FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
interval4 Mr and Miss
私は、椅子の上で目を覚ました。
かっちかっちと、古臭い置時計の秒針の音が聞こえる。
いつも、私の安眠を妨げる、音だ。
それを奏でる無神経な古時計が、私は好きではない。
――こんなもの、早く捨ててしまえばいいのに。
夢現の心地の中、そんなことを考える。
如何に古く、如何に価値があろうと、私自身がその価値を認めていないのだ。
好事家など、いくらでもいる。彼らに譲り渡したほうが、時計のためであり、世の為であり、何より私自身のためだ。
それでも捨てないのは、父のためである。正確に言うならば、父との思い出のためか。
父は、遠い異国で生まれたらしい。そして、この古時計は父の生家から持ちだした数少ない思い出の品、とのこと。これを見上げるときの、彼の優しい瞳、常の彼からは在り得ないそれを、今でも悠々と思い出すことが出来る。
かっちかっちと、針が進む。
早く起きろと、私を急かす。
早く生きろと、私を急かす。
そして、早く死ねと、私を急かすのだ。
私は、苦笑した。
そんなに急かさなくても、人は死ぬ。
どんなに頑張っても、人は死ぬ。
あっさりと。
何億の財産を築こうが、何百年生きようが、どれほど深く魔道を極めようが、人は死ぬ。
それは変わらない。
人は、死ぬのだ。
そんなことに気付くまでに、これほど長い時間を費やしてしまったことが、我ながら信じ難い。
それでも、気付かずに死ぬるよりは、遥かにましであろうか。
そんな、起きぬけの思考。
もやもやとした、不快な思考。
それを振り払いながら、ゆっくりと目を開ける。
薄暗い部屋だった。
窓の外はまだ暗いが、それは太陽の進軍を予感させる類の暗さである。
おそらく、朝なのだろう。
首が痛い。
不自然な姿勢のまま寝てしまったからだろうか。
じくじくと痛むそこに、手を当てる。
汗に濡れた髪が、冷たい。
体を僅かに身動ぎさせると、背もたれに張り付いた衣服が、べりべりと剥がれた。
胡乱な意識。
しかし、不思議と、身を切り裂くような空腹は感じない。
なるほど、どうやらこの目覚めは一度目ではないようだ。
辺りには、濃厚な鉄の香り。
方向性を定めて考えてみれば、口中にも痺れるような生肉の残滓がある。
それを舐め取りながら、自分に呆れた。
つまり、食事を終えた後に二度寝をしてしまったという訳か。
しかも、わざわざ椅子の上で。
そういったことは初めてではないにせよ、自己嫌悪は避けられない。
はあぁぁ、と溜息を吐いてから。
もしやと慌てて、口の辺りを拭う。
制服のブラウス、その白い袖には、紅く着色された涎が、べったりと染み付いた。
再び溜息を吐く。
唯一の救いは、こんな無様を誰にも見られていないことだろうか。
「主よ」
そんな私の、唯一にしてささやかな望みは、爽やかな朝の目覚めには優しくない、白い仮面の髑髏によって破られた。
しばらく、見つめあう。
彼は、中腰。
私は、椅子に座って固まったまま。
それでも、彼の視線のほうが遥かに高い。
その視線。
そして、無言。
その空気が。
なんていうか、もう。
「……見ましたか」
硬い硬い、私の声。
それでも、彼の纏った空気は変わらない。
やがて、申し訳ないように声を滑り出させる。
「……すまない、しばらく前から私はここにいた。それだけは伝えておこう」
なるほど、婉曲な言い方だが、要するに見たわけだな。
涎を垂れ流す無様な寝顔を、こいつは眺めていたわけだな。
顔に血が集まっていくのが分かる。
心臓が、ばくばく鳴っている。
とりあえず、為すべきことは一つ。
大きく腕を振りかぶって。
高らかな音が、暗い屋敷に響いた。
「……主殿は、武術家であらせられるか」
不躾な質問には、不躾な対応を。
無言で、着替える。
汗が、凄い。
下着が、水浴びをしたみたいにぐちゃぐちゃだ。
衣服だけでなく、椅子に備え付けられたクッションまでもが重く湿り気を含んでいる。
まるで悪夢に魘されたかのようである。
そこまで考えて、私の頬は、自嘲気味に歪んだ。
悪夢、か。
懐かしい響きだ。
幼い頃の私の、唯一にして無二の友。
それが私の眠りを邪魔しないようになってから、一体幾年の月日が流れたのだろうか。
切欠は容易に思い出すことが出来る。
彼と再会してからだ。
つまり、約三年の月日が流れた計算になるか。なんにしても、現金なことだ。
悪夢は、そしてそれを齎す夢魔は、かつて私の友だった。もっとも、あちらがどのように捉えていたのかは知りようが無いのだが。
少なくとも、彼らは私の枕をその住処に定めてはいたようだ。
枕。
それが濡れなかった夜など、無かった。
汗で、涙で、そして吐瀉物で。
目覚めれば、常に私の枕は濡れていた。
故に、子供の頃の私に与えられたピローケースとシーツは、黒く分厚いゴミ袋だった。毎朝、反吐に塗れた汚物を洗濯する手間を考えると、当然の選択と言えるかも知れない。
そして、目覚めれば、口の端に乾いた胃液を張り付かしたまま、私は教会に走ったのだ。涙を流しながら、それでも悪夢の内容を彼に聞いてもらうために、必死で走ったのだ。
己の罪を懺悔するために。
彼は、優しくそれを聞いてくれた。
涙で声を詰まらせ、しゃくりあげながら話す私を急かしたことなど一度たりとも無い。
優しく、静かに私の話を聴き、そして容赦なく私を弾劾した。
笑顔のまま、私がいかに罪深く、どれだけ地獄に堕ちるに相応しいかを訥々と語った。
地獄で亡者が如何様に遇されるかを高らかに語り、その魂の苦痛の程を幼子にも分かる優れた比喩を用いて説き聞かせた。
そして、彼の説法を聞いた後で。
ようやく、私は恥知らずにも安心するのだ。
なんだ。
私が毎日家で受けている教育に比べれば。
地獄とは、なんとも優しい世界なのだな。
と。
「主殿」
気付けば、彼の顔が目の前にあった。
私の身長を考えれば、それでも彼は中腰だ。
「一体どうされた。昨日の戦の疲れが出たか」
おどろおどろしい仮面を付けたまま、軽く首を傾げたそのしぐさが、ひどくユーモラスで。
私は、笑いを堪えるのに苦労した。
それでも彼には私の感情が伝わったのだろうか、幾分不機嫌な声が、した。
「……私は貴方を勝ち上がらせるために、無能非才の身ながら微力を尽くしている。それが不満であるというのならば、それは私の不徳の致すところ。しかし、それでも相応の働きには、相応の敬意が払われるべき、そうではないか、我が主よ」
こんなの、笑うなと言う方が無茶な話だ。
私は、笑った。
久しぶりに、腹の底から。
彼がおかしかったのか、それとも自分がおかしかったのかは不分明であるが、それでもおかしかった。
本当に、はち切れそうなくらい、笑った。
最初のうちは不機嫌そうに私を睨みつけていた彼だが、そのうち諦めたのか、溜息と共に床に腰を下ろした。
そうすると、流石に視線は私のほうが高くなる。だからどうということもないが、彼のつるりとした頭を撫でたくなる衝動と、私は戦わなくてはならなくなった。
「……満足であるか」
やはり不機嫌そうな、しかし達観したかのような声。彼の生前の経歴、そして英霊としての現在を考えるならば、小娘に腹を抱えて笑われた経験など、初めてであろう。
しかし、乙女の寝顔を無粋にも盗み見をしたのだ。これくらいは我慢してもらおうではないか。
後から後から涌いてくる笑いの衝動。
それを必死の思いで押し殺し、私は言った。
「……相応の働きには相応の敬意が払われるべき。その言、至極もっとも。ならば、相応の罪には相応の罰があるべき、そうは思いませんか?」
くすくすと笑いながら、そう言った私を。
彼は、さも不満だ、そういうふうに、見つめていた。
「なるほど、主殿の寝姿を許可無く覗いた罪の報い、というわけか。しかし、先ほどの振り打ち、常人であれば歯の二、三本は砕けているぞ。やや罰が勝ちすぎる、そうではないか?」
「そうですね、ですから私は優しい、そう思いませんか?」
質問に質問で返す、優しい会話。
そして、私の言葉に。
彼は、苦笑した。
「なるほど、全くだ」
彼が笑ったところは、初めて見た。
なるほど。
「貴方も、笑うのですね」
彼は、答えなかった。
「で、探索の収穫はいかがでしたか」
これが、もっとも大事なところだ。
彼は、結局戦場に現れなかった。
私が下した指示は『情報収集は可能な限り手早く終え、戦場に急行すること』。
少なくとも、そのうちの一つは達成されていない。
ならば、もう一つの戦果はどうであるか。
例え私でなくとも、気になるところであるはずだ。
「……先ほど大口を叩いておいて汗顔の至りではあるが、それほど目立ったものは見つけられなかった。怪しい箇所は幾つも存在したが、それらには悉く魔術的な施錠が為されていた。すまないが、気配遮断のスキルのみで誤魔化せるような、そんな代物ではなかったのだ」
予想はしていたことだが、それが実現することを望んでいたわけではない。
だが、このことをもって彼を糾弾することはできまい。
もし、彼以外の何者かに為させれば遥かに上手い結果を残すことが出来た、そういう事情があれば別段、彼以外の何者にも為せなかったであろうことについて、彼を糾弾することは出来ない。
彼に責任は無い。少なくとも、私のそれよりは遥かに少ない。
「仕方ありませんね。万事が上手く運ぶはずも無い。これは私のミスです。貴方が恥じ入ることなど、何一つ無い」
その言葉に、彼の長身は不思議なほど縮んで見えた。
「重ねて、すまぬ。魔術的な価値のある、しかもめぼしい物といえば、あったのはせいぜいこれくらいのものか」
そう言って、彼は懐から小さな包みを取り出した。
彼の手にはすっぽりと収まる、しかし私の掌には少し大きすぎる程のサイズ。
どこかで、しかもつい最近、その大きさの包みを、私も持ったことがある、そんな気がした。
どくり、と心臓が鳴った。
引っ手繰るように、その包みを受け取る。
震える手で、中身を弄る。
それは。
その中に入っていたのは。
「……確認します。アサシン、貴方がこれを見つけたのは、昨日、遠坂の家で、ということで間違いありませんね」
「それ以外、どこがある。私が探索したのは遠坂邸のみだ。そこ以外にこれが存在し得るのか?まさか、同じ世界に同じものが二つも存在するはずがあるまい?」
頬に、奇妙な力が入っていた。
指を、そこにもっていく。
そこには、割れるような、深い笑みが、刻まれていた。
なるほど、私は笑っていたか。
笑うしか、ないか。
ヨハネからの報告。
そして、アサシンが齎した、この遺物。
線は、一つに繋がった。
なんとも、滑稽で、無様で、乾いた嗤いしか齎さない結論ではあるが。
つまり、原因と結果が入れ替わった、そういうことか。
初めから、全てが、ずれていたか。
これが、真実か。
「……これが、物の縁、というものでしょうかねぇ……」
呟くような、私の言葉。
それに、彼が反応する。
「……何か、言ったか」
「いいえ、何も」
私は、それを握り締めた。
血が出るのも構わずに、強く、強く。
「アサシン、貴方は最高の働きを見せてくれた。これは、戦略上重要なだけでなく、直接的に私を救う、そういう類の物です」
どろりとした、私の濁った血液に濡れた遠坂の秘石は、なおも赤い輝きを放ち続けていた。