞を叩きつける家庭がここ以外日本のどこに存在するのだろう。もし存在するなら俺は心底同情する。
「うるさいぞ、藤ねえ。何時だと思ってんだ。曲がりなりにも教師だろ、模範になれとはいわないけど、反面教師になるのはどうかと思うぞ。あと、別に女性が料理を作れなければいけないとは思わないけど、年下の、しかも男が毎朝料理を作ってるのに何か思うところはないのか」
一息でそう言いきると、うがー、と吼える虎を無視して食卓へ向かう。
台所ではくすくすと、本当の天使の微笑みを浮かべた桜が、料理に最後の仕上げを加えている。
――なんだ、俺は今、幸せなんじゃあないか。
胸と一緒に、手の甲がちくりと痛んだ気がした。
◇
「最近物騒だからねー、士郎も桜ちゃんも気をつけてね」
時間ぎりぎりまで桜と俺の合作に舌鼓を打っていた藤ねえは、そんな台詞を玄関から投げつけた。
生活態度は無茶苦茶なところのある藤ねえだが、そんなところはしっかり教師である。だからこそ多くの生徒に慕われるのだろう。ただうるさくて面白いだけの教師に人望が集まるほど現代っこは甘くない。
「確かに最近は何かおかしい気がするな。通り魔にガス漏れ。マスコミが騒ぎすぎって訳でもないみたいだし」
テレビを見ながらそう呟くと、
「そうですね。部活も早く終わるように言われてます。喜んでる子もいますけど、試合が近いのに練習ができないのは、私は残念です」
朝錬の準備をしながら桜が答える。
自分はすでに関係者ではないが、一生懸命な元後輩をみると思わず頬が緩む。
そんな俺を見ながら、パン、と手を顔の前で合わせて桜が一言。
「そうだ、先輩が現役復帰すればいいんですよ。
そうすれば先輩と美綴先輩、私とあの子で地区大会くらいは圧勝できますから、夜遅くまで練習する必要はなくなります。
どうですか、ここは可愛い後輩達の安全を守ると思って」
ずい、と顔を近づけてくる桜。
さも名案、というふうに輝く視線が痛い。
「やめてくれ、何を言われても、もう弓をとるつもりはないよ。その話は昨日もしたばっかりだろ」
手をぶんぶんと振りながらそう答える。
桜と美綴はいまだに俺を弓道部に戻したいらしい。その気持ちは嬉しいのだが、度が過ぎると正直荷が重いと思うことがある。
こんなことがあった。
ある朝、今日と同じように桜と俺がじゃれあっていたのだが、お互い熱くなり過ぎたのか、知らぬ間に朝錬が終わる時間になってしまっていた。しかも、大会直前のその時期、運悪く練習は全員強制参加だった。
将来の部長候補である桜の無断欠席に怒り心頭の現部長、美綴綾子は全部員の前で桜を叱責した。
「今日は何で休んだんだ、電話の一本もいれずに!今が大会前の大事な時期だってわかってるだろ!」
俺も原因の一部である。火に油を注ぐ羽目になることは覚悟しつつも、それらを全てかぶるつもりで桜と一緒に謝りに来たのだが、美綴は俺の存在に気がつかないほど怒っていた。
「黙っててもわからないだろ!それとも人に言えないような理由なのか!」
美綴も熱くなっているのか、いくらなんでも言いすぎだ。
確かに無断欠席は褒められた事ではないが、ここまで言うほどのものでもないだろう。
このままでは二人の関係が悪化する、そう考えた俺は口を開きかけたが、その時。
「衛宮先輩に、弓道部に戻ってくれるように説得してました」
と、消え入りそうな声で桜が言った。
そして、それを聞いた美綴が一言。
「そうか、なら仕方がないな」
その一言であっさり事態はカタがつき、部員は桜も含めて、唖然とする俺がいないかのように練習を再開した。
『なら仕方がない』事件として一部の人間の間で有名になったそれは、美綴と桜の俺に対する執着を象徴する出来事として語り継がれているようだ。
なおも俺を説得しようとする桜。口を開きかけたが、それが固まる。その顔は今の今まで微笑みを浮かべていたことが嘘のように真っ青だ。
「先輩、それ……」
桜の視線を追うと、自らの手の甲にたどり着いた。
そこには、複雑な意匠の痣が浮かび上がっていた。
◇
それから桜は何も話さなかった。黙々と準備をして、いってきます、も言わないで朝錬へ向かった。
「何だったんだ……?」
そう呟きながら学校へ向かう。
アスファルトで舗装された、通いなれた通学路。
やはり朝の空気はまだまだ冷たい。行きかう人の吐く息も自分と同様に白い。
この空気は嫌いじゃない。
そう思う。
夏の身を焦がすようなそれも嫌いではないが、冬の肌を引き締める空気には及ばない。
友人は夏は暑いから嫌いだという。冬は寒いから嫌いだという。それが俺には理解できない。
これが暑いのか。
あの赤い空の下は、もっと――。
これが寒いのか。
あの黒い雨は、もっと――。
だらだらと続く下り坂を一人単調に歩くと、くだらない思考が頭を支配した。
こんなことではいけない。
今の境遇に不満を抱くことなど、あってはならない。
それはあの日、俺が救えなかった人々に対する重大な侮辱だ。
それと同時に、現状に甘んじることも許されない。
それはあの日、俺が見捨てた人々に対する裏切りだ。
自分はあの日、正義の味方に救われた。
ならば自分も、みんなを救う正義の味方に。
それだけが、俺の願い。
校門をくぐると眩暈がした。
学校の敷地を境にして、内と外で空気の質が違う気がする。
「疲れてるのかな……?」
昨日はバイトと鍛錬で体を酷使してしまったし、今朝は桜が来るのでいつもより早かった。
ならば、それこそ仕方ない。
気を取り直して歩く俺の前に一人の女性の姿があった。
「おはよう、
眩い朝日に照らし出されたのは、濡れた黒絹のようにしなやかな、しかし光の具合によっては赤紫がかっても見える神秘的な美しい長髪。
数少ない俺の友人である間桐慎二、その妹は、振り返って微笑みを浮かべながらこう言った。
「今日もサボり、です。
おはようございます、衛宮先輩。今日も能天気そうでなによりです」