FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
その子供を初めて見たのは、時計塔の近くの路地裏だった。
本来なら、私はそんなところを通ることはないが、何か面白いものでも見つからないか、と思って気紛れを起こしてみたのだ。
派手な格好で男を誘う女の群れを無視し、下卑た笑いを浮かべて近寄ってくる男達を叩きのめし、私は失望した。私の勘も外れることがあるらしい。
次の角を曲がったらまっすぐ帰ろう。そう思って歩いた。
そうして、私は彼を見つけた。
彼は何かを食べていた。唇に紅を引き、本当に幸せそうに。
傍らには軟骨を齧り、髄を啜った骨が堆く積まれていた。
真っ赤に染まった両手と、死体のように青白い肌とのコントラストが毒々しい。
死徒の類かとも思ったが、どうやら辛うじて人間のようだ。
私は興味を持って、彼に話しかけた。
「あなたは、何故そんなものを食べているのですか」
彼は嬉しそうに目を細めて、こう言った。
オオキクナリタイカラ。
なるほど、確かにたくさん食べないと人は大きくなれない。当たり前の理屈だ。私は納得した。
「邪魔してごめんなさい。どうぞごゆっくり」
子供は嬉しそうに微笑むと、手に持った人間の頭部に噛りついた。
変わった子供がいるものだ。
私は自分の勘が外れなかったことに微かな満足を覚えつつ、少し遅めの帰路に着いた。
episode3 帰宅途中
ぶん、と。
意識のスイッチが入った。
夢を見ていたようだ。
果たして、どんな夢だっただろうか。
ほら、すぐに思い出せるはずなのだ。喉の先まで出てきている。ええっと、なんだっけ…。
ずいぶん遠くまで逃げてきたじゃねえか人は普通長所によって成功し欠点によって破滅するでもあなたは長所によっても欠点によっても死を義務付けられていたそれが哀れといえば哀れ姉さんこの人を弔いましょうええそうねせめて看取るくらいはしてあげましょうまったく偽善もここに極まれりねやめてよねなんだってアンタがいやあああああせんぱいいいいいなんでなんでせんぱいがここにいるんですかねえなんでですか桜どきなさいねえさんねえさんせんぱいがせんぱいが時計塔の試験の前哨戦そう思えばちょっとはもったいなくないかな帰るわよ桜ありがとうございます姉さん――。
あ、そうだ。
ぴかん、と。
頭の中で、漫画みたいに明かりが灯ったその瞬間。
死ぬほどの吐き気と、猛烈な咳気が俺を襲った。
「がはっ、ごっ、げほ、ごほ、ごほっ!」
まずい
「げほっ、げほ、げほ、げほ、げえっ!」
こきゅうが できない
「うええぇっ、がは、がっ、が、が、ぎ…」
さ んそ が
「………ひゅうぅぅぅ、がはっ!ごほっ、ごほっ!」
駄目だ。
やっとの思いで吸った気体が逃げていく。
「がっ!がはっ、ごほごほごほっ、ごほっ!」
何を吐き出そうとしているのか、身体が尋常ではないほどの拒絶反応を示している。
「ごほ…ひゅうぅぅ、…ごほ…かはっ…」
それでも、何とか落ち着いてくれた。
「ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ」
喘ぐように、貪欲に酸素を取り入れる。
普通に呼吸が出来ることにこの上ない快楽を感じる。
健康は失って初めて大事だと気付く。
使い古されて、既に誰にも感銘を与えることのなくなった当たり前の言葉を噛み締める。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
どんな嵐よりも荒れ狂っていた呼吸が、なんとか正常に近づいていく。
メーターを振り切っていた心拍数も、ようやくローギアへのシフトを認めてくれたようだ。
身体の緊張が解れていく。
知らぬ間に胎児みたいに丸まっていた身体を伸ばし、大の字に仰向けになる。
人工的な明りの存在しない空間、無機質な天井、皮膚を切り裂く冷たい空気、背中に伝わる濡れた感触、咽返るような鉄の香り…。
徐々に、意識を失うまでの出来事がフラッシュバックされていく。
掃除。
戦闘。
制止。
逃亡。
急襲。
紅い槍。
冷たい感触。
暖かい感触。
死。
ああ、そうだ。
俺は、殺されたんだ。
胸を貫かれて、殺された。
そう考えると、妙に乾いた笑いが込み上げてきたが、それは頬に嫌な歪みを作っただけでその役割を終えた。
殺されて、目が覚めたときに最初に考えたのが、さっき何の夢を見たか、か。
「くだらない」
吐き捨てるように呟く。
よっ、と。
勢いをつけて起き上がり。
そのまま、吐いた。
「おええぇぇっ!」
吐瀉物が廊下を汚していくが、そんなこと気にしている余裕はない。
神の前に頭を垂れる罪人の様に蹲って、胃液を吐き続ける。
「げえ、げぇえ!」
胃酸が喉を焦がしていく。
痛みというよりは熱さ。
その熱が、何よりも自分の生を実感させてくれた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
……どれくらい時間がたったのか、ようやく胃の痙攣も収まった。
口の中に残った反吐を、唾と一緒に吐き出す。
「ちくしょう、夢じゃ…」
ないのか。
槍。
紅く、濡れたように妖しく輝く穂先。
脳に錐を打ち込まれたような、冷たい声。
怖かった。
そうだ。
何よりもあの声が怖かった。
なぜなら、あの声には何もなかったからだ。
憤怒とともに人を殺すなら、わかる。
嫌悪とともに人を殺すなら、まだ理解できる。
歓喜とともに人を殺すなら、それでもそれは人の業だ。
だが、あの声には何もなかった。
憤怒も嫌悪も歓喜もなく。
躊躇いも慈悲も躊躇もなく。
己に課せられた義務を遂行する、その意志だけがあった。
だから、あれは人じゃない。
あれは、きっと化け物だ。
冷え切った身体を無理やり起こす。
ひどい立眩み。そりゃそうだ、なんてったって体に流れてるガソリンの量が絶対的に不足している。廃車寸前のボロ車、しかもガス欠寸前、そりゃあ言うことも聞いてくれないだろう。
それでも何とか立ち上がる。
背中が冷たい。制服に染み込んだ血液のせいだろう。なるほど、血潮が熱いのは体の中で流れているときだけか。
あらためて周囲を見渡すと、思わず苦笑してしまうほど酷い惨状だった。流れ出た血は大きな水溜りを作り出し、鉄の錆びた匂いと反吐の饐えた臭気が相俟って、これは宛ら地獄絵図だ。
「間違いなく警察呼ばれるな…」
警察が呼ばれたら、きっと部活は中止になるな。
なら、桜が悲しむか。
「くそ、何やってんだ」
掃除用具の入ったロッカーを漁りながら、俺は自身に毒づいた。
◇
暗いの住宅街を、まるで幽鬼のように歩く。
人の気配がする度に、車のエンジン音が近づいてくる度に、鼠みたいに身を隠す。
幸い、ここ最近続いた異常な事件のせいか、人通りは少ない。もし普通の神経をした人間が今の俺の姿を見たら、即座に110番をダイヤルすることは間違いないから、不幸中の幸いといえるかもしれない。
足取りは重い。
血液の抜けた体は、減少したはずの質量と反比例するかのように鈍重だ。
引きずるように足を前に出し、真実後ろ足を引きずりながら体を前に運ぶ。
「はぁ、はぁ、っ…そったれ…少しは鍛えてたのにな」
何も、役に立たなかった。
筋力も、体力も、魔術も。
あの青い男の前では、あらゆるものが無価値だった。
火を噛むように歯軋りをする。
もし、あの場に桜がいたら。藤ねえがいたら。代羽がいたら。
俺は、彼女達を守れたか?
否。
絶対に、守れなかった。
俺に出来るのは、順番を変えることくらいだろう。
桜達を生贄にして、自分の死を僅かばかり先延ばしにするか。
自分が生贄になって、彼女達に僅かばかりの生を謙譲するか。
いや、そんな選択権すら与えられないかもしれない。
そこまで考えて、再び嘔吐した。
「ぐえ」
まるで酔っ払いのように、電柱に寄りかかりながら吐く。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、っ」
くそ、とにかく今は家に帰ることだ。
あの野郎に一発お返しするにしても、傷を癒してくれた誰かを探すにしても、今の状態ではままならない。
とにかく家に帰って休まないと、話にならない。
寒さと、疲れと、それ以上の何かに震える膝を叱咤して、無限みたいに続く細い路地をひたすら歩いた。
どれくらい歩いたのだろうか。
霞む視界が捕らえたのは、大仰な門構え。
明りの点いていない侘しい玄関が、この上なく恋しい。
手をポケットに突っ込み、感覚を失った指先で鍵を探す。
開錠し、倒れるように扉を開ける。
「は―――ぁ」
漏れたのは安堵の溜息。
そのまま床に腰を下ろし、ゆっくりと先ほどの記憶をなぞる。
「あれは、何だったんだ…」
明らかに人ではなかった。
もっと怖いものたち。
直感的に悟る。この町の異常は、あれが引き起こしている、と。
ガス漏れ、通り魔、そして失踪事件。
それに、自分は関わってしまった。
どうする?
しばらく学校を休んでどこかに隠れるか?まさか半永久的にこの異常が続くわけでもないだろうし、そこまであの化け物も追ってこないだろう。安全を求めるなら間違いなくそうすべきだ。
だが、それでいいのか。
桜はどうなる?
藤ねえはどうなる?
一成は?慎二は?代羽は?美綴は?。
とにかく。
そんなの、決まってる。
「俺は――」
その時。
からん、からん、と。
招かれざる客の訪問を告げる、乾いた音が鳴り響いた。
(あとがき)
次回から本編と違う展開になるかと思います。そういったものに嫌悪感を抱かれる方は注意してください。