FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
「はっ―――はっ―――はっ」
乱れて整わない呼吸。
重装騎兵を背負って戦場を駆ける軍馬よりも、なお吐息が荒い。
生温い何かが、頬を伝い落ちていく。
そのこそばゆい感触に、頬を拭いたくなる欲望に駆られる。
しかし、それは紛れも無い隙だ。この敵は、それを見逃さない。
「はっ―――はっ―――はっ」
ぽたり、ぽたり、と、赤い液体が髪を伝って流れ落ちる。
血液が眼球に滑り落ちないのは、とんでもない僥倖だろう。
一瞬でも視界が奪われれば、私は殺される。
あの杭のような短剣で脳天を串刺しにされるか、それともあの怪力で首を捻じ切られるか、それは定かではないが、終着点に変更は効かないだろう。
「はっ―――はっ―――はっ」
千人の敵と切り結んでも、これほど消耗することはあるまい。
事実、私は数え切れないほどの大軍を相手にしても、敗北の帰路を飾ったことは無い。
常勝にして、不敗。
それが、我が軍旗の負った宿命であり、自負であった。
しかし、この敵は。
千人よりも。
強い。
episode36 BLADE PLAYS WITH SNAKE. ;THE FIRST
「あは、もう、おわり?」
相変わらず、ぱかり、と、口を鋭角に裂いた女、いや、女だったもの。
紅く濡れた、まるで恐竜か何かのような鋭い爪。
人のそれではありえない。
黒光りし、先端は釣り針のように湾曲している。
皮膚を切り裂き、肉をこそげ取るのに、最適化した形状。
その爪にこびりついたのは、滴る血液と、私の肉片だ。
彼女は、その肉片を、ゆっくりと口に運び、ちろり、と真っ赤な舌で舐め取った。
「やっぱり、おいしいね」
歓喜にその身を震わせながら、彼女はそう呟く。
奴は、自然立ち。
如何なる力みも無い。
ただ、棒のように突っ立っただけの姿勢。
隙だらけ。
「はぁっ!」
気合の声と共に、飛び込む。
共に、斬撃。
大上段からの、必殺の一撃。
しかし、当たらない。
一歩踏み込んで、返しの切り上げ。
やはり、当たらない。
不可視の剣。
間合いはわからないはずだ。
だが、それが剣であるということは既に看破されているのだろうか、剣線上から僅かに身をそらす絶妙な見切り。
ふわりと身をかわしたライダーは、ぱかりと笑った。
「かわったけんだけど、あたらないねぇ」
にやついた声。
そして、衝撃。
がつん、と殴られた。
鼻頭を、殴られた。
視界が、黒く染色される。
その上に散りばめられた、無数の星。
私の頭の中だけで輝く、星。
それでも、後ろに跳躍して体制を立て直す。
意図せずに、涙が溢れる。鼻を痛撃された人間の反射のようなものだろう。
口中に鉄の味。きっと、溢れた鼻血が逆流したのだ。
これは、鼻骨がイったのかもしれない。
そんな、瞬時の思考。
そして、再び彩度を取り戻した視界。
そこに映った、ライダーの視線。
上からの視線。
小さきものを睨目下ろす、強者の視線。
捕食者から見た獲物。
そのような視線を向けられるのは初めてだ。
畏怖の視線なら、飽きるほどに向けられた。
畏敬の視線なら、浴びるほどに向けられた。
軽蔑の視線なら、撫でるほどに向けられた。
恐怖の視線なら、愛でるほどに向けられた。
だからこそ。
親愛の視線を私にくれた、彼を。
慈愛の視線を私にくれた、彼を。
彼を、傷つけた、この女を。
私は、絶対に。
◇
神話に語られる数多くの英雄譚。
それを彩る、数多くの偉業。
悪龍を殺した勇者。
暴虐な巨人を誡める賢者。
醜怪な老魔術師を懲らしめる若人。
それらに共通すること。
人は、怪物を打倒し得る。
如何に相手が強大で、如何に老獪であろうとも。
最後に勝利を飾るのは、人以外有り得ない。
それが、神話の公約数。
それに従うならば、この闘いの結末は決まっている。
眉目麗しい剣士が、堕ちた女神を打倒する。
剣は己の矜持を全うし、怪物は己の愚行を悔いるのみ。
それが、唯一許された結論だろう。
ならば。
ならば、目の前の光景はどういうことだ。
剣を杖に、膝を折る少女。
息は乱れ、血化粧がその秀麗な容姿に凄烈な美を加えている。
金砂の髪から滴る紅玉。彼女を構成する、命そのもの。
彼女を象徴する白銀の鎧には、見るも無惨な傷が無数に刻まれている。それらは全てが彼女の目の前で踊る、騎乗兵によって作られたものだ。爪に削られ、拳に押し潰され、蹴りで拉げられ、牙によって穿たれた。
有り得ることではない。
確かに、彼女の魔力によって編まれたその鎧、伝説に名高い彼女の宝具に比べれば如何にも見劣りはしよう。それでも、幾つもの戦場を乗り越え、幾十の死地を凌ぎ、幾百の刃を弾き返し、幾千の敵の無念を飲み込んだ鎧である。それが、所詮は無手の敵に破壊されて良い筈が無い。
要するに、相手が異常なのだ。
あの狂戦士を暴虐の化身とでも表現するならば、この女怪は嗜虐の現身。敵を甚振り、嬲り殺すために生を受けたもの。
正しく、蛇。
毒の牙と、愉悦に歪む唇を持った、辛うじて人の形をした、蛇だ。
蛇の毒には、二種類ある。
己の身を守るための、護身としての毒。この種の毒を持つ蛇は、総じて派手な体色を持つ。己が如何に危険で、それを襲うことが如何に無益かを教えるためだ。
もう一つは、敵を速やかに殺す、狩の道具としての毒。この種の蛇は、目立たぬ体色を持ち、己の存在を敵に悟られぬように進化した。
ならば、彼女の牙に宿った毒は。
そのいずれでもあるまい。
彼女の体色は、如何にも派手だ。
男を蟲惑する、扇情的な衣装。
美の女神を嫉妬させる、美しい長髪。
しかし、彼女のそれは、争いを避けるための警戒色ではない。例え昔がそうだったとしても、今はその真逆である。
それは、哀れな贄を呼び寄せるための餌。
ふらふらと漂う闇夜の虫を呼び寄せる、誘蛾灯。
彼女は、それを待つ。
蛇でありながら、蜘蛛の巣を張り、舌なめずりをしながら獲物を待つ。
その牙を、獲物の血で湿らせながら、次の獲物を待つのだ。
ならば、その牙に宿るべき毒は、現実の蛇が持つ、如何なる毒も相応しくない。
ならば、こんな毒はどうか。
一度噛まれれば、獲物は二度と動けない。
許しを請うことも、侮蔑の叫びを投げつけることも、断末魔の悲鳴を上げることもできない。
痛覚はそのままに、ただ、動けない。
しかし、生きている。
生きているから、苦しい。
なぜなら、彼女はそれを齧るから。
爪先から、かりかりと。
頭の先まで、かりかりと。
血は、出ない。
だから、失神することも出来ない。
獲物は、喰われていく己を、冷たい視線で認識することのみ許される。
石のように固まった自分の身体。それを、爪先から咀嚼されていく。
今はどこか。
太腿まで、喰われたか。
それとも、やっと胸まで喰ってくれたか。
ついに、首まで喰ってくれたか。
もっと喰ってくれ。
早く、この苦痛から、私を解放してくれ。
明瞭な意識のもと、狂うことすら許されず、ただ己の命の灯が消え去るのを、只管に希う。
そんな、毒。
そんな毒なら、この上なく彼女に相応しい。
今は、無い。
今の彼女の牙には、そんな毒は備わっていない。
しかし、それは今だけだ。
時を置かずして、彼女の牙にはその毒が備わるだろう。
彼女の牙。
彼女の、魔眼。
眼帯の下に隠された、恐らくは鮫のように冷たい、小さな瞳。
それに映った可憐な少女は、今だ衰えぬ不屈の闘志を、その聖緑の瞳に滾らせていた。
◇
鼓動が、煩い。
耳鳴りが、する。
きーん、と。
何か、薄いセロファンを振るわせたような、耳障りな音。
視界が歪む。
殴られ過ぎたせいか、それとも血を流し過ぎたか。
ここまでとは、思わなかった。
対峙した瞬間から、敵の力量くらいはある程度測れるものだ。
それにしても、ここまでとは。
疾い。
ひたすらに、疾い。
剣が、触れ得ない。
それは、私に攻撃の手段が無いことを意味する。
それは、私に勝機が無いことを意味する。
「あなた、つまらない。あのこのほうが、たのしかった」
あの子。
貴様が散々甚振った、我がマスター。
ほざくな。
貴様が、その穢れた口で、彼のことを語るな。
「あああぁぁぁ!」
魔力を上乗せした、突撃。
狙いは、薄ら笑いを浮かべたその面。
必殺の拍子。
しかし、剣が彼女の額に触れる瞬間。
正にその瞬間に、彼女の姿は掻き消える。
空しく宙を切り裂く聖剣。
そして、刹那に叩き込まれる幾十の打撃。
拳か。
それとも、脚か。
それすらわからない、衝撃の奔流。
私はそれに遊ばれる、笹船のようなものかもしれない。
危機感。
このままでは、殴り殺される。その確定した事実に対する危機感。
とりあえず、目標も定めずに、剣を振るう。
錯乱した女子供が、闇雲に棒切れを振り回すのと変わらない。
それでも敵は退く。
理由は分からない。
私の直感が敵の攻撃を凌いでくれているのかもしれないし、奴が遊んでいるだけなのかもしれない。どちらかといえば、有力なのは後者だろう。
理解した。
いや、とっくに理解していたのだ。
この敵は、強い。
とてつもなく、強い。
少なくとも、今の私が出し惜しみを許されるような、そんな程度の難敵ではない。
しかし、聖剣を解放したとして、この敵にそれが当たるとは思えない。
真名の解放、その瞬間に、この敵は私の背後を取ることが出来る。
駄目だ。
あれは、使えない。
ならば、どうする?
私に、何ができる?
どうすれば、主の無念を晴らすことができる?
考えろ。
考えろ。
……。
……一手。
……二手。
……三手。
……まだ、足りないか。
幾分、賭けの要素が強い。
失敗すれば、後は無い。
ならば、例えばキャスターが到着するまで戦線を膠着させるのも一つの策ではある。
しかし、それが叶うか?
いや、彼からこの戦場を預けられて、なお他人の力をあてにするというのか、私は。
そこまで誇りを失ったか。
「ねえ、もう、あきらめたら?」
ライダーは、溜息と共に言い放つ。
なるほど、敵にすら愛想を尽かされるほどに今の私は不甲斐無いか。
それはそうだろう。
最優の英霊を誇りながら、未だ打ち倒した敵は無し。
主君を危険に晒し、未だ怨敵に一太刀も浴びせられず。
こんな愚物、生きる価値も無い。
死ね。
死んでしまえ。
死ぬ気で、奴を殺せ。
今のお前に許された選択肢は、それだけだ。
なるほど。
これは、目の前の敵に感謝しなければならないか。
聊か日和っていたらしい。
自らを危険に晒さずに、勝利を掴めると、心のどこかで慢心していたか。
ふざけるな。
そんなはずがないだろう。
そんな弱敵に、シロウが負けるはずがないだろう。
なら、死ぬ気で奴を倒せ。
首を断たれても、宙を飛んで、奴の喉笛に喰らいつけ。
四の五の言わずに、勝て。
お前が自らの存在を立証したいなら、とにかく、勝て。