FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
たんちょうな歩調でたんちょうな色彩のまちを歩く。
あしどりは重い。
まるで体重が倍かそれいじょうになったみたいだ。
みみに聞こえるのもたんちょうな音だけ。
ちかくで何かがはぜる音。
とおくで何かがはぜる音。
それらに時々いおんが混ざる。
それはすくいを求めるひとの声。
あるいは人だったものの声。
それらをむししてぼくは歩く。
だってぼくは子供だから。
手だってこんなに小さいから。
重たいにもつも背負っているから。
あなた達をたすけてあげられない。
ごめんなさい、ごめんなさい。
episode45 局地的で意味の無い戦い
切嗣が建てた、道場だった。
広さは……正確には分からない。三十畳ほど、だろうか。ひょっとしたらもっと広い気もする。少なくとも、これだけの規模の道場を所有している個人というのは、かなり珍しい部類に入るのは間違いないだろう。いや、そもそも、どれほど規模が小さくとも道場というものを所有している個人というのは、珍しい存在だ。
よく磨かれた、艶やかな床。それでも、微かに残った汗の残滓が、ほんの少しだけ鼻につく。
傍らには、竹刀が数本立て掛けられている。柄をくるんだ鹿の皮が、程よく使い込まれている。握れば、この上なくはっきりと馴染むのだろう。
広い、道場。
だからといって、例えば空手や剣道の指導に使われているわけではない。
あくまで個人の趣味で建てられた、極めて生産性の薄い空間だ。もっぱら使うのは俺一人、たまに藤ねえに剣道の稽古をつけてもらう以外、他の人間がここを使うことは少ない。
それでも、例えば、学校のような公共のスペースでもこれだけ立派なものはそうそう見かけるものではない。それは、自慢というよりは、こんな酔狂なものを自宅に作った切嗣に対する呆れからくる気持ちが強い。
木の板で出来た、静謐な空間。
しかし、曙光、そう呼ぶにはやや勢力が強くなりすぎたか、とにかく太陽の光だ、それに照らし出されたその風景に、どこか違和感を覚える。何と表現したらいいか迷うが、そう、曇っている、辛うじてそのように表現出来るかも知れない。たった二、三日手入れを怠っただけなのに、どこかに寂れた雰囲気があるのだ。人の住まない家屋はその劣化が激しいというが、なるほど、と感心した。
その、ほぼ中央部に、俺とアーチャーは立っている。
何をする訳でもない。
ただ、立っていた。
風景に変化は無く、会話も無い。
そうすると、自然と感覚が鋭くなってくる。
視界が、鮮明に。
聴覚が、明敏に。
触覚が、ひりつくほどに。
そして、それらが捉える人の気配は、三。
俺。
アーチャー。
そして、入り口で佇む、セイバーだ。
誰もが、無言。
しかし、やがて、その中の一人が、ゆっくりと口を開いた。
「来い」
その言葉からは、あらゆる要素が省かれていた。
主語が省かれていた。目的語が省かれていた。修飾語が省かれていた。
文法だけでなかった。
感情が省かれていた。タイミングが省かれていた。儀礼が省かれていた。
そして、意志だけが、あった。
来い、と。
かかって来い、と。
今から、俺とお前は戦うのだ、と。
無手のまま、自然体で立つ目の前の男は、そう言ったのだ。
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
目の前の男は狂ったのかと、そう思った。
考えてみれば、分かることだ。
今は、午前の十時くらいか。陽は徐々に天頂へと昇り、時計の針はその動きに同調するかのように歩を進めているはずだ。
作戦の開始時刻は、午後二時。それほど余裕がある訳ではない。
そして、やらねばならないことは山ほどある。こちらから攻め込むのだ、入念な打ち合わせは必ず必要になるだろうし、道具の調達等、物質的な意味での準備にだって時間はかかる。体力や魔力だって回復させなきゃいけない。
『そこの臆病者に、軽い喝を入れてやろうと、そう思っただけだ』
その言葉を聞いたとき、俺はアーチャーに説教でもされるのかと思った。なんで衛宮邸に移動するのかよくわからなかったが、この場所に辿り着いても、俺は確かにそう思っていたのだ。
しかし、これは違う。
今から交わされるのは、会話などでは断じてない。
会話が交わされるのだとしても、それは音を用いた会話ではない。
痛み。或いは、もっと原始的なもの。
それを介した会話が行われようとしているのだろう。
「来い」
アーチャーが、焦れたように、再び同じ言葉を口にした。
だが、俺は動けない。
ただ、『来い』と言われても、果たして何をしたらいいのか、分からない。
本当に、ただ近づけばいいだけなのか?
それとも、殴りかかればいいのか?
まさか、真剣で斬りかかって来い、そういう意味ではあるまい。
そう考え出すと、体が動かなくなった。
口を開こう、そう思った。
分からないことは聞けばいい、と。
その時、目の前の男が笑った。
「鈍いな」
低い、声。
明らかな蔑みが、ワイシャツに飛び散った墨汁のように滲んでいた。
「敵の前でも、そうなのか?愚図め、何故わからん……!」
微笑いながら、怒っていた。
彼の怒りが、彼自身の怒りを炙っていた。
炙られた怒りが、なお一層、彼の怒りを燃え立たせるようであった。
そうして燃え上がった火炎が、彼の内で渦巻いているみたいだった。
先ほど開けなかった口を、再び開こうとした。彼の意図を、問いただそうとしたのだ。
その瞬間、頬を叩かれていた。
彼我の距離は、それ程近かったわけではない。少なくとも、手の届くような距離ではなかったはずだ。
一瞬で間合いを詰められていた。
そして、掌底で頬を殴られていた。
容赦無い一撃だった。
それだけで、体が泳いで、地に伏せた。
歯を食い縛っていなかったせいで、頬の内側が犬歯とぶつかって、ざっくりと裂けた。
蹲るように床についた手、その横に、ぼたぼたと、赤い血溜りができていた。
「これでもまだわからんか?なら、次はその指をへし折ってやろうか?それとも、藤村と言ったか、あの女の手首でも切り取ってくれば、貴様は本気になるのか?」
どくり、と。心臓が大きく脈打った。
血が、全身を駆け巡る。
どくどくと、何かが体を煮た立たせる。
アドレナリン、ドーパミン、よくわからない脳内物質。
それが、痛みを忘れさせ、体を立ち上がらせる。
奴は、無表情で、突っ立っていた。
自然体。
塵ほどの余分な力も含まれない、理想的な立ち方。
それを、睨みつける。
「ほう、先ほどとはまるで別人だな。やはり、近しい者の危機こそが、貴様をもっとも奮い立たせるか」
「てめえ、なんのつもりだ」
痩せ蛙のような殺気を込めて、奴を睨む。
しかし、奴の表情は、いっそ涼やかに変わっていった。
「それで、どうするのだ?立ち上がるだけであれば、起き上がり小法師と同じだろうが。貴様は、何をするために起上がったのだ?」
拳を、強く握り締める。
足を、やや内股に。
腰を落として、腕を上げる。
握り拳で、頭部を挟むように。
右足をやや引き、左足を前に出す。
「ふん、形だけは中々」
「っしゃああ!」
左の拳を、まっすぐ奴の顔面に。
奴は、事も無げにそれをかわす。
次は、返しの右ストレート。
左のジャブで溜めを作った、体重の乗った一撃。
しかし、それも奴に届かない。
「ふむ……」
アーチャーはそう呟いた。
その呟きを聞いた直後、俺の視界は激しく乱れた。
そして、背中に衝撃。
「ごはぁ!」
熱い呼気が漏れる。
漏れるだけ。
吐き出した分の空気を、肺に吸い込むことが出来ない。
横隔膜が、己の作業を放棄している。
投げ飛ばされた。
痛みと苦しみに身を捩る。
ちかちかと意味の無い点滅を繰り返す視界の中に、見下ろすように俺を眺めるアーチャーがいた。
無表情。
奴は、無表情。
無表情のまま、俺の鳩尾を、思いっきり踏み抜いた。
「げぼっ!」
衝撃が、背骨をすら貫く。
肺腑に残っていた、極僅かな酸素、その1ccまでも、残らずに吐き出す羽目になった。
そして、反吐が出た。
朝食に食べた、コーヒーと、トーストと、ソーセージと、胃液の臭いがした。
こんなにも、胃の中に物が詰まっていたのかと驚いた。
そして、反吐で溺れるか、そう思った。
「げ…ひゅ…ひゅ…ひゅ…」
激しく咳き込むなんて、許されない。
鼠みたいに、細くて早い呼吸のみ、許される。
地獄の苦しみ。
涙が、我知らずに溢れてきた。
「セイバー」
声が、聞こえた。
直後、からり、と何かが転がってきた。
細長い、と思った。
それが何なのか、しばらく分からなかった。
「休め。次は、それを持ってかかって来い」
柄をくるんだ鹿の皮、程よく使い込まれた竹刀の柄から染みこんだ汗の匂いが漂ってきた。
十分後。
再び、俺とアーチャーは道場の中央で向かい合っていた。
俺の手には、使い込まれた竹刀。
奴の手には、何も無い。
俺の構えは、正眼。
切っ先の延長線上には、奴の目。
剣をそのまま突き出せば、奴の目をこの剣先が抉る。
そういう構えだ。
だが、奴は構えすらしない。
ただ、さっきと同じように、自然立ち。
もしかしたら、その立ち姿自体が構えなのかも知れないが、少なくとも特別な姿勢を取る事はしていない。
視線は、あくまで穏やかに。
しかし、俺の後ろにある何か、俺そのものよりも重要な何かを見つめるかのように。
「来い」
奴がそう言った瞬間、俺は飛び掛ろうとした。
いや、それは正しくない。
俺が問答無用で飛び掛ろうとした、まさにその瞬簡に、まるでその拍子が分かっていたかのように、奴が言ったのだ。
『来い』と、事も無げに。
その言葉で、俺の出足は阻まれてしまった。
読まれている、そう思った。
喉が、スポンジで水分を拭き取ったみたいに、からからだった。
体中から、ぬるぬるした嫌な汗が噴き出した。
飲まれている、そう思った。
動けない。
動けば、読まれる。
読まれれば、かわされる。
かわされれば、またさっきの地獄を味わう羽目になる。
それは、紛れも無く――。
「来い」
アーチャーが、再び言った。
これが、最後通告だと。
その瞳が、そう言っていた。
「せいやあああ!」
声が、出た。
声だけが、出た。
悲鳴みたいな声だった。
藤ねえに教えてもらった。
怖いから、声を出すのだ、と。
目の前の相手が恐ろしくて堪らないから、それを倒すために声を振り絞るのだと。
恐怖で萎縮した身体、それを前に進ませるものが、声だと。
しかし、出るのは声だけだった。
足は、一歩も前に出てくれなかった。
「来ないのか」
奴の体が、軽く前方に傾いた。
それだけで、俺の身体は容易く後方に飛んでいた。
まるで、空気の壁に弾き返されたみたいに。
間合いが、広がる。
奴は、無表情のまま、広がった間合いを、広がった分だけ詰めた。
「貴様の敵はどこにいる。貴様の目はどこについている」
やはり、怒っていた。
何に怒っているのかは不明だが、しかし奴は怒っていた。
逃げよう、そう思った。
この手に握った、如何にも頼りない棒切れを放り出して、一目散に逃げようと。
逃げなければ、殺される、と。
「逃げるなよ」
「――」
「逃げれば、殺す」
その言葉で、たった一つの希望は断たれた。
つまり、こういうことだ。
呆れるくらい、分かりやすい答え。
つまり。
「貴様がこの道場から無事に出たければ、俺を倒すしかない、そういうことだ」
なんと、シンプルな。
しかし、なんと無茶な。
人間が、サーヴァントを倒すなんて、不可能だ。
昨日、それを嫌というほどに味あわされた。
何をしても通用しなかったのだ。
だが、相手の全てが、俺には通用したのだ。
大人と子供、その程度の力の差ではない。
植物と動物、それくらい離れていると思った。
そして、事実はそれ以上だったはずだ。
だから、俺は目の前の男に勝てない。
勝ち得るはずが無い。
「いい加減わかっただろう、己の置かれた状況が」
分かった。
ああ、分かってるさ。
これだけお膳立てされれば、流石に分かる。
あんたを倒さなければ、俺は酷い目に合う、そういうことだろう。
そうだ。
倒すしかない。
選択肢は、初めから無かった。
話し合いとか、逃亡とかは、初めから許されてなかった。
なら、単純な話だ。
前に出るしかない。
前に出て、この竹刀を振るうしかない。
よし。
そう考えたら、身体が軽くなった。
肩の力が抜けた。
そして、驚いた。
肩が、あまりに力みすぎたせいで、痺れるくらいに重くなっていた。
これじゃあ前に出ることなんてできるものか。
そう考えて、少し苦笑した。
「……大したものだ」
アーチャーが、吐き捨てるように呟いた。
前に出る、そう決めたら、再び選択肢が増えた。
如何に攻めるか、そう言う意味での選択肢は無限だ。
唐竹に振り下ろすか、逆胴を薙ぐか。
相手が攻めてこない以上、引き技や抜き技は使えない。
一番得意なのは、小手面だ。
藤ねえにも、何度か褒められた。
しかし、今は駄目だ。
そんなもの、こいつには通じない。
ならば、全霊の一撃を。
振りかぶって、振り下ろす。
それが一番相応しい、そう思えた。
だから、踏み込んだ。
前に出ようと、そう思った瞬間に身体が反応していた。
反応して、飛び込んでいた。
飛び込みながら、剣を振り上げていた。
振り上げながら、振り下ろしていた。
しかし、切っ先は空しく宙を切るだけだった。
奴は、やはり一歩後ろに、身をかわしていた。
「……ふむ」
その呟きを無視して、切り返すように股間を狙った。
奴は、それを半歩身体をずらして、かわす。
それでも俺は止まらない。
藤ねえに教えてもらった剣道の基本、それを全て忘れてしまった。
無茶苦茶に攻めた。
技術というよりは、本能だった。
それが、奴には蚊ほどの傷も付けることが叶わなかった。
そして、いつの間にか、天井を見上げていた。
仰向けに、倒れていた。
冷たい木の床が、火照った身体に、ひんやりとして心地よかった。
何をされたのか、全く分からなかった。
ただ、さっきに比べれば、ずいぶんと楽なものだと、何となく思った。
「しばらくそのまま休め。それと、前歯が折れているはずだ。元あった場所に差し込んでおけ。一分もすれば接着する」
口の中を、舌で舐めまわした。
ねっとりと、濃厚な鉄の味を舌先に感じることが出来た。
そして、ころりとした小石みたいなものが、転がっていた。
「次はそれを持ってかかって来い」
ごつり、と音がした
そこには、白と黒の短剣が、無造作に転がっていた。
震えた。
恐怖にではない。
歓喜だ。
この背を貫いて、なお身体を震わせる感情は、紛れも無く歓喜だ。
これほどか、と思った。
あの日、自分が作った紛い物とは、比べるべくも無かった。
そんなの、これに失礼だと思った。
比較すること、それ自体が天に唾吐く行為だと思った。
天井知らずだ。
これほどの贋作がこの世にあることが信じられなかった。
これに比べれば、俺の投影した干将・莫耶は、まるで風船だ。
形が膨らんだだけで、中身をちっとも伴っちゃあいない。
不躾に背伸びした子供、それくらいにみっともなかった。
「来い」
その、双剣。
自らの作り出した奇跡。
それを手にした俺を見て、やはり奴はそう言った。
一切の感情を排した、その瞳で俺を見た。
だが、俺は動けなかった。
先ほどとは違う感情だ。
恐怖。
恐怖で、俺は動けなかった。
「来い」
奴は、さっきまでと同じく、再びその言葉を口にした。
しかし、俺の身体は動けない。
今にも、震えだしそうだった。
歯がみっともなくガチガチと鳴りそうなのを、押し留めるだけで精一杯だった。
「くうぅっ」
怖かった。
何よりも、この剣が怖かった。
何でも切れる、そう思った。
この剣なら、あの化け物も倒せたのではないか。
そう勘違いしそうな自分が怖かった。
この剣に酔いそうになる自分が怖かった。
血を、それ自体を目的にして戦いそうになる自分が、何よりも怖かった。
「ふざけるな」
奴が、言った。
その声に、やはり何の感情も込めないまま。
「今まで、貴様の攻撃が一度として、俺に届いたか」
静かな声。
しかし、この広い空間を圧してあまりある、戦士の声。
そういえば、セイバーはどうしたのだろう。
俺の後ろにいてくれているのだろうか。
それとも、あまりに不甲斐ない俺を見て、呆れて帰ってしまったか。
それとも――。
「目の前の敵以外に意識を裂くとは、余裕だな」
太腿を、蹴られた。
太腿を、太い蛇が走り抜けた。
痛みで身体を構成した、黒く、太い、蛇だった。
それが、牙を立てながら、俺の太腿を犯していった。
「ぎ、あああ!」
膝が、何の抵抗も出来ないまま、かくん、と崩れ落ちた。
苦笑いすら、漏れなかった。
いっそ、見事なほどだった。
見事なまでに、股関節から下の感覚が、無くなっていた。
麻酔注射よりも強烈で、それよりも即効性。
ただ一発の、蹴り。
それで、この足が、断たれた。
「来い」
蹲った俺を、蔑視することも無く、初めて三度、奴はそう言った。
動きたくなければ、それでもいい。
二度と、動けなくしてやる。
そう、言外に言っていた。
「が……あ、あ、あ!」
いくら声を上げても、片足には力が入らなかった。
だから、もう片方の足だけで、無理矢理に立ち上がった。
痛いのが嫌だからじゃあない。
殺されるのが怖いからじゃあない。
目の前の男に、見限られるのが、怖かった。
それだけは、嫌だと。
この男には馬鹿にされたくないと。
ただ、認めて欲しい、と。
そう、思った。
「よし」
初めて、褒めてくれた。
歓喜。
涙が出そうだった。
「来い」
もう、待たせたくなかった
一秒だって、この男を待たせたくなかった。
まるで、恋人との待ち合わせ場所に走る中学生だ。
それが、失恋に繋がると、脅えている。
見放されると、恐怖している。
だから、振り回した。
この剣、この名剣には、如何にも不相応な剣技。
木の枝を剣に見立てて振り回す、チャンバラごっこに興じる子供と、何ら変わるところが無い。
感性のまま、振り回した。
胴薙ぎ。
奴は、下がる。
その空間を詰めつつ、突き。
奴は、半歩身をかわす。
回りこみつつ、切り上げ。
奴は、一歩後ろに引く。
身体を沈めて、足を狙う。
それも、かわされる。
どんなに攻めても、かわされた。
いなされることも、弾かれることも無い。
ただ、かわされ続けた。
◇
致命傷だ。
なるほど、弓兵の目は伊達ではない。
私は、彼に深く感謝の念を抱いた。
これでは、駄目だ。
この状態のシロウを戦場に連れて行けば、間違いなく死ぬ。
理屈ではない。
経験だ。
嗅覚、そう言ったほうが正しいかもしれない。
戦場に生きたもの、それだけが持ち得る、嗅覚。
死神。
その嗜好を嗅ぎ分けることの出来る、嗅覚。
それからすると、今の彼は大好物だ。
死神が、舌舐めずりをしている。
その大鎌を、今か今かと砥いでいる。
それ程に、今のシロウは致命的だった。
その剣技は、美しかった。
流れるようで、無駄が無い。
一つの動作が、そのまま次の攻撃のための布石として機能している。
双剣の一番の利点、変幻自在の、流れるような連撃。
その極意の入り口、彼はそこに立っているのかもしれない、それ程の攻撃だった。
あくまで一般人に限れば、今の彼を打倒し得る者は、ほとんど存在しないだろう。
しかし、一番重要なものが、欠けていた。
今の彼では、猫の子一匹殺すことはできない。
おそらく、無意識だろう。
しかし、怖くない。
彼の攻撃は、怖くない。
その意志は、勇猛。
剣筋は、致命的。
しかし、怖くない。
理由は明白だ。
浅い。
それでも、一歩。いや、半歩か。
浅い。
攻撃が、届いていない。
白打のときも。
竹刀のときも。
そして、あの双剣を手にした今も。
悉く、半歩、浅い。
だから、届かない。
どうしても、アーチャーの回避に追いつかない。
そもそも、アーチャーは本気でかわしていない。
本気でかわせば、シロウの攻撃がアーチャーに当たる筈が無い。
だから、アーチャはシロウのレベル以下に己の動きを抑えている。
だからこそ、哀れなのだ。
一般人程度に抑えた彼の動き、しかし、シロウはそれを捕らえることが出来ていない。
半歩、浅い。
原因は、分かっている。
腰が引けてしまっているのだ。
端的に言えば、いつでも逃げられる状態に己を置いている、そう言っていい。
だから、極微量の地点で、重心が崩れている。
前に進もうとする身体を、無理矢理後方に繋ぎ止めているのだ。バランスが崩れないほうがどうかしている。
故に、踏み出しが上手くない。
故に、半歩浅い。
故に、攻撃が、届かない。
理由は、はっきりしている。
そんなもの、彼の瞳を見れば、馬鹿でも分かる。
泣き出しそうな、瞳。
敵を睨みながら、しかし誰かの救いを求めるような、瞳。
恐怖。
今の彼は、恐怖に囚われていた。
それが、一番不味い。
戦場では、その感情が、一番死神に好まれる。
命を捨てることの出来ないものは、結果的に命を捨てる羽目になる。
勇猛と猪突は同義ではないように、慎重と臆病も同義ではない。
しかし、その意味を同じと誤謬した者は、間違いなく死ぬ。
戦場とは、そういう場所であり、今の彼は、臆病に支配されていた。
だから、私は弓兵に、感謝した。
◇
「もういい」
奴は、そう言った。
瞳に、深い感情を湛えさせながら。
俺には、その感情の種類が分からなかった。
失望、だと思った。
失望させてしまったと。
「まだだ、まだ――」
「もういい、そう言った」
奴は、くるりと後ろを向いた。
そして、事も無げに歩き出した。
もう、俺のことなんか、忘れてしまったみたいに。
出口のところに、セイバーがいた。
「分かったか」
「ええ、貴方に感謝を」
アーチャーとセイバーは、そんな、短い会話をかわした。
何がなにやら、分からなかった。
ただ、見限られたと。
そう思って、涙が溢れた。
悔しかった。
情けなった。
格好悪いと、そう思った。
「責任として、忠告しておく。今の貴様は、恐怖に捕らわれている」
背中を向けたまま、奴はそう言った。
「違う!たまたまだ!」
情けない声が、毀れた。
嗚咽に、震えていた。
自分さえ騙せていない、声だった。
それを、俺が笑っていた。
全身を震わせて。
恐怖と、安堵と、それ以外のどろどろした感情で、身を震わせながら、俺が俺を笑っていた。
「何度やってもかわらんさ。貴様は、一度恐怖に屈したのだろう?そういう男は、もう二度と使い物にならん。そういうものだ」
奴は、出口の所で振り返った。
嗤っていると思った。
嘲笑っていると。
この、情けない男を、嗤っている、そう思った。
だが、違った。
確かに、彼は笑っていた。
でも、そこに込められた感情は、嘲りなんかではなかった。
優しい、瞳。
慈しむような、瞳。
「恐怖とは、執着だ」
その声は、父親みたいに。
ただ、優しく、この耳に響いた。
「執着とは、即ち生そのもの」
その声は、兄みたいに。
ただ、染み入るように、胸に収まった。
そして、最後に彼は言ったのだ。
優しさと、慈しみと、ほんの一握りの、羨望を込めて。
「喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ」
その声が。
この耳道を貫いたその声が、あまりにも哀れで。
これなら、嘲笑ってくれればよかったのに。
そんなことを、思った。