FATE/IN THE DARK FOREST   作:shellfish

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episode49 人造両儀1 考察

 ひんやりとした、無機質な廊下。

 私は、彼らと共にそこを歩く。

 薄暗い。時折、忘れた頃に姿を見せる燭台の灯りが、ゆらゆらと影を作る程度の光量。

 霧の都を照らし出す無慈悲な太陽も、鼠の籠もる洞穴までは照らし出さない。

 だから、ここはこんなにもひんやりで、薄暗い。

 肌が、軽くちじこまる。

 吐息に微塵の白さを感じて、流石に苦笑した。

 それでも、歩く。

 果ての知れない、廊下。

 そこを飾る、様々な遺物。

 石像があり、標本があり、杯があり、そして剣があった。

 ここは、博物館。

 決して人の目に触れえぬ物ばかりを集めた、博物館としての意味を持た無い博物館。

 ここに入る資格を持ったものは、協会でも一握り、その最奥部まで立ち入ることを許されたのは更に極少数。

 私は、そこを、彼らと共に歩いている。

 特に、会話と呼べる会話は無い。それでも、その空気に緊張と呼べるものが無いのは、我々がそれなりの信頼関係を築いている証だろうか。

 彼らはその幾つかに僅かばかりの興味を向けるものの、ほとんどは無視した。本来ならば一生目にすることすら叶わない至上の遺物を目にしても、だ。

 

「徹底していますね」

 

 応えるように、後ろから微かな笑い声が聞こえた。

 単一のそれに、私の聴覚は異なる二つの笑い声を感じた。

 きっと、その表情は、鉛みたいに堅牢だ。

 堅牢なまま、笑っている。

 そう考えると、嬉しくなった。

 

「それが、貴方の望みでしょう?」

 

 違いない、そう心の中で答えてから、私は歩く速度を心持ち速めた。

 だんだんと、鼻をつく臭気が漂ってきた。

 もちろん、気のせいだ。

 厚さ三センチの特殊ガラスは、固体はもちろん、液体、気体だって通すはずが無い。

 だから、その中に何があろうと、臭いなど漏れるはずが無いのだ。

 だのに、私の嗅覚は、紛れも無く不快を訴えている。

 恐ろしいわけではない。

 あの円筒状の透明な折の中に、例え何が閉じ込められていようと、私は恐れない。

 そもそも、あれらは私よりも弱い。

 生物として、何故己よりも力の劣る個体に恐れを抱かなくてはならないか。

 例え、あれらの全てが息を吹き返しその身を縛る牢獄を破壊しえたとしても、私の前に三分と立つことは叶うまい。

 それほどまでに、力の差は在る。

 だから、私が抱いているのは、不快感のみ。

 もし、彼らの懇願がなければ、私は二度とこんな場所に来ることはなかっただろう。

 そんなことを考えながら、歩く。

 こつこつ。

 こつこつ。

 二つの足音が、長大な廊下に反響する。

 やがて、目の前に大きな扉が現れた。

 

「ここですか」

 

 期待に濡れた、声。

 その声に背中を押されるように、私は錠前を開錠する。

 観音開きのドアを開くと、やはり耐え難いほどの臭気が溢れ出した。

 黴の臭い。

 埃の臭い。

 それは、この空間が誰からも見向きもされない、無為の空間だということを示している。

 その中に、彼らは嬉々として飛び込んだ。

 そして、食い入るように見つめた。

 ホルマリンに漬けられた、異形の者共の、残骸を。

 まるで、己の中に、獲り入れるかのように。

 目を見開き、鼻を膨らませ、忘我の涎を滴らせながら。

 時をおかず、彼女は倒れた。

 鼻と耳から、細く血を流しながら。

 しかし、その表情は恍惚としていて、まるで神と出会ったかのようだった。

 

episode49 人造両儀1 考察

 

 こっち、こっち、こっち。

 時計の音が、鳴っていた。

 

 こっち、こっち、こっち。 

 部屋にいるのは、俺一人だ。

 

 こっち、こっち、こっち。

 凛とキャスターは、工房に篭もって、例のノートの解読に忙しい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 桜は、いなかった。帰ってきたとき、この家は無人で、魔術的な施錠がされた状態だった。どこにいったのかは、わからない。

 

 こっち、こっち、こっち。

 セイバーは、仮眠を取っている。少しでも魔力の消費を抑えるため、止むを得ない措置らしい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 アーチャーは、厨房でその腕を振るっている。散々、俺を馬鹿にしてくれたのだ。中途半端なものなら、認めるわけにはいかない。

 

 こっち、こっち、こっち。

 一人、部屋にいる。

 

 こっち、こっち、こっち。

 何をするわけでもない。時代遅れのブラウン管、その真っ黒の画面を、じっと見ている。

 

 こっち、こっち、こっち。

 身体を包み込むように柔らかなソファ。

 

 こっち、こっち、こっち。

 ゆっくりと、目を閉じる。

 

 こっち、こっち、こっち。

 今日は、疲れた。

 

 こっち、こっち、こっち。

 少しだけ、休みたい。

 

 こっち、こっち、こっち。

 そんなことを考えながら、目を閉じている。

 

 こっち、こっち、こっち。

 目を閉じて、つらつらと、考える。

 

 こっち、こっち、こっち。

 自分の不甲斐なさについて、脳細胞を酷使させる。

 

 弱くなった。

 そう、思う。

 俺は、弱くなったと。

 何度震えた?

 何度泣いた?

 何度慰められた?

 そう、ならば、きっと俺は弱くなったんだ。

 でも、おそらくは、只の自惚れ。

 それを、認めたくないだけ。

 なぜなら、俺はもともと強かったわけではない。

 きっと、根本的に弱かった。

 存在そのものが、弱かった。

 己よりも他者を愛するその思考、それは自我を認める勇気が無いだけのこと。

 自画像を描けない、似顔絵画家のようなものか。

 他者を如何に正確に写し取ろうと、己の本質は見えていない。

 他者は、如何様にも誤魔化せる。

 それでも、自分だけは、どうやら誤魔化せなかった。

 そして、俺は俺に絶望した。

 それは、弱さだ。

 それは、弱さに他ならない。

 ならば、その弱さが露呈した、それだけの話だ。

 さて、誰に露呈したのだろうか。

 決まっている、俺自身だ。

 俺自身が、やっとのことで俺の実態に追いついたのだ。

 追いついて、そして絶望している。

 こんなものか。

 これが、衛宮士郎か。

 そうだ、お前はこの程度なのだ。

 誰も、救えない。

 誰も、認めてくれない。

 誰も、必要としてくれない。

 それでも、お前は歩けるのか。

 あの、荒野を。

 赤く、血に染まったように赤く、鮮血をすら乾き飛ばしてしまう、あの遥かな道程を。

 一人、誰一人声も掛けてくれない、無人の喧騒の中を、俺は一人で、歩けるのか。

 正義の味方としてではない。

 ただ、ひととして。

 無為に苦しみを背負う、唯、人として。

 出来ない。

 俺には、出来ない。

 意志があれば、出来るかもしれない。

 目的は、それを可能にしてくれるか。

 それでも、意志も目的も、さらに理想も砕けたなら。

 俺に、あの旅路は、長すぎる。

 息苦しすぎて、重たすぎて、空気が薄い。

 まるで海底だ。

 冷たい水の中を、身体を押し留める重たい水圧の中を、手探りで歩く、それに近い。

 酸素はどんどん減っていき、光なんてもともと無い。雪のように積もっていく生物の死骸が、辛うじて見える程度。

 肺しか呼吸器の無いこの身には、その世界は辛すぎる。

 そして、あまりにも静寂だ。

 俺は、もっと騒がしくていいのに。

 もっと、人の声が聞きたいのに。

 なんで、こんな道を歩いているんだ。

 笑っているじゃあないか。

 周囲の、異形の魚達が、蟹達が、海蛇達が、腹を抱えて笑っている。

 存在しない指をこちらに向けて、体中の鱗を震わせながら、笑っている。

 

『お前は、ここにいるべきではない。』

 

 リュウグウノツカイが、そう言った。

 

『ここに来る資格など、最初から無かった。』

 

 メガマウスザメが、そう言った。

 

『何故、ここに来た?』

 

 ヨミノアシロが、そう言った。

 

『ここに来るべき人間を差し置いて。』

 

 シンカイクサウオが、そう言った。

 

『それとも、己にこそこの世界は相応しいと勘違いしたか?』

 

 オニボウズギスが、そう言った。

 

『自惚れ、舞い上がり、己はどこでも生きていけると、そう勘違いしたか?』

 

 フクロウナギが、そう言った。

 

『ならば、それは正解だ。』

 

 テンガンムネエソが、そう言った。

 

『貴様は、あらゆる環境に適応が可能だ。』

 

 カイロウドウケツが、そう言った。

 

『さあ、そこでしばらく身体を休めるがいい。』

 

 ドウケツエビが、そう言った。

 

『いずれ、その肺は失われ、新たな呼吸器が備わるだろう。』

 

 スケイリーフットが、そう言った。

 

『手足は萎びて、この砂底を這い回るに相応しい、みすぼらしい腹ビレが生え揃うだろう。』

 

 カイコウオオソコエビが、そう言った。

 

『それまで、待っていろ。』

 

 トゲヒラタエビが、そう言った。

 

『それが、お前の望みだろう?』

 

 フクレツノナシオハラエビが、そう言った。

 

『人を救うために、人以外のものになりたいのではないのか?』

 

 ダイオウイカが、そう言った。

 

『人の身では人を救えないから、人以外の人になりたいのではなかったか?』

 

 ニュウドウカジカが、そう言った。

 

『それだけが、貴様の望みなのではなかったか?』

 

 ホンフサアンコウが、そう言った。

 

『ほら、お前も笑いたいんだろう?』

 

 タウマティクチスが、そう言った。

 

『あの男のように、心の底から、笑いたいのだろう?』

 

 デメニギスが、そう言った。

 

『そうではないか、エミヤシロウ。』

 

 デメエソが、そう言った。

 

『それとも、見えないふりをしているのか、○ミヤシろウ。』

 

 ボウエンギョが、そう言った。

 

『お前は、気付いているはずだ、エ○○やシロ。』

 

 ワニトカゲギスが、そう言った。

 

『あれは、あの透明すぎる笑みは、既に人のそれではないと。』

 

  カブトウオが、そう言った。

 

『あれは、人をやめてしまったものの笑みだ、と。』

 

  シーラカンスが、そう言った。

 

『自分には、一生あの笑みを浮かべることなど、出来ない、と。』

 

 エゾイバラガニが、そう言った。

 

『いやいや、その実、そうではない。』

 

 ヒドロクラゲが、そう言った。

 

『お前にだって可能だ。』

 

 シロウリガイが、そう言った。

 

『簡単な話だ、お前も人を止めてしまえばいいのさ。』

 

 サツマハオリムシが、そう言った。

 

『人を辞めれば、お前にも笑う資格が出来る。』

 

 ウリクラゲが、そう言った。

 

『あの笑みを浮かべる資格が、貴様にも出来る。』

 

 ムラサキカムリクラゲが、そう言った。

 

『それは、何と幸せか。』

 

 コウモリダコが、そう言った。

 

『さあさあ、覚悟を決めろ、○やシ○。』

 

 センジュナマコが、そう言った。

 

『何より、誰より、お前が望んだことだろう?』

 

 オウムガイが、そう言った。

 

『人を助けたいと、そう望んだのだろう?』

 

 ミツクリザメが、そう言った。

 

『そんなこと、なんの苦もないぞ。』

 

 オニキンメが、そう言った。

 

『あの女も、言っていたではないか、全てを救うのは、人の身に許された奇跡ではない、と。』

 

 ザラピクニンが、そう言った。

 

『ならば、話は早い。』

 

 見たことも無い魚達が、ぐるぐる回っていた。

 

『人など、止めてしまえ。』

 

 ぐるぐる。

 

『人を辞めて、人を救え。』

 

 やめろ、目が回る。

 

『それが、貴様に許された、唯一の道。』

 

 溶けて、バターになっちまう。

 

『さあ、私は待っているぞ。』

 

 どろどろ。

 

『ここで、深海よりもなお深い、この深奥で、貴様を待っている。』

 

 魚が、生き物が、海が、どろどろになって。

 

『君が、奇跡を望む、その瞬間を待ち望んでいる。』

 

 どろどろが、びちゃびちゃ、一つになって。

 

『私は優しいぞ、○○○。』

 

 うねうねと、黒々としたものになって。

 

『必ず貴方の声に答えよう。』

 

 それが、朗々と言うのだ。

 

『さあ、人を救え、○○○。』

 

 なんなんだ、お前は。

 

『歩くが如く救え。』

 

 体が、沈んでいく。

 

『喰らうが如く救え。』

 

 深海よりも、更に深いところへ。

 

『呼吸をするが如く、救え。』

 

 固体すらもすり抜けて、更に深い、その深奥へ。

 

『救って救って救い続けろ。』

 

 俺の意識をすらすり抜けて、更に大きなものの胎内へ。

 

『そうすれば、貴様は永遠に人を救うことが出来る。』

 

 そこは、何と、心地いい。

 

『死後も、救い続けることが出来る。』

 

 お前は、何者だ。

 

『それは、何と有意義な存在ではないか?』

 

 俺であって、俺で無いもの。

 

『泡沫として生まれた貴様にとって、それは無上の救いだろう?』

 

 何者でもあって、何者でもないもの。

 

『そうではないか、この世の誰よりも、意味なき生を生きる者よ』

 

 ああ、お前は、蔵識か。

 

 

「先輩」

 

 肩を揺すられて、目が覚めた。

 頭の奥に、つんとするような気怠さが残っている。

 

「……代、羽?」

「……桜です、先輩」

 

 不機嫌に拗ねた声が、聞こえた。

 ソファに沈み込んだ体が、重たい。まるで、海岸に打ち上げられたクジラみたいだ。

 脂肪が、重い。筋肉が重い。内蔵が、重い。

 己の重さで、死にそうになる。

 ああ、わかった。

 この世界は、重過ぎる。

 生きていくには、重過ぎる。

 誰か、引き上げて欲しい。

 この手を掴んで、この重さを、分かち合って欲しい。

 肩を、貸して欲しいんだ。

 この身体は、重過ぎる。

 この存在が、重過ぎる。

 救いを求めるように、手を差し出した。

 誰も、それを握ってくれる人間は、いなかった。

 それでも、感じたのは、深い海から浮上したことによる、深い深い安堵だった。

 

 

「あ゛ー。つかれたー」

 

 凛が工房から出てきたのは、午後九時を回った頃合だった。

 よほど集中していたのだろう、目の下には大きな隈が出来ている。

 彼女の後ろに立つキャスターの表情にも、心なしか深い疲れが刻まれているように見える。

 

「さくらー、何か食べるものちょーだーい……」

 

 凛は、そう言ってテーブルに突っ伏した。

 マキリ邸から帰って、約四半日、ノンストップで脳細胞を働かせ続ければ、そりゃあ糖分だって尽きてくるだろう。

 人間、ある程度は気合で何とかなる生き物だが、気合以外のものでないと補えない部分は確かにあるのだ。貧乏性の凛のこと、その空隙を魔力で補うなんてしないだろうし。

 

「はい、アーチャーさんが、夜食にって」

 

 桜が差し出したのは、乾燥防止のラップで覆われたサンドイッチ。バスケットに入れられたそれらは、色とりどりで、目にも鮮やかだ。

 

「あー、ありがとー、アーチャー……って、あいつ、どこいったのー?」

 

 いい感じに蕩けている凛。間延びした声が、何故だか妙に相応しい。

 

「アーチャーさんなら、今、お茶を淹れてくれてます」

「ああ、さすが、アーチャーね、アーチャーの名前は伊達じゃないわ。あいつ、給仕として名を成して、英霊になったんじゃないでしょうね?」

 

 優雅に、しかし手早くサンドイッチをぱくつく凛。そして、その後ろから控えめに伸ばされた手は、キャスターのものだ。

 

「んー、おいし。あー、私も、これくらい気の効く従者がいればねえ…」

「そんなもの、お得意の魔術で生み出せばよかろうが」

 

 がちゃり、とドアが開いた。

 そこにいたのは、室内だというのに赤い外套を纏った騎士。

 そして、彼と共に、芳しい紅茶の香りが部屋に入ってきた。

 

「竜牙兵の給仕ってのも雅に欠けるし、ホムンクルスは鋳造に時間がかかるしねぇ。ねえ、あなた、私のサーヴァントにならない?今より上質の待遇を約束するわよ?」

「私が貴様のサーヴァントになるなど、それこそ天地がひっくり返ってもありえんよ。茶くらいならいつでも淹れてやる、それで我慢しろ」

 

 ことり、とソーサーがテーブルに置かれた。まるで、其処にあるのが当然、そう言わんばかりに大きい顔をしているティーセットに、よくわからない嫉妬を感じてしまう。

 

「ちょっと、キャスター、マスターの前で人のサーヴァントをスカウトするの、やめてくれる?あんたが言うと、マジで洒落になんないから」

「あら、なら裏でこそこそ動かれるほうがお好きなの?」

「それはもっと止めて……」

 

 ……何故かよくわからんが、この二人、妙に仲良くなってないか?まぁ、二人とも魔術師だし、あれだけ長い間同じ部屋で共同作業してれば少しは仲良くなるものなのかもしれないが。

 しばらく、そういうたわいの無い会話が続いた。

 剃刀の刃の上に軽く指を走らせるような緊張感から、あえて視線を逸らしたような会話だった。

 それでも、籠の中の夜食を綺麗に平らげ琥珀色の紅茶で喉を潤していた二人に、セイバーが意を決したかのように問いかけた。

 

「……ところで、何かわかりましたか、リン、キャスター」

 

 凛はその言葉に、一瞬だけ眼光を強めると、静かにカップをソーサーに戻した。

 

「重要なところは完璧に暗号化されてたから、一昼夜やそこらで解読するのは不可能ね。ひょっとしたら乱数表か何かが必要になってくるかもしれない。でも、研究の趣旨とか、大まかな概要くらいは掴めたわ

 一同に、緊張が走った。

 

「マキリ臓硯が目指したのは、聖杯戦争を独力で戦い得る強力なマスターの製造。おそらくはそれよ」

 

 凛は真正面から俺を見ながら、数枚のプリントをテーブルに広げた。

 一枚には、こんなことが書いてあった。

 

《『子供の頃私は』この質問には回答が用意できない。

 『私はよく人から』化物と指をさされる。

 『私の暮らし』には娯楽が欠如している。

 『私の失敗』が彼女を壊した。

 『家の人は私を』ある程度認めているようだ。

 『死』にたくない。

 『私の出来ないこと』がこの世には多すぎる。

 『私が心引かれるのは』彼女の笑顔である。

 『私が思い出すのは』初めて見た眩い光。

 『私を不安にさせるのは』彼女の笑い声。

 『自殺』願望。

 『私が好きなのは』敵を許すことだ。

 『罪』はあくまで認識の問題でしかない。

 『大部分の時間』私は眠っている。

 『私が忘れられないのは』みんなの味である。》

 

 そして、もう一枚には、こんなことが書いてあった。

 

《『子供の頃私は』とても幸せだったらしい。

 『私はよく人から』多くのものを奪う。

 『私の暮らし』は地下で過ごすことが多い。

 『私の失敗』はあの時死ななかったこと。

 『家の人は私を』必要としてくれる。

 『死』という言葉は私に無関係だ。

 『私の出来ないこと』を彼がしてくれる。

 『私が心引かれるのは』私の存在しない世界である。

 『私が思い出すのは』赤い空と黒い泥。

 『私を不安にさせるのは』眠る前の静寂と眠った後の喧騒。

 『自殺』は不可能だ。

 『私が好きなのは』勧善懲悪の物語だ。

 『罪』には相応の罰が必要である。

 『大部分の時間』を無為に過ごしてしまった。

 『私が忘れられないのは』空虚な掌の感触だ。》

 

 その他の紙にも、似たようなものがある。或いは、よくわからない文字で書かれた研究レポートのようなもの、大きな木を描いたスケッチ。多種多様で、何の統一性も無いように思える。

 

「何だ、これ?」

「文章完成テストに、バウムテスト、その他もろもろ。これだけ傍証があれば、白も黒になるわよね」

 

 ……?

 一体、どういう意味だ

 

「士郎、解離性同一性障害って聞いたことがある?」

 

 解離性同一性障害?

 そんな単語聞いた覚え…ある、か?

 確かあれは、テレビのドキュメンタリーで……。

 

「解離性同一性障害って、確か二重人格のことじゃあないのか?」

 

 俺の言葉に、凛は緊張した面持ちで頷いた。

 

「その解釈は近い、でもおそらく間違い。私も専門分野じゃないからあまり詳しくはわからないんだけど、そもそも人格っていうのはそれほど確固としたものじゃないの。だから、それを単一でしか持ってないほうが稀よ。結局、人格は人と人とのコミュニケーションを円滑に行うためのプログラムみたいなものだからね、同一の個人が上司と部下によってその対応が違うなんて、普通でしょう?人格を表す英単語personalityの語源が、仮面を表すラテン語personaであることは、中々の慧眼だと思わない?

 それはそうだろう。

 あらゆる人間に対して全く同じ応対をする人間なんているはずもないし、時と場合によって性格が豹変したように見える奴なんて、特筆すべき存在でもなんでもない。第一、目の前の凛の猫かぶりだって、見方を変えれば似たようなものだろう。

 

「……何よ。何か言いたそうね」

「いや、何でもない。続けてくれ」

 

 じろり、と俺を睨んだ凛は、こほん、と一拍置いてから話し始めた。

 

「解離性同一性障害、Dissociative Identity Disorderっていうのはね、明確に自我の異なる複数の人格の存在だけじゃなくて、その交代による患者の肉体支配、人格交代による記憶の欠乏、それに伴う社会への不適応なんかが症例として挙げられる。特異なケースだと、患者の外観にまで相当の変貌が表れることもあるらしいわ。臓硯の研究日誌には、その症状に関する考察がかなりの分量を占めてた。相当興味があったみたいね。この病気が日本で有名になったのはダニエル・キイスの著作なんかが切欠だと思うけど、もとを辿れば、それほど珍しいものじゃあない。『狐憑き』とか『悪魔憑き』なんかは実は別人格が引き起こしてたって話もあるし、ある意味私達魔術師に縁の深い症例ではあるわけね」

「……それはわかったけど、凛、なんで臓硯はそんな病気を研究してたんだ?」

 

 声が、不思議なくらいに擦れていた。

 何かを、否定したいみたいだった。

 喉が、渇いた。

 時計の秒針が、煩い。

 お前ら、少し黙れ。

 

「……断片的な情報からの推測になるけど、臓硯は解離性同一性障害のもたらす、人格ごとに現れる能力の偏りに興味を持っていたみたいね。例えば、ダニエル・キイスの著作のモデルになったビリー・ミリガンには23人の人格があったらしいけど、人格それぞれのIQには大きな差異がみられたし、中には空手の達人で驚異的な筋力を誇る人格、なんてのもいたらしいわね。つまり、ケースによっては、分裂した人格は、分裂前、或いは統合後の基本人格よりも極地的に優れた才能を発揮することがある、そこに注目したんでしょ」

「でも、それは……」

「ええ、もちろん詐病の可能性は捨てきれないし、フィクションの占める割合も大きいとは思うけど、全てを笑い飛ばすのも不可能よ。実際、この国の退魔の一族の中には、人格をソフトウェア化して万能の天才を作ることに血道を捧げた一族ってのもいるみたいだから」

「つまり、臓硯は……」

「分裂した人格の中から魔術的な才に優れた人格をピックアップして、それを後継者、或いは聖杯戦争におけるマスターにしようとした、そんなところじゃないかしら。マキリの魔術の継承はほとんど拷問みたいなものらしいから、幼少時の性的虐待っていう解離性同一性障害の発病条件の一つは満たしてる。所々で出てきたダチュラ、クロルプロマジン、メタンフェミンなんかの薬物も、悉く精神に強い作用をもたらすものばかりだし、人工的な多重人格を作り出そうとしてたのは間違いないと思うわ」

 

 凛の隣に座っていた桜が、少しだけ俯いた。

 凛が、桜の手を、そっと握った。

 

「交代人格はね、大本を辿れば、絶望的なまでに強い肉体的な苦痛や精神的外傷が引き金になって生み出されるの。『虐待を受けているのは自分じゃあない、自分以外の誰かだ』、その思いが、苦痛を引き受ける『器』としての他人を生み出すのね。そして、最終的に基本人格のコントロールを失って独り歩きし始めたもの、それが分裂人格のもとになる。症例によっては百を超える人格が確認されることもあるみたいね」

 

 それは、聞いたことがある。

 それを聞いて、思ったんだ。

 それは、つまり自殺なんじゃあないか。

 精神が、この先のあらゆる楽しみを放棄しても、目の前にある苦痛を排したい、そう考えたからこその別人格の創出。

 それは、遠まわしな自殺なんじゃあないか、そう、思ったんだ。

 

「でも、このケースはその例からは外れてるでしょうね。精神の防衛機能としての解離じゃなくて、人格を創出するための手段として解離を使ってたんだから。想像に過ぎないけど、精神を生きたまま喰いちぎられていく、そんな感じなのかしらね。知ってる?人格が分裂する原因の一つに『どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切ることができないという構造』が挙げられるらしいから。つまりね、信じ難いけどこの子、きっとマキリ臓硯を愛してたのよ」

 

 ……絶句した。

 何も、話せなかった。

 何と、救いの無い。

 憎むことも、無かったということか。

 どうやっても受け止められないほどの苦痛を与えられて、それでも、憎まなかったのか。

 

「……そんなの、無茶苦茶だ。成功するはずが無い。それに、いくら能力が高くても、そんな不安定な人間が魔術師としてやっていけるのか?魔術の発動中に人格交代なんかしたら、冗談抜きで死にかねない」

「……ええ、私もその点は疑問だった。でも、日記を読み進めると、精神が破壊されても肉体さえ無事ならそれでいい、そう読み取れるのよ。失敗して元々、そういうつもりだったのかもしれないわ」

 

 失敗して元々?

 そんな、実験用のマウスを扱うみたいに、いや、それよりも酷い、粘土か何かをこねくり回すみたいにして、人の精神を破壊していったというのか。

 怒りで、気が遠くなりかけた。

 

「……で、成功したのか?」

「……ええ、成功した、んでしょうね。ごく最近の分の日記が見当たらなかったからわからないけど、そう思わせる記述はそこかしこに見られたし……」

 

 そうか。

 ほっとした。

 よかった。

 ああ、それはよかった。

 失敗しなくて、よかった。

 成功して、よかった。

 なら、認められたってことだろう。

 彼女は、きっと認められたんだ。

 何に?

 何か、よくわからない、くそったれなものだ。

 それに、認められた。

 よかった。

 認められて、よかった。

 そうだろう?

 そうじゃないと、かなしすぎる。

 かなしすぎるじゃあないか。

 

「……!」

 

 何かを、話している。

 

「……?……!」

 

 何かを、聞いている。

 それでも、俺は、何も話していないし、何も聞いていない。

 器用だ。

 何も考えていないのに、何で他人と会話が出来るのだろう。

 慎二のときも、そう思った。

 俺は、なんて器用なんだろう。

 声だ。

 声が、聞こえる。

 心を錬鉄するような、鉄槌のように硬い声だ。

 どこかで聞いた、台詞だ。

 

『では問おう衛宮士郎君は衛宮切嗣に引き取られて幸福だったかね―――そうか衛宮士郎これが正真最後の忠告になろう不幸とは己の業の深さが呼び寄せるものだが幸福とはただ神の御業に過ぎぬそれが降りかかったことについて君が恥じ入ることなど何一つ無いむしろ誇るがいい君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されている君は神に愛されているが君は神に愛されているがしかし神が愛し忘れた者も確かに存在するのだよ』

 

 神が愛し忘れた者。

 神が愛し忘れた者。

 神が愛し忘れた者。

 

 貴方は、違いますよね。

 貴方は、違いますよね。

 貴方は、幸せに生きてきた、そうですよね。

 何故、答えてくれないのですか、■さん――。

 

「……だから、マキリにもう一人、臓硯以外の魔術師がいる、それは間違いないわ。きっと、そいつもマスターに選ばれたんでしょうね」

 ああ、そうだ。

 きっと、マキリにはもう一人魔術師が――。

 

 えっ?

 

「……凛、何を言ってるんだ?」

「……?

 だから、マキリには臓硯以外に魔術師が最低一人はいる、そう言ってんのよ。何かおかしいこと言った?」

 

 いや、それはおかしいもなにも。

 何を、今更(・・・・・・)

 そんなこと、わかりきっていたじゃないか。

 

「……凛、お前、何を――」

 

「静かに!」

 

 びくり、と肩が震えた。

 それほどまでに、鋭い声だった。

 その場にいた全員、声を発した人物以外の全員が、彼女を注視した。

 彼女は、キャスターは、自らの意識を集中させるかのように虚空を睨んでいた。

 

「……何か……来る」

 

 心臓が、早鐘を打つ。

 呼吸が、速くなる。

 手に汗が、滲む。

 体が、意識よりも早く準備を終えていた。

 何の?

 決まっている。

 戦闘の、準備だ。

 

「……速い。あと……三分?これは……」

 

 キャスターの手が、小刻みに震え始めた。

 それは、恐怖による緊張が齎す物だったのだろう。

 彼女の端整な顔が、青褪めていた。

 

「間違いない……。バーサーカー……」

 

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