FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode43 Those long thoughts after the end.

『――つまり、名前と言うものが持つ魔術的な意味というものはかくも大きなものなのだ。

 名前には、通常名付け親たる者の、何らかの意志が込められることが多い。健やかに育って欲しい、こうあるべきだ、そういった想いは徹底的なまでに言霊を帯び、それらは呪いとして機能する。

 卑近なる例を見れば、我が一族の隠し名も多聞に漏れず魔術的な意味を持っている。唯の言葉遊びに過ぎぬように見えるそれとて、決して軽視できるものではない。

 故に、素材につける名には、それなりの呪術的な意味合いが必要になるであろう。あれは胎盤というよりは道具であり、より細分化すれば容器の類だ。ならば、そぐわぬ名によって迷うことがあってはならない。

 候補はいくつかあるが、中でも最も道化じみたものがいい。あれが己の名を誇るようにするべきだ。愉快で、滑稽で、無様な名前。それがあれには相応しかろう』

 

episode43 Those long thoughts after the end.

  

 暗い空間に、一人で座っていた。

 ここはどこなのだろうか。

 全身を、酷い倦怠感が覆っている。

 立ち上がることも、周囲を見渡すことも億劫だ。

 ただ、自分の実在が薄れていく、そんな感覚だけがあった。

 拡散していく。

 粒子が、散々になっていく。

 ああ、俺がいなくなる。

 そんな妄想が、現実感を伴って押し寄せる。

 だから、歯を強く合わせた。

 そうしないと、何かがずれてしまいそうだったから。

 強く、歯を合わせる。

 歯を、噛む。

 軋らせる。

 そうすると、ぎちり、と肉の中で音がした。

 歯茎の、肉だ。

 その中で、音がした。

 そして、むず痒い。

 瘡蓋が固まって傷口が治癒しかけた時の痒さ、そう言えば分かりやすいだろうか。

 掻痒感に駆られて、口中に指を突っ込む。

 かりかりと、引っ掻く。

 何が痒いのか分からないが、それでも、引っ掻いた。

 まるで硬い外骨格の上から患部を掻き毟るような切なさ。

 それでも、諦めずに引っ掻き続ける。

 

 もどかしくって、かりかり。

 まどろっこしくって、かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。かりかり。

 

 原因は、そのうちに分かった。

 歯が、抜けかけていたのだ。

 犬歯。

 左側上部の犬歯だ。

 それを指で突くと、ぐらぐらと安定しない。

 そして、むずむずと、痒い。

 その感覚が、どこか心地いい。

 楽しくなってくる。

 ぐらぐら。

 むずむず。

 犬歯を指で前後に動かす。

 だんだんとその刺激に慣れてきて。

 もっと大きな刺激が欲しくなって。

 もっと、ぐらぐら動かす。

 歯茎の内の肉と、ざりざりとした犬歯の表面が、擦れ合う。

 その痒さが、この上なく心地いい。

 だから、もっともっとと動かすのだ。

 馬鹿みたいに、只管に。

 すると、ぎちり、何かが千切れる音がして。

 ずるり、と歯が抜けた。

 長さは、約三センチ程か。

 それを、握り締める。

 喪失感。

 そして、口中を満たす、濃厚な鉄の味。

 いまだむず痒い血の源泉を、舌で愛撫する。

 ぽっかりと開いた傷口。

 そこを、ちろりと舐め取る。

 その中に、何か異物感。

 尖った何かが、ある。

 何だろう。

 再び指を突っ込む。

 爪で引っかくように探ると、そこには抜け落ちた犬歯の残骸があった。

 こんなもの、残していても仕方ない。

 血溜りのような口中で、それを摘む。

 そして、一気に引き抜く。

 ずるり、と、また歯が抜けた。

 その感覚が、心地いい。

 やはり約三センチ。

 なんだ、また生えてきたんだ。

 不思議と、納得できた。

 また、舌でそこを舐める。

 やはり、そこには異物感。

 嬉しくなって、また、指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 また、舌でそこを舐める。

 やはり、そこには異物感。

 嬉しくなって、また、指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 突っ込んで、引っかく。

 引っかいて、摘む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 指を突っ込む。

 ずるり。

 摘んで、引き抜く。

 ずるり。

 ずるり。

 ずるり。

 いつしか、抜け落ちた歯は、片手では掴めないほどの量になっていた。

 小山のようになったそれ。

 まるで、小人の骨のようなそれ。

 それを、強く握った。

 

 

 暗闇が恐ろしくて、目が覚めた。

 黒い、夢だった。

 黒くて、痒い、夢だった。

 息が荒い。

 額や頬を何かが伝っていく。冬場の冷気に冷やされたそれらは、細やかな蟲が皮膚を這い回るような掻痒感を味あわせてくれる。

 我知らず、息が荒い。貪るようにガス交換を行う。

 心臓が、全力疾走を終えた後みたいに、早鐘を打ち続ける。

 徹底的に口中に水分が不足しているのか、口蓋に舌が張り付く。

 べりべりと、それを無理矢理剥がすと、形容し難い不快な味が味蕾を犯した。

 反射的に唾を吐き出したくなる。

 それを踏みとどまったのは、ここが一体どこなのか分からなかったから。

 そもそも、口の中に、吐き出せるような水分なんて、残っていなかったから。

 寝起きとはいえ、自分の思考の鈍磨さに呆れる。

 とりあえず、舌で犬歯の存在を確認する。

 ざり、と舌の表面を削る、鋭い感触。

 犬歯は、そこにあった。

 安堵の溜息。

 ゆっくりと、瞼を開ける。

 何も、見えない。

 そこで、ようやく気付いた。

 暗闇に追い立てられるように夢の世界から這い出てみれば、この部屋だって暗いじゃないか。

 ひっ、と、情けない悲鳴。

 ごくり、と、存在しない水分を飲み込む。それが、安寧を得るための儀式みたいに。

 がちがちと、歯が鳴る。

 筋肉が、収縮していく。

 寒い。

 この空間は、寒すぎる。

 温もりはいらない。

 そんな贅沢は、言わないから。

 とりあえず、灯りが欲しい。

 

 暗闇は、いけない。この世界は、俺が安心できる世界じゃない。だって、どこに何があるか分からない。分からないなら、何でもあるってことだ。あらゆる可能性が等価ってことだ。蓋を開けるまで、猫は生きているか死んでいるか分からない。蓋を開けるまで、そこに何があるかは不鮮明だ。そこに何がいても可笑しくは無い。ほら、そこにだって何かがいるぞ。乾いた瞳で俺を見ているぞ。瞼の下、眼球との間に瞬膜を持つ生き物だ。水平に開閉する、カーテンみたいな膜だ。それを動かしながら、俺を見ているぞ。ちろちろと、舌で空気を嗅ぎながら、俺を覗いているぞ。しゅうしゅうと、とぐろを巻きながら、今にも飛び掛ろうとしているぞ。

 

 駄目だ。駄目だ。

 不安だ。

 暗闇は、不安だ。

 灯りが欲しい。

 灯りが欲しい。

 視線は、暗闇に。

 泣きそうに、ただ、じっと。

 手だけを、彷徨わせる。

 枕横に置いてある電気スタンド、それを点けようとして、手を彷徨わせる。

 ここにあったはずだ。

 無い。

 それとも、あそこだったか。

 無い。

 あ、ここにあったはず。

 無い。

 

 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。

 

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 

 無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。無い。

 

 無い。

 どこにも無い。

 見つからない。

 灯りが、見つからない。

 暗闇が、膨張し続ける。

 

「――っ、ひぃっ」

 

 暗闇が、俺の中に入ってくる。

 眼球の隙間から。耳の穴から。鼻の穴から。食い縛った、歯の隙間から。

 ああ、死ぬ。

 狂う。

 汗が、止まらない。

 息が。

 汗が。

 拍動が。

 灯りが。

 何で。

 ここは。

 俺は。

 蛇が。

 ぱかり。

 と裂けた。

 笑みが。

 

 こ

 ろ

 そ

 う

 か

 。

 

 やめて。

 ああ。

 僕、は。

 

「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ばん。

 扉が。

 何かが、入ってきた。

 

「士郎!」

 

 やめて、やめて、やめて。

 

「士郎、何があったの!」

 

 許して、許して、許して。

 

「士郎、しっかりして、士郎!」

 

 御免なさい、御免なさい、御免なさい。

 

「大丈夫だから、ここには貴方を傷つけるモノはいないから!」

 

 勘弁してください、勘弁してください、勘弁してください。

 

「大丈夫だから、ここは大丈夫だから!」

 

 殺さないで、殺さないで、殺さないで。

 

「私が、守るから!」

 

 何かが。

 何かが、覆い被さってきた。

 生暖かい、何か。

 生暖かくて、柔らかい。

 化け物。

 化け物が、俺を殺しに来た。

 

「いいいいぃぃぃぃぃっ!」

 

 思いっきり、押し退ける。

 それは、容易く吹っ飛んだ。

 がしゃん、と、何かがぶつかる音。

 意外なほど、軽い。

 それでも油断なんて、出来ない。

 この、白一色に満たされた空間は、きっとこいつの領分だ。

 蜘蛛の、巣だ。

 蛇の、巣だ。

 逃げないと。

 逃げないと。

 這ってでも、逃げ出さないと。

 

「ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ、」

 

 足が、震える。

 手が、震える。

 それでも、前に。

 這いずりながら、前に。

 視界が、滲む。

 涙が。

 涙が。

 涙が。

 背中に、感触。

 捕まった。

 

「ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 反射的に。

 腕を。

 振り回して。

 ごつん、て。

 何かが、ぶつかって。

 それでも、

 この手は、

 はなして、くれなくて。

 

 拘束される。

 動けない。

 喰われる。

 噛み千切られる。

 

 いや。

 嫌だ。

 死にたくない。

 助けて。

 

「はひぃっ、はひぃっ、はひぃっ、はひぃっ!」

 

 涙が。

 涎が。

 鼻水が。

 

 動けない。

 動けない。

 動けない。

 

 手を、振り回す。

 足を、ばたつかせる。

 暴れまわる。

 全身を、跳ね回らせる。

 

 引っかく。

 噛み付く。

 殴る。

 蹴る。

 

 それでも。

 それでも、離してくれなくて。

 俺は。

 俺は、俺は、俺は。

 

「……落ち着いた?」

 

 ――。

 声。

 が。

 顔を。

 上げると、

 そこには、

 聖母がいた。

 清んだ、蒼玉の瞳。

 柔らかそうな、髪の毛。

 柔和な、唇。

 力が、抜けていく。

 虚脱感。

 安心感。

 涙が。

 やっぱり、涙が。

 ああ、何だ。

 ここは、安全だ。

 世界で一番、安全だ。

 よかった。

 

「……眠りなさい。まだ、疲れてるのよ」

 

 うん。

 ありがとう。

 ほんとうに、ありがとう。

 

 俺は、今度こそ泥のように、眠った。

 夢は、見なかった。

 

 

 痺れるような疲労に全身を撓ませながら、俺は目覚めた。

 瞼の奥が、すっきりしない。

 水晶体の裏に、何かが焼き付いているようだ。

 目を開ける。

 飛び込んできたのは、光。既に太陽が昇っているのかとも思ったが、淡いオレンジ色の光は、太陽のそれに比べて遥かに目に優しい。

 どうやら、灯りをつけっ放しにして眠っていたようだ。ひょっとしたら、不思議なくらい頭が重いのはそのせいだろうか。

 カーテンを開ける。

 外は、まだ暗かった。

 時間はいつ頃なのだろうか。

 じっと、外の暗闇を見つめる。

 

 どくり。

 心臓が、一度だけ、悲鳴を上げた。

 

 それが居た堪れなくて、俺はカーテンを閉めた。

 深呼吸。

 のそり、と体を起こす。

 その瞬間、神経そのものに針を突き刺したような痛みが全身を襲った。

 

「つうぅっ!」

 

 信じられないような筋肉痛。

 思わず声が漏れる。

 たとえ鉄人マラソンを完走したってこんな痛みはあり得ない。

 何だろう。

 俺は、何をしていた。

 いや、そもそも、ここはどこだ。

 何で俺はこんなところで寝ている。

 周囲を見渡す。

 洋風の調度。

 歴史を感じさせる家具。

 高い天井。

 

「そっか、ここ、遠坂の家だ……」

 

 少しずつ意識がはっきりしてくる。

 そうだ、今日は学校で。

 赤い世界。

 赤い視界。

 赤い、殺意。

 慎二。

 ライダー。

 藤ねえ。

 干将・莫耶。

 砕かれて。

 嬲られて。

 手も足も、出なくて。

 誰も、守れなくて。

 俺、は。

 

「――はっ、なんて」

 

 ――格好悪い。

 

 

 扉の向こうには、甘い香りが広がっていた。

 脳の奥を痺れさせるような、濃厚な香り。

 花畑のような、しかし炭を焦がしたようなその香りがアルコールのそれであると気付くまでには幾許かの時を必要とした。

 

「起きたんだ」

 

 目の前でソファにしな垂れかかる女性。

 猫みたいだ、と、埒もない感想を抱く。

 どうやら俺は疲れているらしい。そう自覚して、少しだけ笑う。

 

「ああ、お蔭様で、な」

「それ、皮肉?」

 

 彼女の手には、複雑な意匠を施したカットグラス。淡い人工の光が琥珀色の液体に飲み込まれ、彼女の手の中で複雑に揺れる。

 単純に、美しいと思った。

 

「酒、好きなのか」

 

 無粋な質問に、彼女は眉を顰めた。

 からり、と、乾いた、心地いい音が響く。

 

「何よ、人をアル中みたいに」

「違うのか?」

 

 ほんの少しだけ不機嫌そうに眉を顰めた彼女は、やや間を置いてから、自嘲気味に頬を歪めた。 

 

「これは唯の寝酒だけど……。似たようなもんね。欲しくなったら我慢ができないんだもの、何だって」

「俺も一杯もらえるかな」

 

 俺の、本当に何気ない一言に、彼女は心底驚いた顔を浮かべた。

 

「やめときなさい。美味しいものじゃないわ、これ。それに、あなた頭を打ってるでしょう」

「ああ、それでも、飲みたい」

 

 そう、と呆れながら呟いて、凛はサイドテーブルに置かれた洋酒のボトルに手を伸ばした。

 グラスは一つだけ。今、彼女の手に収まったそれだけで全てだ。

 凛は、それに琥珀色の液体と透明色の歪な固体を放り込み、人差し指でからからと掻き混ぜる。

 怪訝な俺の視線に気付いたのか、彼女は苦笑した。

 

「癖なのよ。気持ち悪かったら、飲まなくてもいいわ」

 

 彼女は、グラスからゆっくりと人差し指を引き抜くと、艶やかに濡れたそれを、丁寧に舐め取った。

 

「どうぞ。ちなみに、水割りなんて軟派な真似は認めないから、そのつもりで」

 

 ことり、と置かれたグラス。

 揺れる、琥珀色の液体。

 手に取って鼻に寄せると、濃厚なアルコールの匂いに、それだけで酔いそうになる。

 

「ウイスキーはね、色を味わって、香りを味わって、舌で味わって、熱を味わうんだって。たった一口で四度も楽しめるんだもの、お得よね」

 

 少し躊躇している俺の様子が可笑しかったのか、彼女はさも愉快そうに俺を眺めている。

 おそるおそる口をつける。

 少し粘性のある液体を口に含むと、鼻に抜けるアルコールの香りで咽そうになった。

 それでも、無理矢理に嚥下する。

 喉を、そして食道を焼くアルコールの刺激が、からからに乾いた体には優しくなかった。

 少しだけ、咽た。

 

「ふふ、だから言ったじゃない、美味しいものじゃないって」

 

 全くだ。

 こんなに、美味しくない。

 なのに。

 なあ、凛。

 お前、なんでこんなものを飲んでるんだ。

 飲まないと、寝れない夜が、お前にもあるのか。

 お前は、そんなにも――。

 

「……強いのになあ」

 

 彼女は、引っ手繰るように俺の手からグラスを奪った。

 

「でしょ?こんなに強い酒、今の貴方には優しくないわ。今夜は止めときなさい。いずれ、嫌っていうほど付き合ってもらうから」

 

 彼女は鼻に皺を寄せ、噛み付くような笑みを浮かべた。それは獰猛な肉食獣みたいな笑みで、でも、しなやかな猫が笑ったみたいだった。

 彼女は、俺から奪ったグラスを傾ける。

 彼女の、折れそうなくらいに細くて、陶磁器みたいに滑らかな白い喉が、ぐびり、と動く。その光景は、堪らなく扇情的だった。

 ここは気の利いたバーじゃないから、優しいジャズなんて流れてない。聞こえるのは、からりと崩れる氷の音と、かちかち忙しない秒針の溜息くらい。

 どれくらいの時間がたったのだろうか。

 俺の、乾いた喉が、霞んだ声を絞り出す。

 

「俺は、一体――」

「桜の話だと、あの後、私と話したすぐ後に気絶したって」

 

 霞がかった記憶が、ほんの少しずつ晴れていく。

 そうだ。

 遠ざかっていく凛の背中。

 動かない身体、そして鈍間な意思。

 桜の声。

 そして。

 

「なあ、凛。学校はどうなった。教えてくれ」

「人死には出なかった。たったの一人もね」

 

 たった一人も?

 でも、それじゃあ。

 

「慎二は――」

「それは、唯の失踪として処理されるわ。魔術師の死はいつもそう。私達は、死をすら隠さなければいけない」

 

 片頬を自嘲気味に歪めると、凛はグラスに残ったウイスキーを一気に口に含んだ。栗鼠みたいに頬を膨らまし、ごくり、とそれを飲み下して、酒精に塗れた熱い吐息を吐き出す。

「あいつ、魔術師に憧れてたみたいだから。最後は魔術師として処理された、彼の望みは叶ったのよ。ハッピーエンドよね、これって」

 凛は、自分ですら欠片も騙せないような嘘を吐いた。

 それが、俺には、堪らなく。

 痛くて、ただ、痛かった。

 

『僕は、お前が気に入らない』

 

 慎二は、そう言った。

 

『親無しの、魔術師の家系でもないくせに、サーヴァントを召喚しやがった』

 

 今にも泣き出しそうな、そんな張り詰めた声で。

 

『僕は、名門マキリの後継者だ。お前なんかとは違う、選ばれた人間だ』

 

 それだけが、あいつの支えだったんだろうか。

 

 人は、鈍感な生き物だから。

 相手の痛みなんて、分からない。

 せいぜい、分かった気になれるくらい。

 それだけでも、かなり高いハードルだ。

 慎二は、苦しんでいたのだろうか。

 きっと、俺があいつに殺意を覚えたのと同じ理由で。

 

 大事なものを、汚されたから。

 

 魔術師であることを宿命付けられた唯人からすれば、偶然、魔術師としての素養をもって生まれた唯人など、偶像を犯す侵略者にしか見えないのではないか。

 あいつは、きっと俺を憎んでいた。

 俺は、間違いなくあいつを憎んでいた。

 そして、俺は生き残ってあいつは死んだ。

 それだけ、なんだろう。

 それ以上は、侮辱だ。

 それ以上の思考は、侮辱だ。

 いいとか悪いとか。

 すべきだったとか、すべきでなかったとか。

 達成感とか、後悔とか。

 それらは、悉くが侮辱だ。

 何に対する侮辱なのかは良く分からないが。

 それでも、考えてしまう。

 あいつは、満足だったんだろうか。

 たとえ僅かでも、魔術師として生きて。

 そして、魔術師として死んで。

 満足、だったんだろうか。

 

『よけいなお世話です、衛宮先輩。自分の価値観ですべての人間が計れるとお思いですか。増長するのもたいがいにしなさい』

 

 どこかで聞いた、そんな台詞が、聞こえた気がした。

 

 

「俺が、殺したんだ」

 

 士郎は、目の下に大きな隈を作った彼は、夢を見るように呟いた。

 

「俺が、慎二を殺したんだ」

 

 私の目の前には、ガラスのテーブル、そして、ソファに腰掛けた士郎。

 彼は、項垂れたりしなかった。

 ただ、轟然と前を見て、事実だけを口にしていた。

 

「そう。私もよ。私も、慎二を殺したわ」

 

 彼は頭を振った。

 揺れる艶やかな赤毛が、まるで燃え盛る炎みたいだと思った。

 

「違う、俺が、殺したんだ」

 

 まるで駄々っ子だ。

 目の前にある愉快な玩具、それの所有権を主張する駄々っ子、今の彼はそんな感じ。

 だから、こんなにも簡単な勘違いをしている。

 

「士郎、それこそ違うわ。人の死は、その責任は一人が背負えば全てが終わるものじゃあない。一人が一人を殺してもね、百人が一人を殺してもね、結局、個々人が負わなければならない責任の量は変わらないのよ。嬉しいことは二倍に、苦しいことは半分こ、なんて甘ったれたこと、許されないの」

 

 私も士郎も慎二を殺そうとした。

 そして、結果的に慎二は死んだ。

 誰が殺したのか、私は知らない。士郎も、語らないだろう。

 だから、慎二を殺したのは、私であり士郎。

 共犯、そういうことになるのだろうか。

 

「でもね、士郎。私は彼を殺した責任は負うつもりだけど、罪悪感はこれっぽっちも抱いてない。私は彼を殺したけど、彼も私を殺そうとした。要するに戦争なのよ、これは。そして、私が勝って彼は負けた。死人に口無し。あいつがどんな恨み言を吐こうと、私の耳には届かないわ」 

 

 やや、間があって。

 彼は、その手を、白くなるくらいに強く握り締めて。

 そして、言った。

 

「……凛は、強いな」

 

 彼が、やっとの思いで紡ぎだした、一欠けらの糖分も含まない、一欠けらの言霊。

 ブラックのコーヒーよりも、苦くて、酸っぱい。

 賛辞であり、侮蔑の言葉。

 

「……そうね。それが、魔術師の強さよ、きっと。あなたも、魔術の世界に身を置くつもりなら――」

 

 強くなりなさい、と。

 

 何故、私は言えなかったのか。

 

「まだ、頭が重い。詳しい話は明日教えてくれ」

「そうね、私もそのつもりだった」

 

 士郎はゆっくりと立ち上がった。

 思ったよりも、大きかった。

 ほんの少し、身長が伸びたのだろうか。

 

「そういえば、どうしたんだ、その傷」

 

 思い出したかのように、彼が呟く。

 そういえば、今の私は傷だらけだった。

 さっき鏡で見たら、青痣だらけの酷い顔だった。

 そんなことも忘れて舞い上がっていたのだろうか。

 我ながら馬鹿馬鹿しくて、笑えた。

 

「野良犬を抱き上げようとしたら暴れられてね。性に合わないことをすると駄目ね、ホント」

 

 ふうん、と、彼は意外そうに声を出した。

 

「そうか、気をつけろよ」

 

 彼はゆっくりと後ろを向いて、ドアの方に歩いていった。

 私は、じっと、その背中を見つめる。

 彼はドアノブに手を掛けると、思い出したように振り向いて、そしてこう言った。

 

「でも、ずいぶん暴れたんだな、その犬」 

 

 その惚けた表情が可笑しくて、私は笑いを堪えるのに苦労した。

 

「そうね、酷く脅えてたの。でも、可愛かったわよ」

 

 ふうん、と彼は呟いて。

 やがて、廊下にその姿を消した。

 

「――本当に、可愛かったんだから」

 

 私の呟きは、誰も聞かなかったと思う。

 静かな夜に、そう願った。

 

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