FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
私は、今、生まれた。
黒く、温かな液体の中を漂っている。
浮上しているのか、沈下しているのかは解らない。
そもそも、この空間では上下左右すら無意味だ。
あるのは黒、黒、黒。
光が射さないから黒いのか、液体自体が黒いのかは不分明だが、少なくとも不快ではない。それどころか、心は安らかだ。気分はいい。
とても暖かで、とても綺麗だ。
まるで母親の羊水に浸かっているような、そんな心地。
もし天国という場所が存在するならば、それは此処のことをいうのだろう。
私は長い間、此処でまどろんでいた。
私は発生した時、此処にいた。そして、今も此処にいる。
つまり、私という個体が認識し得る全ての時間がこの空間に刻まれているのだ。
果たして、それが一般に長いと呼べる時間なのか、瞬きほど一瞬なのかは解らない。
とにかく、私の主観においては永劫と呼べる時を、独り此処で過ごした。
そのうち気付いたことがある。
此処にいるのは私だけではない。
息遣いは感じられないし、当然その姿は確認できないが、たくさんの仲間がいる。
最初は私だけだった。それは間違いない。
いつの時点で此処が共有されたのかは主であったはずの私も知らないが、特に不都合はなかった。
伝わってくる気配。
荒々しいモノ。落ち着いたモノ。
頭のよさそうなモノ。キグルイとしか思えないモノ。
暖かいモノ。冷たいモノ。
色々なモノが私を取り巻いていた。
それでも、私はやはり安らかだった。
なぜなら、この世界は広い。
その住人が少々増えたところで何の不都合があるだろう。
むしろ、賑やかなのは歓迎だ。
本当に安らかで、心地よい所だが、静かすぎるのには辟易していた。
これで何か光でも見えればいうことはない。
そんなことを考えていると、一瞬、ほんの一瞬だけ、何かがこの空間を照らしだした。
本当に?
私は狂喜した。
やはり此処は天国だ。
きっと神が私の願いを叶えてくれたのだ。
ならば、もっと願おう。
私は、この光がもっと見たい。
episode2 風景変換
彼女と初めて会ったのは3年前のことだ。
慎二の家に招かれた際、妹として紹介された。
彼に妹がいるという話は聞いていなかったので、非常に驚いたものだ。
長い間、ヨーロッパに留学をしていて、この度帰国したらしい。
「ほら、ちゃんと挨拶しろよ。僕に恥を掻かせるな」
いつもどおりの友人の様子に苦笑しつつ、初めて彼女と言葉を交わした。
「はじめまして、
衛宮先輩ですね、お話はかねがね兄から伺っております。お会いできて光栄ですわ」
にっこりと笑った彼女は、完全無欠のお嬢様、といった風情だった。事実、慎二の家は資産家であり、その表現には聊かの誤りもない。
彼女は俺や慎二よりも一才年下らしいのだが、その容姿には、既に完成された女性の美が存在していた。当時、俺の周りにいた女性といえば、クラスの女子か、飢えた虎くらいだったので、大変どぎまぎしたことを憶えている。
だから、誰も俺のミスを責めることなんてできないと思うんだ。
「ああ、これからもよろしく。ええっと、
その瞬間、広大な屋敷の空気が一瞬にして凍りついたのを、俺は一生忘れることができないと思う。
俺の前には、小動物のようにがたがた震える慎二と、先ほどの表情と寸分たがわぬ完璧な笑顔のまま佇む夜叉がいた。
「あら、今のは聞き間違いかしら?
それとも、先ほど私が自分の名前を言い間違えたのかな?ねえ、お兄様」
「いや、悪いのは衛宮だ、お前は何も間違えていない」
脂汗を流しながら、それでも辛うじてそう答える慎二を見て、俺は彼女と出会って僅か五分で超特大の地雷を踏んでしまったらしいことを悟った。
「ええ、その通りですお兄様。私は何も間違えていません。
私の名前は、
なるほど、確かにシロオという発音だと、俺の名前と同じになってしまう。
「名前には名付け親の意思が込められるものです。
私の名前には『時代を羽ばたく』という崇高な意味がある。
それを、出会って僅か五分でないがしろにして下さるとは思いませんでしたわ、衛宮先輩」
その後で、最高の笑顔を浮かべた彼女が煎れてくれた塩味のコーヒーと、この世の終わりのような紅色をした唐獅子クッキーの味も、俺は一生忘れることができないと思う。
◇
「慎二、最近調子はどうなんだ」
代羽と一緒にしばらく歩いたが会話が見つからなかったので、共通の知人である友人の話題を振ってみた。もっとも慎二は俺にとっては友人、彼女のとっては兄なのだが。
「兄の調子は兄に聞けばよいでしょう。それとも兄に聞けない理由でもあるのですか。ならば嫌々お話いたしますが」
彼女はいつもこの調子だ。とりあえず会話の中に一刺のとげを入れるのが彼女のこだわりらしい。
顔立ちは整っていて、個人的な感想を言わせてもらえるならあの遠坂凛に勝るとも劣らないものだと思うのだが、浮いた話はおろか、同じ弓道部の桜以外、友人の一人も見たことがない。
肩を竦めて歩く。
もったいないと思う。これでもっと社交的な性格をしていれば回りがほおっておかないだろうに。
「よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい」
唖然として立ち止まると、少し先を歩いていた彼女が振り返って微笑んだ。
白皙の肌。俺よりも一回り小さい華奢な体。すんなりとした体のライン。眉の少し上でまっすぐに整えられた髪形。まるで精巧な人形のようだ、と思う。
その勘違いを正すのが、強く自我を主張する瞳。長い睫毛に飾られたそれは、大きく、黒曜石のように黒い。女性にしては太めの眉と相俟って、彼女の意思の強さを表しているかのよう。
「人がいいのはあなたの長所でしょう。
しかし、考えが読まれやすいのはあなたの欠点です。
自覚しなさい、そうすれば欠点は欠点でなくなりますから」
そう言って彼女は、燕のように軽やかに自分の教室に向かった。
そう、彼女は性格が悪いのではない。少し表現の仕方が独特なだけ。
彼女の言い方を借りるならば、それは欠点ではないのだろう。
俺は苦笑しながら生徒会室に向かった。今日は何件の修理の依頼がきているのだろうか。
◇
冬の太陽は社長の如し。
そのこころは、ゆっくり起きて、早く帰る。どこかでそんなくだらない冗談を聞いたな、と思う。
太陽は既に、西の空にその残滓を微かに残すだけになっていた。空の色は赤から紫に、そして黒に近づきつつある。いくら慎二に道場の掃除を頼まれたとはいえ、さすがにこんな時間に帰っては藤ねえが怒るに違いない。
「早く帰ろう」
誰に言うでもなくそう呟くと、少し足取りを速めた。
今日は色々あった。中でも驚いたのは一成と遠坂の舌戦だろう。桜から猫かぶりの話は聞いていたが、その状態であれなら、その本性はいかばかりか。
弓道場の門を閉め、校舎伝いに校門を目指す。
事件の影響だろう、どこにも人の姿は見えなかった。子供ならばある種の怪談を思い出して足を竦ませてしまうかもしれない、そんな雰囲気だ。
俺は魔術の世界に片足を突っ込んでいるが、幽霊がいると思ったことはない。
存在することは知っている。だが、その存在を信じることはできない。
もし幽霊がいるならば、俺は真っ先に呪い殺される。
あのとき、俺は彼らを見捨てたのだ。
言い訳なら無限にできる。
子供だったから。自分が生きるためだから。怪我をしていたから。
だが、そんな言い訳で死者が納得するはずがない。
『せめてこの子だけでも』
崩れ落ちた瓦礫に下半身を押しつぶされ、血を吐きながら我が子の命を案じた母親。
俺は、自分が生きるために母親も、その子供も見殺しにした。
しばらく歩いた後で、背後から建物の崩れ落ちる鈍い音が聞こえたのを覚えている。きっと、あの子は無念の叫びもあげることができないまま、天に召されたのだろう。
彼らが俺を赦すはずが無い。
しかし、俺はのうのうと生きている。
ならば、この世に幽霊などいない、ということになるではないか。
いや、もしかしたら俺は幽霊がいることを望んでいるのかもしれない。
もし、あの時の人達が化けて出たなら、俺は額を地面に擦り付けて許しを請うことができる。
謝罪とは、贖罪とは、罪を許す存在があって初めて成り立つ行為である。殺人が古今東西をとって最も重い罪である理由の一部もそこにあるのではないか。なにしろ、罪を許す存在が既にこの世に無いのだから、その罪は永久に許されることは無い。それに比べれば呪い殺されることすら一つの救いだ。
だから俺は永久に許されない。
作り物の神ならば俺を許してくれるだろう。
しかし、それは他ならぬ俺が許さない。
軽い気持ちで懺悔をすれば、あなたの罪は許される。そんなファーストフードみたいな神様がこの世にいてたまるものか。
――危ない。
またこの思考だ。
この思考は俺を殺す。
誰かが隣にいるときならまだしも、今は投影したナイフで手首を切っても止めてくれる人間は誰もいない。
俺の命はこんなところでドブに捨てていいほど軽いものじゃあない。あれだけたくさんの人を死なせて、切嗣に救われた命なのだから。
金属を擦り合わせるような音が聞こえたのはそんなときだった。
「……何だ?」
振り返って音源を捜す。
意識を耳に集中する。そうすると、金属音の他に何かが爆発する音が混じっていることに気がつく。
どうやら、音はグラウンドの方から響いてくるようだ。
心のどこかで激しく鳴らされる警鐘を無視して、俺は音源に向かった。
「……なんだ、あれは」
その時俺が見たのは三人の人間。いや、正確にいうならば人の形をした何か。
一人は赤い外套を纏って両手に短めの剣を持っている。白と黒のそれらは二振りで一つの武器なのだろう、全く同じ形状をしていた。
一人は血に濡れた様に赤い槍を持つ、青い皮鎧を身につけた男。その動きは三人の中でも際立って速く、明らかに人のそれの範疇を超えていた。
一人は紫のローブを纏った人間。他の二人よりは一回り小さい体格で、もしかしたら女性なのかもしれない。宙を舞うそれの手からは、絶え間なく光弾が撃ちだされている。
どうやら赤い外套の男と紫のローブの女性が、青い皮鎧の男と戦っているようだ。金属音は赤い男の双剣と青い男の槍が奏でる音で、爆発音は紫の人型が放つ光弾によって生みだされていた。
しばらくの間、白痴のようにその光景を見ていた。
おそらくは人ならぬ人型が演ずる武の宴。こと、武道に僅かな期間であっても身を置いた人間にとって、それは無視できるものではなかった。
そのうちに気がついたことがある。
まず一つは、2対1の不利にも関わらず、青い男は赤い男と紫の人型に対してほぼ互角の戦いができているということ。
そしてもう一つは、先の理由にもなるのだが、赤い男と紫の人型との間に全くといっていいほど意思の疎通が図られていないことだ。
おそらくは共闘するのが初めてはなのだろう、お互いの呼吸が絶望的にあっていない。これでは数の有利を活かしきれるはずもない。
しばらくの間、膠着状態が続いた後、二つの陣営の間で一言か二言、言葉が交わされた。残念だが読唇の心得は無いので、果たしてどんな会話があったのか知ることはできない。
しかし、停戦の合意がなされたのではないことだけはわかった。青の男の槍に今まで以上の禍々しい魔力がこめられたからだ。
死ぬ。確実に死ぬ。いまからあの二人が何をしても結果は変わらない。
赤い男か、紫の人型か。そんなことは些細な問題だ。死ぬ。俺の前で、人の、かたちを、したもの、が、しぬ。しぬ。死。
「やめろっ!」
◇
「馬鹿か、おれは!」
校舎内を走りながら、様々な思考が一瞬で脳内に展開される。
あの三体に勝てるのか、俺が。
無理、絶対に無理。
逃げ切ることさえ難しいだろう。
これじゃ遠回しな自殺だ。何が切嗣に救われた命だ。結局俺はこんなところで死ぬのか。
今日の晩飯は何にしようか。挽肉が残ってたからハンバーグとサラダかな。
俺が死んだら桜は悲しむな、出来れば死にたくない。
考えを読まれるな、か。敵に自分の居場所を知らせた、なんて言ったら彼女はどんな言葉で俺を罵るだろう。
駄目だ、俺は今混乱している。こんなことでは生き残れるものも生き残れない。
息があがる。
足がもつれる。
体内に残された貴重な酸素を脳細胞へ。
まず、自分に出来ることを考えろ。
格闘技。切嗣に習った。街の不良くらいならよっぽどのことがないと負けないレベル。
駄目だ、話にならない。
魔術。強化と解析、手慰み程度の投影。強化はともかく、他は戦力になるレベルじゃない。なら、武器になる何かを探して、それに強化を施して、それから。
「ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか」
耳元から薄ら寒くなる台詞が聞こえた。
きっとこれは死神の囁きだ。
慣性に逆らって、体を強引に敵の方へ向ける。
それと同時に胸を冷たい穂先が貫いた。
◇
冷たいリノリウムの床に寝転がる。
「はっ、ぐぅぅ……」
笑えるほど無様な呻き声。
一瞬遅れてそれが自分の唇から漏れ出したものだと気がつく。
駄目だ、立てない。
四肢の先から力が抜けていく。
音が遠くなる。
視界が狭まっていく。
なるほど、これが死か。
槍で心臓を一突きされた割には、驚くほど痛みは少ない。せいぜい慎二に思いっきりぶん殴られた程度だ。もしかしたらあの青い男が何かしたのかもしれない。
出来れば、まだ死にたくない。
せめて一人、自分を救ってくれた切嗣に報いるためにも、誰か一人を助けたかった。これでは切嗣の死が、あの尊い死に様が無駄になる。それは例えようも無い恐怖だった。
「でも………間違って…ない…」
残された僅かな力で呟く。自分に言い聞かせるように、或いはこの場にいない誰かに伝えるように。
事実、もしあの時人型の死を見過ごしていれば、自分は助かったかもしれない。
しかし、その後、果たして俺は切嗣に報いる人生を送ることができただろうか。
己を蔑み、外道として生きるか。
自らの力の無さを嘆き、命を絶つか。
いずれにしても今の自分が死ぬことに変わりは無い。
ならば、あの人型を救えただけでも僥倖とするべきなのだろう。
そんなとりとめも無いことを考えていると、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。 どうやらお迎えが来たらしい。
足音は耳のすぐ傍で止まった。
これで終わりか。
そう考える俺の頬に触れたのは、冷たい死神の鎌ではなく、暖かい指先だった。
死神が呟く。
その声は、死を司る神のものとは思えないくらい穏やかで、何より弱々しかった。
「人は普通、長所によって成功し、欠点によって破滅する。
でも、あなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていた。
それが……哀れといえば哀れ」
どこかで聞いたことがある震える声が、朦朧とした意識の中に響く。
額に、暖かいような冷たいような、不思議な液体の感覚が残る。
身体の緊張が解れていく。
これから死に行く身としては、きっと考えられないほどの贅沢だ。
「安心しなさい、衛宮士郎。あなたの呪いは私が引き継ぎます」
その声を聞いた直後、俺の意識は闇に溶けた。
だからその後に聞こえた声は全て夢。
泣き叫ぶ桜の声も、それを叱咤する遠坂の声も。