FATE/IN THE DARK FOREST 作:shellfish
『……以上の観点から、その症例は非常に興味深い。しかし、その症例そのものは、古来より広く認知されてきた。地域差、死生観、或いは宗教的なタブー等によってその呼びかたや受け止められかたは様々だったが、一様に言えることは、その症状そのものが大して珍しいものでは無いということだろう。
我々魔術師がその症例に対して、一面的なアプローチしか試みてこなかった点は、まさに恥ずべき汚点であると言えるのかもしれない。つまり、魔術的な要素が絡んでいるか、否かである。それがあれば、実験体として迎え、無ければ抹殺、或いは放置する。その応対は如何にも短絡的であった。科学の進歩を魔術が追いかける、それは認容し難い現実ではあるが、精神的な、いわば魔術にもっとも縁の深い分野でさえ同様であるというのは、怠慢との謗りをかわすことは出来まい。
その点、この国の退魔の一族は、慧眼であったと言えるだろう。一つの器に異なる酒を満たす、そのことの困難を知りながら、弛まぬ努力と夥しい犠牲の末、一つの到達点を見つけたその技量は、方向性の異なる生き方を定められた私の心をすら、強く揺さぶらずにはおかない。
条件は、揃っている。幸い、我が系譜の魔術の習得には、その症例の発症条件の一部を満たす要素がある。ならば、使う必要のある薬物等は限られてくるはずだ。そして、アレの持つ特異性。アレの起源を調べたとき、この老骨にも衝撃が走った。あのように特異な起源、他に見たことがない。あれならば、器として申し分は無い。
問題は、条件を満たす個体の選別である。そればかりは手探りで進めていく必要があるだろう。だが、私は悲観をしている訳ではない。むしろ、高揚している。これほどの高揚感がこの身を包むのは、果たして幾世紀ぶりであろうか。
努力が必要になる。困難も待ち受けていよう。だが、私は乗り越えてみせる。そして、あの子もそれに良く応じてくれるはずだ。なぜなら、私と彼には共通の目的がある。ならば、如何なる苦痛にも耐えてくれるだろう。それこそ、あの出来損ないならば発狂するほどの苦しみにでも』
episode46 彼の罪、彼女の罪
トボトボと歩くのは、嫌だった。
手痛く負けたとき。
赤面ものの失敗をしたとき。
そんなときこそ、胸を張って。
そんなときだけは、胸を張って。
だから、まっすぐ前を見て、歩いた。
歩いている、つもりだった。
それでも、いつしか背中が丸まるのは、我慢できなかった。
背を丸めて、下を向いて歩いていた。
傷が痛いわけでは、なかった。
痛いのは、他のものだった。
『ごめん、一人にしてくれないか』
セイバーには、そう言った。
彼女は、無言でそれに応じてくれた。
昨日までの俺の無茶を考えれば、それがどれほどの慈悲に満ちたものなのか、考えるまでも無い。
思わずこみ上げそうになる嗚咽に、無理矢理蓋をした。
ぎしり、と歯を噛み、その痛みで蓋をした。
それでも、背は丸まってきた。
何かに脅えるように。
何かから、身を隠すように。
きっと、寒さのせいだ。
頬を切る北風が、冷たすぎるのだ。
だから、首を竦めて、背を丸めている。
それだけの、話だ。
そう、自分に言い聞かせて、歩いた。
歩いた。
しばらく、歩いて、そして、気付いた。
いつしか、隣に人の気配があった。
無視して、歩いた。
それでも、隣に人の気配があった。
ちらり、と横を見た。
そこには、背を丸めた俺よりも、更に小さな人影が、あった。
代羽が、いた。
彼女は、何も話さなかった。
気付いていない、そんなことはないだろう。
気付いているはずだ。
それでも、彼女は無言だった。
お互い何も話さずに、挨拶すら、そして視線をすら交わさずに、歩いた。
歩いて、しばらく歩いて、人のいないバス停を見つけたので、なんとなくそこで立ち止まった。
彼女が、そのまま通り過ぎてくれればいいと思った。
でも、俺を追い越していく人影は、無かった。
無言。
時折通り過ぎる、車のエンジン音と、タイヤと地面との擦過音だけが、響いた。
いつしか、新都行きのバスが到着していた。
乗れよ、と言わんばかりに開いた自動ドア。
仕方ないから、乗り込んだ。
後ろでもう一人、誰かが乗った気配が、あった。
振り返って確かめようとは思わなかった。
車内では、吊革を持ったまま突っ立った。
席は、空いていた。
でも、今は座りたくなかった。
座ったら、二度と立ち上がれない、そんな気がした。
適当な駅で、降りた。
別に目的があって乗ったバスじゃあないから、どこでもよかった。
小銭を料金箱に入れてステップを降りると、後ろから「両替はどうやってするのですか?」という、女性の声が聞こえた。
それも気にせず、歩いた。
小走りで駆けてくる軽い足音が、俺のすぐ後ろで止まった。
足音が、一つから、一つと一つに増えたけど、それでも歩いた。
大通りに差し掛かったとき、時代に取り残された電話ボックスを、見つけた。
俺は彼女を無視して、そこに入った。
彼女の姿が消えるならよし。
俺を待っているのなら、それもよし。
そう思って、後ろを見た。
そこには、明後日の方角を見たまま俺を待つ代羽が、いた。
その姿を確認してから、俺は馴染みの深い電話番号をプッシュする。
呼び出し音が、二、三回。
『はい、遠坂です』
一瞬、凛か桜か分からなかった。
多分、凛だ。
「……ごめん、飯、外で食べるから」
それだけを、伝えた。
少しだけ、彼女は何も話さなかった。
「ごめんな、我侭言って」
『……別に、今に始まったことじゃないでしょ、あんたが自分勝手なのは』
呆れた、声。
アーチャーから事情は聞いているのかもしれない。
『予定を変えるつもりはないわよ。二時までに帰ってこなければ、私達だけで攻め込むから』
「ああ、分かってる」
『じゃあね、切るわよ』
「ああ。……ありがとう、凛」
その言葉を伝えきる前に、電話はぷっつりと切れてしまった。
ほんの少しの落胆を覚えながら、電話ボックスのドアを開けた。
そこには、やはり、代羽がいた。
明後日に向けられたままの視線は、彼女には珍しく、少し不機嫌だ。
俺は、黙ったまま歩く。
彼女は、黙ったまま俺の後をついてくる。
最初に見つけた店で、食べようと思った。
彼女が一緒に入ってくるなら、奢ってもいいかもしれない。
入ってこなければ――。
少し侘しいけど、一人で食べよう。
最初に見つけたのが、世界で一番有名な、ファストフードの店だった。
自動ドアが開くと、軽く胸焼けするような、濃厚な肉の香りが漂ってきた。
日本全国、いや、全世界のどこの店でもこの匂いがするのかと思うと、少しだけうんざりした。
後ろを見ると、誰もいない。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
店員が、最高の笑顔を作りながら、そう尋ねてくる。
この笑顔の指導のために、いくらの人件費がさかれているのだろうか。
そう考えると、この世にただのものなど無いと、思い知る。
「えっと……」
考えるのも億劫なので、最初に目に付いたセットメニューを二つ注文する。
「お飲み物は何にしましょうか?」
飲み物。
きっと、外で食べることになるだろう。
暖かいものがいい。
「じゃあ、ポタージュで」
「コーンポタージュお二つでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
「先に会計の方、よろしいでしょうか?」
なるほど、どこかの笑い話にあったけど、この店で食い逃げするのは不可能だ。
どうでもいい、不能な思考に苦笑する。
ポケットから、財布を取り出す。
少し懐が寂しかったことを思い出してひやりとしたが、なんとか足りた。
時間は、まだ昼前。
もう少しすれば事情は違うのだろうが、今は閑散としている店内。
観葉植物が、王様みたいにスペースを取っていた。
そして、王様みたいに、除け者にされていた。
大して時を置かずに、やはり笑顔の店員が注文した品を持ってくる。
おざなりに礼を言って、店から出た。
「ありがとうございましたー!」
その声に対応する余裕はさすがにないし、向こうもそれを望んでいるとは思えない。
それに、俺の前には、代羽が、いる。
少し拗ねたような、そんな表情で、仁王立ちしている。
腰に手を当てて、男前な格好で。
俺は、手に持ったビニール袋を軽く掲げる。
「……食うか?」
彼女は、厳しい表情のまま、首を縦に振る。
「……食べます」
交わした言葉は、それだけ。
また、俺は歩いた。
彼女も、歩いた。
一人一人でしばらく歩いて。
公園の前で、立ち止まった。
冬木中央公園。
俺が、一度死んだ場所だった。
「ここで、食うか?」
「……どこでも、いいです」
代羽は嫌々そう言った。
……本当に、珍しい。
不機嫌そうな代羽が、珍しかった。
いつの間にか、背中が、少しだけ、伸びていた。
昼時だというのに、その公園に人影は少なかった。
いつものことだ。
ここは、あの火災の、中心だった場所だ。
あの夜、一番多くの人が、焼け死んだ場所だ。
十年前の災害。
冬木に住み続けている人間ならば、あの火事を忘れた者など、それこそ片手で数えるくらいしかいないだろう。
それでも、その恐れを日常に抱き続けるには、十年という歳月は長すぎる。街の整備は進み、昔とは違った形で調和の取れた都市が形成されている。そこに、恐れや不安といった感情など、見出すことは叶わない。
だが、ほんの一瞬。
日常に紛れた、微かな瞬間。
真新しいコンクリートから漏れ出した、微量の空気。
そういったものに、人は過去を思い出してしまう。
炎。
悲鳴。
そして、その中に消えていった、大切な人達。
それは、きっと救いだ。
その、心を切り裂くような痛みこそが、救いだ。
忘れることに比べれば、身を切り裂く苦痛の何と甘露なことか。
それでも、苦痛は苦痛だ。
人は、穢れを遠ざけようとする。
日常からは、出来るだけ切り離そうとする。
しかし、どこかに苦痛の象徴が必要になる。
この公園は、きっと、そういう類のものだ。
ふ、としたある日。
残された人は、決意と共に、日常から離れる。
そして、ここを、歩く。
痛みと共に、歩く。
ここに、あの人の家があった。
彼は、ここで蹲ったまま、見つかった。
熱かったのだろう、寒かったのだろう、苦しかったのだろう。
私は、覚えているから。
貴方達のことを、忘れていないから。
そう、確認するための、場所。
ここは、きっとそういう場所だった。
「どうやって食べればいいのですか、これ」
俺達は、ベンチに座って昼食をとっていた。
ハンバーガーと、フライドポテト、それにコーンスープ。
手軽といえば、この上ない食事。
しかし、俺の隣に座った少女は、フレンチのフルコースを食べるときよりも悪戦苦闘していた。
彼女の小さな手には、すこし大きすぎる物体。青と白の包装紙にくるまれたそれを前にして、代羽は心底困った表情を浮かべている。
「ハンバーガー、知らないのか?」
「知識としては知っています。しかし、食べたことはありません」
憮然とした彼女。
「だいたい分かるだろ、こんなもの。こうやって包み紙を外して、そのまま齧りつくんだよ」
百聞は一見に如かず。
ビニール袋から全く同一の物体を取り出して、包み紙を外して齧りつく。
味は期待通りのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
雑といえば雑、完成されているといえば、この上なく完成されている。
一応、美味いと言っていいのだと思う。ただ、食べ終わってしまうと、胸焼けと共に不思議な後悔が襲ってくる、そんな類の味だ。
「……だいたいなら、分かっていました。ええ、分かっていましたとも。それでも、これが初めてなのです。慎重さがあって然るべき、そうは思いませんか?」
彼女はごにょごにょと何かを呟いて、その小さな口でぱくりとかじりついた。
しばらく、無言でハンバーガーを食べる。
時折、ポテトを摘む。
喉が渇いたら、スープを啜る。
他愛ない、どうということもない、日常。
聞きたいことは、山ほどある。
話したいことも、山ほどある。
それでも、この空気で聞くのはあまりにも残酷な気がして、何もしゃべることができなかった。
「――うぇ」
微かな声がして、俺は首を横に向けた。
そこには、顔を顰めて、紙コップを睨む代羽がいた。
「――これ、なんですか?」
「コーンポタージュだよ、飲んだこと無かったか?」
「……こういうものをコーンポタージュと呼ぶのならば、私は初めて飲みました」
「不味いか?」
彼女は紙コップを傍らに避けて、苦笑しながらこう言った。
「不味いわけではありませんが……、こう、どろりとした飲み物は、あまり好きではないのです。ちゃんとスープ皿に入れて出してくれれば、また違うのかもしれませんけど」
「そっか、俺は結構好きなんだけどな。じゃあ、何か別の飲み物買ってくるよ。お茶でいいか?」
「梅昆布茶以外でお願いします」
薄っぺらい財布、そこに残された頼りないゼロの数を思い出しながら、俺はベンチを立った。
◇
うららかな日差しが木々の緑に反射する。
私の記憶にある冬とは全く違う、まるで常春の国のような空気。
閑散とした公園、その中のベンチで主は昼食を食べている。
「アサシン、あなたもいかがですか」
のんびりとした、気の置けない友人と話すときのようなのんびりとした口調で私に話しかける主殿。この人は、私が生前、そして今も暗殺者であることを忘れているのだろうか。
「不要。第五要素で編まれたこの体、生者の取るような栄養など必要とせぬ」
主殿は挽肉の塊をパンで挟んだ料理を一口。
「そうですか。衛宮士郎のサーヴァントは美味しそうに食べていましたよ」
ごそごそと、袋の中から取り出したのは細切りにしたジャガイモの素揚げ。
それをぱくりと一口。
「あのような稀有な例を基準にされては困る。あくまで我々は戦闘のための道具であり、助言者。そう考えてもらわねば立ち行かぬ」
「そうですか、こんなに美味しいのに」
主は残念そうに最後の一口を食べ終えると、ごみを屑篭に投げ込んだ。
セイバーのマスターである少年は、少し前に姿を消した。
遠からず戻ってくるだろう、だのに私に話しかけるとは、剛胆なのか、無神経なのか。
辺りは、とても静かだった。
少しだけ、風が吹いていた。
柔かい、とても冬とは思えぬ風にその絹髪をなぶらせて、彼女はぼんやりとした視線を彼方に彷徨わせる。何か失ったものを懐かしむようなその視線は、とても暖かでありながら、同時に背筋を薄ら寒くさせるに十分だった。
「ここは私達が死んだ場所なのです」
彼女は目を閉じた。
「私はここで死んで、全てを失い、幸いにして再び生を得ました。だから、為すべきことを為さないといけない」
「主殿の望みとは?」
彼女は何も答えない。
己の時間を止めてしまったかのように動かない彼女。
もしかしたら眠ってしまったのだろうか。
私がそう考え始めたとき、彼女の口が動いた。
「私が殺してしまった人を、幸せにしたいのです」
苦痛に満ちた独白。
まるで飲み下した針を吐き出そうとするかのようなその声は、後悔と怨嗟で彩られていた。
「つまり、死者の蘇生を願うということか?」
「いいえ、死者は既に蘇りました。しかし、それは生者ではなかった。それが、とても嫌なのです」
眉根を寄せながら、なおも目を閉じたままの彼女は、大きく溜息をついた。
「アサシン、あなたの望みは何なのですか」
そういえば私は彼女に自分の願いを話していなかった。
なんだ、我々はそんな基本的なことも知らぬまま共に戦ってきたのか。そう考えると、久しぶりに苦笑が漏れかけた。
「私の望みは名前。私は名前が欲しい。永劫とも言える歴史の中で燦然と輝く、己だけの名前が欲しい」
名前。
もちろん、英霊たる私には名前がある。
ハサン=サッバーハ。
中世において恐怖の代名詞ともなり、現在、私が被っているクラスの語源ともなった組織、暗殺教団の主、[山の翁]。
しかし、その名を継ぐものは一人ではない。歴代の山の翁は、悉くその名を名乗ってきた。故に、ハサンを名乗るものは私一人ではない。
私にはそれが許せない。
人々がハサンの名を口にするとき、それが指すのが果たして私のことなのか、それとも数多の、集合体としてのハサンのことなのかが分からない。
ならば、私という存在は一体何者なのだ?
名前を持ち、しかしその名前が表すのは自分の事ではなく。
顔を持ち、しかしその顔は既に個人を識別することのできるものではなくなっている。
それでも、私は英霊などという訳の分からぬものに祀り上げられてしまった。
どこの誰かも分からぬ英霊。
自分の名前すら忘れた英霊。
そんなもの、嘲笑の対象でしかないではないか。
ならば、私は永遠に道化を演じねばならぬのか。
嫌だ。
蔑まれるのはかまわない。
恨まれるのは望むところ。
しかし、笑われるのは、同情されるのだけは許せない。
だから、私は[私]という個を確固とさせる何かが欲しい。
名前。
私は、名前が、欲しい。
「そう、あなたも名前を奪われてしまったのね」
朦朧とした、心ここにあらずといった感のある声で、主は答えた。
「私も一緒。私も名前を奪われた。
マスターとサーヴァントは似たもの同士が選ばれるというけど、なるほど、私と、あなたは、似ているわ……」
そう言った彼女は、やがて寝息をたて始めた。
すぅ、すぅ、と、まるで赤子が眠るような安らかな呼吸。
この世の如何なる悪意も知らぬ、そんな無垢な寝顔。
私は彼女にそっと外套をかけた。
薄汚れた襤褸だが、ないよりはマシだ。それに、いくら暖かとはいえ眠りに委ねた体に冬の風は毒。ならば風除けの加護の付されたこの外套は、北風からの攻撃を退ける城壁として相応しかろう。
そこまで考えて、私はふと思った。
こんなふうに人と接するのは何時以来だ?
彼女の体を案ずるのは当然だ。マスターの体調は私が勝ち残る可能性に直接的に関わってくるのだから。
ならば、すぐに彼女を起こし、もっと暖かな場所まで連れて行けばよい。
いや、そもそもこんな開けた場所で眠神に体を任すなど、戦争中とは思えぬ愚行。それに、時を置かず敵サーヴァントのマスターが帰ってくる。
一刻も早く、やめさせるべきだ。
それなのに、私は彼女の眠りを妨げるのが、たまらなく嫌だった。
安らかな寝顔を、もっと見ていたかった。
あれ、なんだろう、この感情は?
私はしばらくの間考えて、それが特に重要なものではないと判断した。
ただ、彼女を起こすことだけはしなかった。
久しぶりに感じる風の冷たさを味わいながら、彼女の寝顔を守っていた。
◇
小脇に緑茶のペットボトルを抱えてベンチに戻ると、代羽は寝息をたてていた。
すぅ、すぅ、と、本当に心地良さそうに。
ベンチの傍らの屑篭には、おそらく彼女の分と思われる、ハンバーガーの包み紙やら何やらが捨てられていた。
人を買出しに行かせておいて、自分はさっさと食事を終え、あまつさえ午睡を取る。おそらくは失礼な話なのだろうが、不思議と不快感は感じなかった。
それよりも、彼女の寝顔を見て、懐かしい、と思ったのが意外だった。
「代羽、こんなところで寝てると、風邪ひくぞ」
囁くようにそう言ってから、気付いた。
細い彼女の肩、それを守るように掛けられた、漆黒の外套。
所々擦り切れ、色落ちしているものの、作り自体は頑丈そのものだ。
何より、どこかで同じものを見たことがなかったか。
つい、最近だ。
それに、この外套からは、一種の神秘に近い雰囲気を感じる。もちろん、セイバーの鎧やアーチャーの短剣等には及ぶべくもないが。
これは――。
「う、ん――」
そんなことを考えていたら、彼女は少し魘されて、寝返りを打とうとした。
ベッドや布団ならばともかく、ここはただのベンチ。上手に寝返りが打てるはずがない。
自然、彼女の体は背もたれからずり落ちていき、そしてそこには――。
「まずい……!」
俺の食べかけのハンバーガーが、あった。
このままでは、彼女の髪の毛がケチャップ塗れになってしまう。そんなの後で何言われるか分かったもんじゃないし、それよりなにより、彼女の綺麗な髪の毛がそんなもので汚れるのは、許せなかった。
だから、咄嗟に手を伸ばした。命題は、彼女の眠りの邪魔をしないこと、そして彼女をケチャップ塗れにしないこと。
両の掌に、微かな重み。そして、なお途切れることのない、優しい寝息。恐る恐るベンチの上を見てみると、俺のハンバーガーが彼女の髪の毛に襲い掛かった形跡は見当たらない。
俺は、深く深く安堵の溜息を吐いた。
しかし、これからが問題だ。
俺の掌の上で眠る彼女を、どうしようか。
このまま、下手したら何時間も同じ姿勢でいるわけにもいかないし、俺にだって用事がある。
仕方ない、とりあえず彼女の下で舌舐めずりをしているハンバーガーをどうにかしよう。
片手を彼女の頭から離して、髪の毛が落ちることがないように注意しつつ、ハンバーガーを脇に避ける。ハンバーガーが地面に転げ落ちそうになったが、一応は上手に成功したと思う。
再び安堵の溜息を吐いた俺は、片手でポケットからハンカチを取り出してベンチに広げ、その上に彼女の頭を寝かしつけた。
「何してんだろ、俺…」
夢の世界の住人となった代羽、その隣で俺は空を見上げた。
そこには、太陽が、あった。
燦燦と輝く、冬場にしては力強い陽光。
少し眩しくて、思わず手を翳してしまう。
太陽というと、日本の子供は赤い絵の具を使って表すことが多いが、世界的に見ると黄色い絵の具を使うほうが一般的らしい。
普通に考えれば、黄色の方が正解な気がするが、赤い太陽というのも中々情熱的だ。
でも、世界のどこを探しても、黒い絵の具で太陽を描く子供はいないだろう。いるとしたら、よっぽどの捻くれ者か、太陽というものを誤解しているか、それとも俺と同じものを見てしまったか、だ。
そうだ。
あれは、黒い太陽だった。
もしくは、孔。
夜空という空間にぽっかり開いた、孔。
何かを飲み込むための孔なのか、それとも吐き出すための孔なのか。
多分、吐き出すための孔だ。
だって、俺は知っている。
何かがあの中から溢れてきたのを。
黒くて、うねうねしてて、冷たそうなもの。
それの一筋が、俺のほうに向かってきて。
誰かが、俺を、突き飛ばして。
そして――。
「……おはよう、ございまふ……」
彼女は目を擦りながら体を起こした。
髪の毛が、風に遊ばれて乱れている。言ってしまえば、ぼさぼさだった。
口元には、白い涎の跡。
なんというか、これぞ寝起き、そう言わんばかりのその様子が、いっそ天晴れだった。
しばらく、無言。
じっと、見つめ合う。
その間も、彼女の視線の焦点は、あっちにふらふら、こっちにふらふら。
やがて、決心がついたかのように、荘厳に口を開く。
まあ、何を言うかはだいたい想像がつくのだが。
「……ごかいしないでください、ほんとうはねおきはいいほうなのですが、さいきんは――」
「夜更かしすることが多くて、だろ。前も聞いたよ。はい、すっかり冷えちまったけど、お茶。これ飲んで、顔でも洗って来い」
彼女は虚ろな目つきのままペットボトルのキャップを開けると、こくり、と一口だけ緑茶を飲んだ。
そして、枕代わりにしていた俺のハンカチをひっ掴むと、ふらふらした足取りで水飲み場に向かった。
なんと言うか、あいつには慎みとか、そういう感情が破滅的に欠落してる気がする。付き合いの薄い人間は、表面的な冷たい態度とその美貌に騙されて気付くことはないだろうが、彼女の本質は女性というよりは、むしろ男性よりだ。ひょっとしたら、身体の手入れはボディソープだけで済ましてます、みたいな体育会的なことを言い始めるかもしれない。
その点、実は女性らしいのが藤ねえだったりする。普段は『虎』なので気付かないが、正月の振袖姿なんかを見てると、そう思う。
藤ねえ。
『じゃあ、せめてじぶんを、ゆるしてあげて。そんなに、じぶんを、いじめ、ないで……』
あの時。
自分の身を省みずに、俺を守ってくれた、藤ねえ。
俺がもっと強ければ、あの人をあんな目に合わせることなんて、無かった。
俺が、もっと強ければ。
『恐怖とは、執着だ』
うるさい。
『執着とは、即ち生そのもの』
うるさい。
『喜べ、衛宮士郎。お前は人として生きることが出来るよ』
うるさい。
俺は、そんなこと望んでいるんじゃない。
俺の、俺の望みは、唯一つ――。
「お待たせしました」
そこには、一部の隙も無い、いつもの代羽がいた。
長い、カラスの羽のように艶やかな黒髪には綺麗に櫛が入れられ、涎の跡はすっかり無くなっている。
そして、しずしずと俺の隣に腰を下ろす。
何気ないその仕草も、先ほどの彼女を見ている俺にとっては笑いを掻きたてる厄介者でしかない。
彼女は、そんな俺を疎ましげに見つめると、ゆっくりと口を開いてこう言った。
背筋に、冷たい衝撃が突き刺さった。
「……このことは、他言無用。もし、万が一にもその約定を破れば……わかって、いますよ、ね?」
にんまりとした笑みに、熱など感じられない。
それは、絶対零度。
キャスターの笑みよりも、なお冷たい。
人を殺せる微笑がこの世にあるならば、それはこれを進化させたものに他あるまい。
俺は、馬鹿みたいに首を縦に振った。
抗弁など、出来ない。
そんな勇気、身を滅ぼすだけだ。
そんな俺を見て、彼女は満足気に頷いた。
きらり、と怪しく輝く彼女の双眸。
「よろしい。ふふっ、私も無用な殺生をすることが無くなって、幸いです」
俺には、その言葉が欠片も冗談とは思えなかった。
◇
代羽と二人で、話した。
色んなことを、話した。
色んなくだらないことを、話した。
それは、二学期の期末考査の点数のことであり、最近のスポーツの話題であり、彼女のご近所さんの飼い犬が産んだ可愛らしい子犬のことであり、テレビのお笑い番組のことであり、調理道具に対する拘りだった。
彼女は、笑った。
彼女は怒った。
彼女は拗ねて、悲しんで、疑って。
そして、やはり笑った。
俺も、楽しかった。
思わず笑みが漏れそうなくらい、楽しかった。
それでも、俺は笑えなかった。
彼女が笑うたびに、どこかに痛ましさが涌いてきたから。
慎二。
『……やめて下さい、兄さん。私は何をされても構いませんから、その服は汚さないで。
遠坂先輩が、借してくださったのです』
あいつが、お前に何をしたんだ。
『あいつ、無表情で気味が悪いけど、あそこの具合だけは最高だからさ』
お前は、それをどんな想いで耐えてきたんだ。
『そうそう、知ってるか、衛宮。あいつ、実は化け物なんだぜ。あいつ、何回やっても――』
家族に、化け物といわれて、そして、犯されて。
俺は、それに気付いてやれなかった。
一言。
一言言ってくれれば、俺は慎二を生かしておかなかった筈だ。
即座に飛んでいって、あいつの首をへし折ってやれたはずだ。
一言。
一言、何で、俺に助けを求めてくれなかったんだ。
何で。
「衛宮先輩」
代羽の視線が、俺の横っ面に突き刺さる。
でも、俺は彼女の顔を見ることが、出来なかった。
それは、きっと俺の弱さだ。
彼女は、何も言わなかった。
もしかしたら、俺の内心なんて、とっくにお見通しなのかも知れない。
その上で、俺を恨んでいるのかもしれない。
なんで、助けてくれなかったのか、と。
どうして、助けてくれなかったのか、と。
そう思われても、仕方ない。
それが、俺の罪だ。
「なぁ、代羽」
「ねぇ、衛宮先輩」
不意に声が交差した。
何となく、気まずい空気が流れる。
「お先にどうぞ」
「いや、大した話じゃないから、代羽から頼むよ」
彼女は苦笑して、それでもおずおずと、口を開いた。
「では、遠慮なく。衛宮先輩、あの夜、私が言ったこと、覚えてますか?」